海に近い街特有の、潮の香りを孕んだ風が吹きつけガーデンパラソルを揺らがせる。そこに、昨日まではたしかに微かなものでしかなかった、様々な花と陽の光に温められた土の匂いが濃密に混ざっていた。
春は突然訪れる。冬の衣を剥ぎ取るように、冷気の下で人知れず芽吹いていた生命の匂いを惜しげもなく撒き散らしながら。
ガラはそうした春の香りが好きだった。
「なんだ、そんなに人の顔を見て。まさか私がモデルを引退した今頃になって、この美貌を賞賛する気になったんじゃないだろうな」
「いや、なんというか……、春が来てもお前がいると思ってな」
雨季の終わりを告げる晴れやかな休日。バルコニーで遅い朝食をとった後、向かいの席で紅茶を楽しみつつ、近頃急激に色彩の増えた眼下の庭や、遠い海上の煌めきを穏やかに眺めるハイドの横顔を凝視していたところ、見咎められた。
パラソルは降り注ぐ陽光を遮ることは出来ても、そこら中に氾濫した輝きまで防ぐことは出来ない。反射した光に照らされたハイドの青褪めた肌は、透けているのではないかと思うほど仄白く澄んでいた。
「会うのはバカンスの時期か、そうでなきゃお前の突発的な休みで、季節を一緒に跨ぐって感じじゃなかっただろ。昔は昔でそれどころじゃなかったしな。だからこうやって季節が移り変わるのをお前と見るのは、なんだか新鮮なんだ」
この言葉に対して、僅かに視線を下げたハイドの目元に葉叢のような翳が射した。表情にこそ表れていないが、意図しない方向へと彼が思考を巡らそうとしていることを察知し、ガラはすぐさま補足する。
「気にするな。ただ単純に、喜んでるだけさ」
「……そんなことで。これから嫌と言うほど眼にするというのに」
「ってことは、夏が来たらあのグダグダなハイドさんもまた見れるってわけだ」
「見くびるなよ。ロスの陽射しを生き延びた私に、この地の夏などもはや恐るるに足らん」
軽口によっていつもの調子を取り戻したのか、ハイドは口に運んだカップをソーサーに戻した後、夏の話だが、とガラに向き直った。
「お前さえ良ければ、バカンスにはサンモリッツへ行かないか」
「はは、冬が終わった途端にこれだ。やっぱりお前はいつだって、どこにいたって飛び回ることだけはやめられないさ」
「それとこれとは話が別だ。折角のバカンスに家に閉じ籠ってる気か? 冬のスキー客がいない分、静かで最高だぞ。湖畔から眺めるアルプスの美しい景色、美味いチーズとワイン、それにお前好みのひどい肉料理もある」
「たしかに魅力的だが……、星が四つも五つもついてるホテルに泊まるつもりなら断る。落ち着かないし、俺は夏の終わりを待たず破産する羽目になっちまうだろうからな」
「フフ、そう言うと思った。私の所有するヴィラがあるからその心配は無用だ。ロケーションは保証しよう。ボートハウスも付いてる」
「へえ、そりゃすごい」
「あそこはちょいとばかり思い入れのある土地でな、前々からお前を連れて行きたいと思っていた。だが、無理強いするつもりはない。他に行きたいところがあるならそこで構わない。まあ、考えといてくれ」
その眼差しはガラを見つめながらも、ここではない別の地へ、記憶の中へと注がれているように遠かった。
「いや、行くよ。週明けにも職場で日程を相談してくる。そんな話が出る時期だしな」
「……そうか、ならば決まったら教えてくれ。私の休みもそこに合わせる」
その後も、ハイドは別荘地での思い出を語った。ガラ自身は旅することにそれほど興味を惹かれる性質ではなかったが、ハイドが語る異国の情景はそこにいる自分達の姿を自然と思い描かせ、そしてその空想を実際のものにしたいと思わせた。ハイドに影響された部分か、もしくは以前より、心身共に彼の存在を近くに感じていたいせいかもしれないと、少しの驚きを以てガラは自らの変化に気がついた。
「お前となら、きっとどこでも楽しいだろう」
零れた呟きに、一瞬目を丸くしたハイドは言葉の代わりに滅多に見せない、今年最後の雪が溶け落ちるのにも似た満足げな笑みを浮かべた。それを見たガラの身体にも、共通した未来の予定を語り合える喜びが漣のように広がった。
「春と言えども、長く外にいるとまだ冷えるな」
「む、そろそろ中に入るか。身体を冷やすと良くない」
席を立つハイドに釣られて、ガラも立ち上がった。
すると素早く、ほとんどぶつかるようにしてガラの胸に、ハイドがその身体を押し付けた。
「おっと」
反射的に抱き止め、何事かとハイドを見る。しかし顔も上げずじっと押し黙ったままの彼の様子に、漸く得心したガラはその無言の求めに応じて、包み込むように抱き直した。自分から身を寄せたにも関わらず、背に回った手が返してくる力は遠慮がちだった。衣服の下で冷えた肩を感じ、ゆっくり摩っていると、やがて腕の中からこもった声が漏れ聞こえてきた。
「……お前は、ここにいるだろ」
「ああ、勿論」
「私も、夏が過ぎ、秋が暮れて冬が去り、次の春が来ても、ここにいる」
「……そうか。嬉しいよ」
この世界のどこへでも、ハイドは一人で行くことができる。同行者なしで。
だが今はこうして、腕の中に収まってくれさえしている。輪郭を確かめるように、目の前で風に揺れる髪に頬を寄せた。
季節の変化に応じて香水を変えたらしい彼から漂っていた花の薫りが、その奥に潜んだスパイスの温かさを巻き上げながら一層鼻腔に満ちた。それらが外気に漂う花々の芳香と混ざり合えば、まるで未知の花を手にしているようで、思わずその香気を深く肺に取り込んだ。
「それじゃあ、二人でここにいよう」
肋骨に、痛いほどの力で締め付ける腕の存在を感じた。
花々の薫りがまた強くなった。
庭には、彼の瞳の色によく似たヒアシンスが咲いている。もうじきライラックも花開く。
空は深々と蒼く、彼方の水平線でその境界を海と烈しく争っている。
春は短い。季節の中で最も儚い。
いつかはどちらか一方が、この地の外に、この世の外に、向かっていく。できれば、先に去り行くのは自分だと良いが。
それを押し留めることは誰にもできず、またそうあるべきだからこそ、この静かで凄絶な春の日を恐らく永遠に覚えているだろうと思った。これから何度も反芻する過去になるだろう、とも。
思い出す毎に過去は記憶になる。記憶は過去を現在に呼び戻し、未来へ繋ぎ合わせる。
沈痛な冬に花の薫りを、過剰な陽の下で凍てついた月明かりを思い出させる種子となって。
そのために、未来のとある地点から思い出されるべき、そして思い出すには細やかすぎる過去を、こうして増やしていこう。
一つ、二つと。今日も。
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