眞昼
Public ss
 

たんと召し上がれ

クソまずいステーキ屋にて

「ほんとに美味いかそのステーキ」
「ああ、多分この店の中でお前以外は皆そう思ってる」

先日、私はガラとの賭けに敗北した。
そして今日再び、復讐として小さな賭けを挑んだのだが、結局同じ過ちを繰り返したに過ぎず、今回の負け分を支払うため私たちは彼お気に入りのステーキ屋を訪れていた。
シアトルには他にいくらでも"まし"な店があるというのに、どこまでも庶民的で寡欲なガラは、驕り高ぶったファインダイニングや流行りのカフェレストランではなく、70年代から続く、やや古びた構えのこの店を選ぶ。私にはぞっとするようなそれも、彼曰くアメリカの伝統的肉料理がどのようなものかを実によく体現しているらしい。信じ難いことに実際店は繁盛しているようで、いつ訪れても店内は人々の活気ある喧騒で満ちていた。
私はアフリカン・アンバーとムール貝のワイン蒸しをつまみに、ガラがその体躯からの想像を裏切る──人格を知る者には納得の──丁寧かつ無駄のない手つきで、レアで仕上げられたリブステーキを切り分けるのを眺めていた。
一通り終えると、彼は口内に血の滲む肉塊を収めていく。唇が開かれる度、鋭い犬歯がちらついた。
白い刃のようなそれが、肉を噛みしめるのを見つめる。
それが食い込む感触を想像する。
咬む力の強さを思う。
以前、一度だけ軽く咬まれたことがある。
まぐわいの瞬間的な昂りがそうさせただけであり、傷どころか痕すら残らなかったが、彼はこちらが罪悪感を抱くほど謝罪し、それを酷く気にしているせいか、以来決して歯を立てることをしない。
「咬む」という行為は、吸血鬼である私にとって特別なことではない。
現代生活に伴って、血飲に刺咬の必要性を失って久しいが、食事、刺咬、そして性的接触は根を同じくする行為であると思っている。
咬むことは自らと他者の身体の内側を内密に接し合わせるため、生殖本能の欲求に対する呼応であり、肉体的接触の中でもとりわけ挿入に似通っている。そこに傷がつけばなおさらだ。
深い繋がりを感じたい、などという犬の餌にもならない感傷も、痛みによって被虐の欲望へ変換され、私はそこに苦痛の快楽以上の意味を見出していなかった。しかし、あの時感じた悦楽の感覚は過去のどれとも違っていた。
苦痛の悦びとは異なる悦び。
彼が私のなかに入り込む恍惚。痛みを伴いながら、肉体にその存在を刻み、埋没させられる陶酔。
恐らくそれは他者から、この欲のない男から求められていることへの喜悦だ。
咬むこと、咬まれることを特別に感じていなかったが故に、あの一瞬でそれを知ったのではないか。
彼と私が同じ熱を共有していることを実感させたのではないか。
思い出すと、夜への欲望が高まった。
今夜は何の約束もしておらず、明日は双方とも朝から仕事のため食事だけのつもりだったが、やはり彼が欲しくなった。
そして、あの牙の前に私の頸筋を晒したい。
私たちには些か狭いテーブルの下で、向かい合う膝は触れ合うほどに近い。組んだ方の足先で、つ、とガラの脹脛の内側を撫で上げ、踝を擦り寄せた。
革靴とジーンズの生地を通しても、発達した筋肉の張りが感じられた。
ガラはフォークを持ち上げかけた手を止め、僅かに眉を下げると、窘めるような眼でこちらを見た。

「行儀が悪いぞハイドさん」
「つまらん……

分かりやすい誘惑のサインも、この朴訥な魂の持主を前にしては無意味だったらしい。興を削がれた私は不満の言葉をビールと共に流し込んだ。あの反応なら、押したところで無駄だろう。身体の熱を打ち消すにはアルコールに頼る他はない。
ウェイターを呼びビールを追加注文すると、あまり飲みすぎるな、とあろうことか釘を刺してきたため、私は努めて表情を変えず、グラスに残ったそれを見せつけるようにゆっくりと傾けた。

「この私の誘いを無視したかと思えば、次は飲酒量にまで口出しとはな。とうとう教会に転職したか?」
「無視はしてないだろ」
「言い訳なら聞かん。まあいい、どうせ今晩はこれでお開きだ。明日はお互い早いしな」
「ん? この後うちに来ないのか?」
……約束はしてなかっただろ」
「俺はそのつもりだった」
「そう、なのか」
「ああ」
…………
「だからほどほどにしろって言ってたんだ。お前はほっとくとすぐ飲み過ぎて寝ちまうだろ。生憎、寝てる奴を相手にする気はないもんでな。だがたしかに何の約束もしてなかったし、任せるよ」
……お前がそう言うなら行ってもいい」
「じゃあ次のでやめとけよ。あと食事中に邪魔はするな。味がわからなくなる」

ガラは食事を再開する。
私がそこに何を視たのか、知る由もなく。
グラスをテーブルに置いた私は、込み上げる笑みを隠すため肘をつき口許の前で指を組み合わせた。しかしそれでも堪えきれないものが、肩を震わせた。

「ガラ」
「なんだ」
「もう一皿どうだ?」
「もしかして俺のことティーンだと思ってんのか?」

晩餐の喧騒を分かち合う店内の人々に私は初めて親近感を抱き、この場に満ちた親愛に浸った。
どうしたらその歯牙の痕跡をつけてくれるだろう。
欲され、貪られる悦びを肉体の上でも感じたいのに。
懇願、挑発。
それとも、満月の力が必要だろうか。
幸い、私たちに齎される夜は今宵限りではない。
手強いこの男が欲望に駆られて再び私を咬んだその時は。
傷の治りが遅いことを願いながら、心ゆくまでそれを眺めることにしよう。