眞昼
Public 短編
 

呪われた獣たち

2020.09.28 ハイドのモノローグ。ガラ←ハイド

太陽は自ら発火する。
月は地球の光を受けて輝く。
しかし真の光とは、そのどちらでもない不可視の光線である。
それは精神を伝い降りてきて、魂の深淵まで仄かに照らすのだ。


 スマートフォンの時刻は、16:10を示していた。

『また明日』

 短いメッセージを送信する。
 月が完全な姿を現す前に、世界から己を隔絶するガラがそれを読むのは恐らく明日の昼中だろう。
 シアトルから遠く離れたこの地では、秋の薄藍の夕暮れの中、透けているかのような月が儚く宙に浮かんでいるだけだが、あちらでは人狼にとって最も忌むべき瞬間が迫っている頃だ。月が真の意味で満ち切るのは一瞬であるが、その前後が最も苦痛を齎すらしい。
 彼との再会は、私にとっても満月の夜は憂鬱な時間であるいうことを明確に思い出させた。
 いや、忘れたことはなかった。
 ただ私の予想は少々楽観的すぎたらしく、二十年間で彼を取り巻く状況は良くなっても、変身期における症状がさほど好転していないという事実は、かえって心を重くさせた。
 不幸なことに、気を紛らわせてくれるはずの仕事も、今日は既に撮影を終え、夜のレセプションをホテルの部屋で待つばかりである。もし彼が隣にいれば窘められるだろう強い酒を煽っても、今に限ってそれは私を酔わすには至らず、グラスの中で長々と持て余していた。
 窓辺から見える月と室内の静寂は、私に思考することを強いる。
 孤独に孤高に、ガラが理性を以て本能に挑んでいる姿を。対して、常に苛まれている私の倦んだ精神を。
 黙殺できないまでに膨れ上がった惰性を押し殺すにも限度がある。この退屈を食い止めるに、もはや今の仕事では不可能であることは明白だった。
 これは病だ。
 長命種の最もありがちで、最も重篤な病。
 すなわち、倦怠である。全てのものに対してやがて訪れるこの症状は、常に憂鬱の友であり、爛熟し切った諦念と共に耐え難い腐臭を放ち始めるのだ。
 この病が原因で、享楽と頽廃に溺れ、身を滅ぼすにも完全に滅ぼすことも叶わず、懶惰な生を貪っている同族たちの姿を辟易するほど知っている。
 身体の内部で流れる「時」は、恐ろしく緩慢だ。
 人間をはじめとする短命種たちが時の短さを悲嘆するというなら、長命者たちにとってはその長さこそが苦痛の種であり、決して快癒しない、絶えず鈍痛を発する化膿した腫瘍と同じだった。忘却でさえ、気休めにしかならない。
 そういう意味では、時というものは生物に満遍なく苦悩を与えるものであるらしい。憂慮を紛らわせるために、絶えず何かに酩酊し続けていなければならないということも皮肉なことに共通している。
 つまり我々地球人には、時の支配を忘れさせ、それに熱中している間は苦痛を和らげてくれるものが必要なのだ。
 遥か昔の吸血鬼ならば、鮮血を飲むことで脳髄を蕩けさせることもできたが、現代社会においてはそれも許されず、合成血液は根源的な渇望を抑えるだけで嗜好品にもなりはしなかった。
 何でも良い。
 家族、友人、愛、名声、美、富、官能、酒、ドラッグ。
 大体の長命種たちは、これらを手当たり次第に実験し、やがて諦観によって生物としての感覚を麻痺させていく。時とほとんど同化し、点としての己の位置を見失う。
 たしかに、何かに精神を脅かされることなく過ぎていく日々を安穏に暮らすことは素晴らしいことではあるが、病的な平穏と言えはしないか。
 エルフのように、種族全体としてそれらしく生きることをほとんど強要されているような者たちは、生まれながらその責務を背負わされるため、ある種幸福であろう。ほとんどの者は増幅し続ける苦悩を前にして、長すぎる余生の鎮痛剤を求め彷徨っていた。
 かつての私も例外ではなく、時折襲いかかる自らの輪郭が喪われる感覚と共に、そのまま茫漠とした虚無に飲み込まれることを何より恐れていた。生来の気位の高さから社会性だけは失うまいと努めていたが、生において透徹した信条のようなものは持たず、時を使い捨てているに過ぎなかった。
 正しい生など、この世にありはしない。
 だが、与えられた時の短い者ほど、潔癖なほど生に懸命であるのも事実である。
 だからこそ、生命に対して何らかの矜持を得たかった。それがあれば垂れ流しになった時間をこの身に現実として留め、漸く生きていると言えるような気がした。
 その考えをより強固にしたのは、他でもなくガラの存在だった。
 どうやら酷い顔をしていた彼と同程度には、当時の私も酷い顔をしていたらしい。実際、私は血と塵芥に汚れた無様な姿だったのだが。
 雇い入れたのも少しの恩義といつもの気まぐれで、瞬きほどの期間に、頼りにならない用心棒だと私が判断を下すか、私に付き合いきれなくなった彼が辞すだろうと考えていた。
 結局、予想はひとつも当たらなかった。
 それどころか、もし彼の存在がなければ私は今でも無為な時を漂っていただろう。
 彼の美徳は、年季の入った私の悪徳を易々と上回っていた。
 彼は、彼自身の弱さと恐怖を知っている。知っているから、それを受け入れ、かつ抗うが故に美しかった。
 きっかけは覚えていない。
 魂まで刻み込まれた傷を抱えながら、他者のそれにも寄り添おうとする姿が、いっそ妬ましいほど清らかに見えたからか。あるいは、年長者という立場から彼に対して講釈を垂れ続けるためには、負い目が邪魔になるためか。
 とにかく私も何かに抗いたくなり、そして実行した。
 多大な理性と労力と資金が必要だったが、私の抗争は今のところ成功している。次に彼の前に立った時、私たちが漸く、僅かながら公平な関係になったことを実感した。
 だが彼の闘争は、私のそれより遥かに烈しい。
 怒りや恐怖と結びついた肉体と精神の変容に、昔よりは上手く対処できるようになったと語ってはいたが、追い求める妙薬が見つからない限りその闘いは収束しないだろう。あのコーヒーショップのドリンクは、果たして彼の「特効薬」になり得るだろうか。
 もしこの先も見つけることができなければ、長い闘いの末、彼の摩耗した理性が敗れる瞬間が来るのだろうか。
 いや、そのようなことは決して起こらないだろう。諦念も敗北も、あの気高き魂を翳らせ、彼自身を決して裏切ることはないと確信していた。彼が自分自身のことをどう捉えていようと、私はそれを無垢な幼子のように信じることができた。
 しかし、と私は夢想する。
 だがもし、万が一にも、お前の怒りと恐怖がその精神を凌駕したとしたら──。
 私はお前のために、その行手を阻むだろう。
 お前は獣の俊敏さで私を捕らえるだろう。
 鋼鉄のごとく鋭利な爪で、残忍な牙で、皮膚を裂き、肉を断ち、骨を砕くだろう。
 噴き上げる血潮を舐め啜るだろう。
 血泡と共に込み上げる、一抹の愉悦を含んだ私の苦悶の叫びを、お前は喉笛ごと食い破るだろう。
 そして、お前は視るだろう。
 胸骨を割り開いた先、その奥に収まる果実のような形をしたそれを。
 粘った蜜に抱き込まれたそれが一体何であるのか、お前の獣の瞳で見極めてほしい。
 その時、漸くお前は知るだろう。
 私からお前への、最も取るに足りない贈り物が、狩りの最上の褒美であることを──。
 一度死んだ後、よくよく語ってやろう。
 全ては、あり得ないことなのだが。
 昏い欲望によって、理性の奥底で眠った獣性が微かに身じろぐのを感じた。
 所詮、夜に棲まう魔だ。
 この世に飼い慣らされても、それを完全に喪失することができない私たちは、ヒトより多くの欲望を押し殺さなければならぬ哀れな存在だ。
 だからこそ足元によろめきを覚えた時、寄りかかることのできる存在として私は彼に執着しているのかもしれない。あの冬の朝陽のように清らかで、春の雨のように温かな魂に触れる度、より近くでその光を受けたいと思わずにはいられないのだ。
 私の魂が彼に注ぐことのできるものは、ほとんどないと言うのに。
 彼の、ガラの、ちいさな緑の火のような双眸を思い出した。
 帰国の日が遠いことが、もどかしい。長い夜が、苛立たしい。
 早く夜が明ければいい。忌むべき月は西方へと消え、お前に眠りを与えるために陽が昇る。
 あの街に戻ったら、真っ先に会いに行こう。
 この夜を上手く乗りこなせても、例えそうでなかったとしても、私は傍でいつも通り軽口を叩き、日常へと引き戻そう。ブラインドを上げ、慎ましいお前の部屋に陽射しを呼び込もう。そうして、休日には共に朝食をとろう。お前の好む、温かな紅茶と共に。
 おおよそ吸血鬼らしからぬ思考に、思わず自嘲の笑みが漏れた。
 我が種族が永き年月で克服、あるいは喪失した特質は数多あるが、今や儚くなった血の枝葉に私は心から感謝する。

「大昔なら、お前は吸血鬼殺しの異名を得ていたな」

 真の安息が、呪われた獣たちに訪れることはあるのだろうか。
 太陽を見るかのように目を細め、燦々と照り始めた月を仰いだ。
 何処からか、あり得ぬ遠吠えを聴いた気がした。