眞昼
Public ss
 

La petite mort

死の3つの様態

 古い吸血鬼映画を、ハイドはまるで喜劇かのように声を立てて笑いながら観ている。
 血と惨劇のあらすじも、彼の前では台無しだ。

「おいガラ、観てみろ! こいつのベッドは土の詰まった木箱なんだ! 棺桶ならまだしも、さすがに快適とは思えんな」
「映画なんだからそういうものとして真面目に観ないのか?」
「真面目に観てるさ。だが、事実を描かんとして注意が払われたはずなのに、取り零された些細なミスは時に神経に触るが、あまりにもかけ離れた描写はそれが真剣なほどコメディになると思わないか?例えば人狼が変身するシーンで、着ぐるみのように皮を脱いだり、人の口から狼の頭が出てきたら、お前も笑うはずだぞ」
「まあそりゃそうだが」

 こうして映画などについては事実の正誤やフィクションを認識するのに、例のエロビデオの内容についてはどう言う訳か信じていた様子だったことを思い出した。現実主義者であるこの男にしては不可思議だと思うが、そこに触れると余程不覚だったのか黙り込んでしまうため、ハイドの口を塞ぎたくなった時の切り札として、当分は胸の内に仕舞っておくつもりだ。

「ところでこの映画、昔も観てなかったか?」
「ああ、もう何度目かになる。吸血鬼の描写に目を瞑るなら、たまにでも見返す価値があるのさ」
 
 映画の中では、吸血鬼との戦闘が佳境を迎えている。
 愛する者を守るため、あるいは復讐のために、男たちは吸血鬼に果敢に立ち向かう。しかし吸血鬼の方も、過去最も愛した人に生き写しである女を愛しているが故に争い、血を流すことも厭わないのだ。
 一つの愛のために彼は神に叛逆し、数世紀を彷徨っているらしい。
 この映画の、血腥くもひとの清らかな部分が、リアリストの仮面で巧妙に隠された、ハイドのやわらかな精神を惹きつけているのだろうか。
 銃弾を浴びせられ、剣を突き立てられる吸血鬼に、ああ、という嘆息が隣から聴こえてくる。

「これを味わうくらいならたしかに死んだ方がましだな。まだ試したことはないが、恐らく悶え苦しむだけで、お互い徒労に終わるだろう」
「俺の前ではやるなよ。お前は良くてもこっちの心臓がもたん」

 笑えない冗談を言うハイドに、つい険のある声音で応えてしまった。
 吸血鬼である彼にとっては、死すら一笑する出来事にすぎない。それでも死が身近にある俺は、こうした吸血鬼映画を観なくとも、彼が何かの拍子に傷ついたり、死に瀕することがあるのではないかという不安を、ふとした瞬間に呼び起こされていた。
 それは恐らく、自分を含め、夜を渡り歩く種族が忌むべき存在であると見做されていた時代の、かつての人々の視線を克明に覚えているからであり、更には、身近な存在を剥奪され、また強奪していた己の悍ましい記憶と結びつくせいだ。
 例え彼が一度死んだ直後に、何事もなかったかのように起き上がり、いつもの調子で悪態をついたとしても、自分が冷静でいられる自信はなかった。
 だがこうした憂慮を知る由もない本人は、スナック菓子よりも軽い調子で俺に言葉を放った。

「何を今更。もう視てるじゃあないか。吸血鬼が死ぬところ」
……は?」

 思わず間抜けな声が漏れた。
 記憶を探るまでもなく、そのような重大事件があれば忘れるはずがないため、全く検討がつかない。
 困惑する俺を見て、ハイドは口の片端を吊り上げ、さも人が悪そうに笑った。そして俺の腕を掴むと、こちらに身を乗り出しつつ、ぐ、と顔を近づけてくるので、その身体を支えるために抱き止めるような体勢となる。
 いつの間にか、凝った血紅色へと変貌した瞳が、やけに凜然とした光を以て俺を射た。

「何のことだかわからないか?」
「ああ、全く」
「では教えてやろう」

そう言うと、彼は内密な話をするかのように俺の耳朶に唇を寄せ、声を潜めた。

「その瞬間を、古くからフランスではこう呼ぶんだ。──"小さな死"、と」

あ、と思った。だがもう遅い。

「オーガズムに達すること、そしてその後に訪れる意識の朦朧を、な」

 つまり、私たちはその都度一度死に、蘇っているのさ。
 そう囁くハイドは、映画で描かれる吸血鬼より遥かに容易く、ひとの心臓を掌握し、魂の内側を撫ぜる。
 掴まれたままの、触れ合った肌の境界で交感する体温が、過ぎた夜を思い出させた。

「私が死ぬ瞬間を、お前は知っている」

 耳元で、くぐもった笑い声がする。
 その微かな震えと共に、吐息が首筋に触れる。
 彼を支える腕に、力が籠った。
 死闘の果てに吸血鬼は倒され、映画はエンディングを迎えたようだ。
 いつもはその全てを静かに見届けるはずなのに。
 物語の余韻を、一抹の淋しさと共に反芻するのに。
 エンドロールの終わりを、俺たちは知らない。