眞昼
Public 短編
 

連星の行路

2023.10.02の二次会後の会話

「正直、意外だった」

 街の喧騒から引き離された夜の公園の遊歩道を歩くと、樹々の作る夜闇よりも濃い影がパーティーの熱気を冷まし、冬の気配を伴った微風は身体に安らぎを送り込む。
 馴染みのコーヒーショップから退店し新婚夫婦を見送った後、そのまま帰路に着こうとするガラを、少し歩こうとハイドが引き留めたため、彼らは近くの公園まで足を伸ばしていた。
 この夜の散歩について、あの二人から発せられていた薔薇色の霞に一日中当てられて眠れそうにないからだ、とハイドの口は言っていたものの、現在最もやりがいある仕事を終えたことによる高揚もあるのだろう。
 数日前の、全てを無気力に浸しきっていた姿からは想像もできないほど溌剌と仕事をし、かつ良き友人として参列していた姿を思い出しながら、そうハイドへ言葉を向けたガラに、彼は苦笑を返した。

「私にも友人の結婚を祝福する気持ちくらいはまだ残っている」
「そう言う意味じゃない。たしかに感動的な、素晴らしい式だったよ。だが友達の結婚式が初めてというわけでもないだろうに、あれほど感慨深そうなお前を見るのはうん十年ぶりだったから驚いた」
「長く生きていても、恋人たちの愛の絶頂を目撃する機会というものはそう何度も訪れないものだ。二人揃っての境遇や、心理の一遍を知っていることもな。だが最たるは、今日の二人の姿だ。お前も見ただろう。あらゆる不安や恐怖を受け入れ、愛に満ちて輝く二人の瞳を。そして彼らを祝福する人々の顔を。強靭で、清麗で、脆く、心底美しかった。この最初の仕事を、私は永遠に誇らしく思うだろう」
「彼らも写真を見る度に今日を思い出すさ。一枚の写真が、これからの支えになる」

 ハイドは愉しげに口角を引き上げたが、直ぐにいつもの皮肉なそれへと変化させた。

「まあ、この私もかつてあのような瞬間を迎えていたのかと思うと、少々信じられない気もするが。たしかに、あの一瞬は幸福を感じたものだ」
……俺は、今日のお前が幸福そうで安心したよ」
「フ、良いことだろ」

 そうだな、と同意したガラは、ハイドの前へ回り込んだ。自然、二人は立ち止まる。

「じゃあ、俺はどんな顔をしている?」

 ハイドが見上げた先にある顔は、暖色をした街灯の灯を受けて濃い陰翳を宿していた。皮膚の輪郭より隆起した傷跡はその軌跡をより明らかにし、彼の瞳には無骨なレリーフのようにも映った。

「無礼な吸血鬼が招いてもいないのに人生に乱入してきて、かと思えば遠くへ去って行き、また突然現れ、今度こそ、漸く人生の隣に戻ってきた男は、今どんな顔をしてる?」

 その問いは、ハイドの心理に過去の後悔を齎そうとしたが、ガラの微笑みは、その一切を拒絶していた。瞬く度にまなじりに打ち寄せて煌く、はっとするほど極まった静謐に、魅入らずにはいられなかった。

……幸福そうだ」
「よくわかってるじゃないか」
「だが、お前は昔から美しかった」

 例えどんな状況であれ、とわざわざ添えられた補足も、思いがけない言葉に面食らっているガラには届いていないであろう。数瞬後、彼が照れたように破顔すると、頬に走る傷跡が歪み、そこにある翳を一層深く刻んだ。彼の傷がどのように治癒し、あるものはいつから消滅を拒むかのように長々と居座ってるのか、その過程のほとんどはハイドの知らないものである。

「揶揄うのはよせ。慣れない言葉を向けられると居心地が悪い」
「そのくらいで丁度いい。どんな美辞麗句も聞きすぎると飽きるものだからな」
「まったく、一言多い奴だな」
「そして今や、お前の美徳を知っているのは私だけではない」

 傷の一つを、ハイドは葉脈を辿るように指先で撫ぜ、掌で頬に触れた。夜の空気によって冷えた皮膚の下に、血の流れを感じた。温かく穏やかで、烈しい。

「それはお前もだ、ハイド。お互い、昔とは随分変わったな。だが俺が思うに、お前は自分自身の美徳のほんとうも、そろそろ知っておいた方がいい」

 己の性質については知り尽くしたと思っている男は訝しげに眉を顰めながら、どういうことだ、と尋ねるも、さっきのお返しだ、複雑怪奇なハイドさん、とガラは秘密を保持する楽しみに、悪戯っぽく笑んだ。
 巨きな掌がハイドの手を包むように握ると、無抵抗な指骨は薄い皮膚の下で、小枝のように身を寄せ合った。
 遊歩道を夜風が吹き抜け、頭上の枝葉を揺らした。雨のように雫が降り注いだが、彼らはそれを避けることもせず、頬や肩を、濡らすままにした。
 彼らが出会って以来、お互い初めて目撃する穏やかさであった。
 一体どこでこのような幸運がもたらされたのかと考えを巡らせれば、二人の脳裏に、あの小さなコーヒーショップと謎めいた店主が思い浮かぶ。そう思い至るのは彼らだけではない。あの場に集う者たちに訪れる共通の瞬間である。
 完璧に調合された飲料のように、あの小さな店内で「運命」というものが調律されているとしたら。あの細やかな一杯や、あの語らいの一言が、惑星が正しい軌道で巡るかのように、こうして彼ら二人を向かい合わせたに違いない。
 ハイドの上に、ガラは身を屈めた。
 星が、正しい軌道で巡るかのごとく。
 お互いの翳が一体となるのを待ちながら、彼らは体内に今日という日の祝福が、潮のように満ちてゆくのを聞いていた。