べるどくん
2023-05-20 23:22:57
3005文字
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降風ワンドロ「ヒーロー」

どっちから見ても君がヒーローだ!

 ビルの谷間を飛び越えていく降谷零の影は、遥か地上にいる風見裕也に落とされた。
 突き抜けるような晴天に、力強い向かい風。自然の法則など無視するように、風見の上司は軽やかに、被疑者を追って宙を駆けた。彼が太陽を覆ったのは一瞬のことで、次の瞬間には風見の目を真昼の光が突き刺したが、それ故に網膜に焼き付いてしまった。分厚い眼鏡のレンズを通し、瞳に映り、刻まれる。高層ビルではないとはいえ、十階建てから十階建てへの飛び移り。健全な精神を持つ人間ならば、余程の覚悟か自信がなければストッパーがかかってしまうであろう距離。なりふり構わず、鬼気迫る横顔。青空に残す黄金のコントラスト。うちの上司は本当に、とんでもない人だ。
「追いましょう!」
 ぽかんと口を開けていたところ、先に正気を取り戻したらしい部下が肩を叩いてくる。そこで初めて風見ははっとして、「続くぞ!」と降谷の飛び移ったビルへ突入した。風見は部下と別れビルの裏手に回ったがしかし、視界の端にはずっと、スーツジャケットを翻す降谷の姿が、残像のようにこびりついていた。



 そのあと、きっかり一週間後に、風見は病室で右足を吊られていた。
「それでは、検査の時間になったらまた来ますね。風見さん、お大事に」
「はい……
 看護師から向けられる優しい笑顔が、風見の心の柔らかいところに突き刺さる。後悔先に立たず、覆水盆に返らず、後の祭り。日本における取り返しのつかないことに関する慣用句の種類とは、かくも多いものか。ぶつぶつと後ろ向きな言葉を呟いていると、看護師と入れ替わるようにして個室に誰かが入ってくる。あ、と聞きなれた靴音に顔をあげれば、予想通りの人物が花を持って立っていた。
「降谷さん……
「やあ。元気そうじゃないか」
 今、最も顔を合わせたくない、かのとんでもない上司だった。小ぶりな花束にはガーベラとカスミソウが包まれており、お見舞いだよ、と気軽に手渡してきた。彼に椅子を勧めながら、恐る恐る受け取る。
「さっき、きみの主治医と話をしてきたんだが」
(なぜ……
「全治三か月ほどだそうだね。まあ、こちらのことは気にせずリハビリに励むといい」
(三か月かかるのか……
 なぜ自分もまだ知らされていないことを、この人は先に知っているのか。疑問に思ったが、思うだけ無駄なのでやめた。
「右足の骨折だけです。すぐに動けるようになってみせますよ」
「だけと言っても、骨が折れてるんだぞ。下手に復帰が遅れたら、僕が困る」
 から元気を降谷に見せてみても、上司は心の底から風見を心配しているようで、困ったように眉を寄せるだけだった。そうも優しく諭されると、風見はぐぅの音も出ない。彼のもとで働きたい気持ちはひと一倍あるが、それに加え、迷惑になりたくないという気持ちも一入だ。受け取ったガーベラの、その花弁の柔らかさを指先で確かめながら、「わかりました」と風見は頷いた。
「しかし、どうしてまたビルの間を飛び移るなんて無茶をしたんだい?」
「うっ!」
 胸に激痛が走る。既にトラウマとなった記憶を刺激され、動機息切れ、頭痛や吐き気までしてきた。様子の一変した風見に珍しくうろたえた降谷がナースコールに手を伸ばしたが、すんでのところで止める。
「だ、大丈夫なのか?」
「え、ええ……!」
 ペットボトルの水を一気に飲み干して、溜息をつく。
(飛び移るなんて無茶、か)
 無茶とは言うが、実際のところ降谷はやってのけたではないか。言葉にできるはずがない。あの姿に憧れて、つい真似をしてしまったなんて。
(馬鹿馬鹿しい。ヤイバーになろうと意気込む子供じゃあるまいし)
 けれど、降谷の残像はずっと消えてくれなかったのだ。勢いのまま風を切り、逆光のなか自分に影を落とす降谷が。
 そしてその影を、どこか憎たらしく思ったのだ。自分だって。自分も。影だけではなく光を背負って、風の向こうの景色を見てみたいと。あなたの隣に立つ覚悟を持った男なのだから、と。
「風見?」
「は……
 思いに耽る風見を、降谷の声が引き戻す。すみません、と苦笑する。
「無茶といいますか……あなたにそぐう行いができればと思って、そうしたら体が動いていました。結果は、このざまですが」
「君も大概、僕に毒されてきたな」
「毒ですか」
 降谷零という毒があるのなら、なるほど右腕の自分はすでにどっぷりと侵されていることだろう。風見は肩を揺らして笑った。しかし降谷の次の言葉に、その身を強張らせることになる。
「君を心配する人もいるだろう。僕もそうだし、あまり自分を投げ打つなよ」
 自分でも驚くくらい、目を見張る。
「そ、れは」
 喉に石でも詰まったかのように、言い淀む。けれど言わなければ。これは彼に言わなければと力んで、思ったよりも大声が出た。
「自分もあなたを心配しています!」
 窓の向こうから、救急車のサイレンが聞こえてくる。遠くから搬送されてきたのか、サイレンはやがて止まった。風見と降谷は沈黙のなか、互いに驚いたような表情を突き合わせる。やがてくすくすと笑い始めたのは降谷だった。
「そうか」
「え、あ、いやその……先日の! 被疑者確保の大捕り物についてですが」
「別に騒ぎにはなってなかっただろう」
「言葉の綾です! あのとき、あなただって跳んだでしょう。わき目も振らずに……あんな危険な場所を……我々がどんなに驚いたことかっ」
「うん……
 堰を切ったように話し始める風見を、降谷は穏やかな表情で聞いていた。
「あなたの口振りですと、ご自分がいかに周囲に頼りにされているかなど知らないといった様子です! 失礼でしょう。支援役の我々にも、あなたを信じる人々に対しても……!」
「うん、」
「ですので今後は無茶をする際、自分に話を通しておいていただけると! すぐさまバックアップが可能になりますので、ご承知おきください!」
「うん。君に予め申請しておくことにするよ、怪我人に説教されるとはね」
 慌てたように眼鏡を掛け直す風見に、降谷は笑みを浮かべつつため息をついた。勝負に負けたような、それでいて清々しいような表情だった。
「ありがとう。君はすごいな」
「自分ではなく、あなたがすごいんです」
「いいや。君はすごい」
 すごいよ、ともう一度繰り返して、降谷は丸椅子から立ち上がる。納得できないながらも、風見は彼の金糸を追った。
「だから、早く戻ってきてくれ。風見」
……勿論です」



 退院とリハビリを経て、現場に復帰した風見に待ち受けていたのは、降谷直々のビル飛び移り指南だった。今後またそういう場面もあるだろうということで急遽、開講された特別授業である。部下ふたりも巻き込まれて受講させられていたが、彼らも満足気だったので風見はよしとしている。
 降谷の溌溂とした語り口を聴きながら、風見はようやく考えの整理がついていた。もしかしたら、この彼も。自分が憧れ続ける彼も、こちらに憧れることがあったのかもしれない、と。君はすごいよ、という声色は、この講義とは違ってひどく甘ったるいものだったのだから。
 目を閉じれば、今も鮮明に思い出す。翻るグレーに落ちる影、その向こうにあった、焼けつくような陽の光を。
(あなたのなかにも、なにか焼きついているのだろうか)