べるどくん
2022-08-15 13:40:15
3296文字
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降風(ときめき)


 幸せですねと思うたび、風見は少しだけ瞬きを長くすることにした。
 というのも直接伝えることは気恥ずかしくて憚られるし、かといって自分は「彼」のように言葉を飾ることを知らない。そういった色気ある言葉遣いをどこかから学んだとして、付け焼き刃のそれではすぐにばれてしまうだろうから。風見の思考を常に埋めている降谷零という男は、そういう男であった。恥の上塗りはしたくないものだ。
 初めて降谷と風見が朝焼けを共に迎えたとき、それはそれは静かで、鳥の羽ばたきすら聞こえず、ただ空は赤を伸ばしていた。呼吸がようやく整ってきたことに安堵して、風見はふと窓の外へ意識を向けたのだ。音もなく朝陽が昇る光景は、風見にとって勲章のように思えた。その太陽が眩しくて、風見は思わずきつく目を閉じた。目蓋の裏で瞳が濡れ、じわりと身体中に染み渡っていくような感覚。恐らくこれを幸福というのだろうと、風見はゆっくりとした瞬きを繰り返したのだ。そんな想いも知らず視線の外れたことが不服だった降谷に、すぐさまキスで戻されたのだけれど。
 それから、降って湧いたような休暇やたまにできた隙間の時間、風見はふと目を閉じる。一秒にも満たないけれど、瞬きにしてはやや長く。傍に立つ降谷の影を踏みながら、噛み締めるように幸福を感受した。
 そして意識してみると、風見は自分が大分些細なことで幸せを自覚していることに気付いた。
 降谷が用意してくれた夕食に好きな料理が並んでいたとか、雑談で話していた商品が何気なくデスクに置かれていたりとか、そういうときだけならまだよかった。追っているアイドルがテレビ出演した夜、出番が終わったあとを見計らって電話をかけてくるときに、ほんのりと温かくなるのもまだいいだろう。
 ただ、夕陽で伸びる風見の影が降谷の爪先に辿り着いたとか、風見行きつけのスーパーのポイントカードを預かった降谷がレジに並んだりだとか、風見の選んだ濃い色の枕カバーに金髪が広がっている風景だとかに、とんでもなく高揚する自分がいることに、風見は気付いてしまったのだ。
 なんとやらは盲目だとはよく聞くが、自分がそうなるとは到底思っていなかったので受け入れ難い。降谷がどうというのではなく、自分がこうなっていることが、風見にはただ理解できなかった。

 自分の他愛のなさに困惑しながらも、風見は今夜も自宅にやってきた降谷へノンカフェインのコーヒーを用意していた。ネットで取り寄せたカフェインレスのドリップパック詰め合わせは、降谷のいるときしかほぼ消費しないにも関わらず順調に数を減らしている。日常的にコーヒーを飲む風見に、せめて夜はカフェインを摂取するなと蘊蓄と一緒に言い含めたのはもちろん降谷だった。
 昨晩、綺麗に茶渋をとっておいたマグカップにコーヒーを淹れて降谷に手渡す。降谷といえばよく沈むビーズクッションに背を預け、なにやらスマートフォンでメールを打っていたようだった。それも風見が隣に座るとすぐにしまう。
「いいんですか?」
「いいんだよ。急を要するものじゃあなかったし」
 本当だろうか、と風見は一瞬思案する。
「明日のシフトを代わってくれないかって相談されただけだ」
 風見の揺らぎにすぐさま応えると、降谷はコーヒーに口をつけた。これちょっと苦味が強すぎないか、となんてことない感想をこぼす降谷に思わず目元が緩む。
 風見は、降谷の中に自分が立ち入ることができない領域があることを知っている。領域を越えることを許さない代わりに、今はそれ以外の譲歩を最大限してくれていることも、知っている。だから自分も様々なことを許してしまうのだ、と思う。彼の在り方に応えるために許し、そんなとき、風見はどこか充足を感じてしまう。
 ふと影が落ち、照明が落ちたのかと勘違いした。
 鼻筋をなぞるように離れていく金糸。ああキスされたんだと、風見はくすぐったく目を細める。
「あの、急になにを」
「違うのか」
「ち、違うとは?」
「君が目を閉じるから」
 形のいい爪が風見の目尻をなぞっていく。
「してほしいのだとばかり」
 途端、風見の心臓が跳ね上がり、胸元から額まで赤く染まっていった。そうか、無意識に目を閉じてしまっていたのかと気付いてにわかに焦りがまろび出た。
「あ、いやっ、ちが、自分は、そのっ」
「嫌だったか? そうは見えなかった」
「嫌なんかじゃ! ただ理由が、」
「なんだ。言え」
 墓穴を掘った。息が詰まる。
「し」
 言い淀む風見の一挙一動を見逃さないよう、降谷は審問官かなにかのように睨め付ける。どうにも嘘は許さないという顔をしていたので、風見はとうとう観念することにした。
「幸せだ、と、思ってしまって」
「ふん?」
……その、幸せを。逃したくない、と思ってしまって」
 強い眼差しに気圧されるように後ずさるが、やたらと機能性の良いビーズクッションのお陰でより沈むに留まってしまった。ずるずると腰がずれていき、遂には逆光のなかの降谷を見上げる形になる。
「そうか、つまり合ってたな。よかった」
 風見がなにか返す前に、降谷が言葉を奪うように口付ける。二人分の重さにクッションがさらに沈んで、カーペットが近付いていく。後頭部に差し込まれた大きな手が風見の熱いうなじを撫でていき、彼の指先が移動していくたび肌に熱が灯っていった。絡め取られた舌の上でコーヒー味が混ざっていくのを、風見はぼんやりとしていく意識で感じ取りながら、ようやく苦い舌先から逃げ出す。
「そ、そうかもしれませんが、そうかもしれませんけれども……!」
 不満そうな降谷に耳を弄られつつ、なんとか身を捩る。
「でも最近、なんだか変なんです、おかしなことにも幸福を感じるようになってしまって」
「ほう、例えば」
 言い逃れたい。生唾を飲み込んでみたが、蹂躙された咥内に残る痺れに邪魔されて良案は思い浮かばなかった。

 自分の影があなたに辿り着くと嬉しい、とか。
 あなたが自分のポイントカードを持っていると嬉しい、とか。
 自分の枕にあなたが寝転がっていると嬉しい、とか。

 一通りの告白を顔色ひとつ変えず聞き入れて、降谷は独りごちる。
「君も結構、なんだ、なんというか、男なんだな」
 そこで初めて、降谷は眉を崩して笑った。言葉を選んだあと口にしたことで、自分の感情を自覚したようにも見えた。
「どういう意味ですか?」
 風見の胸元に頭を預けて、ふふ、と僅かに笑みを溢す。
「つまり君は、僕の領域を犯して喜んでる」
「は……
 降谷に許された領域のなかに、風見自身がいることが分かると嬉しい。
 自分の生活圏に、あなたがいると嬉しい。
(あなたを貰った気でいられるからか)
 それがひどく傲慢なことに思えて、風見は声を小さくした。
「す、すみません。そういったつもりはなかったのですが」
「どうしてだ? 悲しいこと言うな、悪い気分じゃない」
 小さな贖罪のつもりで降谷の頭を撫でている。風見の領域にいるとき、降谷は限りなく嘘をつかない。そう思いたいし、そう思われてほしいだろうから、風見は金髪に指を通す。上目で見てくる降谷は相変わらず見惚れるような美しさを湛えていたが、少しだけ可愛らしく感じて、風見の口元も僅かに綻んだ。が、降谷の言葉に身が強張る。
「なんならもっと束縛してみてもいい」
「そっ!?」
……されるかはそのときの僕次第だが」
 少なくとも、と降谷は身を起こす。
「君の懐に入れているようで安心したよ、僕は」
 降谷の右手が体を滑っていくのを感じながら、こっちの台詞だ、と風見は思う。踏み越えられない領域の手前、奥の奥まで入らせてくれているのは降谷の方だ。
(誘い込まれているだけなのかもしれないが)
 それで満たされる自分がいるのだから、既にどうしようもなかったのだ。
 甘えるように降谷が首筋を噛むので、宥めるように背を抱く。
「続きをしても?」
「コーヒーが冷めますよ……
 風見はただ、噛み締めるように目を閉じた。