夏本番早々に夏バテした松井と、それに対して豊前の思う事。松井や篭手切は自分から進んであれこれ世話を焼く派で、豊前はそばにいるから何かあったらすぐに言えよと見守る派だと思う。
広間での朝食は朝九時まで。以後は各自で用意と片付けを行うこと。この本丸における決まりの一つだ。百振り近くが暮らすこの本丸。当然中には朝食の場に顔を見せない者もいる。夜戦帰りで休んでいる者、宵っ張りで朝に弱い者、特に理由は無いが朝食を摂らない者。余程の事がない限り三食きっちり完食する豊前江からすると、朝飯食わなかったら力出ねーだろと思うのだが、そういう者もいるのだ。たとえば松井江とか。松井は朝食を飲み物一杯だけで終わらせてしまう事が多々ある。朝食の場に居なくても、いつもの事だからと豊前は特に気にしていなかった。
今朝も朝食を米粒一つ残さずを平らげると、豊前は空の膳を下げて自室に戻る事にした。今日の予定は午前中が内番、午後が非番。天気もいいし、どこか近場に出掛けようか。頭の中で予定を組み立てながら廊下を歩いていると、ある部屋から同胞の篭手切江が出てきた。……松井の部屋だ。豊前は篭手切に声を掛けた。
「松井さん、夕べから体調が悪いみたいで」
篭手切曰く、ここ数日の気候の変化に体がついていかず体調を崩してしまったのではないかとの事。確かに一昨日あたりから一気に暑くなった。その前は比較的涼しかったから無理もない。松井は繊細だから(――と豊前は思うのだが、絶対そんなことないと言ってくる同胞も二振りほどいたりする)。昨日の夕飯も食欲がないと言ってほとんど食べず、早々に席を立ったらしい。食欲がなくても少しくらいは何か食べた方がいいと思うのだが……。
「とりあえず、今日一日休んでもらうことにしました。何か体に入れた方がいいと思うので、今から厨で軽いものを貰ってこようかと」
「頼んだ」
「はい」
そう言って厨に向かう篭手切を見送ると、豊前は松井の部屋に入った。いつもよりずっと静かに部屋の障子を開けたのは、もしかしたら寝ているかもしれないという配慮である。
「大丈夫か?」
「豊前……」
豊前が小声を掛けると、布団の上で半身を起こしていた松井がのっそりと部屋の入り口に顔を向けた。その顔はいつもより白い気がする。松井に近づくと、豊前の”気がする”は確信に変わった。昨日――は顔を見ていないから、一昨日よりも確実に青白い。松井流に言えば、血の巡りが悪いというやつだ。
「具合は?」
「大丈夫だよ」
「松井」
「……頭が痛くて、倦怠感もある。人の身は不便だ」
「かなりしんどそうだな」
隠そうとしたって無駄だ。辛いなら横になっていろと、豊前は松井に横になるよう促した。松井がもぞもぞと薄い夏布団の中に入ったのを確認し、その隣に腰を下ろす。松井の頬に手を当ててみたが、熱は無かった。少し早い暑気あたり、いわゆる夏バテというやつだろう。
「篭手切が何か食べれそうなもの持ってくるって言ってた」
「うん……」
頬に当てたままの豊前の手にすり寄る松井。褥でもない限りこんな事は滅多にないから、これは弱っている証拠だ。できれば篭手切が戻ってくるまで居てやりたい気持ちはあるが、当番に遅刻してしまう。理由を話せばお咎めは無いだろうけれど、松井が嫌がる。さてどうしたものかと思案した豊前は、腰に巻いていた内番着の上着の存在を思い出した。
「そーだ。これ貸しちゃる。昼にまた来るからゆっくり休んどけ」
豊前は解いた上着を松井の肩の辺りに掛けると、額とこめかみに数回軽く口づけた。顔を離すと松井と目が合い、青白かった松井の顔に少し赤みが差した。行ってらっしゃいと蚊よりも小さな声で松井に見送られ、豊前は松井の部屋を出た。洗濯したばかりだからジャージは汗臭くないはずだから大丈夫。
部屋を出て一歩、二歩。三歩目を踏み出す前に、豊前は視線を向けられている事に気がついた。立ち止まって視線の主を探る。松井の部屋の入り口から数歩離れたところに、布巾の被った皿を載せた盆を持つ篭手切が立っていた。何も言わず、豊前に向かってにこりと微笑むだけの篭手切。彼は本当に聡い脇差だ。あとは任せたと言って普通にすれ違ったが、内心は少々恥ずかしかった。
***
そんなこんなで昼になった。当番を終えた豊前は着替えを済ませると、早速松井の部屋に向かう事にした。午前中は篭手切が松井を看ていたはずだ。豊前は松井の部屋に行く前に、昼から替わると篭手切にメッセージを送った。すぐに返事代わりの可愛らしいスタンプが返ってきた。
「――入るぞ」
「豊前」
「りいだあ」
障子を開けた豊前に二振りの視線が向けられた。私はお暇しますねと言って、篭手切は豊前と入れ違いで立ち去った。静かに障子が閉まる。突っ立っているのも何だからと、豊前は朝と同じように松井の隣に腰を下ろした。朝は寝間着姿の松井だったが、今は普段着に着替えていた。
「体調はどうだ?」
「少し寝たらかなり良くなった。寝不足だったのかもしれない」
「松井は宵っ張りだからなぁ。たまには早く寝ろ。夜更かしが続くようなら、寝かしつけに行くぞ」
半分冗談、半分本気。言っても聞かないなら実力行使しかない。てっきりそれはやめてくれと言われるかと思いきや、松井はちらりと豊前を見やって軽く顎先に指を当てるだけだった。……その反応はどういう意味なんだ。松井の真意が読めない。豊前は少々面食らってしまった。
気まずい沈黙が二振りの間に流れる。二振りでいる時にどちらも喋らない時もあるが、これはちょっと……。先に沈黙を破ったのは松井だった。羽織っていた内番着の上着がずり落ちそうになり、何の気なしに引き上げようとした。そこで松井はこれが豊前からの借り物だった事を思い出した。松井は慌てて上着を豊前に返そうとしたが、豊前はまだ借りておけと松井を制した。――松井が己の物を身に着けている。理由はさておき、それに対して悪い気はしない。仲間内で回し読みをしている現世の漫画本に出てきた“彼ジャージ”の良さが分かった気がする。
「昼は食えたか?」
「うん。さっき食べたところ」
「そうか。食えたなら十分だ。昼からは俺が看ててやんよ。邪魔じゃなければここに居ようかと思うんだが」
「……邪魔じゃない」
そう言って小さくはにかんだ松井の口から、嬉しいと聞こえてきた気がする。そういえば、まだ昼ご飯を食べていない。豊前は厨に何か貰いに行く事にした。ついでに松井の昼食が載っていたと思われる盆も下げに行こう。去年万屋街で配っていた朝顔の絵の描かれたうちわの横に置いてある空の盆を引き寄せて立ち上がろうとすると、くいっとTシャツの裾を引かれた。裾を引いたのは怪訝な顔の松井だった。
「……居てくれるんじゃなかったの?」
「居るよ。ちっと厨に行くだけだから、すぐ戻る」
「本当?」
疑わしげな視線。これがいつもの松井だったら、こんな行動はしない。朝の甘えるような仕草もそうだけれど、きっと弱っているが故の無意識なんだと思う。ここで受け答えを間違えたら、松井は我に返ってしまう。それは惜しい。非常に惜しい。今は余計な事を言うべきではないと、豊前は口を噤んだ。今、最優先すべき事は何か。松井の不安を取り除く事だ。
「本当っちゃ。この皿片づけるついでに昼飯取りに行ってくる。まだ食ってねーから腹減ってんだよ。眠たくなったら寝てろ。ちゃんと隣に居てやっから」
な? と豊前が幼子に言い含めるように優しく言うと、松井は納得したのか裾を掴んでいた手を離した。そしてもぞもぞと夏布団に潜り込み、中で寝返りを打ってぐるんとこちらに背を向ける。豊前はそこまで見届けてから立ち上がった。布団の外にはみ出していたジャージの袖は中に押し込んでおいた。
空の盆を手に持ち、そっと松井の部屋から出る。厨では何を貰ってこようか。軽食と飲み物と、あとは松井も食べられそうな水菓子――は八つ時にしよう。ついでに自分の部屋にも寄って、途中読みの雑誌と漫画本と枕も持って行こう。眠る松井を見ていたら、きっと自分も眠たくなるだろうから。
そこまで考えて、豊前は前に自分が風邪をひいて寝込んだ時に松井に世話を焼かれた事を思い出した。あの時は別にそこまでしなくてもと思ったけれど、今ならあの時の松井の気持ちがわかる。大事ではないとわかっていても心配だし、構いたくなる。――とは言え。
(やっぱ元気な方が良いよな)
松井が顕現して、何度目かの夏。仲間達みんなで楽しみたい事も、ふたりで楽しみたい事もたくさんある。取り急ぎ、今度の花火大会までには回復してもらわないと。裏からあちらこちらに手を回して、松井に気づかれないように非番の予定を合わせたのだから。偶然を作るのには苦労した。で、今日辺り誘おうと思っていたらこれだ。誘うなら元気な時に誘いたい。
縁側から顔を出して見上げた先には梅雨明けの青空。畑の隅に植えたひまわりが大輪の花を咲かせる日も近そうだ。ひまわり畑に立つ、麦わら帽子を被った松井の後ろ姿。名前を呼ぶとその後ろ姿がこちらに振り向き、「豊前!」と顔を輝かせる。……悪くないな。豊前の夏の楽しみがまた一つ増えた。
いつまでここに留まっていられるか、それは誰にもわからない。だからこそ、今この時を謳歌したいのだ。そういえば、まだこの夏はすいかを食べていない。八つ時のおやつはすいかもありだな。そんな事を思いながら、豊前は厨の入り口に掛けられたのれんをくぐった。
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