夏、落ちる

夏の学パロ。現パ好きすぎる
転生を匂わせる表現があります。
すだちそば私自身は大好きです

 あ。
「館内では静粛に」の貼り紙、静粛の部分だけフォントが違う。
 粛の右下ははねずに止めるのか。
 そういえば図書館の周りは木がいっぱいなのに、どうして建物の中には蚊がいないんだろう。
 集中力が切れてきて、どうでもいいことがとめどなく頭の中にあふれていく。ダメだ。僕も休憩してこようと、握っていただけのシャーペンを置いた。
 利吉さんは今年受験生で、僕が一年生だけど夏休みの宿題が全然進んでいないのを見越してよく勉強に誘ってくれる。
 図書館の自習室は人が多いのに森の中のような静けさだ。まるで日常の壁に穴を開けて異次元に来ているみたい。それに外から来たばかりだと空調がいまいちだと思うのに、じっと座って勉強しているうちにちょうどよく涼しくなってくるのもなんか不思議っていうか、遅れて気づく居心地良さがある。
 エントランスのそばにある休憩スペースへ行くと利吉さんがいて、自販機の横のソファで缶コーヒーを飲んでいた。日差しは直接入ってこないけれど壁全体がガラス張りのそこは明るくて、何だか息がしやすい。僕は桃ヨーグルトスカッシュにして、利吉さんの隣に座る。
「夏っぽいね」
「マイナー自販機の変わったドリンクってつい買っちゃうんですよねえ」
「あー、君らしいな。まずかった時の心配しないところとか」
「だって他で見かけないし、一回試してみないと味わからないじゃないですか」
 アルミのスクリューキャップをひねればカシュ、と気持ちのいい音がする。

 友達、っていうよりも、よくかまってくれる先輩。
 成績優秀で格好いいしスマートで憧れるなあと思っていたら、一学期最後の日の帰り道に「前から好きだった」と人生初の告白をされてしまった。
 この春知り合ったばかりなのに前からっていつですかと聞いても、ずっと前から。としか言われず、どこか別の国の言葉みたいに聞こえた。だけどそういえば初対面の時から下の名前で呼んでいいよとか、初めて会った気がしないほど親しくしてくれた。引退した剣道部の後輩ですら山田先輩呼びなのにとは思うものの、彼の隣にいると僕はどこか安心する。
 桃ヨーグルトスカッシュを一口飲んでみると、直感で選んだ割にはけっこうおいしい。
 ただ僕には利吉さんと付き合うとかうまく考えられなくて、返事はまだだ。

「あ、山田くん」
 女子の声がして振り向くと、僕の知らない人だった。利吉さんは感じのいい微笑みをつくって話しはじめた。聞くつもりもないけれど、相手はどうやら利吉さんのクラスの人で、委員会が同じらしかった。
 賢そうに会話する利吉さんは少しすましてる、と言えばいいのか、僕といる時とは雰囲気が違う。ただ、とても格好いいのは変わらない。女子に向ける貼り付けたような笑顔も自然と様になっている。
 じゃあね、と相手が満足して去っていくまで、結局ほんの少しの時間だったと思う。だけどなんだかもう勉強の気分でもなくて、もう少し休んだら帰ろうということになった。

 図書館から駅へ向かう午後の道は日陰も少なく、かげろうがゆらめく。小さな体になって熱したフライパンの上を歩いたらこんな感じだろうか、と考える頭はすでに茹っている。顔の横を汗が伝ってくるのでタオルで拭うけれど、生地の含んだ空気がぼわりとして、もこもこの動物に頬ずりでもしているような温度だ。
「そうだ、すだちそば」
「は?」
 利吉さんは女の子の前じゃそういう返事はしないんだろうな。さっきの爽やかな笑顔だって僕には使わない。
「駅のホームにあるおそば屋さん、夏はすだちそばがあるじゃないですか。あれ食べてみたくて」
 立ち食いそばなんていったら大体、僕らみたいな高校生が帰りに寄る場所じゃない。でもすだちそばがある店はそこしか知らないし、いつか行ってみたかった。ちょうどお腹もすいていて、それに利吉さんとならと思って、口にしてみたのだ。
 いいけど、と何とも言えない顔をして彼は頷いた。
 駅につくと一緒にホームに降りる。階段から少し離れたところにある駅そばのお店は、古い見た目に反して電子マネーに対応していた。
 電車がやってこない間は風もあまり吹かず、じっとりと蒸している。日陰に立っていても、肌がじりじりと熱を受けている。他におそばを食べるお客さんはいなくて、やっぱりどこか他のお店に入った方がよかったかなあと今さらなことを思って利吉さんを見た。
 真っ黒な前髪の先が汗でしっとりとして、ちいさな毛束ができている。彼はしたたる汗もそのままに、文句も言わずスマホをいじっている。
 彼はけっこうニュースを見てることが多くて、昨日落雷で電車止まったんだって、とかいったことを時々僕に教えてくれる。へえ、そうなんですね、なんてあいづちを打つだけで終わってしまうような何気ない会話、僕は嫌いじゃない。
 そう長い間待つこともなく、輪切りのすだちがいっぱい乗ったおそばが出された。駅そばは早いのが肝心だから当たり前といえばそうだけど、ありがたかった。星の輝きをはめ込んだ輪っかの飾りみたいなすだちがちりばめられたおそばは美しくて、ひんやりと僕の目を楽しませてくれる。
 利吉さんのおろしそばもすぐに渡され、一緒にいただきます、と丼に手を合わせてからすすり始めた。

 つるりとした喉ごしが気持ちいい。
 だけど、あれ?
 ゆずみたいなやさしい酸味を想像していたけど、これって。
 レンゲでつゆをすくって飲んだその瞬間に気がついた。
 どうしよう。やってしまった。
 二口めのおそばを噛みながらお冷やのコップに水を足して、喉へ流し込む。
 どうしよう、これは思ったよりも、と悩んでいると
「大丈夫?」
と横から利吉さんが顔をのぞきこんできて、
「こっち、食べれば」
と丼が交換された。
 ぽかんとする僕をもう見向きもせずに、彼は大きな口を開けてすだちそばをかきこんでいる。
 何だか恥ずかしい気分になって、手元に置かれた器を見下ろした。
 辛味大根が食べ尽くされた、わかめと麺だけの冷やしそば。
 僕の食べられない、辛い、苦い、すっぱい味を、利吉さんは平気な顔で平らげていく。
 ああ、なんて彼は。
 ――優しい、と頭に浮かびかけてすぐに打ち消す。
 違う。
 土砂降りの日に傘を貸してくれて、彼は予備の折りたたみ傘で肩を濡らしたときも。
 買ったばかりのダブルアイスの上のほうを地面に落としてしまったら、彼の一段しかないアイスをコーンごとくれたときも。
 やると思った、とか言いながらいつもいつも当たり前のように差し出されるこれは、優しいからとかじゃない。
 僕はその意味なんて気づきもせずに、ただ笑ってぬくぬくと包まっていたけれど。
 思えばそんな好意のかたまりみたいな真似を、彼は他のどんな相手にも、しない。
 言葉で一度だけ言ってくれたあの時、僕は何もわかっていなかった。
 幼な子が僕の指を握る時のような、心細げな、でもけっして離さないと強く願うような、彼の気持ちそのものを。
 それをたった今、今さら急に、知ってしまった。

「利吉さんっ」
 彼の腕をひっつかむ。
 驚く彼の腕は離さずに、目を見てはっきりと言う。
「僕っ、も、あの、好きです!」
 ……え、と一声だけ発した彼は、察して数秒のうちにみるみる顔つきが変わっていき、丼を置いた手で口元を拭った。
 そして、きっと暑さのせいではない真っ赤な顔で呆れたように、
「それ、……今?」
と小さくつぶやいた。