丹羽燐
2024-07-27 21:16:12
4322文字
Public in the evening…
 

ハルシオン

in the evening there is wishingのコピー本から本編'ケース9 花の鏡'までの間の掌編です

背景情報

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以下の要素を含みます.苦手な要素がある場合は閉じてください
・梓さんが降谷さんではなく安室さんと結婚することになった
・梓さんが何者かに殺害されている
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 朝、目が覚める。カーテンに朝日がギリギリ刺さる部屋の中で、十センチ先の冷たさを感じた。空調でよく冷やされた空気にはもはや残り香すらない。嫌になる程、何もない。逃げるように溶けそうなほど暑い廊下を進んだ。
 二匹の眠る横で人間の鎧を一つずつ身につける。丁寧に畳まれ、箪笥にしまわれていたそれは、いつからかソファーに放り出されてそのまま。時折白い毛がついている。
 まだ眠たげな白い頭を撫で、スマホを片手にキッチンへ歩く。緊急性の低い内容と共にリンゴ味の栄養補助ゼリーを胃に収めた。煩雑な情報ばかりがたまる。一通紛れたジンからのメールに画面を消し、洗面台へ向かう。
 今日とて目元の隈は消えない。皮膚を引っ張ると少し薄くなった。
 一本一〇〇キロカロリーを立て続けに二本。ショートブレットタイプの栄養補助バーに、口の中の水分が奪われていく。毎日食べる順番を間違えていると思いながらも、ここ一ヶ月でルーチンと化してしまった動きは簡単には変えられない。水道水で残りを流し込んだ。
 ジンからの連絡はある男を調べろという指示だった。サーバのデータ上は人畜無害そうなこの男は、一体いつ黒の組織とか変わり目をつけられるようになったのか。同類か、それとも生粋か。……背景など後で考えればいい。
 歯を磨きながら、再度一日の予定を脳内で整理する。夕方まで庁舎で各種指示に会議、書類対応。夜はバーボンが情報収集。息をつく暇もない。
 目まぐるしく過ぎていく時間の、日々の中でも僕は。


 
 帰宅したのは日付がとうに変わり、いっそ今朝起きた時間の方が近いぐらいだった。二匹は自動給餌器で、人間は男の調査ついでに食事を済ませている。生温い水道水で錠剤を飲み込むと、残るタスクはシャワーを浴び、少しでも睡眠時間を確保すること。得た情報を再度整理するほどの体力も、余暇の時間もない。
 緩慢な動きでジャケットを放り投げたところで、黒い画面に影が写っているのが見えた。襲い来る睡魔で見て見ぬふりをしたくなる中、焦点を合わせじっくり見たところでその影は消えない。
 ジャケットは二メートル離れたソファーの、ホルスターは別部屋のベッドの上。つまり手元に武器の類はない。いざとなれば素手で、と意を決して振り返る。
「梓……さん?」
 視界に入ったのは見慣れた高さ、よく見知った顔をした……けれど透けている人間だった。全身が薄らと透けている梓さんが楽しげに笑っている。……梓さんが楽し気に?
「透さん!」
 反応出来ない僕を置き去りにするように、梓さんの言葉は止まらない。
「もう、また隈できてる。また夜更かしですか? って、もう二時近い。早く寝てください。ほら、服脱いでシャワー浴びて……聞いてます?」
 どうやら幻聴もするようになったらしい。頬を少し膨らませる様子も声も記憶の中のそれとかわりない。
 あいつらは夢にすら出なかったのに。……いや、らしいといえばらしい。少し寂しくもあるが、誰が夢枕に立つだの何だの揉めて決まらないのが容易に想像できておかしい。そのあたり、まだ関りのない梓さんが一人で化け出るほうが可能性としては。
 そこまで考えて、即座に否定した。あいにくと幽霊を信じられるほど、現実から目を逸らして生きていない。梓さんが死んだ今、目の前に見えているのは幻覚以外に何と表せばいいのか。
 ああ、ついに幻覚を見るようになったか。
「と、お、る、さん!」
「はい」
「聞こえてるなら返事してくださいよう」
 わざとらしくムッとした表情はポアロで見た時と同じで、なんならこの家でも見たことがある。ポアロの時は少し作るのが面倒な賄いをねだられ、家では二匹を始め告げ口されたっけ。知らぬ間に工藤君に話されていた時は嫌な汗をかいた。大抵話を聞いていない僕が悪かったが。
……すみません」
「ふふ、透さんってば何か考え事ですか? ……探偵さんのお仕事とか」
「いえ、そうでは」
 思わず返してしまった返事でいつかの雰囲気に飲まれるように、会話が続いていく。幻覚と幻聴に返事をするなどどうかしている。無意味で無駄だと、見ぬふりをしてシャワーを浴びればいいとわかっているのに、そうできなかった。
 一日の疲れと睡魔に襲われた頭では碌な判断も出来ない。決して寂しさだとか、恋しさだとかではないと言い聞かせる。
「そういえば飛田さんはお元気ですか?」
「飛田? ああ、元気ですよ」
「マスターは?」
「おそらく元気かと」
「ふうん」
 梓さんが音もなくソファーに落ちた。揺れどころか皺一つ変わらない。同じように隣に座り込むと、今度は重さで座面が沈んだ。椅子に座るときと同じ目線の梓さんは奇妙で、想像力の限界を思い知る。
「マスターにも、会いに行ってほしいなあ」
 この甘えるような声に弱い。そうわかっていながら流すのだから脳はどうかしている。
 的確に弱さをつく梓さんに何度我が儘をきかされたか。折り曲げた指が完全に開きなおる前に、カウントが止まった。そうだ、数多の我が儘を聞けるほど共に居られなかった。いっそポアロで働いていた時の方が効いていたかもしれない。……よく、愛想を尽かされなかったものだ。
……わかりました」
 本人には届かないとわかっていても、懺悔のように了承するほかなかった。祈る神がいないなら、許しを請える神もいない。これは自己満足にすぎない。
「ね、透さんは元気?」
「僕?」
 改めて言われてみると、よくわからなかった。風邪は引いていないし、特に病気もない。何かあった時に死なない程度の動きは今も出来る。長短深浅あれど毎日眠っている。健康だ、たぶん。実際今も酷く眠い。
「健康だよ」
 本物の梓さんなら聞きたいことはたくさんあるのに、そうではないと理解し切った頭では聞かれたことに答えるので精一杯だった。梓さんの質問さえも、僕が聞かれたいことにすぎないとしても。
「本当に?」
 疑うような眼で梓さんがあちこち触る。額や顔に触った時は髪が、首や手首に触れた時は服が刺さっていてとても奇妙な光景だった。……横で眠ったままの二匹から、いっそ他人からしたら虚空に向かって話しかける僕の方が変だろう。何も言わないことにした。
……ちゃんと寝て、ご飯も食べてください。面倒だったらポアロに行ったらマスターが何か作ってくれるから。たまには毛利さんのとこにも顔出して」
「はい」
「あと無茶はしないこと。大怪我したら、死んじゃうかもしれないから」
「都合のいい、幻覚だ」
 目の前の梓さんは僕が欲しい言葉を的確に言う。当たり前だ、僕の脳が見せている幻覚だから。
 僕が梓さんに願っていたことを同じように梓さんが思ってくれていたら、そう考えたことは一度ではない。誠実に向き合う梓さんに対し、全て嘘で塗り固められた僕が手を伸ばして良いはずがない。わかっていながらも捨てられなかった。
 幻覚幻聴だと理解しながらも無視できないほどに、整理のつかない感情に振り回されていた。
「幽霊なんだけどなあ」
「梓さん」
 名前だけ呼ばれた幻覚が首を傾げる。嘘だと信じられなくなるほどに本物の動きをする。その姿が透けていなければ、生きていると信じたくなってしまうほどに。
「梓さんは死んだ。これは事実だ。そしてこの世に幽霊はいない。これも事実。だから、今目の前にいるのは僕が生み出した幻覚」
 何か言いたげな梓さんを無視して続ける。いっそ、おかしくなってしまえればよかった。
「普通気のせいで済ませて……幻覚と会話するなんて正気じゃない。きっと疲れてるんだ。朝から晩まで、たしかにこの国のためにと動いているはずなのに」
 返事がないのをいいことに、ただただ思考を言葉に吐き出す。
「僕は未だに犯人の手がかりすら見つけていない。もう一ヶ月近く経つというのに。何が探り屋バーボンだ。何が探偵の安室透だ。愛する人を殺した人間すら見つけられないまま、幻覚を見るだけで」
「ふふ」
……何が」
 おかしい、の四文字は喉でつっかえて出てこなかった。少し寂し気な笑顔がいつかの別れの日のようで、わずかに残った冷静さを奪う。あの日は結局泣かせ、酷く傷つけた。
「透さん、好きです」
「は」
 息が音と共に漏れた。呼吸が止まる。
「え、えーっと……透さんは?」
 時間にしてわずか十数秒、ようやく動いた肺が取り返すように荒く動く。隣からの上目遣いに、不安げな声に惑わされた。
「好きだよ」
 喜ぶ姿に、幻覚だということも忘れて続ける。
「愛してた。幸せにしたかった。いつか名前も明かして、呼ばれたかった。ポアロで、この家で平和に過ごしていて欲しかった。たまに喧嘩をしながら、でも笑っていて欲しかった。……今でも、愛してる」
 言いながらいつかのように抱きしめようとして、腕が空間を通り抜けた。腕を、梓さんを交互に見て動けなくなる。座っているはずのソファーが透けるような幻覚相手に、僕はなにを。
……もう」
 顔を赤らめた梓さんが立ちあがり、誤魔化すように僕を抱きしめた。ホログラムのような腕が体を包む。相変わらず体に服がめり込んでいて、正面のテレビも見える。ただそれを除けば、団欒を思い出せば梓さんに抱きしめられているような気がしてきた。体温も圧迫感も香りも何もない。それなのに抱きしめ返そうとすれば腕が空を切る。致命的におかしな状況でも、つい一ヵ月前までよく見た光景に似ている。どうにも中途半端で厭になる。
 瞬きを数回して、誤魔化した。
 視界に入る腕が上下に揺れる。頭を撫でているのだろう。そんな感覚は全くないのに、漠然とそう思った。
「けがしたり、危ない目に合うぐらいなら犯人なんてわからなくていい」
 穏やかな声が耳に心地良く、いつかあった日を思い出させられる。ゆっくりとした単調な動きを目で追ううちに、忘れかけていた睡魔に意識を奪われかけた。帰宅してからどれぐらい時間がたったのかわからない。ただ、酷く眠い。
……なんて言っても透さんは聞かないだろうから」
 重い瞼に回らない思考、明日目が覚めたら。幻覚症状に明日がない方が良いことすら考えられないまま、意識が途切れた。

 
「せめて、私じゃなくていい」
 完全に眠ってしまったのを確認してから、梓は続けた。
「誰かを愛して生きてください」


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