精密機械たちの内緒話が其処彼処から聞こえてくる照明が絞られた研究室。暗渠のように床に張り巡らされた電子ケーブルの行方を追い、脳裏にあるスクリーンに映しては眺めていた。
「悪ィなフィル。メンテナンスの時間が予想以上にかかっちまった」
意識を情報の海から掬い上げ外した手首を定位置に戻し動作確認をするニコを正面に見据えた。どれだけ寝ても消えない濃い隈が刻まれた目元。古代遺物≪託す者≫に触れたとき、鮮明に脳内に入り込む知らない記憶の中で見た姿と同じ見た目になったニコが申し訳なさそうに眉尻を下げ謝罪するのをフィルは新緑色の瞳を投げかけ首を横に振う。
今回フィルに任された任務が他の否定者たちには対処できない厄介極まりないものかつフィル本人もかなり無茶をしなければ達成できないものだった。
負傷した体は飲食物を経口摂取にて修復済み。寧ろ夜遅いにもかかわらず出迎えメンテナンスを行ってくれたニコに対してフィルは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。感情を伴った動きができるのならば、小さな手をぎゅっと握り締め俯き視線を床に落としていた。
そんな幼い謝罪の気持ちを察したニコが表情を和らげフィルの頭を雑ではあるが決して乱暴ではない手付きで撫でた。
「迷惑だなんか思ってねえ。もっと頼れ、他のやつらもそれを望んでいる」
柔らかな口調で語り掛けるニコにフィルは頷き、研究室入り口前まで見送ってくれた彼の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
宇宙ステーションで暮らしていた日々と変わらず地球の重力を無視して基地内を移動を可能にするこの身体。慣れ親しんだ動きで自室に戻る道すがら通りかかった休憩スペースに見知った影を見付けた。
『風子お姉さん』
進行方向を変更してソファの肘掛けに凭れ掛り寝入っている風子に文字通り飛んで行った。穏やかな寝息に合わせ浮き沈む丸まった背中。時に柔らかくて優しい時に数々の視線をくぐり抜けた強く真直ぐな赤朽葉色の瞳は瞼裏に隠され見えない。
赤いニット帽越しにフィルの幼い手が風子の頭を撫でる。
『待っててくれたんだ』
数刻前の記憶の端々がフィルムとなって映写機をカタカタ回し始めた。
ニコにメンテナンスをしてもらうべく研究室に向かう途中、後方から聞こえる軽快な足音に速度を落とし振り返る。澄み渡った新緑色の湖に映り込む柔和な朽葉色の笑顔にフィルがその場に留まった。小走りで隣に来た風子の視線に交わるよう高低差を調整して、示し合わせたかのように移動を再開する。
「任務お疲れさま! フィルくん一人に無理させちゃってごめんね…」
「これからニコさんの研究室? 一緒に行こ」
「あやとり結構出来るようになったんだよ~」
宇宙服越しとは違う直接聴こえる声はひたすら心地よい。静けさが満ちる宇宙空間と違い、音に溢れている地上はとても賑やかで、風子の声は音の洪水に飲まれようともフィルにしっかり届いていた。
古代遺物≪託す者≫に備わっている力とは違う、漠然とした意識の波が足首まで寄せては引きまた寄せるをくり返す。
風子の労いの言葉から始まった他愛のない会話。≪不感≫の否定能力の所為でフィルが一言も返していないというのに風子は気にせず続けた。一方的であって一方的ではない。フィルと目と目を合わせ身振り手振り風子は明るく話し続けた。
「なに? フィルくん」
無垢の瞳は何も語らない。一回も作動した事のない発声機能を備えているだけの喉も震えていない。球体関節の手足指先が固まったように動かせない。
しかし、何の変哲もない無言で浮遊移動をしているフィルの姿が風子の視界には違って見えた。耳に届かない幼い声を心で聴き、小柄な体を左腕に座らせる形で抱き寄せ、手袋越しでも分かる柔らかで指通りの良い瞳の色と同じウェーブの掛かった髪を撫でつける。
その優しい撫で心地から齎される安堵感が眠気を誘い、真直ぐだった姿勢を風子側に傾け凭れ掛った。自分の身は風子の腕の上に座っているだけの半ば不安定な状態。だが、フィルは相手が決して落としやしないという全幅の信頼を抱き研究室前に着くまでの間身を預け続けた。
「本当に待っていなくて平気? 送って行くよ?」
膝を揃えしゃがみ込んでいる風子が問い掛けにフィルは眠気眼を擦りつつ頷いた。
頼りなく下がった風子の眉尻。全然迷惑じゃないのにと物語っている面持ちにフィルは細心の注意を払い彼女に抱き着き。
『大丈夫、ありがとう。風子お姉さんいつも頑張ってるから早めに休んで』
心で言の葉を紡いだ。
暫し呆然としていた風子の体が緩みフィルの背中を優しく擦る。
「うん、分かった。フィルくんおやすみ」
『おやすみ風子お姉さん』
不思議と風子に対しては≪不感≫が弱まるのをフィル自身気付いていないものの、その小さな体で目一杯抱き着き腰を上げ研究室前を後にする風子をフィルは手を振り見送った。
脳内で流れていた映像が止まり薄暗いシアター内で見ていた意識が浮上する。
とっくに帰っているものだと思っていた風子が何時終わるとも分からないにもかかわらず通りかかるであろう休憩スペースで待っていた事実に聞こえない筈の鼓動がフィルの中で鳴った。
小さくも幼いフィルの腕が待ち草臥れて寝てしまっている風子を抱き寄せる。無い心臓の鼓動を聞かせるようにそっと胸に抱き、赤いニット帽に顔を埋めた。
『どうして、こんな事をするんだろう』
自分自身がしている行動の理由が分からない。遠のいていた感覚が微かに息を吹き返すも理解する前に息を引き取ってしまう。穏やかな寝息と柔らかな熱が白いシャツを通り抜けフィルの≪託す者≫に伝播する。決して直接触れぬよう気を付け、ほんの少しだけ力を強め風子を抱きしめ──、そっと離れた。
『起きて、風子お姉さん』
「う~ん…」
『風邪引いちゃうよ』
肩を軽く揺さぶって覚醒を促す。口許がもにょりと動き眉間に浅く皺を寄せ目を強く瞑るばかりで起きない風子にフィルの手が止まる。すると、顰めていた顔が緩みスースーと規則正しい寝息が薄く開いた唇から漏れだした。
その姿にフィルが徐に虚空を見遣る。
結構夜遅い時間帯でこのまま彼女を一人残すわけにはいかない。かと言って気持ちよさそうに寝ているのを起こすのはとても忍びない。
揺れ傾く天秤の行方を追っていた矢先、無機質な天井を眺めていたフィルの零れ落ちそうな瞳が休憩スペースの部屋の隅に注がれる。五感だけでは計り知れない異質な気配。通常人間の視覚から得られる情報の他、赤外線や熱探知、空気の流れ等を無垢な新緑色の瞳で捉えようとするも何も得られない。視認はおろか数値化できない不確実な何かが確実にいる。
異質な気配から嫌な違和感に変貌を遂げ始めた部屋の隅から目を逸らさないで寝入っている風子の膝裏と背中に腕を回す。
ずれ落ちそうになる風子を抱き直したフィルの足首から下の部分が変形するや否やスターターピストルの引き金が引かれた。
小回りが利く程度に速度を抑えているとはいえ、風を見に受けている風子の瞼が開くことは無かった。嫌な違和感が確信へと変わり、正体不明の何かが隠していた存在感を不規則に壁や廊下、天井を乱暴に叩き衝突する音で主張し始めた。首だけ振り返れば歪にへこんだ痕が嘲笑いフィルたちを追い掛けて来ている。
視線を前に戻し脳内に映し出されている複数のモニターと実際見ている光景を照らし合わせた。組織内監視カメラでも姿形を捉え切れていない。同時にニコたちへ連絡を取ろうにも通信系統が麻痺しているのか悉く沈黙するばかり。
『ここからだと風子お姉さんの部屋が近い』
目的の場所に近付くにつれ強烈で不快な腐敗臭が鼻を突きその濃度を増す。やや膨らみながら廊下を曲がった先、風子の自室を視界に収める前にフィルが扉のロックを遠隔で開錠する。速度を落とさずに部屋の中に飛び込みすかさず扉を閉めロック後、間髪置かず固く頑丈な扉に何かがぶつかる音が響き渡った。
フィルが扉から距離を取り振り返る間に無数の手が【ここをあけろ】と乱暴に叩き続ける。部屋の空気まで震わせる音の津波を浴びても尚、風子の意識は夢の底に沈んだまま浮かんでこない。
『…ボクが守る』
バーニアに変形させていた足を元に戻して部屋に降り立ったフィルの瞳が仄かな光を帯びる。
≪不壊≫の力が施された扉向こう。今まで見えなかった視認できなかったモノたちが新緑色の瞳にはっきり映り込む。陽炎のように不明慮な輪郭を持つソレ等は頻りに風子が欲しいと喚き散らす。
フィルの管理下で制御している風子の自室扉が何度も開錠しかけては主導権を取り返す攻防戦が続いていた。
双方譲れない闘いはフィルの口が開き声にならない、声ですらない感情が魂の光を纏い嘆きの暗闇に放って終焉を迎える。
──帰って
──帰ってくれないなら 君たちが眠るのを手伝うよ
響き渡っていた音が止まり、しんと静まり返る部屋。夥しい不快な気配たちが霧散したのと同時に心をざわめかせる嫌な感覚も消失した。
気味が悪いくらい静かな部屋に佇むフィルの目に宿っていた仄かな光が為りを顰め、耳を澄まさなければ聞こえなかった風子の寝息が他愛のない寝言と共にフィルの耳を擽る。起きるかもしれない、という微かな期待を込めた眼差しで見たい気持ちを一度ゆっくり瞬きをして落ち着かせた。
気持ちよく寝ているのを起こしてはならない。静かに浮遊移動し始めたフィルはもう一度扉を新緑色の瞳で冷たく睨み風子の寝室へと向かって行った。
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