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2024-07-22 18:56:06
3526文字
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ベッドサイド・マナー

初夜明けのししさめ

 
 獅子神敬一は浮かれていた。自分が食べもしないベーコンエッグを作りながら、自分が好きなわけでもない流行のアニメ主題歌が鼻唄で漏れるぐらいには、彼は浮かれ散らかしていた。
 今、獅子神の寝室には、このベーコンエッグを食べる予定の生き物がすやすやと眠っている。それはゆうべ、獅子神と初めて情を結んだ相手で――痩せててもしっかりした手足と、薄くてひんやりした白い胴と、地獄からやって来たような赤い目と、喘ぎ声が(獅子神基準で)最高に可愛いへの字口を持った、死神との異名を取る人型の生き物なのであった。
 個体名でいえば村雨礼二である。
 獅子神は有能なので、これまでの皮肉や揶揄やちょっとしんみりした言葉の応酬の中で、村雨がベーコンエッグには塩胡椒をかけるが、実家では子どもの頃の習慣のまま醤油をかけることもあるのだ、という情報を入手している。温野菜を添え、冷たすぎないヨーグルトには冷たいイチゴのジャムも乗せて、それから盆には念のため塩胡椒だけでなく醤油の小瓶も乗せて、小さなクロワッサンやハーフカットの食パンと一緒に、獅子神は弾む足取りで寝室へと向かった。
『こういうさぁ、こういうのって、お前どう思う? いやする方じゃなくてされる方としてはさ、別にされる予定なんてねえだろうけどよ』
 獅子神は有能だし努力を惜しまないので、そうやって会話の中でさりげなく(獅子神基準で)、村雨の好みを確認していた。評判の海外ドラマを一緒に見ているときの――獅子神宅のホームシアターで、なんとカウチで二人そろって鑑賞したのだ――、ごくさりげないやり取りである。
 スクリーンの向こうでは、ブレックファスト・イン・ベッド、つまり恋人のためにベッドに朝食を持っていくアレのシーンが展開されていた。それからチラリと視線を外し、村雨は「こいつは何を企んでいるのだ」と言いたげな顔でチラリと獅子神を眺めやり、それから視線を戻して答えた。
『経験してみないとわからんが、きっと悪い気はしないだろう』
 だから記念すべきこの朝に、ぜひ経験していい気分になってもらおう、というのが、獅子神の目論見である。これは、今までどのような男女とも性的な接触を持ってこなかった――つまり(獅子神基準で)獅子神と出会うその日のために童貞も処女もずっと取っておいてくれた――村雨だけでなく、獅子神にとっても、実は初めての試みであった。
 何せ獅子神は、自分の寝室で他人と寝たことが一度もない。
 もともと獅子神は、他人を自宅に「お持ち帰り」するタイプの人間ではなかった。それは彼の生来の臆病さや用心深さから来るものでもあったが、彼にとって自分の寝室というものが、それほど大きな意味を持っているという証明でもあった。
 自分がもっとも無防備に、生まれたままの姿になって、安全を感じながら意識を失うことのできる場所――それがどれほど得がたく大切なものであるのか、獅子神は身に染みて知っているのだ。
 そんな獅子神の、己を守る要塞とでも言うべき自宅の、最深部である主寝室で、一緒に裸になった最初の、そして今のところ最後の相手――それが村雨礼二である。
 だから獅子神は浮かれ散らかして、この日のために前もって買っておいた新品の、朝食用の脚つきトレイを軽々と捧げ持って、寝室に向かっているわけである。
「村雨、起きてる?」
 出てきた辺りでだいぶ眠りが浅くなってきていたし、勤務医である彼は習慣のように朝早く目覚めるので――これは友人たちとのお泊まり雑魚寝で知ったことだが――、確認せずとも村雨は間違いなく、健啖な腹をぐうぐう鳴らして獅子神を待っているはずである。
 しかしその予想を裏切って、細く開けておいた――もたつきたくなかったので――ドアを本格的に開けても、こちらに背を向けて丸くなっている村雨が、寝返りを打つ気配はなかった。
……寝てる?」
 トレイをいったん、ローテーブルの上に置く。それからベッドサイドに歩み寄り、注意深く様子を確認した。
 起きている。
 獅子神がそう看破できるということは、村雨は狸寝入りをしており、しかもそれを獅子神に知って欲しがっている、ということになる。
……むらさめ?」
 人生で二回ぐらいしか出したことのないような猫なで声でそう囁き、獅子神は、丸くなってタオルケットに顔を突っ込んだ村雨の、その髪をおそるおそると梳いた。
 もぞもぞとタオルケットの塊が動き、ちろり、と赤い裸眼が覗く。遮光を甘くしたロールスクリーン、その薄暗さの中でもよく光る眼差しに、獅子神は脈が速まるのを感じた。
 ときめきによるものではない。……村雨が機嫌を損ねていると明確にわかる、その凶悪な目つきを見た不安から来たものだ。
「起こしちまった……? メシ、持ってきたんだけど」
 今は間違いなく、室内にバターやベーコンやパンやジャムのいい匂いが振りまかれており、実際、村雨の腹が「ぐう」と鳴った音も聞こえてくる。だが村雨が起き出す気配はなく、それどころか、「私はあなたに不当な扱いを受けたのでそれを知って欲しい」と如実に言いたげな顔を、こちらに向けてくる始末だ。
 ――いや待てよ。
 辛抱強く髪を梳きながら――それが拒絶される気配はない――、獅子神は頭をフル回転させる。
 ――コイツはこういう面倒くせえアピールしてくるタイプじゃねえだろ、いやそういうアピールしてくる村雨も可愛いけどよ、多分気に入らねえことがあったら即座にはっきり言うタイプだ。それにオレに触られてちょっと気持ちよさそうにしてるってことは、ゆうべのセックスが気に入らなかったってわけでもなさそうだ当たり前だろあんなに気持ちよさそうにしてたしめちゃくちゃ抱きついてきたしマジで脳溶けるかってぐらい可愛かったもんな朝勃ち再発するからあんま思い出さないようにしねえとなとにかく、オレに触られるのはイヤじゃねえし、はっきり主張したい何かがあるわけでもない……ってことはもしかしてコイツ、自分でも自分が何に拗ねてんのかよくわかってねえんじゃねえのか。
 考えながら獅子神はほぼ無意識のうちに、慣れた手練手管で、撫でさする手を後頭部からタオルケットの中へと潜り込ませ、背中を優しく撫で下ろす。自然と身体は村雨に近づき、いちかばちか、とベッドに乗り上げながら半ば抱き上げるように抱き寄せると、意外にも村雨はまったく抵抗することなく、それどころか、顔をTシャツの胸板に擦りつけてきた。
 ふうぅー……と安堵のような息が、Tシャツにこもり、どうしようもなく腹の奥をかゆくする。
 どうしたお前、と声をかけるのはいったんとどまり、獅子神は添寝をするように、片肘をついて村雨を抱き込んだ。うう、とかすれた声で――ゆうべ少し無理をさせたか――うめき、村雨は顔を胸板に埋めて動かない。
 そして天啓のように――賭場にいるほうのアレではない神が与えてくれたかのように――、言葉がするりとすべり出た。
「ごめんな、一人にして」
 もぞ、と腕の中のタオルケットの塊が動き、少しはれぼったい重い目蓋の下で、赤い目がチロリと獅子神を睨む。
「謝るようなことなのか」
「え?」
「目がさめる前にセックスパートナーを置いて出るのは、謝るべきことなのか」
 ――あ、そういえば。
 そうだ、こいつはオレが初めての相手だったんだ――しびれるようなその事実を反芻し、そうだな、と獅子神は極力やわらかい声で答える。
「その辺りは、人によるな。話し合いとかで、どうするか決めておいたほうがよかったかも」
……
 目だけ覗いたその表情、考え込む気配がある。やがて村雨は断固とした口調で言った。
「出ていくときは、いったん起こせ」
「わかった。これからはそうする」
 ――つまり「これから」があるんだ。
「あなた、脈がうるさい」
 だってお前が可愛すぎるから――とは言わず、「オレだって緊張するんだよ」とその背を撫でる。
「あなたは百戦錬磨なのだろう」
「お前と寝たのは生まれて初めてだけど」
「うまいことを……
 もぞもぞとまた胸板に埋まろうとする顔を、待て待て、と言葉で押しとどめる。
「うまいと言えば、今日のベーコンエッグはなかなかの出来だと思うぜ。食うだろ?」
 そう言うと、また「ぐう」と、タオルケットの中が健康的な音を立てた。自分が機嫌を直すべきか迷うような沈黙の後、いかにも渋々だといった様子で、「食う」という言葉が返ってくる。

 そうして少しだけ冷めたブレックファスト・イン・ベッドは、予定通り、村雨礼二の薄い腹にすべておさまった。