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千代里
2024-07-22 08:17:17
14828文字
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リーブラ13話
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リーブラの針は問う・13話・その29
アランの遺体に花を供えてからは、その日の夜までノエたちは手伝いに忙殺された。
ドラゴン族の襲撃の爪痕が濃く残る街を、そのまま放置するわけにもいかない。瓦礫の片付けから、遺体の搬送、家を無くした人々の急拵えの住居の準備と、やることは山積みだった。
領主から派遣された騎兵や、商業ギルドの面々も手伝ってくれたが、一番手を動かしていたのは、やはり街で暮らす一般住民たちだった。
ドラゴン族の襲撃により、多くの人が亡くなった。それはとても悲しく、気が滅入ることだ。
しかし、いつまでも泣き暮らしているわけにはいかない。住む家がなければ、冷え込む夜はあっという間に凍え死んでしまう。ものを食べなければ、飢えで体が動かなくなってしまう。イシュガルドの寒冷で厳しい気候は、人々が足を止めて嘆く時間すら与えてくれない。
そんな中、ノエたちのような部外者の手伝いは、哀愁に浸りたい人々の一助になった。少なくとも、彼らの中に犠牲者はいない。ともすれば涙してしまう人々に比べれば、ノエたちは悲嘆に立ち止まらずに動ける、貴重な人材だった。
がむしゃらに手を動かしていなければならない状況は、ノエにとってもありがたかった。攫われたコーディのこと。
竜によって命を落としたアランのこと。
傷つきながらも街を守るために奮戦している父のこと。
一人で無茶をしないでと頼む、オデットのこと。
考えなければならないことは山積みだが、どれから手をつけても別の何かが崩れて全てが台無しになってしまう。そんな気がして、ノエは忙しさを理由に、夜までは思考そのものを停止していた。
しかし、流石に夜も更けて、手伝いも一旦は打ち止めとなると思考は再びぐるぐると渦を巻き始める。布団の中に身を横たえても、疲労はあるはずなのに、妙に目が冴えてしまっていた。
(眠れない
……
)
少し歩けば、気も静まるだろうか。そんな淡い期待を抱き、宿として貸し出された部屋を抜け出して、ノエはあるものを持って廊下へと出る。
シンと冷え込んだ廊下の空気に身ぶるいし、申し訳程度に体にかけていた上着をかき集めるようにしながら、階下へと降りた。
ノエたちが宿としている建物は、今回の襲撃において目立った被害はなかった。
それは、被害者が逃げ込む孤児院や教会を守るために尽力した騎兵のおかげであり、その場に居合わせたオランローやサルヒのおかげでもあるということは、後から知ったことだ。
暖かい飲み物でも飲んで、体に熱を行き渡らせてから布団の中に戻ろう。ノエがそう思い、厨房に足を向けると、誰もいないと思ったそこに影が落ちていることに気がついた。
「
……
オランロー? こんな時間に何をしてるんだ」
厨房にいたのは、オランローだった。彼は暖炉の前に立ち、火加減の調整をしている。
そばにある調理台には、食材らしき野菜の残骸が置かれていた。微かに漂う香りは、この地で何度か嗅いだイシュガルドの伝統料理の匂いだ。
「ノエか。オレは見ての通り、料理をしている。明日もまた忙しくなるだろうからな。作り置きをしていたんだ」
オランローはノエへと振り返り、体をずらす。暖炉には、オランローが吊るしたと思しき鍋がかすかに泡を浮かべていた。
「この気候なら、一晩置いていおいても腐る心配がないからな。冷却用のクリスタルの中に漬けておく必要がないのは助かる」
「そういえば、昨日も、オランローが孤児院の人たちの面倒を見てくれていたんだっけ」
「ああ。あれだけ大きな被害が出た後だ。料理をしようなどという気分には、到底なれないだろうからな」
オランローは、この街で生まれ育ったわけではない。街そのものから心理的に程よい距離感を保っていたからこそ、彼は料理を筆頭とした、生きるために必要な雑事に集中できる。それは、この街に長く住んでいた者ほどできないことだ。
「そういうあんたは、どうなんだ。まさか、体の具合がまだ良くないのか」
「そういうわけじゃないんだ。体は父さんのおかげ
……
と言うのは、正直思うところはあるけれど。でも、彼のおかげで、僕は死なずに済んだ」
話をしながら、ノエは作業机のそばに置かれていた椅子に腰を下ろす。続けて、彼は手に持っていた『あるもの』を机の上に置いた。
オランローの視線が、素早くそちらへと動き、
「それは?」
「ああ
……
うん。実は、夕食の後に、孤児院の人から預かった手紙を渡してもらっていたんだ」
ノエが置いたもの。それは一つの質素な封筒だった。
「孤児院の人から? 一体、誰からの手紙なんだ」
「
……
グレンさんから、だよ」
言葉を交わしながらも、ノエはここに来るまでに何度も目を通した手紙を開く。
コーディの救出を依頼した瞬間こそ、、グレンは自ら口を開いて言葉を発してくれた。しかし、孤児院にも戻ってからは、グレンは今までのように何も喋らない状態に戻っていた。
言葉を発したことは、保護者であるプリシラには伝えておいたものの、実際にグレンが話したのを見聞きしたのはノエだけだ。口をきいた状況も踏まえて、グレンに無理に話すように促すような真似はしない、ということでプリシラとノエはひとまずの結論を迎えていた。
そんなグレンから届いた手紙は、やはりというべきか、あの瞬間にノエに訴え出たことについてだった。
「グレンさんに頼まれたんです。コーディを、助けに行ってくれって」
「あの子供があんたに口をきいたらしいとは聞いていたが
……
そういう経緯だったのか」
「うん。
……
でも、この手紙は『あの話はなかったことにしてくれ』って書いてあった」
ノエは、オランローにも見えるように手紙を広げる。そこには、何度も躊躇があったとわかる筆跡で、こう書かれていた。
『さっきは、話を聞いてくれてありがとう。でも、やっぱりあの頼みは、なかったことにしてください』
『竜はとても強くて、やっつけるのが大変な相手だって聞いてます。竜に出会ったら、ノエさんも死んでしまうかもしれません。そんな所に行ってほしいって頼むのは、間違ってました』
『僕は、ノエさんにも死んでほしくないんです。困らせてごめんなさい』
大人に言われて書いたのではないだろう。そこには、グレン自身の迷いが確かに残されていた。
コーディを助けに行ってほしいと願うグレンの気持ちは、きっと本物だ。
そして、コーディを助けに行くために死地に赴けと言いたくない、と願う気持ちもまた本物だ。
まして、グレンはアランの死を見たばかりである。自分のせいで身近な大人が死ぬことを、彼は恐れているのだろう。だから、自分の中にある願いーーコーディを助けてほしいという気持ちを彼は押し殺した。これ以上、誰かが死ぬような未来を迎えないためにも。
「それで、あんたはどうしたいんだ。コーディを助けに、どこにいるかも分からない飛竜のねぐらに向かうのか。それとも、グレンに言われた通り、大人しく諦めるのか」
「
…………
」
手紙に視線を落としたまま、ノエは黙りこくってしまった。
オデットに出会う前の、まだ純粋に己の中にあった正しさだけを追い求めていた自分なら、ノエは真っ先にコーディを助けるべきだと言っただろう。
たとえそれで命を落としたところで、自分には後悔もない。ノエの死を嘆く人も、ウヴィルトータがいなくなった頃は無きに等しかった。故に、ある意味、気楽に命を賭けることができたーー命を賭ける重みを、あの時は知らなかったから。
しかし、今のノエは違う。
ノエの手を繋ぐ者は、わざわざ考えるまでもなく沢山いる。目の前にいるアウラ族の青年だって、その一人だ。
そのうえ、ノエがいなくなった世界では、オデットはこの世界に生きることすら耐えられないと言ったのだ。
自分を取り巻く多くの人の感情を知っているのに、軽率に命を賭けるような真似をしていいのか。かつてのノエではあり得なかった縁が、今、ノエにとってはある種の枷となっていた。
「
……
分かっているつもりだ。僕は、竜を退治するためにこの街に来たわけじゃない」
ノエは薄く息を漏らし、目を伏せる。
「僕が父の手紙を受け取って、ここまでやってきたのは
……
父に会って、これまでのことに蹴りをつけるためだ。そして、できるならそれを踏み台にして、オデットの記憶について調査するためでもあった」
当初の目的に立ち返り、ノエはこれまでの足取りを遡る。
「イシュガルドという国は、流れの冒険者の入国を許していない。でも、父さんの申し出を受ければ、イシュガルドに縁のない僕らでも堂々と入国できる。そうすれば、オデットの記憶の手がかりにより近づくことができる」
グリダニアにて護衛の任を引き受けた際に出会った、イシュガルドからやってきたディアヌ母子。イシュガルドの貴族の使用人だった彼女は、オデットの母と面識があった。
幼いオデットと、彼女を連れた母親は、イシュガルド国内にある救貧院で暮らしていた。その後、母が病没したオデットは、霊災後の復興事業のために救貧院から姿を消した。
そこまで分かれば、オデットの失った記憶のありかがイシュガルドにあるのは明白だ。
だから、イシュガルドの貴族である父からの申し出は、ノエにとっては苦々しいものであっても、オデットの記憶を調べるという観点から見てみれば、願ってもない幸運ではあった。
「父は、放逐した僕に対する負い目があるみたいだった。それなら、イシュガルドの国内を自由に探索するためのすべを、父親から引き出せるんじゃないかって考えた」
「ああ。実際、あんたの目論見通りに事は進んだ。イシュガルドという国の中において、オレたちはただの冒険者ではなく、あんたの父親が身分を保証する人物になった」
「
……
父と話もできた。あいつが、何を考えていたかも分かった。それだけで、十分だと思ったんだ」
ノエの旅の目的は、そこでひとまずは完遂した。あとは、オデットの記憶を探すために国内を巡り、彼女の知人を見つければいいと思っていた。
しかし、ノエの予想に反して、事態は急転した。
ノエたちが滞在している間に、竜の接近に伴い、魔物が出没するという異常事態が発生した。そのうえ、今度は警備が手薄になった領主を狙ったと思しき襲撃が続いた。その結果、多くの犠牲者や怪我人が出てしまった。
飛竜が人々を攫った意図は不明だ。しかし、決して喜ばしい結果に繋がらないことだけは確かだ。
竜が人々にもたらす悲劇。物語ではなく、誰かの伝え聞く話ではなく、自分の目でその惨状を目の当たりにして、
「
……
見過ごせない、と思ってしまったんだ。街の人が、魔物に襲われているのを見て。竜に、人が傷つけられているのを見てしまって、それらに背を向けたくないと思ってしまった」
知らず知らずのうちに、膝の上に握りしめていたノエの拳に力が籠る。
「そのうえ、この街では
……
この領地では、父さんが今も竜によってもたらされた被害に向き合って、少しでも以前の生活を取り戻そうと頑張っている」
自分を捨てた男として、長年毛嫌いしていた父親だ。それでも、彼が奮闘している姿そのものを否定することは、今のノエにはできなかった。
その姿を正しいと認めている自分がいるからこそ、ベルナールという男の何もかもを拒絶するほどノエは狭量になれなかった。
「僕らは旅人だ。この街には、ただ僕の父がいたという縁があっただけだ。ここには、僕らが滞在する理由はもうない」
オランローは、無言のまま続きを促す。
「きっと、これまでだって、同じような襲撃は何度もあったはずだ。僕は、たまたま襲撃があった時にこの街にいて、たまたま竜が齎す被害を知ってしまったというだけだ。そんな僕が、今更我が事のように悩むなんて、虫のいい話だって思う部分もある」
今ここで頭を悩ませるぐらいなら、なぜもっと早くイシュガルドに戻らなかったのか。
イシュガルドが、竜と長く戦い続けている国だと知っていたのだから、これらの被害も予想はできていたはずだ。
だが、これまでは容易に知らないふりができた。なぜなら、現場に居合わせたことがなく、肌身で竜と戦うという現状を肌身で知らずに済んだからだ。
「今からでも遅くない。今までは、何も知らなかったから、気にせずにいられた
……
そんな時の僕に戻ればいいんだ。イシュガルドに来る前の僕に、戻ってしまえばいい」
竜に傷つけられている人々の顔を知らなかった頃の自分に。
ーー異端者を、殺す前の自分に。
けれども、それは自分がこの街で出会ってきた人々や、積み重ねてきた経験の全てから目を逸らすことだ。
良かったことも。悪かったことも。
「分かっていても、素直に『はいそうですね』と頷けない。あんたは、そういう奴だろ」
滔々と己の心情を吐露していたノエの言葉に、オランローの低い言葉がそっと被さる。
次いで、トン、と机に何かが置かれる音。顔を上げると、ノエの目の前にカップが一つ置かれていた。湯気がもうもうと湧き立つカップの中身は、見るからに熱そうだ。
「飲むといい。少しは体が温まる」
言われるがままにカップの中身を傾けーーしかし、ノエは思わず咽せそうになった。
「っ、何だこれ!? ものすごく甘い
……
っ」
「甘い飲み物がイシュガルド流だと、孤児院の世話役から教えてもらったからな。少しは気が紛れたか」
どこか揶揄うような物言いではあったが、オランローが用意してくれたお茶のおかげで、考えの坩堝から抜け出せたのも確かだ。
ノエはカップを机に置き、改めて自分の繰り返した言葉を頭の中で並べていく。答えが出なかったとしても、それはノエにとって必要な行為だった。
そんな彼の思索を知ってか知らずか、オランローもまたゆっくりと口を開く。
「知らなかったら無視できたのに、と思うことはオレもある」
「
……
オランロー?」
「この街のこともそうだ。それに、セルウィや、昔オレの身に起きたことも」
オランローは、ノエの向かい側に作業用の椅子を運び、腰を下ろす。彼の手の中にも、ノエと同じカップがあった。
「セルウィがオレのことをあんな形で恨んでいるなんて知らなければ、オレはあいつを今でも父親のように慕っていただろう。だが、オレはあいつの感情の一端を知った。何を考えていたかに触れてしまった」
「
……
オランローにとっては、知らなければよかったことなのか」
「いいや。何も知らずにあいつの何もかもを分かった気でいるよりは、良かったと思う。ちょうど、あんたが父親のことを知ったように」
黒衣森で邂逅することがなければ、オランローとセルウィは生涯交わることのない線でいられた。しかし、オランローは父親のように慕っていた恩師の中にあった、深い後悔と絶望を知った。
ノエもまた、生涯会うつもりもなかった父親と再会した。結果、長年父が積み重ねてきた苦悩を目にすることになった。
「知ってしまった以上、オレは昔のようにセルウィをただの恩師とは思えない。オレは、あいつと相容れないと結論を出した。だから、本気であいつを止めるつもりでーーあいつを許さないという気持ちと向き合った上で、あいつと相対した」
オランローもカップの中身を傾け、ぎゅっと眉を寄せる。どうやら、彼の口にもイシュガルド流の甘い茶は合わなかったようだ。
「今更あいつのことを知らないままでいた方がよかった、などと言うつもりはない。知らずに無邪気にあいつを慕っていた頃のオレと、あいつの現状を知ったオレは、どちらもオレだ」
過去のオランローも、未来のオランローも、積み重ねてきた根本的な部分に変わりはない。セルウィを慕う気持ちだって、過去と同じように今も残っている部分はある。
過去と未来のオランローで違いがあるとしたら、未来の彼の方が少しばかり多くの出会いを知り、かつての彼は持っていなかった絆を得ているということだけだ。
「その上で、今のオレは選んだんだ。ヤルマルと一緒にいる、という選択が、オレの出した答えだ」
結果、オランローは失意に沈むセルウィのそばにいる選択はしなかった。セルウィの気持ちに寄り添い、彼の八つ当たりじみた怒りを受け止めてやるという選択もしなかった。
ただ一心に、セルウィの行いを許さず、拒絶する。それが、オランローという男の選んだ結末だ。
「選ばなかった未来の可能性はいくつもある。セルウィを選んで、帝国軍の兵士としてあいつが目指す未来に寄り添う結末もあったかもしれない。だが、それはオレが一番やりたいことじゃなかった。ただ、それだけだ」
オランローは中身を飲み干すの諦め、机にカップを戻しーーノエを見据える。
「あんたは、どうなんだ」
今、こうして父親のことを知ってしまったというノエは。
何も知らない、というかつての自分に戻れなくなった青年は。
果たして、何を選ぶのか。
オランローの問いかけに、ノエはカップの表面をじっと見つめる。甘い茶の水面には、いまだ悩みが濃く残る自分の顔があった。
「僕も、今回の件がなかったら、この街の実情を
……
イシュガルドが置かれている現状を知らずに、日々を過ごしていたかもしれない」
オランローにつられるようにして、ノエは己自身の『あり得ない未来』に思いを馳せる。
「グリダニアに所属する冒険者として、オデットと、ヤルマルさんやオランロー、それにサルヒさんやルーシャンさんと一緒に依頼をこなして
……
何かの縁があって新たな出会いがあったり、別れがあったり、そんなことを繰り返す毎日が僕の人生の全てだったかもしれない」
それも、決して悪くない生活だっただろう。
少し危険なことはあるかもしれないけれど、その都度皆と知恵を出し合って、危難を乗り越えて、いつも通り「お疲れ様」という言葉を掛け合って別れる。それは、ノエにとっては十分予想可能な未来だった。
「だけど、僕はここに来てしまったんだ。父のことを知ってしまったし、竜に襲われて苦しむ人々を見てしまった」
「
……
そうだな。オレも、イシュガルドについてここまで深く知る機会が訪れるとは思わなかった」
そして、知ってしまった記憶を都合よく忘れられるほど、ノエは自分に対して甘くはなれなかった。
「知ったところで、僕は竜を殺せるほどの力もない。攫われた人を取り返せるほどの、圧倒的な兵力を持っているわけでもない」
それでも、考えなければならない。
知らないふりをしたくない、という自分の声がここにある以上、己に耳を傾けなければ、それは己自身に対してすら不誠実であるということだから。
「
……
街のことを知って、父さんのことを知って、オデットに無理をしないでって言われた。けれども、グレンさんに助けてほしいって頼まれて
……
その上で、僕はどうしたいんだろう」
かつて、オランローはヤルマルとの日々を選んだ。彼女が笑う未来を勝ち取るために、彼は過去の自分が慕っていた者と蹴りをつけた。
ならば、ノエは何を選ぶのか。
舌が溶けるのではないかと思うほどに甘かったお茶は、すっかり冷めてしまっていた。
***
オランローにお茶の礼を言い、そのまま部屋に戻ろうと最初は考えていた。しかし、会話をしたせいか、頭の思考は休まるどころか、今も全力で稼働しているような有様だ。
このまま布団の中にいても、眠くなるどころか、朝まで目が覚めてしまっているだろう。
(助けるか、助けないか。
……
それだけの、ことなんだよな)
そして、ノエの父親は助けないという選択肢を選んだ。その理由は、いまだ定かではない。
少数の領民を助けるために兵を動かし、また街そのものを襲われる可能性を危惧したのかもしれない。あるいは、そもそも動かせるほどの兵の余力がないのかもしれない。だが、ベルナールがただ臆病風に吹かれて「助けない」と言ったわけではないことは、ノエにも予想できていた。
答えが出ないまま、ノエは自室に一度戻り、上着を羽織って外へと出る。
夜になった頃に一度雪がちらついていたが、今はどんよりとした曇り空に覆われているものの、雪片がちらついているようなことはなかった。
びょうと吹く風の冷たさに身を縮ませ、玄関口から通りに出ようと一歩、歩み出したときだった。
「ーー兄さん」
ぎい、と扉の軋む音に、先ほど閉めたばかりに入り口が開く。
振り向いた先にいたのは、予想通り、見慣れた薄紅の髪の少女だった。
「オデットか」
「こんな時間に、どこに出かけるんですか」
「
……
ちょっと、歩こうかと思って」
すでに皆が部屋の中で休んでいる時間に、一人で外を彷徨く。どう考えても、奇妙な振る舞いに見えるだろうとはわかっていた。
けれども、ノエにとっては誰もいない夜の世界こそ、考えを整理するにはちょうどよかった。
ただ、それを上手く説明する言葉は見つからない。結局、ノエが何か言おうと躊躇しているうちに、オデットはするりとノエのそばに歩み寄ってきた。
「では、わたしも一緒に行きますね。いいでしょうか」
「構わないよ。でも、オデットも今日は一日中忙しくしていただろう。疲れているんじゃないか」
「それを言うなら、兄さんもですよね? でも、兄さんはこうして外に出ているじゃないですか」
「それは
……
そうだけれど」
オデットの反論に、返す言葉は出てこなかった。
ノエが言葉に迷っている間に、オデットは最初からそうするつもりだったと言わんばかりに、ノエの隣に並んで彼の様子を伺っている。
結局、玄関先にいつまで突っ立っているわけにもいかないと、ノエはオデットを伴って足を進めた。
「
……
兄さんが眠れないのは、昨日のことがあったからですか」
歩き始めて五分ほどして。
長すぎる沈黙に耐えかねたように、オデットが問いかける。
「そう
……
だね。それも、あるんだろうな」
オデットの質問は、ノエにとっては触れてほしくない傷の一つだった。
はっきりとした表現こそしていないが、オデットはノエが己が人を殺めたことについて、思い悩んでいるのではないかと憂えていたのだ。
竜に変じた異端者を殺し、こうして今自分が生き続けていること。忘れていたわけではないが、それもまたノエの中に積み重なった迷いの一つだ。
己が生きるために必要な殺人だった。そう言うこともできる。
だが、生き延びるために仕方ないという言葉だけで、ノエは己が選んだものを片付けたくなかった。
「考えなければならないことが沢山あって、どれから手をつけたらいいか分からなくて
……
そのうえ、どれを選んでも正解とは思えない。だから、ずっと答えが出なくて、胸の奥がもやもやし続けて
……
心を休めて眠るなんて、とてもできやしない。そう思ってしまうんだ」
誰かの命を奪った。
その矢先に、知り合いの命を助けてくれと願われた。
人を殺したという事実に打ちのめされかけた直後に、その手に命を託したいと願う者が現れる。
失われる命も、求められる命も、どれも同じ重さとしてノエの双肩にのしかかっていく。
「兄さんの考えなければならないことの内の一つは、グレンさんに頼まれたことの件ですか?」
オデットに問いかけられて、ノエは足を一度止める。
グレンにコーディの救出を依頼されたことは、プリシラと先ほど説明したオランロー以外には打ち明けていないことだ。
どうしてと言わんばかりの顔をしているノエに対して、オデットは目を伏せると、
「
……
夕飯の後に、グレンさんが宿に来ていたんです」
「えっ、そうだったのか」
「正確には、玄関先にいただけなんですけれど。グレンさんは、誰か来るのを待っているようでした」
おそらく、それは孤児院の人がノエに手紙を届けて戻ってくるのを待っていたのだろう。
グレンの手紙の内容を考えれば、直にノエに渡しに行くというのは何とも気まずい。付き添いとして近くに来たものの、渡す場面に立ち会うことはできずに右往左往しているグレンを、オデットがたまたま見かけたのだ。
「そのとき、グレンさんに教えてもらったんです。兄さんに、コーディさんを助けてほしいって頼んだこと。でも、やっぱり無かったことにしてほしいって手紙を送ったってこと」
「
……
そうだったのか」
「グレンさんは、わたしに言いました。『家族の人を危険な目に遭わせるようなお願いをして、ごめんなさい』って」
オデットとノエには、直接の血のつながりはない。ノエを信頼し、慕ううちに、オデットが自然と彼を『兄』と呼ぶようになっているだけだ。
だが、そんな事情を知らないグレンは、自分の願いがオデットの家族を傷つける結果になることを憂いたのだろう。母を失った彼にとって、身近な家族の存在の喪失が何をもたらすか、想像するのは難しくなかったはずだ。
「わたしは
……
正直、少しホッとしました。グレンさんが、そうやって依頼を取り下げてくれて」
オデットは目線を下へと向ける。
世界よりも大切だと思う人の隣にいながらも、その人からの視線を避けるように。
「だって、兄さんは、こういうお願いをされたら断れない人でしょうから。まして、グレンさんは兄さんとも仲良くしていた人です。でも、そのグレンさんから断りの手紙を出してくれた。これなら、兄さんが助けに行く理由なんて、もうどこにもないはずです」
「
…………
」
滔々と、淡々と。強張った声で、言葉が床に落ちる。
その声音に安堵はない。言葉通りの喜びもない。不自然なまでの緊張が、そこにはあった。
「でも、僕はーー」
「行かないでください」
ノエが何かを言う前に、全てを見透かしたかの如くオデットの声が重なる。
「兄さんは、何のためにイシュガルドに来たんですか。お父さんとお話をするために来たんじゃないんですか」
ノエが先ほど立ち返った事柄を、今度はオデットの口がたどっていく。
「わたしの記憶を探すためにお父さんの申し出を利用するって話は、あれは嘘なんですか。兄さんは、イシュガルドにいるかもしれないわたしの家族を、見つけてくれるんじゃなかったんですか」
勢いよく流れ落ちる滝の如く。微かに震えを残しながらも、引き攣れた違和感を消さずに、少女の声が、ノエへと流れ込む。
「兄さんは、お父さんに会いました。イシュガルドを巡るための許可ももらいました。だったら、もうそれでいいじゃないですか。竜に攫われた人なんて、別にどうでもいいじゃないですか
……
っ!」
震えは、微かな嗚咽をいつしか混ぜていた。だが、泣きじゃくって我儘を破裂させるような子供のような声を聞かずとも、ノエにもわかっていた。
「兄さんが行かなきゃいけない理由なんてない。あなたが助けなきゃいけない理由なんて、あなたばかり危ない目に遭う必要なんて、どこにもない
……
っ!」
彼女が怒りをぶつけている相手は、ノエであってノエではない。依頼をしてきたグレンでもない。
それが分かっていたから、ノエは驚かなかった。
オデットが何も感じずに、ただ微笑んでノエの選択を無条件で応援してくれるわけがないと、ノエもどこかで分かっていた。
(
……
ああ、僕は、なんて薄情なやつなんだろう)
分かっていたらこそ、彼女の慟哭を聞いて、決まってしまった。揺れていた指針が固まるのを感じながら、ノエは己のどうしようもない部分に『薄情』と名をつけた。
固く握られたオデットの拳は、手袋越しではわからない。だが、きっと血が出るのではないかと思うほど強く握りしめられているはずだ。
は、と吐息が漏れる。オデットの口から激しく行き来する吐息が、やがて落ち着きを取り戻し、
「
…………
ごめんなさい。わたし、すごく、嫌なことを言いました」
自分の胸のあたりを、上着越しにぎゅっと掴み、オデットは絞り出すように小さな声で言う。
「攫われた人も、傷つけられた人も
……
皆助けてあげたいって思います。この街で過ごしていて、わたし、ここに暮らす人のことを、少しだけですが知ることができました」
知ってしまった以上は赤の他人ではいられない。血の通った生きた人であると分かってしまったら、知らないふりをして別れるという選択肢を選べない。
「優しい人もいるし、ちょっと優しくない人もいるけれど
……
でも、死んでもいい、なんて人は、きっといないんだろうって
……
そう、思ってもいるんです」
「
……
そうだね。僕も、オデットと同じ意見だよ。知らなければ
……
ここに来なければ、たとえ街が襲われたと聞いても、『大変だな』と、『気の毒だな』と思っただけのはずだ」
それを殊更に薄情だ、などとは言えない。もし、それを薄情だと言うのなら、世界で起きるすべての悲劇に胸を痛めなければならなくなってしまう。
そして、ノエの手は世界中を救えるほど大きくはない。
広い世界にいる傷つけられた者全てを救うべきだと言えるほど、傲慢にもなれない。
「でも、僕は知ってしまったんだ。
……
だから、僕は」
オデットの身を裂くような制止の声を、思う。
オランローの落ち着いた低い声で投げかけられた問いを、思う。
十五年ぶりに再会した妹が向けた礼の意味を、思う。
火傷を負いながらも、己の責務を全うするために平静を装っていた父を、思う。
ーーそして、彼は言う。
「だから、僕は助けに行くよ」
先ほど固まった決意を、言葉にする。
「
……
その結果、また人を殺すことになったとしても?」
オデットの質問には、先ほどまでの不自然な緊張はなかった。
あったのは、切なる願いと、その末に出される答えを予見した上での薄い諦念。そして、その予見を肯定する形になると思いながらも、ノエは言う。
「
……
それでも、行くよ」
誰かを殺すことへの覚悟は、決意は、まだ決まっていない。
けれども、確かなことは一つだけある。
「失いたくない者のためなら、僕は剣をとれる」
自分はどうしたいのか。オランローから投げかけられた問いに対する答えは、今ようやく出せた。
近い未来に後悔することになったとしても、今はこれでいい。後悔したときは、その時はその時にまた考えればいいだけのことだ。
ノエが守りたいのは、さらわれた人の命だけではない。
自分の中の、己そのものを作り上げてる『矜持』。
そうでなければもはや自分とは言えないというほどの、己そのものを確立させている『根幹』。
それもまた、ノエにとっては守りたいモノの一つだ。
そのためならば、剣をとれる。もちろん、率先して人を傷つけたいと思っているわけではないけれど。そのためならば、足を止めずに歩き続けられると思えた。
「
……
本当に、ひどい人」
オデットの声は、言葉とは裏腹にひどく優しかった。
それでも、ノエは「ごめん」と今度は言わなかった。
自分の選択がオデットにとって望ましくないものだと、とうの昔にノエも理解している。
その上で、選んだのだ。ならば、謝罪はオデットに対しても、選んだ自分に対しても、不誠実だ。
「さっき、言った言葉
……
皆のことなんて、放っておけばいいって言っていたアレは、嘘じゃないです。本当に、わたしは心のどこかでそんな酷く残酷なことを、当たり前のこととして抱いている」
「
……
オデット」
「ノエが生き残ってくれるなら、わたしは街の人がどうなったって構わない」
前にも似たようなことを言ったかも、とオデットはやや気まずそうに目線を逸らし、付け足す。
照れ隠しというには、あまりに重く。
かといって、誤魔化すというにはあまりに純粋な言葉だった。
「わたし、ノエに言いました。あなたのいない世界なんて、耐えられないって。ノエも、同じくらいわたしを大事に思ってくれるって言ってくれました。でも、やっぱりわたしとノエの『大事』は違うんです。
……
違っていて、当たり前なんです」
オデットは足を止め、小走りでノエの前へと立つ。はあ、と漏れた白い息が、寒さで赤くなった彼女の頬を浮き上がらせる。
「わたしの世界には何もなかった。記憶がなくて、どうしてここにいるのかもわからなくて、名前もなくて。寒くて怖くて痛くて、不安で仕方がなかった。そんな世界に、あなたが彩りをくれたんです」
そして、それはノエでは決して得られない経験だ。
ノエは、オデットのように記憶を失った経験はない。自分が何者かわからない恐怖を、彼は知らない。
「あなたはわたしの手を引いて、世界には温かい所があると教えてくれました。誰かのために頑張る姿は、美しくて誇らしいものだって示してくれました」
ノエにとっては、エゴの混じった正義だったかもしれない。それでも、オデットにとっては、やはり、その出会いは何にも代え難い『特別』だった。
「あなたのおかげで、わたしはこの世界が好きになれました。誰かを大事に思う気持ちを持ててよかったって思いました。そうやってわたしに優しいものを沢山教えてくれたノエがーーとても、好きだって思いました」
はにかむような笑顔で、少女は青年へと向ける。
「だから、ノエが『助けに行かない』なんて言ったら、きっとわたしはノエを大嫌いになっちゃってました」
どこか泣きそうに、顔をくしゃりと歪めながら。
「
……
わたし、ずるいんです。ノエには無事でいてほしいって思っているのに、あなたが危険を承知で誰かを助ける選択をしてくれないと、きっとわたしはあなたが嫌いになってしまう」
だから、オデットはあの時、怒っていたのだ。
街の人を見捨てろとノエに言いながらも、自分自身は逆の返事を望んでいる。そんな矛盾した行動をしてしまっている己に対して、彼女は怒っていた。
「
……
困らせて、ごめんなさい」
感情を出し切った反動からか、俯いて動かない少女にノエは小さく頷き返す。
「行かないでって気持ちと、行ってくれなきゃあなたを軽蔑してしまうって気持ち。どっちも汲んでほしいなんて、虫が良すぎますよね」
「
……
でも、そんなに沢山の気持ちを抱えているのは、それだけオデットが僕のことを本気で考えてくれている証拠だ。僕は、そう思っている」
一歩、ノエはオデットに近づく。今にも散り散りに裂けそうなほど、沢山の感情を抱えている少女の前に立ち、彼女を見つめる。
「僕がどうしたいのかって、僕の気持ちを考えてくれた。僕が危険な目に遭って苦しまないでほしいって、僕の体を気遣ってくれた。それだけじゃなくて、ちゃんと自分の考えを僕に伝えてくれた」
「
…………
はい」
「その上で、僕は言うよ。
……
僕は助けに行きたい、と」
今度の返事は、首肯だけだった。
自分から望みながらも、どこかで否定してほしかった選択を選ばれたからか。
それとも、溢れ出る感情の奔流に、自分自身が押し流されてしまったからか。
あるいは、その両方からか。
俯いて黙りこくっているオデットの頭に、ノエはそっと手を置く。
「でも、約束する。この前みたいに、命を投げ捨てるような選択はしないって」
「
……
ノエ?」
おそるおそる頭を上に向けるオデットに、ノエは深く頷き返す。
彼は膝を折り、まるで騎士が姫君に傅くように、オデットに目線を合わせた。
「必ず、生きて君の元に帰る。何があっても」
噛み締めるように、そう告げる。
「
……
本当ですか?」
「本当だよ
……
って言うには、信じてもらえそうな実績が少ないかもしれないけれど」
困ったような笑顔を浮かべるノエ。それに釣られるようにして、オデットの口元にも、笑みがふっとのぼる。
「わかりました。
……
約束、ですからね」
「うん。
……
約束だ」
単なる口約束でも、今は構わない。
積み重ねた誓いが、深くなるほど危地に赴く人の心を繋ぎ止めてくれる。苦難に際して、最後の一押しとなる力を発揮してくれる。
その奇跡を願って、オデットは身を乗り出す。
まるでそうするのが当たり前であるかというように、オデットの唇がノエの額に触れた。
さながら、騎士の武運を祈る姫君がするかの如く。
驚いたように顔を上げるノエ。しかし、彼が何か言う前に、オデットは数歩前へと行き、ノエに背を向けたまま、
「えっと、そろそろ
……
本格的に冷えてきましたし、帰りましょうか」
どこかとってつけた風であると、聞いただけで分かる物言いではあった。
だが、ノエはその振る舞いに指摘の言葉は投げずに、
「そうだね。体調を崩す前に、部屋に戻って休もうか」
オデットが開いた距離を詰め、彼女の手をとる。
首が下に固定されたかの如く、足元を熱心に見つめているオデットは、こくこくと無言で首を縦に振っていた。
少女の手をとりながら、ノエは宿から続いていた足跡を逆に辿っていく。
心はもう、一つの形に固まっていた。
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