夜之 夢
2023-05-07 20:42:09
13233文字
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おかえり私の金星

いただいていたお題「『光もたらす者、きみの傍にありて』の数年後で、当時を回顧しているみたいな、更に大人になった2人の話」で書かせていただきました。

※全体的に話の雰囲気がじめっとしている。すみません。





 落ちかけた食器類を咄嗟に受け止めようとしたんです。というのが、ジェイドの言い分だった。
 そう言って苦笑するジェイドの腕には、包帯がぐるりと巻かれている。包帯の下には湿布でも巻かれているのだろう、少し薬品の匂いがした。
「食器は無事に済んだのですが、この通り、僕の方が勢い余って腕をぶつけてしまって。お恥ずかしい話ですが僕も相当慌てていたので、打ち付け方も派手になってしまいました。それを見ていた他のスタッフが、一度医者に診てもらった方がいい、というものですから……
 それで、業務が落ち着いてから、近くの病院へ行きました。生憎と近くのクリニックがもう閉まっていたものですから、夜間診療をしている病院へ。時間外診療のお金がかかってしまったわりに、診察結果はただの打撲で。骨にヒビも入っていないそうです。この通り、見た目が派手なだけですよ。大した怪我でもありません。良かったのか悪かったのか、何とも言えませんね。
 ――ジェイドがそう言い終わるまでの間、アズールは何も言えなかった。
 チラと横目で見やった壁掛け時計は、25時になろうかというところだ。
 普段に比べて随分と帰りが遅い同居人を待って、結局こんな時間になってしまった。
 挙句その同居人――ジェイド・リーチは、やっと帰ってきたと出迎えてみれば、その腕にぐるぐると包帯を巻きつけており、おまけにそれさえもシャツの袖の下に隠していた。薬品の匂いに気づいたアズールが問わねば、その怪我の存在すら明かさなかったのだろう。
 怒りたい気持ちを溜息で抑え込み、アズールは眉を下げて口を開いた。
「それは……仕方がなかったとして。……僕から何度か連絡しましたよね? どうしてその時にその事を言わなかったんです」
「すみません、メッセージや着信にも気付けなかったんです」
 今言ったように、バタバタしていたものですから。
 ジェイドはそう言ってまた苦笑した。そうして廊下で立ち止まったままだった事を思い出したように、キッチンへと入っていく。
 その背中へと、アズールは呼びかけた。
「ジェイド。その怪我……
「はい?」
「どこへ、どんなふうに打ちつけたんです」
「どこへって……
 戸惑ったように言って振り向いたジェイドは、アズールの問いに対して心底不思議そうだった。やや眉をあげて、ぱち、と瞬きをして、ほんの少し首を傾げる――その一連の仕草は完璧だった。完璧に、『なぜそんな事を聞かれるのかわからない』と表現していた。
 うまいものだな、とアズールは思う。
 思って、それを言わず、態度にも出さなかった。
 二度ほど瞬きをしたジェイドが、やはり『不思議そう』なまま、けれどアズールの問いへと答えた。
「2号店の食器棚の……あの一番大きく重い棚ですよ」
 わかりますか、と聞かれて、アズールは頷く。
 NRC卒業後、アズールは学園外にリストランテを2店舗とカフェを1店舗開いた。リストランテ1号店ではアズールが総支配人、フロイドがシェフとして経営し、2号店はジェイドを支店長として運営を任せている。だが2号店開店時に什器や内装について考え直接指示を出したのはアズールであり、「2号店の一番大きな食器棚」と言われれば、それがどれを指すのか、アズールはすぐに理解できた。
 頷いたアズールを見て、ジェイドは眉を下げて口を開いた。
「あれに、腕から突っ込むような形で、思いきり」
……そうですか」
「ちょうど角の部分に打ちつけたので、さすがの僕も思わず呻いてしまいました」
 馬鹿だと思われるでしょう? とジェイドが言ったので、アズールは首を横に振った。「いいえ」馬鹿にするのではなく、呆れた風を装って答えてやれば、ジェイドはおそらくそれで騙された。ふ、と曖昧に笑って、そうしてアズールに背を向ける。
 キッチンの中へと入っていくその後ろ姿を見送って、アズールは小さく溜息を吐いた。

   ◇

 翌日の朝、アズールが営業準備中の2号店を訪れると、当然ながらスタッフ達は騒然とした。
 アポイントメント無しの突然の来店だ。抜き打ちの視察か何かと思われたのか、皆一様にビクついている。アズールからの言葉を待たねばとでも思ったのだろう。声をかけずともスタッフ達はアズールの前に集まろうとし、アズールはそれを片手を振って追い払った。
「確かめたい事があって来ただけです。それぞれ自分の仕事を続けるように。ランチの時間に間に合わなくなりますよ」
 でも、と言いにくそうに声を発したスタッフを見やれば、彼は途端に体を強張らせた。
「何です」
「あ、あの、支店長は……まだ、いらしてなくて。……か、確認されたいこと、となると、その、支店長とお話されますよね?」
「あぁ……
 そんな事、とアズールは思ったが、そこまでは口にしなかった。
 この2号店の支店長はジェイドだ。パートナーとして一緒に暮らしているジェイドがまだ家にいることを、当然ながらアズールは知っている。むしろ、だからこそ今こうして2号店を訪れたのだ。ジェイドがここにいない、今の内に。
 少し考えて、アズールはスタッフへと言葉を返した。
「ジェイドに関する事なので、ジェイドがいない間に済ませたいんです」
 えっ、と怯えるように声をあげたスタッフへと、すかさず視線を向ける。「それで、あなた……」視線は睨むようにして、それでいながら笑顔を作って呼び掛ければ、スタッフは喉のあたりをひくつかせて背筋を伸ばした。
「聞きたいことがあります。別室でお話しできますか」
 総支配人であるアズールに言われて、断れるはずがない。
 声をかけられたスタッフは顔色を悪くさせながらも、震えるようにして頷いた。アズールはそれにニッコリとした笑顔を返してやる。
 では控室で、と歩きだし、背中に突き刺さるいくつかの視線を無視する。否、無視しようとして、アズールはそれを止めた。
 足を止めて、視線を流すようにして自らの背後を振り向き、そこに固まって立っているスタッフ達を見やって、アズールはまた、にこりと笑った。
「おそらく他にもお話をうかがう事はあると思います。必要がある者から、一人一人呼びますので」
 それぞれが呟くようにしてあげた動揺の声は、うっすらとしたざわめきのようになった。

 スタッフ達から聞き取った話をまとめれば、昨夜に起きたという事件はこうだった。
 ――その日最後の客が店を後にし、さあ閉店の作業をしようか、という時だったという。店の正面出入り口を施錠するよりも前に、1人の男が突然店の中に押し入ってきた。
「今でこそ思いますが、タイミングをうかがわれていたんでしょう」とはスタッフの一人の言葉だ。
 そうしてその男は、呆気に取られたスタッフ達の間を駆け抜け、あっという間に店内の奥にまで入り込み――テーブルの上を片付けようとしていたジェイドへと、背後からナイフで襲い掛かったらしい。
「ナ、ナイフっていうか……キッチンナイフ、です……。あの刃の太い……魚や肉を切るタイプの」というのが、また別のスタッフの証言である。
「ただ、リーチ支店長はそれに気付いて……。幸い、最悪の事態にはなりませんでした。……ものすごく素早い反応でしたよ。男が襲い掛かろうとした直前に振り返って、ナイフをかわして……状況がむちゃくちゃだったので、後はちょっと、よくわかんなかったんですけど」
「私達、そこまで何が起きたのか本当にわかっていませんでした。本当にあっという間だったんです。3秒もあったかどうか……
「俺等がハッとした時にはもう、ジェイドさんがそいつを、こう……床に伸した後で」
「支店長は無傷でした。ただまあ、ナイフを叩き落とされた男が、拳で支店長に殴りかかったらしくて、腕をちょっと傷めてたはずです。それはさすがに病院に行くように言いました」
「びっくりしましたよぉ。支店長ってそんなにアクティブなイメージなかったから。襲い掛かってきた男をあっという間にぶちのめして……もう本当にあっという間でしたから俺も全部見てたわけではないですけど、殴る蹴るはしてたから、結構容赦無かったなぁ…………あ、もしかして結局通報したんですか? それで過剰防衛とかの話が出たとか?」
 アズールが一人一人呼び出し聞き取った話は、スタッフ達の間でおおむね同じ内容だった。事件のあらましを一通り聞いて、そして最後にこう来る。
「もちろん通報レベルの事件なんでしょうけど……通報しなきゃ、って電話の方に走ろうとしたら、支店長がそれを止めて……
「ジェイドさんが、通報しなくていいって言ったんです」
「その襲い掛かってきた男のことを、昔の知り合いだって……あれ、本当なんですか?」
「みんなびっくりしてました。だって普通、知り合いだろうが何だろうが通報するでしょ?」
 それで? その後は? とアズールが問えば、スタッフ達は皆こう答えた。
「わかりません。その後ジェイドさんがその男を引きずって店の外に出て行って……数分したら、ジェイドさんだけが戻ってきました」
 それから、と皆が言う。
「この事は絶対に誰にも言うなって、言われました。……特に、その、……総支配人には」
 総支配人とは、すなわちアズールのことを指す。
 一人一人呼び出したスタッフが皆同じように、最後には決まってアズールの様子を窺うようにして肩を狭めるものだから、アズールは両腕を組んで溜息を吐くしかなかった。
 二号店支店長は、存外に店のスタッフ達から好かれているらしい。アズールやフロイドから見れば、ひじょうに嫌な性格をしているのだが。

  ◇

 話を聞くだけ聞いて、アズールは2号店を後にした。
 自分がここに来たことはジェイドには言わなくていい、と言いつければ、スタッフ達はおおいに戸惑ったようだ。当然とも言えるが。
「あの……何か、まずいことが、起こってるん、です、か……?」
 呼び出されたスタッフの内の一人、パスティッチェーレのスタッフが不安げに問うてくる。
 起こっているのではない、とアズールはもうわかっていた。少し考えて、その問いに答えてやる。
……いえ。終わっていることです。心配いりません」
 嘘にはならないだろう。それはアズールが今言ってやれる、唯一の事実に違いなかった。

 スマートフォンから呼びつけたタクシーに乗り込み、自分の本拠地である1号店を行き先として告げる。
 了承の返事と共に車が走り出し、外の景色が流れていくのを眺めながら、アズールは陰鬱な気持ちでいた。
『終わっていること』
 先ほど自分で言った言葉だが、それについて考える程に頭痛がしてきそうだった。
 そうだ、終わっていることに違いない――昨夜に2号店に押し入ったという男、そしてその男が真っ先にジェイドを狙ったという証言、ジェイドがその男を逃がし、そして極めつけに、その一連のことをアズールに報告せず、店のスタッフたちに箝口令を出した。それが何よりおかしい点だ。
 アズールには言うな、と指示を出したなら、ジェイドは今回の事をアズールに知られたくなかったのだろう。
 普通ならばまず報告してくるだろう。事件であるし、あのジェイドの事だ。「アズールの指示で働いている最中に襲われたのですよ」だとか何とか、泣き真似をして嫌味くらい言ってくるだろう。
 それにまず大前提として、ジェイドが、自分が襲われる事について本当に身に覚えが無ければ、通報したはずなのだ。
 それは「事件に見舞われた際の対処法」としてそうするであろうし、今後他店舗やアズール、フロイドにまで危害が及ぶ可能性があるからだ。
 ではジェイドが通報しなかったというならば?
 イコール、ジェイドは「その必要が無い」と踏んだ。そう推測できるということは、つまりジェイドは、自分を襲った男が何者であるかを知っていて、自分が襲われた理由もわかっていたのだろう。
『何者かに襲われることがあってもおかしくない事』を、したのだ。ジェイドは。それも、アズールが知らない間にそれを終えている。通報の必要が無い、と判断したということは、相手がもうこれ以上何もできない事を指している。
…………
 考えれば考える程にアズールの胸の内は重苦しくなる。それを吐きだすつもりで、そぅっと息を吐いた。
 ジェイドが、何かを、アズールの知らないうちに対処したというなら、そしてそれをアズールに隠そうとしたのなら、それはアズールに関係することなのだろう。
 昔からそうだった――何故かジェイドという男は、アズールの知らないところで、アズールを害そうとする何かを捌いている。
 どうでもいいようなこと――たとえば「この計算が間違っていましたので、直しておきました」だとか、「大変なクレーマーがいらっしゃって、本当に大変だったんです。それを僕が精一杯対応して円満にお帰りいただいたんですよ」だとか――はこれ見よがしに主張してくるくせに、事が深刻になればなるほどそれをひっそりと自分1人で処理している。そしてそれを、絶対にアズールには言わない。
 昔。数年前にあった、NRCに在学していた時のことを思い出す。
 あの頃から何も変わっていないのだ。ジェイドは。
 ――泣くくらいならそんな事をしなくていい。
 あの時にも、そしてその後にも。アズールは何度かジェイドにそう言ったはずだが、ジェイドは多分、いまだにその言葉の意味を理解していない。
 お前が泣くくらいならそんな事しなくていいよ、とアズールは言っているのに。

  ◇

 1号店での一日の業務を終え、フロイドと少し話し、それから帰宅すれば、ジェイドは既に帰っていた。
 おかえりなさい、と穏やかに迎えられ、そのいつも通りの対応をアズールは受け取る。
 2号店のスタッフ達が、ジェイド相手にどれだけ口を堅くしていられるか――。アズールはそれについてあまり期待していなかったのだが、ジェイドは、アズールが昼に2号店に現れていた事を本当に知らない様子だった。
 アズールの姿を見て「今日は早かったんですね」と微笑んだかと思えば、「一号店は落ち着いているのでしょうか」と嫌味とも感想とも判断つかない事を言ってくる。
 ちらとジェイドの姿を見て確認すれば、シャツに隠されている腕にはまだ包帯が巻かれているらしかった。けれど薬品の匂いはしない。
「ジェイド」
 名を呼べば、ジェイドは「はい」と返事をした。いつも通りの反応。何一つ狂いの無い、完璧な『普段』。
 それが、ジェイドが細心の注意を払って築いているものであると理解しているからこそ、それを崩してやりたくない、とアズールも思う。思ったが、話はしなければならなかった。
「話があります」
「おや、何でしょう」
「お前が何をしたのかわかりました」
 沈黙。
 ジェイドの、オリーブとゴールドの瞳がわずかに揺れて、そして視線がそらされる。
 まるで稚魚だ、とアズールは思った。隠していた事が大人にばれて、言い訳もせず、きまり悪そうに黙るさま。
……怒っていません」
 前置きのようにそう言ったが、そのせいでますます稚魚を叱るような気分だった。
 一拍を置いて、目の前の、立派な大人が笑う。
「叱られることだとも思っていません」
 返ってきた言葉は、アズールを憂鬱にさせる。
 気分に比例して重くなってくる口を動かして、アズールは声を発した。
「その腕の怪我の理由は調べました。2号店に男が押し入ったそうですね」
「おやおや。……さては今日、僕の店に行きましたね?」
「ジェイドが指揮をとっている店ではありますが、ジェイドの店ではありません」
「アズールが昼に出ていった時でしょうか。『やる事があって早めに出勤する』と言われていましたから、すっかり騙されました」
「そうですね。お互い、いちいち行き先を細かく確かめないところがありますから楽でした」
 手の込んだ嘘をつく必要も無かった。アズールがそう付け足したところで、ジェイドが自らの腕を組む。
……それで? 店のスタッフ達から話でも聞きましたか。店に総支配人が突然現れたとなれば、スタッフ達も動揺していたでしょう。可哀想に」
「そうですね。……大体の話は聞きました」
「通報しなかった理由については、アズールになら話を理解してもらえるかと。押し入った男については、もちろん無条件に野放しになんてしていませんよ。それこそ通報や逮捕よりももっと嫌な条件を、彼に――
「店に男が押し入ったことを、僕には言うな、とスタッフに言いつけたらしいですね」
 ジェイドからの返事は無かったが、アズールはそのまま言葉を続けた。
「それで……妙だ、と思いました」
 瞬間、ジェイドが表情を固まらせる。
 アズールとて良い気分ではない。
「店に押し入った男が強盗などではなく、ジェイドを狙った、という点。それから、ジェイドが通報しなかった点。それだけで充分不自然ですが、それだけならば僕もまだわからない事が多かったでしょう。ただ、そこに『ジェイドはこの事を僕に知られたくなかった』ということを追加すれば、見えてくるものはあります。先にも述べましたが、普通、襲われたとなれば通報しますし、通報しようがしまいが、ジェイドであれば僕に言ってくるはずです。他にも被害が出る可能性がありますし、店で働いている最中に起きた事件ということで、僕のせいで怪我をした、くらいは言うでしょう」
「おや、わかりませんよ? あなたを心配させまいと、黙っているかもしれない」
「それですよ、それ」
 食いつくように言って、アズールは言葉を続けた。
「ジェイドが僕に対して黙っている事といえば、それは僕が関わっていることだ」
 再びの沈黙が発生した。
 しん、とした空気の中で、ジェイドが中途半端に開いていた口を閉じる。じっとりと黙り、視線だけをそろりと落としたさまは、やはり稚魚に似たものがあった。
 アズールだって、こんな、ジェイドを嬲るような真似をしたくない。けれどきっと、今話しておかなければ、ジェイドのこの悪癖はきっと治らない。そう考えたからこそ、アズールは話を続けるしかなかった。
……半年前、1人、疎遠になりましたね」
 返事は無い。ジェイドは微動だにしない。ただ黙っている。
「有名な企業の……取締役の、あの人。不祥事が発覚して消えた人ですよ。もうすっかり忘れていましたが……今思えば、色々と不思議なタイミングでした」
 そう、本当に『今思えば』だ。確かスキャンダルになる直前、アズールはその人物から契約の話を持ち掛けられていた。悪い条件ではなかったのでアズールも乗り気で、その企業とは打ち合わせの予定と、その後に会食の予定まで立っていた。先方が会食後に泊まるホテルまで用意してくれていて――けれどその打ち合わせの前日になって、突然そのホテルは変更になった。そして、その連絡を持ってきたのがジェイドだ。
『先方が予約してくださっていたホテルの部屋で、なにか設備の不備が見つかったそうで。急遽宿泊先が変更になったと』
 そう伝えてきたジェイドにも、伝えられた内容にも何の違和感も抱かなかった。ジェイドはアズールの補佐としてクライアントとのやり取りを担っていたし、話の内容も有り得そうなものだったからだ。
 わかりましたと返事をして、ジェイドから変更後のホテルを教えてもらって、アズールは翌日、予定通りに打ち合わせをして、会食を終え、その変更後のホテルに泊まった。
 その企業の不祥事が公になったのは、その翌日のことだ。名の知れた企業だったので、ニュースは一気にその話題一色になった。その企業が使っていたという、ひどく低俗な手段――ホテル全体とグルになって、宿泊客の部屋に勝手に女性を入れ、そしてその女性が「暴行を受けた」と主張するという、最低な手段――は世間を唖然とさせて、それから、過去に同じ手段で嵌められた者達が無罪を主張し直すきっかけになり、騒ぎはさらに広がった。
 当然ながら、アズールとその企業の契約の話はそれをきっかけに消えている。
 翌日に帰ってきてニュースを見て、アズールも唖然としたものだ。ジェイドがその時、にやにやと笑いながら「危なかったですねぇ、アズール」などと言ってきたので、何も言い返せなかった。
 ――多分、あれだ。
 胸中で断定し、アズールは真正面からジェイドを見つめる。
「ジェイド。お前、何をした?」
「何も」
「いえ、何となくもう読めています。――あの企業が用意してくれていたというホテル……おそらく、僕の予約はそのままだったんでしょう。いつどこで知ったのかわかりませんが、あの人が僕を嵌めようとしていると知ったお前は、急ぎ、近くの別ホテルに予約をとって、それらしい口実で僕をその別のホテルに泊まらせ、同時に……多分、問題となったホテルには誰かを身代わりに泊まらせたんでしょう。でなければ向こうも、僕が泊まっていないホテルにわざわざ仕掛けようとは思わない。……なるほど、フロイドを行かせましたね? ホテル側もグルの中でどうやって対処したのかはわかりませんが……来るとわかっているなら対処法はいくらでも用意できる。録画、録音、事前のタレコミ……もしかしたら全部したかもしれませんね」
 アズールが言葉を並べる内にも、ジェイドの眉間が寄っていく。悔しげな――あるいは苦しげなその表情を見て、アズールまた、一つの事を理解した。
……あぁ、今わかりました」
 意識せず言葉は口から滑り落ち、アズールのその言葉に、ジェイドがその綺麗な顔をますます顰める。ジェイドのその反応こそが、答えに違いなかった。
……最初から僕が狙われていたわけではなく、お前が狙われたから、僕にその影響が及んだんですね」
 返事は無く、ただ、その瞬間にアズールの体は引き寄せられ、抱きしめられた。
 ぎゅうとアズールの背を掴んだ手は、かすかに震えている。逃げてしまわないようにとアズールを捕まえるようであり、同時に、アズールに縋るようでもあった。
 子が、稚魚が、何かをおそれて親に縋るさま。
 アズールの肩のあたりにジェイドの頭部がうずめられ、アズールの耳元に、涙を耐えるような震えた息がかかった。
 アズールはそれを受け止め、目を閉じる。
……ジェイド。お前、馬鹿ですねぇ」
 だらりと下げたままだった自らの手を持ち上げ、その両腕でジェイドの背をしっかりと抱きしめ直す。同時に、アズールの耳元ではヒュッと息を吸い込む音が聞こえて、それが何だかおかしかった。
 ふ、とこぼれた笑みをそのままに、アズールは言葉を繋いだ。
……確か……あぁ、そうでした。あの人と初めて会ったのは招待されたパーティーでの事でしたね。僕とジェイドが出席して……。そういえば確かに、あの時からジェイドは気に入られていた様子だったな……
 男はジェイドの有能さを何度か褒めたが、それは不自然な頻度ではなかったので、アズールもそれほど気にしなかった。それがいけなかったのだろう、とアズールは反省する。
 多分その時にジェイドはもう、アズールが見ていない間に男に声をかけられていたに違いない。おそらくはアズールよりも好条件な雇用契約をちらつかせて――引き抜きで自分の所に来ないか、とでも言われたのだろう。もしかしたら『うちに来やすいように、今の雇用主を失墜させてやる』とでも囁かれたかもしれない。きっとそれに近いことを言われたのだろう。そうでもなければ、ジェイドがいきなり牙を剥くことはない。少なくともアズールはそれを知っている。
 馬鹿だな、とアズールは思う。
「そのままを僕に報告すればいいだろうに……
 呆れまじりの笑いをのせて呟けば、肩のあたりにある頭部が左右に振られたのが伝わった。
 できませんよ、と小さな声が落ちる。したくない、とも。
 アズールがそれに苦笑していると、耳元でぼそぼそとした声が発せられた。
……『今の雇用主が僕のことを手放してくれそうにないので』と冗談で言ったのがよくありませんでした。そうしたら、アズールを、きみを、失墜させてやると。……乗り気なフリを装えば、使い古しているという『方法』を呆気なく聞かせてくださって。……それで、早々に手を打とう、と思ったんです」
……昨日、2号店でお前を襲おうとした男は、依頼された人間?」
「ええ。騒ぎが起こって……結局、僕が望んだほどの罪状はあの人に言い渡されなかったようですが、それでももう、あの人は再起は出来ないでしょう。少なくともこの国ではまともに動けない。だから、いつかは腹いせに何者かが来るだろうとは思っていたんです」
 通報すれば、ジェイドがやっていた全てのことがアズールにバレる。だからジェイドは通報しなかった、という事だ。
 やっぱり、とアズールが溜息を吐けば、くぐもった声が補足のように言った。
「襲ってきた男は返り討ちにしていますし、それに何より、クライアントに罪状がありすぎます。僕を襲わせようとした、ということがバレればいよいよ首が絞まりますから、二度は起こらないはずです。僕の身にも、アズールの身にも」
 そういう心配はしていない、と言うのも億劫で、アズールは無言でジェイドの背を柔く叩き、それを返事とした。
「どうしていつも僕に何も言わない」
……その時々によって理由は違いますが……、ただ、」
 ただ、とジェイドは言う。
……ただ、相手を潰そうと思った、それは僕の感情でしかなく、僕の勝手でしかありません。アズールが関与することではありませんから……
 言葉は曖昧に止まって消え、それで終わりらしかった。かと思えば「知られたくなかった」と小さく小さく呟きがあり、アズールは何とも言えない気持ちになる。
……お前、変わりませんねぇ……
 あの時もそうだったのかもしれない――数年前の、ナイトレイブンカレッジ在学中にあった出来事がふっと思い出され、アズールはそう返した。
 本当に、あの時から変わらない。変わっていない。いじらしいといえば聞こえはいいが、ジェイドのそれは時として痛ましい。
 まるで子どもか稚魚だ。誰も知らぬところで何かをなしとげて、必死で涙をこらえながら帰路を辿る、こども。
『僕は、それが必要なことであれば、きっと何だってしてみせます』
 あの時。ジェイドが泣きながら、それでも熱っぽく言った事は本当なのだろう。
 きっとジェイドは、それが本当に必要なことなら、死体一つ完璧に隠蔽してみせる。そうしてアズールの前で、完璧に、いつも通りに微笑んでみせる。そして――アズールが知りえない場所で、ひっそりと絶望するに違いない。ジェイド・リーチという男は悪辣な性格をしているが、自分がした事に責任を持てるし、自分がした事に対して罪悪感を抱くこともできる。そのくらいのこころはある。そしてその事を、アズールは知っている。
……ジェイド」
 そぅっとした手つきでジェイドの背中を撫でながら、アズールは呼びかける。
「ジェイド」
 返事が無かったのでもう一度、今度は甘い声を意識して呼びかければ、そこでジェイドはやっと反応した。ぴくりと肩が震えて、アズールに縋るようにして抱きついていたその体が、のろのろとした動きで離れる。
 見つめ合うのに適切な距離になって、そこでやっとジェイドの顔を確認すれば、やはりジェイドの目は少し赤かった。その目尻に残った水滴を指の背でそっと拭ってやりながら、アズールは口を開く。
……昔。学生だった頃……ナイトレイブンカレッジにいた時も、ありましたね」
 返事は無く、ただ、ジェイドの視線だけが下に向いた。「ジェイド」もう一度呼びかけて、その視線を自らへと向け直させる。
 アズールの言外の指示に従って、ジェイドの瞳がそろりとアズールを見つめ返したので、アズールはそれをそのまま引き止めるために微笑んだ。出来る限りやわらかく、ジェイドへの愛しさを率直に表すつもりで、笑いかける。
……あの時にも、あの後にも何度か言いましたが……そんな事、しなくていいんですよ。ジェイドが泣くくらいなら、そんな事、しなくていい」
 アズールの言葉を受けたジェイドが、首を横に振った。まるでわからずやの稚魚だ。
 それを宥めるようにジェイドの頬へと手を伸ばし直し、アズールはもう一度口を開いた。
「ジェイド。聞いてください。……僕の言い方も悪かった。言い直しますから、よく聞いて」
 呼びかける内にもジェイドの頬にはまた新しい涙が伝い始めたので、アズールはそれを自らの指先で撫で拭う。「ジェイド」子どもか稚魚に呼びかけるみたいに声は甘くなって、それが何だか自分でもおかしい。
 本当に、数年前のあの時の再現のようだった。
 それをおかしく思う気持ちもあれば、変わらなかったこの数年、ジェイドが負ってきたものを思って痛ましい気持ちにもなる。
 きっと、アズールが知らないままジェイドが捌いたことは、他にも多くあるのだろう。
「ジェイド。……僕にとっては、多少の被害やそれに対処する煩わしさより、お前が泣くことの方が深刻です。だから、『泣くくらいならするな』というのは、ジェイドが泣く事になるようなことはしなくていい、という意味で言っていました。何か面倒事だとか、周囲からの悪意だとか。そんな事より、僕にとっては、ジェイドが泣くことの方が深刻です。だから……
 ジェイドが泣くようなことは、しなくていい。
 諭すように話せば、目の前でほたほたと涙を流していたジェイドは、次第にその両目をまあるくさせていった。ぱち、と瞬きをした拍子に最後の涙が落ち、それで涙は完全に止まる。
 おそらく、やっとアズールの真意が伝わった――と察せられたと同時に、アズールは気まずさに包まれた。
 それは「数年をかけて今になってやっと!」という嘆きと驚きのせいであり、そしてこの数年間、ジェイドに誤解させ挙句苦しませてしまったであろう、その罪悪感によるものだ。
……最初から、ちゃんと、こう言うべきでした」
 ジェイドは何も言わない。ただぱちぱちと瞬きを繰り返して、その綺麗なオリーブとゴールドの瞳でアズールを見つめている。
 その視線を受け止めてもいられなくなり、アズールが視線を彷徨わせ始めたところで、唐突に再び体が引き寄せられ、抱きしめられる。うわ、と思わずあげた驚きの声はジェイドの鎖骨のあたりに吸い込まれ、ぎゅうと抱きしめられながら、アズールは抵抗をしないようにした。
 自分の足らない言葉でジェイドを数年間誤解させ苦しませていたのだとしたら、文句のいくつかは言われても仕方がないだろう。このままぎりぎりと絞められても、まぁ……本当に気が遠くなるまでは、我慢するしかあるまい。
 アズールはそんな事を考えたが、ジェイドからは文句も無く、抱きしめられている力は不必要に強くもならなかった。
 ただ、あたたかい体温を分け合うみたいにして、大切なものをしっかりと守るみたいにして、抱きしめられている。
 そのまま5秒、6秒、7秒……と時間が経過して、アズールが自らの手の存在を思い出し、それをそろりと動かしたときだった。
 ぼく、ずっとあいされていたんですね。
 掠れて震えた小さな小さな声が、確かにそんな事を言ったものだから、アズールは瞬きをして、それから、痛いような気持ちを飲み込んで笑った。
 中途半端な位置にあった自らの手を動かして、しっかりとジェイドの体を抱きしめ返し、ずっと前からそうだよ、と返事をする。
「もうこんな事をしなくていいから。……ジェイド、ありがとう。今まで、ご苦労様でした」
 あの時をなぞるように万感をこめて告げれば、腕の中の大きな稚魚が、やっと家に辿り着いたみたいに嗚咽をあげた。
 






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(お題ありがとうございました!!!大変遅くなってしまい申し訳ないのですが、「この話の数年後」というご希望をいただけたのが何だか大変嬉しかったです。ご希望のものと違った感じになってしまった気がするので、そこが申し訳ないのですがお題本当にありがとうございました!)