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夜之 夢
2023-01-04 17:52:43
27700文字
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お題「ハッピーサマーウェディング」
いただいていたお題「ハッピーサマーウェディング」で。
アズールに対して恋愛感情は無いけどわりとクソデカ感情を抱いていたジェイドと、ジェイドに対して恋愛感情を抱いていたけど諦めていたアズールが、泥酔して結婚する話。
※注意:嘔吐表現有
※卒業後設定。アズールが起業して、ジェイドとフロイドがそれについていっている
※※※【注意】ジェイドの嘔吐の描写があります※※※
------------------------------
ひどい目覚めだった。
意識が覚醒した時点で、もう部屋の中は真っ昼間の陽光に照らされきっていた。
今何時だ、と上半身を起こせば、頭がひどく重い。頭痛こそ無かったものの、顔をあげるだけでぐわんと視界が揺れた。何だか胃も少し痛む気がする。
ふわふわする視界で何とか時計を探し、確認する。11時28分。
何てことだ、とジェイドは愕然とした。それから、そこでやっと自分の服装に気が付く。服を着たまま
――
着たままなのは良いのだが、シャツも、スーツのスラックスもそのままだった。ベルトまで通したままだ。よく寝苦しくなかったものだと思う。当然ながら、スーツにはあちこちにくっきりとした皺がついていた。もうこれはクリーニングに出すしかあるまい。
一体、自分は昨日どうやって寝落ちたのか。
そう考えながら部屋をぐるりと見回せば、その答えはすぐに見つかった。
サイドテーブルに4本のビール瓶。その近くの床にはワインボトルが2本置かれている。もちろん栓はあいていた。
どうやら随分と飲んだらしい。
だというのに、それについてまったく記憶が無い。
「
……
はぁ
……
」
溜息を吐き、自らの髪を掻き混ぜる。
えぇと、と脳内で唱えながら、ジェイドは自らの記憶をさらった。
たしか、昨日は
――
そうだ、ここはホテルだ。アズールと共に商談のためにこの土地へやって来て
――
ちょっとした観光もかねて、3日はここで宿泊することになっていたはず。商談自体は昨日の内に完了しているので、寝坊については気にする必要が無いだろうが、それにしてもまあ随分と羽目をはずしたものだ。どうしてこんな事に
――
ああ、えぇと、そうだ、昨日の商談が上手くいって、アズールがとても喜んでいたのは覚えている
――
。
考えながらも、ジェイドはのろのろとベッドから下りた。
下りて
――
自分達はこんなにグレードの高そうな部屋に泊まっていただろうか、と不思議に思う。
足に触れた絨毯は質の良いもので、寝室は必要以上に広かった。広すぎるほどだ。
泊まれないほどのグレード、というわけではないが、商談のために訪れた土地でわざわざとるようなグレードの部屋でもない。ましてやあの守銭奴のアズールが、不必要に浪費するとも考えにくい。
どうして、と首を傾げながら、ジェイドはもう少し自分の記憶を辿ろうとした。
――
商談は上手くいったはずだ。覚えている。それで
――
あぁそうだ、この土地には珍しくカジノがあるということで、これは純粋な観光目的として、カジノのホテルをとっていた
――
ただそれでも、こんなグレードの高い部屋ではなかったはずで
――
。
「
……
あ
……
」
途端、辿っていた記憶が一層きらびやかになった。
――
そうだった。カジノで飲みながら、少し遊ぶくらいの気持ちで回していたスロットが
――
大当たりしたんだった。
それこそ夢かと疑うような記憶だったが、現実としてジェイドは今、見るからにグレードの高い部屋にいる。
「
……
大金が当たったから、珍しくアズールがはしゃいで
……
泊まる予定だった部屋のグレードを上げてもらったんでしたっけ」
逆に言えば、そんなことでもない限り、アズールはこんなグレードの高い部屋に泊まったりしない。だから今のこの状況こそが、それが現実だったと裏付けている。
「
……
それにしても
……
」
立ち上がり、今一度ベッドの周りをぐるりと見回せば、溜息しか出てこなかった。
あちこちに酒瓶が転がっている。明らかに自分達のアルコール許容量を超えているだろう。
「なるほど
……
二日酔い、というものでしょうかね
……
」
それでもまだ症状としては軽いのだろう。頭が重く、胃が少し痛むだけで、他には何ともない。
ただ、とジェイドは考え、ふぅと息を吐いた。
「比較的アルコールに強い僕でこれです。
……
アズールはどんなにひどい状態になっていることやら
……
」
寝室であるこの部屋にアズールの姿が無いことも、ジェイドの不安を増幅させた。
もちろんアズールは別室で寝ている可能性もあるのだが、それよりも彼が、床かトイレで倒れている可能性の方が高かった。
「
……
アズール? アズール、起きていますか」
どこへともなく呼びかけ、ジェイドは寝室を出る。
――
と同時に視界には、広いリビングのような空間が飛び込んできた。
大理石でできているであろう床と、テーブルセット。簡易的ではあるがキッチンもあり、大きな窓からは、高層階の外の風景が見えている。
そしてその空間の中。窓の近くに置かれているリクライニング式のソファーに、一人の男がぐったりと伸びていた。その姿を見つけ、ジェイドは苦笑する。
おそらくアズールはジェイドより先に目が覚めて、起きて普段通りに活動しようとして、何とかあそこまで移動したのだろう。しかしそこで力尽きて、動けずにいるに違いない。ソファーに伸びきったまま、ぴくりとも動かなかった。
「アズール? 起きていますか?」
ジェイドが近付きながら声をかければ、青白い顔がわずかに顰められ、ゆるゆるとその瞼が開けられた。
「
……
起きています」
答えた声だけは、存外にしっかりしている。
「症状は?」
「ひどい頭痛と、吐き気が。
……
ジェイド、お前
……
平気なんですか」
「アルコールの消化は早いほうだったようです。少し胃が痛む程度で、アズールよりずっとしっかりしていますよ」
「
……
そうですか
……
」
ほぅ、と息を吐くようにしたアズールは、そこでのろのろと、ゆっくりとジェイドへと顔を向けた。
「それなら
……
」
それなら、とその口が声を発する。
「はい?」
これは何かおつかいでも頼まれるだろうか、とジェイドは考えたが、アズールが口にした言葉はまったく違った。
「そこの
……
それについて
……
覚えていますか
……
?」
「
……
え?」
それ、とアズールは言うが、彼は手を動かす元気すらないらしく、じっとしたままだ。
「それ、とは?」
「
……
テーブルの
……
うえ
……
」
う、と苦しげな声まじりにヒントを与えられ、ジェイドはそこにあるテーブルを振り返る。
よくよく見れば、テーブルの上には何かの紙が置いてあった。
「何でしょう。まさか泥酔して変な契約をしたとかじゃないでしょうね」
言いながらもジェイドはそれへと近付き
――
そしてその紙面の字を読み、たっぷりと十秒ほど黙り込んだ。
「
……
は
……
?」
黙り込んだ間、ジェイドは3回、3回はその紙面の字を読み直した。けれどやはりそれはジェイドの読み間違いなどではなく、こう書いてあった。
『結婚証明書
――
アズール・アーシェングロット
ジェイド・リーチ』
「
……
どういう事ですか⁉」
叫びながら、勢いよく振り返る。
けれどジェイドが振り向いた先、ソファーで死んだようになっているアズールは、ゆらりと右手をあげて自らの目元を覆っただけだった。
「うるさ
……
頭に響くので、叫ばないでくださいよ
……
」
「そ、そんなこと言っている場合ですか! これ
…
!」
「ですから
……
さっき聞いたじゃないですか
……
それについて覚えていますか、と
……
」
「
……
あ
……
」
なるほどそういう意味だったんですね、と理解すると同時に、もう一つのことを察する。
「
……
そう聞いた、ということは、アズールもこれについて覚えが無いんですね?」
ジェイドの問いかけに、アズールはわずかに頷いて返事をした。
「
……
――
……
」
しん、とした沈黙が生まれ、ジェイドは何とか落ち着こうと息を吸った。深く吸い、吐き出して、自らの眉間を揉む。
どうにか、どうにか昨日の記憶を
――
と念じてみたが、わかるのは先ほど回想した記憶までだ。
――
この土地には、商談のために来た。フロイドは留守番で、僕はアズールと共に来て
――
最初から3日ほど滞在するつもりだったから、ついでにカジノを嗜んでみようとここのホテルを取っていて
――
商談が上手くまとまって、アズールが喜んで。僕も気分が良かったから、商談の後に帰ってきたここのカジノで、アルコールを少し飲みながら
――
そう、その時の記憶はまだある
――
スロットを回したのは僕だったけれど、手持ちがなくて、あの時マシンに入れたお金はアズールのものだったはずだ
――
適当にやったそれが大当たりをして
――
二人で大喜びをして
――
しまった、その時に勢いでアルコールを何杯か入れた気がする。アズールがはしゃいで、部屋のグレードを上げて
――
食事のためにカフェに入ったような、入っていないような。そのあたりからもう記憶が怪しい。ただ、確かに
――
その後もめちゃくちゃに飲んだ、気がする。
「
……
、
……
」
その後のことをいくら思い出そうとしても全く思い出せないというのに、自分達がいかにめちゃくちゃに飲んだか、そのことだけは薄っすらと実感できるものがあって、後悔と焦燥ばかりが湧いてくる。
泥酔したのは確かだろう。ああだから自分は、あんな
――
ろくに着替えもせず、着ていたままの服でベッドに倒れていたのだ。ただ、そこまではまだ理解できても、泥酔の果てに何故自分達が結婚をしてしまったのか、まったくわからない。
もしかしてこの結婚証明書、オモチャでは? と一縷の望みをかけて確認してみたが、それはどうやら本物らしかった。上質な紙に、特殊な加工で施された、この市の市役所のロゴ。正式な宣誓文。しっかりとしたアズールの自筆サイン。やや乱れているものの、確かに自分のものだ、と判別できるジェイドの自筆サイン。
「
……
本物ですね
……
」
「
……
本物ですよ」
絶望のような呆れのような感情で呟けば、アズールからの力無い同意があった。きっとアズールも、起きてこれを目にしたとき同じように確認したのだろう。
昨夜のいつにこんなものを作ったのだ、とも思ったが、それについてはジェイドの頭がすぐに答えを出した。確かこの市の役所は、夜の12時まであいている。おまけにこの市での結婚の手続きは、他の市より格段に簡単なものだったはずだ。結婚を望むカップル達が、この市に来て結婚をあげるほどに。
「
……
はぁ
……
」
端の方をつまんで持ち上げていた紙を元通りに置き、ジェイドは深く溜息を吐いた。
とにかく
――
本物だとすれば、もう今騒いでも仕方がない。
言ってしまえば、ジェイドとアズールは今『結婚している』のだ。いくら記憶が無いと喚いたところで、結婚証明書という証拠が在る以上、そういうことに違いなかった。
「
……
結婚
……
」
一度驚愕したものの、それが落ち着くと今度はただ不思議なばかりだった。
アズールと結婚。
当然今までまったく考えもしなかったことなので、まず何の実感も湧かなければ、一切想像がつかない。
ただ、とびのいて喚くような嫌悪感は無かった。
良くも悪くも、ジェイドとアズールの付き合いは長すぎたのだ。ジェイドは友人としてアズールを好いているし、いや、もっと深く
――
友情ではなくて恋愛でもなくて、でもそういったものを超えた度合いで、『アズール』という存在そのものを大切に思っている。それはおそらく重みの代わりに清廉な感情で、フロイドを愛しく思う気持ちとほとんど一緒だった。アズールはジェイドの家族ではないけれど、同じような、でも家族愛とは違う、もう少し『濃い』度合で、ジェイドはアズールを大切に思っている。だからジェイドは今までアズールについてきたのだ。この人になら、自分の人生を半分くらい使ってあげてもいいかなと思っていた。それをして構わない、と思えるほどにはアズールは鮮烈で、美しく、ジェイドを楽しませてくれたし、満足させてくれたから。
……
ちなみに、残り半分の人生はフロイド用である。
そんな風にジェイドは思っていたから、アズールと結婚したと知っても、まず嫌悪感は無かった。もちろんまったく嬉しくも面白くもなかったけれど。
案外アズールとなら上手くやっていけるのかもしれない。
そんな可能性すら思いついた。
ただとにかく、この結婚は事故で、もう起こってしまった事である。それならば今は次のことについて考えなければならない。
「
……
取り消し、というんでしょうか
……
何と言うのかわかりませんが
……
なにかそういう、キャンセルのような手続きをした方がいいでしょう。すぐにでも」
言いながら、ジェイドも自分で何を言っているのかよくわからなかった。キャンセルって何だ、そんものあるのだろうかと、もう一人の自分が頭の中で「?」を羅列している。
結婚のキャンセルなんて
――
それはつまり離婚なのでは。
そう思ったところで、ますますわけがわからなくなった。
記憶に無いところで結婚をして、それで離婚だなんて。あまりにも馬鹿馬鹿しい。
「アズール
……
」
返事が無いのでソファーへと呼びかければ、そこにぐったりとしている人は、のろのろと片手を上げて見せた。
「
……
すみません、ちょっと今、それどころではなくて
……
」
聞こえてきたのは、先程より一気に弱々しくなった声だ。
ソファー全体を使って仰向けに寝ころがり、右腕を自らの目元にのせた状態のアズールは、確かに随分とつらそうだった。吐き気が増してきたのかもしれない。
ジェイドに上げて見せていた左手も、すぐにだらりと垂れ下がる。着ているシャツはボタンが2つはずされた状態で、裾も出たままだ。言葉の通り、それどころではなさそうだった。
「
……
そのようですね」
静かに同意をしながらも、ジェイドは何とも言い表し難い違和感を抱いた。
アズールのことだ、泥酔の果てにジェイドと結婚しただなんて、その事実を知った瞬間に大騒ぎしそうなものである。無効だ離婚だと怒り喚いて、必要なら裁判だって起こしそうなものなのに。
それなのに、アズールは現時点で落ち着いている。
いや、体調が悪すぎて本当にそれどころではないのか。だとしても、もう少し焦るべきでは? などと思いながらも、ジェイドもまた、自分が今こうして落ち着いていることが不思議だった。
自分こそ何故騒いでいないのだろう。
おそらく世間一般で言うには『大変な状態』のはずだ。だというのに、ジェイドは確かに落ち着いている。それどころか、つい先程には「アズールとやっていけるかどうか」を考えてしまった
……
そう気付くと、ジェイドは自分で自分のことがよくわからなかった。
アズールとやっていけるかどうかを考えるなんて、それはおそらく
――
ひじょうに認めたくないが
――
乗り気、ということになるのでは。だとすれば、どうして自分が乗り気でいるのかわからない。
いやだって、あのアズールだ。一緒に暮らしてみれば毎日見ていて飽きないに違いない。面白いはずだ。
――
結婚してみてもいいのかもしれない。
実に軽い気持ちで、不誠実なほどの軽さで、ふっとそんな事を思った。
それと同時に、ジェイドは「まあでも、万が一にもそんな事にならないでしょう」とも思う。
ソファーの方をちらりと見やれば、相変わらずアズールは死んだようになっている。
アズールのことだ。体調が落ち着けば、すぐに離婚届けを出すと言いだすに違いなかった。
「とりあえず、僕はシャワーを浴びます。身支度を整えたら、水と
……
薬を買ってきますね」
今は話せることは無い、と結論を出し、ジェイドはアズールにそう声をかけた。
ああ、とも、うう、とも言い表せないような呻き声があり、それがアズールの返事となった。
アズールがようやくソファーから起き上がり、何とか『座った状態』を保てるようになったのは、午後3時を過ぎた頃だった。
ジェイドが買ってきた水を一気飲みしアズールは、心底落ち着いた、というような息を吐き出して、ソファに座り直した。
「ジェイド」
普段のものに近い、しっかりとした声で名を呼ばれたので、ジェイドはそちらへと近寄ってやる。
「落ち着かれたようですね。他に何か?」
「
……
考えたのですが、」
「はい」
「妙手なのかもしれません」
「何がです」
「結婚」
「
……
はあ、」
はあ、としか言えなかった。
ジェイドがその二文字を発したきり黙ったのを見てか、アズールが念を押すように言った。
「
……
僕と、お前が、という話ですよ」
「
……
えぇと、つまり
……
?」
「ですから。僕と、お前が結婚する。
……
良いんじゃないでしょうか。僕にとってはちょうどいい話です」
「
……
ちょうどいい?」
「そろそろパートナーを考えてもいいかなと思い始めていましたし
……
ジェイドとなら付き合いも長いですから。上手くやっていけそうな気がします。
……
ジェイドさえ嫌でなければ、ですが
……
」
少なくとも僕は、それが良い手であるような気がします。
アズールがあっさりとそんな事を言うものだから、ジェイドは唖然として何も言えなかった。
「
…………
は
……
」
何とか喋ろうと思ったが、口から出たのはその一音だけだ。間抜けな声。
「なんです、その反応は」
アズールが眉を寄せてジェイドを見上げたが、ジェイドとしてはアズールの言動のほうが理解できない。
唖然とするあまり何も言い返せず、ただじっと
――
唖然としたまま
――
アズールを見つめてみたが、アズールはアズールでジェイドを見つめ返すだけで、自分の言動の異常さに気付いた様子は無かった。
「
……
失礼ですが、アズールはまだ二日酔いが残っているようです。今日はあまり出歩かれないほうが良いかと。どこかで不本意に変なことを喋ってしまってもいけませんから」
結局、数秒の沈黙の後にジェイドはそう言った。
ジェイドとしてはかなり柔らかな表現での提案だというのに、そう言われたアズールはぱちりと瞬きをして、それからわかりやすく不機嫌な表情になった。
「
……
お前
……
いや、いい」
アズールは何かを言いかけて、結局それを止めた。
ジェイドもそれを聞き直す気にならなかった。ジェイドとなら結婚しても良いと言いだすなんて、アズールは酔いが残っているに決まっている。おそらくアズールは今ジェイドの言葉に反論しようとしたのだろうが、酔っ払いほど「自分は酔っていない」と言うものだ。そう考え、ジェイドはアズールの言葉を受け取らなかった。
アズールが正気なわけがないのだ。ジェイドと結婚してもいい、だなんて。
アズールの発言を振り返るごとに、ジェイドはわけがわからなくなってくる。混乱している。そう自覚できた。あまりにも突飛な言葉であったから。
「
……
少し出かけてきます」
どこへ何をしに行けばいいのかもわからなかったが、とにかくこの場から
――
アズールと二人きりの空間から
――
離れたくてそう言った。
だというのに、アズールはちらとジェイドを見やって「どこへ?」などと訊いてくる。
そんなのわかりませんよ、とにかく一人になりたいんです。アズールのせいで混乱しているので
――
とは言わなかった。言えなかった。
何と答えればいい、と返事に迷って「とにかく何か答えなければ」と焦ったのが良くなかった。
「
……
下の、カジノにでも」
パッと思いついた場所を告げれば、アズールは片眉をはね上げるようにした。
「遊び足りなかったんですか?」
「、
……
恥ずかしながら、昨夜の記憶がほとんど無いんです。カジノがどんな感じだったとか
……
内装のコンセプトだとか、そういった点を改めて見てきます」
有無を言わせないよう、ジェイドはそう言いきった。
適当に手櫛で髪をとき、シャツの襟元を整え、ジャケットを羽織る。一瞬だけ「ドレスコードは」とハッとしたが、この国のカジノではドレスコードの定めが無いはずだった。
「先程も言いましたが、アズールは今日一日休まれていてください。あまり出歩かないように。まだ酔いが残っていますよ」
「ジェイド」
「薬だとか、追加で必要なものがあれば連絡してください」
「ジェイド、」
引き止めようとしてか、アズールがジェイドの名前を呼んだが、ジェイドはそれを無視した。
「それでは」
そう言い残して、急ぎ足で部屋の出入口へと向かう。アズールがもう一度呼びかけてくる前に、急いで部屋を出た。
自分の意思で部屋を飛び出したくせに、部屋から出ればいよいよどうすればいいのかわからなかった。ただ、呆然としたような気持ちのままで、アズールに言った通りにカジノへと向かう。
ホテルフロアからエレベーターで一直線に下の階に降り、煌びやかなそこに降り立つ。
ぐるりと内観を見回したが、カジノ、という情報以外何も頭に入ってこなかった。
ただ、脳内では先程アズールが言った言葉だけが残っている。
ですから、と言ったアズールの声。言葉。
――
僕と、お前が結婚する。
――
良いんじゃないでしょうか。
――
僕にとってはちょうどいい話です。
アズールは簡単にそう言ったが、ジェイドからすればさっぱりわからなかった。
アズールの言った事がわからないのではなくて、アズールがなぜそう思うのか、さっぱりわからない。
だって、とジェイドは思う。目についたルーレットに参加しながら。
だって、結婚だ。結婚。その重みは個人によって違うだろうが、それでも一応、結婚というものは一般的に重大な事のはずだ。自分の人生の中で間違いなく一つの節目となり、自分の人生さえ左右するもの。そんな重大な事を、アズールはいとも簡単に「良いんじゃないですか」と言う。それも、どこかの財界人やその関係者でもなく、ジェイドとの結婚で良いだなんて。
ジェイドにはそれがさっぱりわからない。
いくらアズールがまだ正気じゃなかったとしても、それでもあまりに馬鹿になりすぎだ。
あの人、あんなに隙があって大丈夫なんでしょうか。飲まされて泥酔させられたら一発で不利な契約にサインしてしまいそうだ
――
そんなことを考えている内に、ジェイドがいいかげんに出したチップは全て巻き上げられていた。
ディーラーに続けるか否かを聞かれ、仕方なく席を立つ。
考えれば考える程にわけがわからなかった。スロットを回すだけの手順も踏めず
――
席に座ったきり、画面前でぼうっとしてしまった
――
結局ジェイドは、これも目についただけのレストランへと入った。
何かを食べる気にもならず、バーエリアの席に座り、適当な酒を注文する。
一杯飲み切ってから「昨夜泥酔したばかりだ」と気付いたが、どうでもよくなってしまった。
少なくとも、アズールよりはアルコールが抜けている
――
自分の方が正気で、おかしくなっているのはアズールの方だ、と誰にともなく言い訳を唱えて、ジェイドは二杯目を注文した。
――
だっておかしいではないか。アズールの方が絶対におかしい。今の彼は正気ではない。このまま、ジェイドと結婚していいだなんて。そんなこと絶対におかしい。
念じながら二杯目をそのまま飲み干して、三杯目を注文し、ジェイドは自らの片手で頭を抱えた。
大体にして、最初からおかしいはずだ。いくら泥酔したからといって、どうしてジェイドとアズールが結婚したのか、もうその経緯がまったくわからない。一体どんな話をして、どんな話の流れでそんな事になってしまったのか。
何もかも正しくないはずなのだ。なのに、アズールはそれで構わないと言う。
良いんじゃないですか、ちょうどいい、なんて言葉で、自分の人生とジェイドの人生を混ぜてしまおうとする。
溜息しか出てこなかった。
バーカウンターで頭を抱え項垂れ、深く溜息を吐いたジェイドの様子を、バーテンダーは勘違いしたらしかった。「大負けでも?」と聞かれたので、ジェイドは力無く頭を横に振り、かわりに次のグラスを注文する。バーテンダーは何か物言いたげだったが、チップさえ出せば手を動かし始めた。その音を聞きながら、ジェイドは項垂れたまま目を閉じた。
あなた、まだ酔いが抜けきっていないんですよ
――
頭の中で、今部屋で横になっているであろう人へとそう呼びかけた。
混乱とアルコールで、思考がぐにゃりと溶け始めてくる。
頭の中、部屋を出てくる直前に見たアズールへと、ジェイドは胸中でつらつらと文句を唱えた。
おかしいじゃないですか。おかしいでしょう。どうしてそうなるんですか。今、僕とアズールは結婚してしまったことになっているんですよ。アズールはそれを本当にわかっているんですか。普通、そこは、急ぎ取り消しに走るべきです。だって僕たちはそういう仲ではないでしょう。そういう仲ではなかったでしょう。確かに僕は今までアズールについてきましたけれど、この先もアズールが面白くある限りはついていっていいと、自分の人生の半分くらいはアズールに使ってあげていいと思っていましたけれど。それはそういうことではないんですよ。第一、アズールのほうがずっと、僕のそんな思いだとか、覚悟のようなものを、まったくわかっていなかったじゃないですか。ええ、ええ、確かに僕は、アズールとなら結婚してそれなりに上手くやっていける自信があります。それは、今までにもう、アズールについていく覚悟をしていたからそんな事を思えるんです。自分の人生を使ってあげていいと思っていたから、そんなふうに思えるんです。なのに、アズール、あなたは僕のそんな覚悟だとかを一切わかっていなかったのに、いないのに、そのくせ「ちょうどいい」なんて理由で僕と結婚するだなんて! ああ、まったくわかっていません! わかっていない! 僕は、この先あなたが誰かに恋して、それを思う存分揶揄って、その先あなたがその恋をなんとか成就させて、パートナーを作って
――
その時に、それを心からお祝いするつもりだったし、その気でいたんです。アズールのパートナーに、昔のアズールの恥ずかしい話を教えて、それをアズールに怒られたりして
――
アズールとパートナーの間に子供が出来たら、一番にお祝いに行ったりして。きっとアズールは親馬鹿になるでしょうから、僕はそれを、フロイドと大笑いして
――
アズールの子どもには、事あるごとにプレゼントを贈ってあげるんです。アズールと、アズールのパートナーと、その子供の、幸せそうな写真を何枚も撮るつもりだった。きっと美しくて愛しい光景だ。それを見たかったし、自分がその美しい記録を残す役目でありたかった。なのに
――
。
現実のバーの光景と音と、頭の中のイメージが混ざり合ってぐちゃぐちゃになり始めていた。
もうやめておかれたほうが、と声をかけられたのが、何杯目のことだったのかわからない。
ただ、目の前に水が入ったグラスを置かれたので、ジェイドはそれを断って席をたった。
ふらつく体で店を出て、カジノを通り抜ける間に、通りがかった給仕のスタッフから1杯、アルコールのグラスを奪う。チップを置きながらそれをその場で飲み干して、空になったグラスを返した。何の酒を飲んだかも知れない。
つい30分程前まで意識は明瞭であったはずなのに、今はもう歩くごとに吐き気が増すようだった。思い出したように頭がじくじくと痛み始める。最悪な気分だった。
溶けかけの飴細工みたいにぐにゃぐにゃする思考で、アズールのせいだ、と思う。
アズールが変なことを言うから。アズールが、僕と結婚していいだなんていうから、僕はこんなに動揺するはめになってしまった。動揺して、混乱して、お酒を飲むしかなくなってしまった。アズールのせいだ。ちょうどいいからなんて、そんな理由で、アズールが僕と結婚するなんていうから。僕がどんなふうに、友情とか恋愛とかを越えた、純粋な好意を、愛情を、アズールに抱いていたか、アズールはちっともわかっていない。わかっていないから、ちょうどいいなんて言葉で、自分の人生をいいかげんにできるんです。僕が、僕がどれほど真剣に、きみの幸福を願っていたかもしらないで。僕のその思いすら、その一言で台無しにしようとする。全部、何もかもアズールのせいです。僕が今こんなにも混乱していて、つらいのも、気持ち悪くて、吐きそうなのも、頭が痛いのも、アズールのせいで。元はと言えば、ここに来たのもアズールの商談に、アズールについてきたからで、ああもう本当に全部、何もかも、アズールのせいじゃないですか。
吐きそうになりながらでも、エレベーターまでは辿り着くことができた。一目見て具合が悪そうだとわかるせいだろう、他の客達がジェイドを避けてくれたので、それを良いことにエレベーターに乗り込み、自分達の部屋があるフロアのボタンを押す。
エレベーターの上昇による浮遊感で、ますます吐き気がひどくなった。気を抜けばせり上がってきそうな何かを耐えて、もう部屋についたらトイレに駆け込むことになりそうだ、とぼんやり思う。
幸いなことにエレベーターは一気に目的階まで上がり到着したので、ジェイドはそこから崩れるようにして出る。
壁を支えにして何とか部屋の中へ入り
――
「ジェイド?」確認のようなアズールの声にすら返事をせず、まずトイレに入った。施錠もできないまま、扉が数センチ開いたままであるのを横目に、けれどそれを閉じる余裕もなく、床に膝をつく。ひじょうにみっともなく、トイレットシートに突っ伏すようになった。
ぐ、と一気に胃のあたりから熱がこみあげる。
「っ
……
、
……
」
けれどそれは大人しく出てはくれず、ただひどい息苦しさだけがジェイドの胸のあたりにつっかえた。痛いのか苦しいのかもわからず、ただ視界が滲む。
げほごほとわざと咳き込んでみたところで今度は吐き気が胃の方へ戻ったようになり、またせり上がってくるだけになった。滲んだ涙がとうとう目の端から溢れる。
「
……
何やってるんです
……
」
すぐ傍で聞こえた声が幻聴のようだった。
だからそれを確かめようとして、ジェイドは突っ伏していた顔を上げた。ぐんにゃりと見上げたそこに
――
扉を開けて、立っているアズールがいる。
「
……
ぅ
……
」
その名を呼ぶ事もできなかった。
トイレットシートに腕を置いた姿勢のままジェイドがぜぇぜぇと息を吐いていると、アズールは勝手に中に入ってきて、ジェイドの隣に膝をついて屈みこんだ。
「何やって
……
また飲んだんですか? 昨夜あれほど飲んだくせに?」
呆れたような、焦ったような声と共にアズールの手が伸びてきて、ジェイドのサイドの髪をすくい、ジェイドの耳に掛け直す。
「っ
……
アズールに、言われたくありません
……
ついさっきまで、ぐったりしていたじゃないですか
……
」
「それは否定しませんが
……
またすぐにアルコールを入れて潰れているお前よりマシですよ」
言葉は呆れたふうで、けれど、アズールの手がジェイドの背中を優しく擦る。
うっ、と一際強くこみ上げたものに呻いて、ジェイドは咳き込んだ。何も出ず、けれど苦しさのせいで涙が増す。
もう何もかも最悪な気分だった。
それをぶつけたくて、ジェイドは弱々しくも声を発した。
「っ
……
アズールの、せいです
……
」
「え
……
?」
「
……
アズールの、あなたのせいですよ。あなたがへんなことをいうから
……
」
「
……
変なこと、とは?」
「ぼくとけっこんしてもいい、だなんて」
言えば、ジェイドの背中をさすっていたアズールの手が、その瞬間にぴたりと止まった。
ジェイドは荒い呼吸をしながらも、のろのろとアズールを振り返る。
滲みきった視界に、目を丸くさせているアズールの顔があった。それに文句を叩きつけるつもりで、ぜいぜいと口を動かす。
「
……
ぼくと、結婚なんて
……
それでいいなんて、そんなの
……
おかしいでしょう」
「
……
嫌なんですか」
ちがう、とジェイドは頭を横に振った。
その拍子に鋭い頭痛が走って、耐えられず、トイレの壁に体を傾ける。ぐらぐらする視界と、がんがん痛む頭を抱えて、ほとんど朦朧とするような心地の中、ジェイドはただ、頭の中に浮かんだことをそのまま言葉にした。
「僕はいやじゃありません。アズールといればきっと毎日たのしいでしょう。ええ、ええ、毎日あなたが100マドルで一喜一憂したり、投資で失敗して何十万マドルを溶かして悔しさのあまり床を転げ回ったりするのを見れるんです、おもしろいったらないじゃないですか。
……
それで、ぼくは、そんなアズールを、おおわらいしながらみて、それから、それから
……
あなたがそれ以上ないてしまわないように、紅茶でもコーヒーでもいれて、なだめて
……
そう、可愛くて面白おかしくて魅力的なあなたを、とびきり甘やかして、それで、
……
」
それで、と言った先を続けられなかった。
それは、ジェイドの頭の中にそれ以上言葉が浮かばなかったからであり、それから
――
その息継ぎみたいな短い間に、アズールがジェイドの方に顔を寄せて、一秒のほど、ジェイドの唇を塞いだからだった。
あれ、とジェイドは思う。
頭がぐわぐわして吐き気がひどくて、何をされたかもよくわからなかった。
アズールの顔が一瞬だけとても近付いて、唇に何か触れたような気はするけれど、それが何だったのかもうわからない。
今何かありました? と問おうとすれば、その瞬間に一際強い吐き気が起こり、ジェイドはアズールの体を押しやりながら、再びトイレットシートに両腕を置いた。
「う
…………
すみません、アズール、あっちへ行っていてください
…………
っ、扉も閉めて
…………
本当に吐きそうです
……
」
そう言ったのがやっとだった。
ぐわ、と息の塊のようなものがこみあげて、ジェイドはたまらず項垂れる。
けれど、吐く
――
と思ったそれはすんでのところで引っかかり、ジェイドはただ無様にえずいた。
「ッ、
……
ェ゛
……
っ、ぁ
……
ッ」
咳き込んで、二度三度とえずくも、それでも何も出ない。ただ苦しさと痛みで涙が出るばかりだ。
ひどい心地だ、と絶望すら抱いたところで、隣から嫌味な程に落ち着いた声が掛けられた。
「
……
お前、吐くの下手なんですね」
出て行けと言ったじゃないですか、と文句を言う余裕が無い。ただまたえずいて、咳き込んで。涙を流しながらぜぇぜぇとした呼吸を繰り返し、何とか一つ息を吸って、ジェイドは精一杯の反論をした。
「
……
っ
……
吐くほど酔ったことも、吐くほど食べたことも、ましてや自分で意図的に吐いたことなんかもなかったんです。下手も上手いもないでしょう」
いいからあっちへ行って。
弱々しい声だったが何とかそれだけは言った。
ぐ、とまた苦いものがこみあげて、けれど出ない。ぼたぼたと涙ばかりが出る。
「
――
ジェイド」
呼び声と同時に白い手が伸びて、無遠慮にジェイドの顎を掴んだ。
何を、と思っている間にも、その指がさらに無遠慮にジェイドの口の中へと入り込む。
反射的にそれを噛みそうになって、歯に触れた皮膚の感触に慌てて口を開き直した
――
それがいけなかった。
ジェイドの口内に入り込んだ指が、ぐ、と喉奥を探るように滑る。
気道を無理矢理に押し開けようとするそれに、ジェイドは一気に血の気が失せるのを感じた。
「ッ
……
! 、っ、や
……
ッ」
やめてください、と言おうにも、口も舌もまともに動かせない。
けれど自らの口内を侵すその指が何をしようとしているのかは嫌でも察せられて、そしてジェイドにとってそれは最悪な事だった。頭を振ってその手から逃れようとするが、その途端に肩とも首ともつかないあたりまで掴まれ、捕らえられる。
「
……
ッやぇ、やぇて、ほん、ほんとに、やぇてくだひゃい
……
っ、だ、だぇ、はな、ぃ、て、はなひ、て、ぇ
……
っ」
本当にやめてください。離して
――
ジェイドはそう懇願したというのに、残酷な手はそれを許してくれなかった。
ぐ、と喉奥を
――
的確に
――
押されて、ぐ、と胃のあたりから熱くて苦いものがせり上がる。呼吸が詰まり、目が熱を持って、涙が溢れた。
「、ッ、
――――
」
えずいた自らの濁った声に、水音が重なる。
ジェイドのプライドをぼろぼろに踏みにじりながら、綺麗な人の指を汚して吐き出されたものは、全部液体だった。
胃液とアルコールが混じった最悪な匂いが嗅覚を刺激して、それが最後のとどめとしてジェイドの心をざくざくに突き刺す。惨めさでまた涙が溢れて、吐き出した液体に混じった。そして、また液体を吐き出す。
「ッ、ぁ゛
……
ッ、
……
はぁ
……
っ、ぁ
……
、ぅ
……
」
二度吐いて、切れ切れながらも呼吸が出来るようになった頃にはもう、ジェイドの精神をころした指は離れていた。けれどもう片方、ジェイドを逃げないように押さえつけていた手は今、しきりにジェイドの背中を擦っている。何度も。優しい力で。
「
……
っ、はなしてといったのに
……
」
ぜぇぜぇひゅうひゅうと鳴る呼吸の合間、何とか音にできた言葉はぐずぐずの泣き言みたいになった。
最悪だ、とジェイドは死にたい気持ちでいるのに、相手からの返事は無い。
ただ、ジェイドの背中を擦っていた手が離れて
――
アズールは立ち上がり、この空間から出て行ったようだった。かと思えば、ジェイドが一歩も動けないでいる間にもう戻ってきて、たった今取ってきたらしいタオルでジェイドの口元を拭ってくる。
ジェイドにとって最悪の状態で、最悪の優しさだった。
「
……
落ち着いたなら顔をもう少し上げて
……
まだ出ますか? あぁ、大丈夫なら、シートから離れたほうがいい。水を持ってきてやるから、今は壁にもたれてじっとして
……
」
ジェイドが出来たことと言えば首を横に振っただけであったのに、アズールは勝手に言葉を並べながら、勝手にジェイドの体を支え、動かし、ゆっくりと壁へともたれかかれさせた。そうしてアズールはもう一度タオルでジェイドの口を拭き直し、左手でジェイドの乱れた前髪を整え、タオルを折りなおして、汚れていない箇所でジェイドの涙を拭いた。
ジェイドを覗き込むようにして近付けられたスカイブルーの瞳は、ただ切実そうな気配だけがある。アズールの手つきは優しくて、ジェイドを軽蔑したりバカにしているようではなかった。
けれどその優しさこそが、ジェイドにとっては最悪だった。
「さいあく、です
……
」
最悪だった。もう何もかもが最悪だった。
吐くのはあまりにつらく、アズールの指を汚したことがつらく、これほど情けない姿をアズールに見られたのもつらかった。
ジェイドにとって、何もかもが最悪だった。
ぐっ、と今度は吐き気ではないものがこみあげて、眼球が熱を持ったようになる。鼻の奥がツンと痛んで、
――
おさえきれなかった。
「
……
、ひっ
……
ぅう
……
ぅあ
……
っ」
だらだらと涙が溢れ、漏れ出た声は子どもの嗚咽のようだった。
気づかわしげだったスカイブルーが、驚いたように丸くなる。
「な、
……
泣くことないじゃないですか
……
」
ジェイドの絶望を知りもしない手が、慌てたように涙を拭こうとしたが、ジェイドはそれを泣きながら押しやった。
もう本当に、何もかもが最悪だった。
口の中は気持ち悪いし、呼吸は苦しい。頭痛は変わらずガンガンとしていて、胸だか胃だかわからないあたりにはまだ気持ち悪さが少し残っている。アズールの手によって吐かされたことも、自分が吐いたものでアズールの手を汚してしまったことも、そのうえでアズールにこんなふうに介抱されているのも、何もかもがジェイドにとって最悪だった。
絶望と頭痛でくらくらする。
まともな言葉が形成できず、けれどジェイドの胸中はぐちゃぐちゃのぐずぐずで、それを吐きだすようにして、ジェイドは口を動かした。
「
……
っ、もう、もういやです。さいあくだ。さいていですよアズール。ぼくがこんなことになったのも全てあなたのせいなのに、それどころか目の前で吐かされるなんて。くつじょくですよ。もう嫌です。こんな屈辱たえられない。責任とってくださいよ」
「責任」
虚をつかれたように、アズールがそう復唱した声だけが聞こえた。
それさえも憎たらしい。
けれどその怒りをぶつけようにも、頭がまったく回らない。いや、『ぐるぐる』はしているのだが。
――
大体、誰のせいだと思っているんですか。アズールのせいなんですよ。
――
あんまりです。ひどいじゃないですか。
――
僕はアズールの未来について、幸せについて結構真剣に考えていたというのに、それを、アズールが、『ちょうどいい』なんて言葉で、台無しにしようとするから。
ぐるぐるぐわんぐわんする頭の中で、ジェイドの泣き声が生まれては消えていく。
ジェイドはほとんど朦朧としている意識の中で、けれどその泣き声を何とか拾いあげ、言葉にしようとした。したつもりだった。
「
……
だって、あんまりです。ぼくは、あなたとなら一緒にやっていけるかもしれないとおもったんですよ。あなたになら、じぶんの人生をはんぶんくらい使ってあげてもいいかもしれないと、そこまでおもっていたのに。それくらいには、あなたを、きみを、すきだったのに。そのくらいの、あいとか情はあったんですよ。このさきも一緒にいるつもりだった。きみがおもしろいかぎり、きみと一緒にいれるものだとおもっていたんですよ。ぼくは、一緒にいるきだったのに。きみのいうことをきくきだった。きみがほしがるものはきっとなんだってよういしてみせます。そのくらいのこと、してもいいとおもっていたんです。そこまで、そのくらいには、きみのことをすきだとおもっていたのに。きみが、アズールが、このさき、ほかのだれかと一緒になって、あくびがでそうなほどなまぬるい家庭をつくったとしても、こどもなんてつくって、あきれるほどの親ばかをひろうするようになったとしても、ぼくは、それをおおわらいしながら、それでも、きみに、アズールに、ついていっていいと思って、思っていたのに。そのくらい、そのくらいには、ぼくは、アズールが、たいせつなのに。なのに、あんまりだ。あんまりです、あんまりですよ。アズールは、ぼくが、ほんとうに、どんなきもちで、きみにじんせいのはんぶんをつかってあげてもいいと思っているか、わかってない。ぜんぜん、わかっていません。ひどい、あんまりですよ。ぼくはそこまで思っていたのに、アズールは、きみは、ちょうどいいから、なんて。そんなりゆうで、ぼくとけっこんしてもいいなんて。ふせいじつです。あんまりだ。ぼくがどんなふうにきみをみまもっていたかもしらないで。ちょうどいいからなんて。そんな理由、ちょうどいいから僕とけっこんするなんて、アズールは、ぼくがたいせつにおもっていたすべてを台無しにするきですね。ひどい。そんなほうほうで心をふみにじられるとは思ってもいませんでした。ひどいです。ほんとうにひどい。ぼくはけっこう、あなたを支えてきたはずです。それなのに、このしうち。ふこうへいですよ。ぜんぜん、つりあいがとれていません。ぼくが、どれだけ、どんなきもちで、アズールについていったか。人生のはんぶんをきみに使ってあげても、いいかなと、そこまで、そんなふうに、おもっていたのに。それなのに、こんな。こんなしうち
……
なにもかも、アズールのせいです。ひどい。くつじょくです。ざんこくなひとだ。あんまりですよ。ぼくはあなたについていって、こんなところまできてしまったのに。責任とってくださいよ
……
」
既に最初のほうから、ジェイドは自分が何を言っているのかわからなかった。
ただアズールは驚いたようにジェイドの言葉をじっと聞いていて、だからジェイドも何か言い続けなければいけない気がして言葉を発していただけだ。滑り出た言葉は思考というフィルターを通していなかった。何を言ったのか、何を言っているのかも定かではない。
息切れみたいに言葉が止まって、後はもう、ジェイドはぐすぐすと泣きだした。
自分が泣いている、という自覚も無い。
ただ頭が痛くて口が気持ち悪くて気分が最悪で、ただただひたすらに惨めで、寒いし暑いし、とにかく最悪だった。
「
……
わかったわかった、わかったから。もう出るものがないなら、とりあえず立って。口を
……
」
アズールが何かを言って、ジェイドの体を起こそうとしている。
ジェイドが認識できたのは、そこまでだった。
□
ひどい目覚めだった。
どろどろした夢から意識が浮上した時点で、部屋の中は明るい光に包まれていた。窓のカーテンから漏れた陽光がチカチカとジェイドの目元を刺激してくる。
それを無視しようと奮闘している内に、頭にずきりとした痛みが走り、意識が覚醒してくる。
しぶしぶと、今何時だ、と上半身を起こせば、頭がひどく重い。顔をあげるだけでぐわんと視界が揺れた。じんじんとするような痛みと、口の中がとんでもなく気持ち悪い。
よろよろする視界で何とか時計を探し、確認する。7時28分。
少し寝坊しただろうか、それにしても昨日の自分は何をやっていたのだろう、とぼやぼやと考え、目をこする。
じんじんとするような頭痛があったが、薬を飲めばおさまるだろうと判断し、ジェイドはゆっくりと起き上がった。今の今まで気にも留めていなかったが、きちんとベッドで寝ていたらしい。ただ、ほとんど寝落ちのような状態で眠ったのだろう。身に着けている衣類は下着とシャツだけだった。
構わずに、ジェイドはそのままで部屋の扉を目指す。とにかく口をゆすいで、水分を思いきり取りたかった。喉が渇いている。
部屋を出れば、リビングのような広い空間にアズールがいた。大理石で出来ているらしいテーブルセットの椅子の一つに座り、今朝のものであろう新聞を広げている。
「起きましたか」
ちらりと寄越された視線と、落ち着いた声。
「ええ
……
おはようございます」
「ひどい格好ですよ。とりあえず水を飲んで、シャワーを浴びてくることですね」
「ええ
……
はい」
何か言い返す気にもならなかった。言われた通りよろよろとキッチンに入り、置かれているグラスを手に取る。水道水で三度四度と口をゆすいでから、冷蔵庫に入っていた水のボトルを一本あけた。ほとんど一気飲みの勢いで、すぐにそれを空にする。
ボトルの水を飲み切れば、そこでやっとジェイドの意識は真に起き始めた。
次第に夢から覚めるような心地を味わいながら、ジェイドはアズールへと振り向く。
「
……
あの
……
昨日、僕は
……
」
「ひどく泥酔した挙句、寝落ちしました。寝た、というよりほとんど気を失っていたので
……
救急車を呼ぼうかと思ったくらいです。救急相談センターに問い合わせて相談したところ、『まだ救急車を呼ぶほどではないだろう』とのことだったので、呼ばずにいましたが」
「え
……
」
アズールは新聞の紙面に視線を落としたままサラサラと言うが、ジェイドとしてはさっぱり覚えが無い。
唖然としていると、そこでやっとアズールが顔を上げた。
「覚えてないんですか?」
「
……
、えぇと、
……
いえ、確かに
……
一度、昼に起きてはいたような
……
」
何だか記憶がふわふわしているが、確かに、昼のような夕方のような記憶はある。
そうだ、カジノへは一度行ったような
――
とジェイドが自らの記憶を辿り始めたところで、アズールが新聞を畳んだ。
「とにかく、シャワーを浴びてくることですね。11時にはチェックアウトですから」
「え
……
あ、は、はい
……
」
業務指示のように浴室を指され、ジェイドはそれに従うしかなかった。ただ、ぐらぐらする頭には違和感が残っている。
『11時にはチェックアウト』。アズールはそう言った。つまり今日はこの土地に着いてもう3日目なのだろう。しかしだとすれば、ジェイドには昨日の記憶がほとんど無い。
いや、先程ぼんやり思い出したカジノの光景こそが昨日の記憶なのだろうか。でも、もしそうなら自分は昨日本当に何を
――
。
浴室前で服を脱ぎつつ懸命に思い出そうとする度に、ジェイドの脳内ではぼやぼやゆらゆらした光景がちらついた。しかしそれらは記憶のようでもあり、夢のようでもある。
――
カジノの景色。たしかルーレットはしていたような。勝ったか負けたかもわからないが、わからないということは負けているのだろう。その後レストランに入った気がするが、もうその後から記憶が怪しい。大体にして自分は何故そんなことをしたのか
……
。
裸体となった状態で、浴室の中へと入り、シャワーの前に立って、そのハンドルをひねる。
最初冷たかった水に思わず肩が跳ねたものの、すぐにそれは熱いほどの温度となって、ジェイドを宥め、ジェイドの思考を引き締めた。目を閉じてざあざあと湯を浴びる内に、だんだんと『現実』に戻ってくる気がする。
水を飲んだ時点で、起きた、と思っていたが、まだ寝惚けていたらしい。
やっとすっきりした、と安堵して、ジェイドは目を開き、シャワーを止めようとした。
その拍子にカツンと音が鳴り、同時に、ジェイドの手に違和感が生じる。
一体何だと思い、たった今ハンドルを握った自らの手を見て
――
自らの左薬指に光っている銀色を見て、ジェイドは盛大な叫び声をあげた。
「アアア、アズールッ!!」
シャワーを止めることすらせず、浴室のドアを破壊しかねない勢いで飛び出し、リビングに駆け戻れば、アズールはまだ優雅にそこに座っていた。
マグカップを持ち上げ、今まさにその中身を飲もうとしていたアズールが、全裸で駆け込んできたジェイドの姿を見て噎せかけている。
けれどジェイドにとってはそれどころではなかった。
「アズール!! あなた、何てことを!!」
「っ
……
服を着ろ、服を!」
「それどころじゃないでしょう! こ、これ! どういうつもりですか! 僕にどうしろと!」
「服を着ろ! シャワーの水を止めてこい!」
いいえそれよりも先に、と言いかけたジェイドの言葉は、顔面に投げつけられたバスタオルによって妨げられる。
わぷ、と間抜けな声をあげて、ジェイドがそれを何とか取り払おうとしている間に、アズールは椅子から立ち上がり浴室へと歩いて行ったらしかった。
シャワーのハンドルがひねられる音があり、水音が止まる。
片腕を濡らして戻ってきたアズールは、さらにもう1枚のバスタオルをジェイドに投げて寄越して、自分が先程まで座っていたテーブルセットを指さした。
「とりあえず、それを羽織って座りなさい」
話し合います。
アズールがそう言ったと同時に、ジェイドの肩のあたりに引っかかっていたタオルがずり落ちた。
大理石で作られているテーブルの上に、す、と一枚の紙が差し出され、置かれる。
それには『結婚証明書』とあり、何度読み直してもやはり、ジェイドとアズールの名前が書かれていた。
それを挟んで今、ジェイドはアズールと向かいあって座っている。
上半身は申し訳程度に羽織ったシャツ一枚、下半身はバスタオルを巻いただけという何とも情けない格好で、対するアズールはきちんと服を着ていたけれど、ジェイドはそれどころではなかった。
目の前で、アズールの指先がトンと紙を叩く。結婚証明書、と書かれたそれ。
「
――
結婚したところまでは覚えていますね?」
「
……
っ
……
」
ハイとは言いたくなかった。けれどこの先の話をするには、どうしてもそれを認めなければならない。
ぐ、と奥歯を噛みながら頷いたジェイドを、アズールが静かな眼差しで見つめた。
「昨日のことは、どこまで覚えていますか」
「
……
大変不本意ながら、もうだいぶ思い出してきました
……
というかアズール、昨日あれだけ混乱していたのに、どうしてそこで指輪なんて
……
。まずは離婚届が先でしょう」
「混乱していたのはジェイドだけですよ。それに僕は『ジェイドと結婚しても良い』と言ったはずですが」
「僕はアズールに良いとも悪いとも返事をしていません。
……
というかこの指輪、どうしたんですか? どなたかから巻き上げました? まさか盗ったんじゃないですよね」
「買ってきたんですよ。昨日、すぐそこで。領収書を見せましょうか? まあ確かに、そこまで高級なものではありませんが
……
つけていてお前が恥をかかない程度のものにはしました」
「買った⁉ 何故!」
「責任をとれ、と言われたので」
さらりと言われた言葉に、ジェイドは頭を殴られたような気持ちになる。
「
……
っ
……
違います! そういう事じゃないんですよ!!」
わっと叫んだ拍子に、頭痛が一際強さを増した。
ぐわ、と揺れた頭を押さえて、思わず呻く。濡れた髪が冷たくて、その冷たさが嫌でも『これは現実だ』とジェイドに言ってくるようだった。
うぅ、と呻きながら、恨めしさをめいっぱいにこめて向かいを見れば、そこに座っているアズールは何故か落ち着き払っている。
そうしてアズールはゆったりとした仕草でコーヒーを一口飲んだ後、そのマグカップを横にどけ、テーブルの上で両手を組んだ。スカイブルーの瞳が、情けない格好をしているはずのジェイドをじっと見つめ、何故かふっと緩められる。
「
……
バツがつきますよ。お互いに」
淡々とした口調で告げられた言葉に、ジェイドは反射的に声を荒らげた。
「離婚歴だなんて! 今時そんなこと珍しくもありません」
「
……
では離婚届を書きますか?」
「ええ! もちろん! 色々ありすぎましたが、本来ならそれを昨日の内に
――
」
するはずでした、と。ジェイドはそう言うつもりだった。そう言おうとしていた。
それを遮って上塗りしたのは、アズールだ。
「残念です。僕は良いかなと思ってたんですけれどね」
「
――
、」
は、とか細い息だけが、ジェイドの口から零れる。
口を半開きにして唖然としたまま固まったジェイドに対し、アズールは微笑みさえして言葉を重ねた。
「
……
指輪を買ってくるくらいには、本気だったということです」
すらりとした人差し指が、ジェイドの左薬指を示す。
アズールの仕草により、未だそこにつけたままになっていた指輪に気付いて
――
動揺のあまり忘れていただけだ
――
ジェイドは咄嗟にそれを外そうとする。けれど、いやにぴったりとはまったそれは濡れた手から思うように抜けてくれず、ジェイドはそれを外そうとしながらも、呆然としたようにアズールに問いかけた。
「ほ、本気だったって
……
あ、アズール、
……
僕に恋愛感情が抱けるんですか?」
聞かれたアズールは、返事をしなかった。ただ何かを考えるような様子で、口を閉ざし、ほんの少し首を傾げて見せる。
「返事が出来ないなら、やめておくべきです!」
ジェイドの指からはまだ指輪が取れない。
もうそれを諦めて、ジェイドはたたみかけるようにして言った。
ところが一方のアズールは、二秒ほどじっと黙った後、ふぅと息を吐いて、言葉を続けた。
「恋愛感情を抱ける抱けない、というか
……
何というか」
「何です」
「
……
僕はもう随分前に、ジェイドに恋をしていて」
「
――
、」
「だいぶ前に、諦めていたつもりだったんですけど」
機会が見えた瞬間に感情が再燃したので、やはり諦めきれていなかったんでしょう
――
そうあっさりと告げられた言葉に、ジェイドは何も言えない。
ただもう何度目かもわからぬ衝撃を味わって、目を見開き、唇を引き結んでいた。
その様子を真正面から眺めていたアズールが、唐突にフ、と笑う。
「
……
ジェイド、2日前のこと、本当に覚えていないんですね」
「ッ
……
覚えていれば苦労していませんよ!!」
そう叫んだ直後だった。ハッとして、ジェイドは思わず上半身を引くようにする。
「
……
待ってください、アズール、あなたまさか
……
」
声が震えた。
目の前の男が、また、フフと笑う。おかしそうな、少し苦々しいような。自分を苦笑するようでいて、しょうがないものを許すかのような笑いだった。
「僕は、結構きちんと覚えているんですよ。
……
あの日
……
2日前の夜、僕もジェイドも相当酔ってはいましたけど、少なくとも僕は、まだ僕という自我を保っていましたし、自分が何を言ったか、ジェイドとどんな話をしたかは覚えています」
あの日は楽しかった。本当に良い夜だったんです。
プロローグのようにそう言って、アズールは言葉を続けた。
「カジノで
……
スロットで大当たりしたところまでは、ジェイドも覚えていますよね? 大喜びしながら、取っていた部屋のグレードを上げる馬鹿なことをして
――
それでも増えたお金は充分だった。そのくせ、はしゃぐあまりレストランではなくて、近くのカフェで夕飯をとったのは覚えてますか?」
ジェイドはゆっくりと頷く。薄っすらとした夢の記憶のようではあったが、確かにそこまでは覚えがあった。
ジェイドの反応を確認して、アズールはその先を話し始めた。
「もうそれまでにお互い結構飲んでいて
……
二人共バカになっていたので、夜なのにテラス席で軽食のような食事をして
……
その時もジェイドは結構飲みましたよね。あまり高級ではないワインのボトルを、2人で2本あけたはずです。まあそれもほとんどジェイドが飲んでいましたが。確かそうしている内に
……
その時に、近くの
……
ただの通りのようなところで、グループが楽しげに騒いでいるのが見えたんです。結婚おめでとう、と」
彼らは結婚してすぐの二人を祝っているらしかった。パーティーの終わりなのか、あるいはパーティーなんてものもせず、ただおめでとうとお祝いしあうだけなのか
――
どれなのかはわからなかったが、とにかく楽しそうで、幸せそうだった。
それを見て、アズールがまず最初に「へぇ」と言った。
『近くのホテルで式でも挙げたんでしょうか』
そう言って少し笑ったアズールに答えたのは、テーブルの向かいに座っていたジェイドだった。
『あぁ、この近くにこの市の役所があるそうですよ』
『そうなんですか』
『その市役所で結婚できるそうです。それも、周囲の市よりはるかに簡単な手続きで、なおかつ、同性カップルも異性カップルも同様に。しかもその市役所、24時まであいているんですよ。ですから、わざわざこの市に来て結婚するカップルも多いそうです』
ジェイドの説明を聞いて、アズールは純粋に感心した。だから肯定的な返事をした。
『それはいいですね』
それは単なる相槌のようなもので、アズール自身は大した意味をこめていなかった。
けれどそれを聞いたジェイドは途端にクスクスと笑いだして、それから、自分の夕飯だったサンドイッチを皿の上に置き直してこう言った。
『アズール、結婚したいんですか?』
聞きながらももう、ジェイドはきゃらきゃらと笑っていた。泥酔というには遠い状態だが、珍しくすっかり酔いが回っている様子だった。
その子供のような様子がどこか愛らしくて、そしてアズールもそれなりに酔っていたこともあって、アズールはこう返した。
『ジェイドとなら結婚できる、と思ったことは何度かあります』
言った時はもちろん冗談のつもりだった。ジェイドへの恋心はもう数年前に諦めていたし、それについてジェイドが気付くとも、ジェイドに知ってほしいとも思っていなかった。
案の定、ジェイドはアズールの言葉を聞くなりふきだして、ちょうど飲もうとしていたワインを噎せかけた。そんな自分がおかしかったらしく、ジェイドはますます笑った。
『さすがに飲みすぎだ』
アズールがジェイドの手元からワイングラスを取り上げようとすれば、ジェイドはそれを避け、グラスに残っていたワインを一気に飲み込んでから、ふふふと笑った。
テーブルに片肘をたてて、酔ったせいでとろりとした視線で、血色が増した唇で、ひどく楽しそうに笑った。
『いいですよ』
いいですよ、とジェイドは言ったのだ。
『僕も、アズールとなら、結婚してもいいと思います。毎日楽しそうです』
多分その時に、アズールの中にあった恋心は起きたのだ。捨てたと思っていたけれどただ眠っていただけの恋心は、その時箍を外して起き上がり、目をこすったに違いない。そうして、数年ぶりに見た目の前の男を見て、やっぱり綺麗だ、と呟きでもしたのだろう。
『楽しそうって
……
どんな事が?』
『だって結婚すれば、一緒にいるということでしょう。そうしたら、あなたが投資で大負けしてくやしさで呻きながら床を転がったりするところが見られるんですよ!』
『何を想像してるんだよ
……
』
呆れるような気持ちで言い返して、それでも悪い気がしなかった。
ジェイドは本当に楽しげにきゃらきゃらと笑っていて、その音が綺麗だった。
夏の夜のテラス席は暑さもあまりなく、熱をもった肌を、涼しい風が撫でていた。白い肌をほんのりと朱に染めて笑うジェイドの背景として、街の明かりが点滅している。
綺麗な夜で、綺麗な時間だった。
もう一つ賭けをしてみてもいいかな、とアズールが思ったほどに。
『
……
床を転がるつもりはありませんが
……
じゃあ行きますか? 役所』
どこにあるかも知りませんけれど、と言いながらアズールがスマートフォンを取り出せば、ジェイドはいよいよ堪えきれない、というように大笑いした。
周囲の客がちらとアズール達の方を見たので、ジェイドはそれで自らの口を押さえて笑いを飲み込み、それから不意に立ち上がったかと思うと、アズールの隣に立った。
『アズール、きみって本当に面白いです。最高ですよ』
首に手を回されたかと思えば、アズールの頬にはジェイドの唇が押し当てられて、その間2秒も無かったと思う。
『アルコールくさい
……
』
アズールはジェイドの最後の逃げ場としてそう言ったけれど、その手を引いたのはジェイドだったのだ。
『行きましょうか、役所』
それで二人は、食べかけのサンドイッチを包んでもらって、カフェを出るなりタクシーを拾った。
乗り込んだタクシーの運転手は、行き先を告げただけで大体のことを察したようだった。結婚かい、と訊かれたので、アズールは頷いた。ジェイドは
――
酔っていたからだろう
――
ニコニコしていて、それがまた「それらしかった」のだ。酒気はあるけれど泥酔しているわけではなさそうな二人に対して、運転手は何も不安がらなかった。おめでとう、と言って車は走り出した。
20分程たったころに車は市役所に到着し、アズールとジェイドはそこで降りた。支払いと共に、運転手から「お幸せにな」と言葉をもらって、2人で手を繋いで役所に入った。
さすがというべきか、役所内はアズール達と同じようなカップルが既に列を作っていて、その様子に少し驚いたことを、アズールは覚えている。
結婚の手続きは本当に簡単で、互いの身分証明書を提出し、申請料を払えばそれで済んだ。市役所が用意していた司式者の前で愛を誓い合って、それで終了だ。
宣誓には証人が必要だったけれど、結婚のために市役所にやってきている人達全員が同じような事情だったので、互いに互いが証人となって、それであっというまに終わってしまった。役所に入ってから30分ほどで、アズールとジェイドは結婚できてしまったのである。
『いっそ笑い話だな』
役所を出てアズールがそう呟くと、ジェイドは笑った。
『いいじゃないですか。僕は、アズールとなら、それなりに上手くやっていく自信がありますよ。アズールはわかっていないでしょうけれど、僕は結構きみのことが好きなんです。そうでなければここまでついてこれませんよ』
遠くで、今さっき出て来た街の明かりがキラキラしていた。おかしそうに笑ったジェイドの頭上で、光に薄れながらも星空がある。
アズールにとって、素晴らしい夜だった。
ハプニングと成り行きで出来たような夜だったけれど、ずっと燃え滓みたいな恋を抱えていたアズールにとって、最高の夜だった。
もちろん、明日になってジェイドが「酔った勢いだった」と喚きだす可能性もわかっていたけれど
――
その時にはもう、アズールはジェイドを逃がすつもりはなかったのだ。
だって確かに今、ジェイドはアズールのものになったのだから。
……
その後ホテルに戻っても酒を飲んでいたジェイドが翌日記憶をごっそりと落としていた事と、アズールもひどい頭痛に見舞われたのは、さすがに予想外ではあったけれど。
「
――
……
そういうわけです」
一連のことを話し終わったアズールは、どうしてか満足げな表情をしていた。
「
……
言い訳のように『ちょうどいい』なんて言いましたが、いま話した通り、あれは嘘です。
……
僕はジェイドのことを好いています。結婚できるならしたい、と思う程には」
アズールが言葉を並べるが、ジェイドは何も言えない。たった今聞かされた話に、頭部が丸ごと沸騰しているような心地だった。顔が熱い。くらくらする。何か言おうにも、言葉が考えられない。
そんなジェイドの様子に気付いたらしく、アズールが少し苦笑する。
そうしてアズールは、二人の間に置いてあった結婚証明書を勝手に自分の方へ引っ込めて、ジェイドへと手を伸ばした。
いまだ指輪がはまったままの
――
ジェイドの左手が、アズールの右手にそっと掴まれて。
ジェイドの体はその拍子にびくりと震えたけれど、アズールは構わず、柔い力でジェイドの左手を引いた。されるがままになった左手につられるようして、ジェイドは自然と椅子から腰をあげる姿勢になる。
何を、と問う暇も余裕も無かった。
捕まえたままのジェイドの左手に、アズールが唇を寄せて、それが、手首に押し当てられる。
可愛らしいようなリップ音に反してジェイドの体はまた跳ねあがり、けれどアズールはそれを抑え込むようにして、ジェイドを捕まえている手に力を込めた。
「
……
ジェイド、好きです。
……
僕と、結婚してください」
「っ、
……
!」
たった今くちづけた手首を掴み直して、今度はてのひらに、キスがされる。
やわらかく、ほんの少し湿った感触。
声にならない悲鳴をあげたジェイドを、スカイブルーの瞳が、すぅっと見上げて
――
笑った。
「きっとお前を退屈させはしませんから。だから
……
ジェイド、僕のものになって」
そう言ったアズールの声はとびきり甘くて、アズールは確かに正気であることも、珍しく彼の誠実さが感じられたこともわかった。
けれどジェイドは返事など出来たものではない。
頭がぐるぐるしていた。顔が熱くて、喉がからからに渇いて、何も言えない。
けれど幾ら手を引っぱって逃げようとしても、アズールはその馬鹿力で絶対にジェイドの手を離してくれなかった。
だから、ジェイドは、ただ、頷くしかできなかったのだ。
「ジェイド、アズール、おかえり~!」
「フロイド。僕とジェイドは向こうで結婚しました。事後報告となってしまって申し訳ないとは思いますが
……
」
「
……
えッ!? はぁ!?」
「この通り、こちら結婚証明書です」
「
……
ハァ!?」
「それから、ジェイドは今後、過度な飲酒はやめるように」
「えっ、ちょっと、マジでどういう事!? ジェイド!? ジェイド、こっち向けよ、おい! どういうこと!? アズール、ちゃんと説明してよ!!」
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終盤、アズールがジェイドにキスした箇所については、
手首→欲望
てのひら→懇願
という情報をもとに書いています。
その他(私のミスが無ければ)アズールが実は朝からしっかりとしていた
……
と読み取れる部分を所々入れたつもりです。
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