夜之 夢
2022-12-31 23:01:02
20012文字
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お題の話②

お題「ジェと付き合っていることを公言していないアズが、惚気る話」と、お題「ジェの可愛さを急に実感して慌てるアズの話。予想外にテンパって蛸壺に引きずりこむみたいな…」を混ぜてこねくり回した結果出来たものです。
お題ありがとうございました! そしておそらくお題から離れてしまってすみません…。

※4年生&実習期間中設定。
※モブの女性達がめっちゃ出てきます。アズジェイの仲を邪魔したりしませんが、モブの女性達がめっちゃ絡んできます。
※店のシステムとかは参考にしたものはあるものの全部いいかげんです。すみません。

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 あなた初めて? と声をかけられ、やや俯けるようにしていた顔を思わず上げる。想像していたよりも近く、自らの真正面に女性の姿があり、アズールは僅かに緊張した。
「取って食いやしないわ、安心してよ」
 それにね、こういう店では堂々と構えておくべきよ。
 そんな言葉を付け足しながら、彼女はニッコリと笑った。くっきりとしたメイクがよく似合う、黒髪の、綺麗な女性だ。黒のフェイクレザーの、いかにも薄くて安っぽそうなキャミソールに、ミニ丈のタイトなスカートを着ている。今は1月であるので、随分な薄着だった。それが平気そうなのは、ここが地下にある店で、空調が効いており、そして彼女は寒さをある程度我慢してでも、肌の露出が求められるからなのだろう。
 アズールが今居るのは、そういう店の、その奥にあるバーカウンターで、目の前の彼女はこの店のバーテンダーだった。
「とりあえず、一杯くらいは何か頼むものなの。こういう店ではね。それと、チャージ代が取られることは我慢して。もしかして、あなた未成年? モクテルにしてあげる。好きな味か苦手な味はある?」
 アズールが何も返せないでいたのを勘違いしたのか、バーテンダーの彼女はさらに言葉を重ねた。一気に言われるものだから、どのタイミングで返事を挟めばいいのかもわからない。えぇと、とアズールが言葉を選んでいると、彼女は勝手に肩を竦めて見せた。
「わかった、それっぽいのを適当に作るから」
 何が作られるのかもわからない。ただおそらく、彼女の配慮によってアルコールは提供されないのだろう。アズールも飲酒する気はなかったので、それで良かった。
 カウンターの内側で何やら屈んで姿を消した彼女は、数秒後、上体を起こして再び姿を現し、手際よくグラスやら道具やらを整えながら、アズールをちらりと見やった。
「もしかして、この店がどういう店かわからずに入った?」
 どうやら彼女から見て、アズールは相当初心に思われているらしい。
「さすがにそれは……一応、店の看板を理解して入りました」
 ストリップ・クラブ、と書かれている文字を読んだうえで。
 アズールがそう付け足すと、彼女は手を動かしたまま両眉を上げて「安心したわ」と答えた。その白い手が素早く動き、グラスに氷を入れていく。カラカラと硬質な音を背景に、彼女がまた口を開いた。
「何がきっかけでこの店に? お年頃で気になった?」
 よく喋る女性だ。嫌な気はしないが、彼女はこの店のバーテンダーだ。他の客の酒も作らずこんなに一人に絡んでいていいのか、と気になってくる。酒の注文をしたそうな客がいたら、と周囲に視線を走らせれば、バーカウンターに座っているのはアズールくらいのもので、他の客は皆、テーブルのあるソファー席に座っている。
 なるほど、と思いながら視線を戻せば、それを待っていたかのようにバーテンダーの彼女がウインクを寄越した。
「カウンターに『ステージに背を向けて』座ってるのはあなたくらいなの。話し相手になってよ」
 大丈夫よ、私と話す分にはお金はかからないわ。
 そう言って明るく笑った彼女は、なるほど、アズールのような客によく慣れているのだろう。不慣れな客の緊張を解いて、この店が『楽しい場所』だと教え込む役でもあるのかもしれないが。
 そこまで考えて、アズールは肩と腕のあたりにこもっていた力をそっと抜いた。色々なものを諦める気持ちで、小さく息を吐きだす。
 そのささやかな音さえ聞き取ったかのように、バーテンダーの彼女が手を動かしながら口を開いた。
「あなた、恋人がいるでしょ」
「え……
「こういう場所に、やけに後ろめたさがある様子だから」
 言いきった彼女は、グラスの中に注いだ液体をマドラーで静かに混ぜながら、視線だけをアズールに向けた。
「フリーなら、こういう店に後ろめたさなんて持たないわ。みんな楽しむ。既婚者のお客だって健全に楽しむし……第一、あなたの左手に指輪は無いし、普段指輪をつけてるような跡もないしね」
 一歩ほど動いて、彼女が何かのシロップの瓶を手に取る。「つまりね、」その蓋をあけ、彼女は一瞬だけ何か考える様子を見せた後、すぐさまその瓶を傾けた。アズールからは見えないが、その手元に何らかの計量容器でもあるのだろう。
「つまり、こういう店に後ろめたさを感じるなんて、『今付き合ってる恋人がいるにもかかわらず、一人でこういう店に来ていて、なおかつそのことに罪悪感を感じるような初心な人』、ってことになるの」
 一つ、二つ、と何かのシロップが少量ずつグラスに注がれた後、彼女がミントの葉を手に取る。それをグラスの中、氷の端あたりに添え、彼女は出来上がったらしいそのドリンクをアズールの前に置いた。
 どんな味がするのかわからないが、出されたグラスの中には綺麗な青と薄紫の層が出来ている。
 その色を見てから、アズールは視線をあげて彼女を見上げた。
……素晴らしい観察眼ですね。称賛に値する」
 どうも、という返事と共にウインクが寄越され、一拍を置いてから気付いたように「ぎょーぎょーしい言葉」と文句のような一言が付け足された。
 どんな言葉を返せばいいのかもわからず返事を諦めて、アズールは無言でグラスを自分の方へと寄せた。それを見届けるようにして、また彼女が口を開いた。
「恋人がいるのね」
……ええ、まあ」
「なのにこういう店に来て、その割に楽しむでもない。それどころか後ろめたさを感じてる。……恋人と喧嘩して、やけっぱちで店に来たとか?」
「違います。違いますが……そういえば、なぜ僕が『後ろめたさを感じている』と?」
 問いかければ、彼女は悪戯好きな少女のように笑った。
「簡単よ。あなたはこのカウンターに座った時から、周りをずっと気にしてる。それでいて、平然と店内やダンサーを観察しようって感じじゃない。何ていうか、店のあちこちが気になって仕方がないけど、極力目立たずにいたいって感じなのよね」
……反論できません」
 答えれば、彼女はニンマリとした。そうして自らが立っている側、カウンターの内側に両手を置いて、体ごとアズールに向き直る。
「さっきも聞いたけど、恋人と喧嘩でもした?」
「いいえ。違います」
「じゃあどうしてこの店に来たの。一度見てみたかったとか?」
「違います」
「一応言っておいてあげる。あなたには残念なお知らせかもしれないけど、ここは『脱がない』わよ」
「知っています! ……そうでなければ悠長にこんな所に座っていません」
 何がおかしかったのか、アズールのその言葉に彼女は声をあげて笑った。そうしてクスクスと笑いを噛みながら、首を傾げて見せるようにした。
「ね、あなたの恋人ってどんな子なの」
「え……
 グロスで濡れた唇が笑っている。いやな風ではないが、完全にアズールを面白がっている様子だ。
「いいじゃない、聞かせてよ。周りのお客はもうステージばかり気にしてるんだもの」
 そう言って彼女は、自らの前方――アズールから見て後方――を指さす。おそらくこの店のステージを指したのだろうが、それが想像できたアズールは、振り返らないようにして首を横に振った。
 それを見てわかったうえで、彼女は尚も言葉を続ける。
「まだ準備中だからもう少し時間がかかるけど、もうすぐショーが始まるから。……この店じゃね、1日に何回か、ダンサーたちがあのステージで踊るんだけど……あぁ、さっきも言った通り『脱がない』安心設計よ。まあ、スペシャルルームではトップレスまでサービスしてるけど、おさわりは絶対禁止。健全だから、もう少し肩の力抜きなって。あぁでも、」
 でも、と言った彼女が、今度は自らの右奥、店の出入口があるあたりを親指でさした。
「表の張り紙見た? 今日は特別。だから女の子のお客もいつもよりかは多いの」
「特別?」
「そ。でもあなたにとって面白いかはわからないわね。とりあえず次のショーまでは見てったら? ついでに、貴方の話を聞かせて」
「なぜ」
「暇なの」
 あっけらかんと両肩を竦めて見せた彼女を見上げ、アズールは唖然とする。だが彼女が言う通りバーカウンターにはやはりアズールしか客がおらず、他の客たちは皆自席で各々何かを話している。ショーの開始待ちということで注文も落ち着いたタイミングらしく、次から次へと酒の注文が入ってくる、という状況でもなさそうだった。
「あなたが初心なだけかもしれないけど……どうかしら、どうもそういう風にも見えないのよね」
「何の話ですか」
「あなたの恋人がどんな子かって話」
「な……
「だって、別に恋人がいたからって、ストリップ・クラブに入るくらい『別口』だとも思うのよね。それなのにそれだけ後ろめたそうにするなんて、恋人、束縛が強い人なの?」
……いいえ、まったく」
 答えると同時に、アズールの頭の中には嫌でもその姿が浮かんだ。
 ターコイズブルーの髪、白い肌、見上げるほどの長身と、整った体躯。オリーブ色とゴールドのヘテロクロミアは、目が合った者達の視線を必ず二秒ほどは奪う。そうしてその両目を溶かすようにして緩めて、艶やかな唇は綺麗に、ひどく綺麗に、微笑みの形を作ってみせるのだ。
 それがアズールの恋人であり、ジェイド・リーチという男だった。
 そのひとつひとつを思い出すようにしながら、アズールは出されていたドリンクにそろりと手をつけた。グラスを持ち上げて傾け、一口分だけ口に含む。途端にスミレのような香りと共に程良い甘さが舌に乗り、その穏やかな味に驚きながらも、ただ無言でそれを飲み込んだ。
「美味しいです」
「よかった」
 素直な感想を差し出せば、彼女も純粋に安堵したような笑みを見せた。かと思えば「それで?」と先を促してくるので、アズールは結局口を開かなければならなくなる。
……束縛は、まったくありません。……こちらが不安になる程に、向こうの方があっさりしています」
「あら。……ふぅん、一筋縄じゃいかなさそうな相手ね」
「厄介な人ですよ」
「厄介なの?」
「厄介です。そうとしか言い表しようがない。たちが悪い」
「たちが悪いの?」
「ええ。あれ程の性悪、そうそう出会えない」
「でも、その人に恋してるのね」
……大変不本意ながら」
 アズールがぶすりとして答えると、彼女はまた声をあげて笑った。あはは、と響いた無邪気な笑い声が数秒だけ店のやましい空気を打ち消し、一人、近くにいた別の女性スタッフがちらりとこちらを見たのがわかった。それをわかっていないのか、あるいは気にする必要が無いのか。バーテンダーの彼女は構わずに言葉を重ねた。
「続けて」
「続けてって……
「あと5分もすればショーは始まるわ。それまで」
 暇なのよ、と彼女は言う。
……何かドリンクを追加注文しましょうか?」
 そうすれば『暇』にはならない、と言外にアズールが伝えると、それを理解したらしい彼女は首を横に振った。「何杯お酒を作っても、私の時給は同じ」「チップを」「それは嬉しいけど、それなら何か高いお酒をあけてくれる方が良いかも」そこまで言って、彼女は「でも」と続けた。
「やめておくわ。未成年はダメだもの。だからもう少し話してって」
 またウインクが投げてぶつけられる。
 慣れた仕草だな、と思いながらも、アズールは観念して溜息を吐き出した。
……何からどう話せばいいのか……
「そうねぇ、じゃあ私から質問。恋人、綺麗な人?」
……綺麗、だと思います」
「ふぅん」
……一目見てハッとするようなタイプの綺麗さではありませんけれど……よくよく見れば見るほど、といった感じで」
 ヴィル・シェーンハイトのようなわかりやすい美貌ではないが、じっと眺めているうちに、一つ一つのパーツが整っていること、どこか品のある顔立ちであることが見えてくる――そんなことを考えながら、アズールはジェイドの顔を思い出す。
 そう、綺麗な人魚だ、と内心で自らに納得したところで、彼女がフフフと笑った。
「な……何ですか……
「ごめん、何でもないわ気にしないで。続けて」
「続けてって、だから何を話せば……
「恋人、綺麗な人なのよね。告白したのは貴方から?」
「どうしてそんな事をあなたに……
「いいじゃない。気になるのよ。いまどきの子がどんなふうに付き合ってるのか」
「いまどきって……
 あなたもおそらく充分『いまどき』の人でしょう、と言いたかったが、アズールはその言葉を飲み込んだ。そういえば目の前の彼女の年齢など知らない。見る限りはまだ20代前半のような気がするが、そうと判断するのも、そうではないと思うのも失礼な気がした。
……告白したのは、一応、僕から、です……
「素敵ね」
「そうなんでしょうか。……ほとんどヤケクソだった。振られると思っていたので」
「あら、どうして」
「勝算が見込めなかったというか……。幼馴染なんです、その人。それまで一緒にいる事が多かったから、僕としては格好がつかない所を随分見られた気がしていて。喧嘩もよくしていましたし」
 いっそ呆れるほどに弁が立つんです、そいつ。
 思い出して笑い混じりに告げれば、彼女は柔らかく微笑んで相槌を打った。
「外ヅラは良いくせに……僕には嫌味や皮肉ばかりで。僕もそれで黙っていられない性格をしていたので、それで、すぐに喧嘩に。でもそういえば、お互い手が出たことは一度もありませんでした。怒鳴り合いになってもう口をきかない、なんてことも一度も無かったな……。さすがに今は『喧嘩』と表現するような言い争いの頻度は減りましたけど、嫌味の応酬は日常的と言っていいほどありますし、向こうは昔から頑固でわからずやで自分勝手で……本当に、たちが悪いことこの上無い」
「じゃ、その人のどういうところを好きになったの」
 笑いを噛みながら問われたそれに、アズールは思わず呻いた。
……絆されたと言うしか……
「それで、今も絆されたまま?」
 彼女の言葉にはくすくすとした笑いが混じっている。
 ぐぅ、と少し歯噛みして、アズールは観念する気持ちで口を開いた。
……優しかったんです。……いや、今もか……
 優しいのね、と彼女が繰り返す。
 つられるようにして、言葉が滑り落ちた。
…………僕が一人だった時に、声をかけてくれたんです。冷たくあしらったのに、全く懲りる様子がなくて、その後も何度も……。向こうも、最初は純粋な優しさで僕に声をかけたのではないと思います。でも……そのあと、まともに言葉を交わすようになってから、あいつは確かに優しかった。喧嘩はしましたけれど、それでも、僕はあいつに傷付けられたことは、無い……のだと、思います」
 頭に血が上るような事を言われたことはあるけれど、ざっくりと心を抉られるような言葉を投げられたことはなかった。そのことに今更気づく。
……優しかったんです。昔から……今も」
 さっきも言ったことをもう一度呟けば、バーテンダーの彼女は微笑み、無言で頷いた。
「それで……つい気を許したら、気づけばいつも隣にいるようになっていました。頭が良い奴だったので、色々話しましたし、一緒に色んな事をして……喧嘩ばかりだったとは言いましたけど、それと同じくらい、いえ、それ以上に楽しい時間が多かった。それで……それで、気付いた時には、もう」
 もう、恋をしていた。
 これが欲しい、と思った。あいつが僕のものだったらいいのに、なんて、そんな事ばかり考えた。
「さっきも言いましたが、綺麗な人なんです。話し方や言葉も綺麗で、所作にも品があって。……紅茶を淹れるのが上手くて。料理も出来る人です。運動は……種目によりますけど、まあ、不得意でないものなら、人並みにこなしてますし……。たぶん、一般的に言うなら、『完璧』とか、『理想の』、という言葉が当てはまるんでしょう。そういう人です。……でも、言った通りたちが悪いんです。最悪ですよ」
「あはは、全然イメージつかない」
「たとえて言うなら……ラブロマンスものの映画に出てくるヒロインのような奴です」
 そこでバーテンダーの彼女は思い切りふきだした。アズールは小さく息を吐いて、グラスを持ち上げる。
「いるでしょう。魅力にあふれていて、でも悪戯っぽかったり、少し強引だったり……主人公を恋に落とし、そしてその主人公をさんざん振り回して、でも最後に笑顔とウインクで見逃してもらうような。そういう――
「ダメ、笑い過ぎて苦しい。ちょっと待って」
 そう言った彼女が、肩を震わせた挙句咳き込み始めたので、アズールは口を止めてグラスを傾けた。そっと一口、二口とドリンクを飲んで、見やるようにして彼女を待つ。ふわりと甘い液体を飲みこみグラスを置き直せば、彼女は何度か咳ばらいをして、目の端に浮かんだ涙を拭ったらしかった。
「はぁ、おかしい……なるほど、たちが悪そうね。……特にあなたには」
「誰にとっても厄介な存在ですよ」
「それで、あなたは振り回される主人公?」
「そんな気分になる時がよくあります。いつも振り回されてばかりで。……普段は察しも良いし気も利く奴だというのに、何と言うか……自分に向けられる感情に対してはバカですし。大体、あいつ、頭が良いくせに思考回路がどこかぶっ飛んでるんですよ。普段はおそらく『真面目』と分類されるタイプなのに、突然とんでもない事をしでかす。それも、時によっては大真面目に、ですよ。
――そう、今日だって!」
 言いながらハッとしたように声を大きくさせたアズールに、彼女はぱちりと瞬きをした。
「今日何かあったの?」
「僕が実習に行っている間、あいつ、何も言わずに他の店でアルバイトを始めてたんですよ! 僕には何も言わずに……しかも――アルバイト先に来てみたら、店の看板には『ストリップ・クラブ』と!」
 言葉と共に、アズールはこの店の出入口の方を指さす。
 途端、バーテンダーの彼女は目を丸くし、直後、わかりやすく顔を顰めた。
「やだ、ちょっと待って、あなた勝手にその恋人のこと追いかけて来たの? 悪いけど、そういうことなら店を出てって。どの子のことか知らないけど、あなたのそれって下手すればストーカーだし、私達としてはスタッフを守りたいのよね」
 つまみ出すことはしないかわりに、出ていって。
 強い口調ではないがハッキリと言われて、アズールは「失敗した」と瞬間的に悟った。だがここで抵抗をする意味も無い。少し怯んだものの、わかりましたと頷いて、けれどこれだけはと口を開いた。
「訂正させていただきたいのですが、僕はストーカーではありませんし、この店で何か揉め事を起こす気もありません」
「そう思いたいけど、揉め事を起こす奴って大抵そう言うのよね」
「わかりました。いえ、もう出て行きます。第一、僕が探していた奴は今この店にいないようなので――
 用もなくなりました、と言おうとした時だった。
 店内に流れていたゆるやかなテンポの音楽が止まり、一拍を置いて、まったくタイプの違う音楽が大音量で流れ始める。バーテンダーの彼女が舌打ちした。
「ショーよ。始まっちゃった。こうなったら今は動き回らないで」
 出ていけと言ったかと思うと、ここにいろと言う。
 不満は感じたが反論する気も起きず、アズールはぶすりとした態度でそれに従った。こうなればどうでも良かった。
 先ほど言葉にした通り、見る限りこの店内にジェイドの姿は無い。この店に入った瞬間に店内を見回し――彼女に指摘された通りに――それとなく周囲を窺ってもいたが、ホールを行き交うのは女性スタッフばかりで、ジェイドの姿は見つけられていなかった。
 フロイドから聞いたのは確かにこの店だったが、とは思ったものの、いないのならどうしようもない。アズールとしてもこの店に長居するつもりはなかった。不名誉な分類はされたが、それに反論しようとしていよいよ面倒な客扱いされるほうが嫌だった。
 何だか色々なことがどうでもよくなって、せっかくだから見てやろうか、とアズールがステージを振り返ったのと、ステージの幕が上がったのが同時だった。
 それが良かったのか悪かったのか、アズールにはわからない。
………………………?」
 騒がしく、それでいてどこか『女っぽい』音楽。それから光。
 それらが降り注ぐステージに――6人ほどの女性ダンサーが立っている。
 そして、その中央に。
 なぜか、中央に。
「はぁ!?」
 アズールがあげた声は、その瞬間一際大きくなった音楽に見事に掻き消された。バーテンダーの彼女だけが、眉をひそめるようにしてアズールを見やる。
 ――ショーはチェアダンスを取り入れたものらしい。
 音楽に合わせて一斉にダンと椅子がステージに叩き置かれ、光が滑り行く。
 なぜか、本当に何故なのかセンターにいる男性ダンサーが誰にともなくウインクをして、前列のほうにある座席からキャアと歓声があがった。女性客の声。早々に一枚のマドル札が飛ぶ。
 なぜなのか、本当になぜなのか、女性ダンサーたちとまったく同じ動きの、どこか艶めかしいダンスを平然とこなしている長身の男を見て――アズールは唖然と口を開いたままだった。
「言ったでしょ、今日のショーは特別だから、女性客も多いって」
 斜め後ろあたりから掛けられた声は、バーテンダーの彼女のものだろう。けれどアズールはそれに何も答えられない。口は半開きになったまま動かせないし、目はステージに釘付けになったままだった。
「月に2回くらいかだけ、男性ダンサーが踊るのよね。この店」
 あなたにとっては面白くないかもしれないけど、と言った彼女は、そこでやっとアズールの様子が不自然であると気付いたらしい。
……ちょっと待って、」
 彼女の不審そうな声を塗りつぶして、音楽と光が派手になる。ステージ上のダンサーが身をくねらせて観客たちに笑顔を投げる。ボンテージを思わせるようなきわどいコスチュームーだが下着の一枚も見えはしない――を着て踊る女性ダンサーに対し、センターを陣取っている青年の服は、あまりにも普通なものだ。白いシャツに、黒のスラックス。黒い革靴。けれどそれゆえに、一つだけボタンがあけられている襟や、ややいいかげんにたくし上げ巻かれている袖から見える肌が、妙に色香を放っていた。派手な色の光に照らされて、海色の髪がキラキラ光る。
 観客の誰かと目が合いでもしたのか、一瞬、彼が悪戯っぽく笑みを深めて、また悲鳴のような歓声があがった。品の無い口笛が一つ、二つ。それから、どこかの席の男性客の、はやしたてる声。マドル札がまたステージに向かって飛ぶ。
 アズールはそれを愕然とした思いで眺めている。何も言えないまま。
「まさか、あなたの恋人って――あの子なの?」
 油切れの機械のような動きで振り返ったアズールを見て、バーテンダーの彼女は眉尻を下げた。溜息を一つ。
「なるほどね。じゃあ、ちょっと話は変わってくるかしら」
 彼女は言葉をかけてきてくれるが、アズールは何も言えない。口の中がからからに乾いていた。脳内では「!」と「!?」のマークが浮かんでは消えていく。
――アンジェロ!」
 突然に、彼女がよく通る声で誰かの名を呼んだ。そうしてバーカウンターの中からステージへ向かって、手を大きく一度だけ振る。
 それがこの店においてどんな合図になっているのかアズールにはわからない。
 けれどその時、確かに、確かにステージ上の青年がこちらを――バーカウンターへと視線を向け。
 そうして、一瞬。本当に一瞬だけ、「あ」という表情をした。
 その瞬間だけ、彼は確かに、アズールが知っているジェイド・リーチだった。


 ――ショー開始の1曲目が終わると、男性ダンサーの役目はそれで終わりらしかった。
 ステージでは続けて2曲目とダンスが始まっているが、そこには女性ダンサーしかいない。
「さすがにウケるのは1曲分だけよ」
 そう説明してくれたバーテンダーの彼女は、もうアズールを追い出す気は無いらしかった。それどころかアズールのあまりにも呆然とした様子を憐れんでか、水が入ったグラスを出してくれたほどだ。
「さすがに水代は取らないから、飲んで、ちょっとは落ち着いたら?」
 肩を叩かれて、アズールはわけもわからないままそのグラスを手に取って、一口水を飲んだ。
 ホールでは、1曲目のダンスを終えた女性ダンサー達が各席を回って歩いている。カップルと思しき客席は避けて、一席ごとに何事かを聞いて回っているようだった。
「ああやって、ステージから降りたら『ラップダンスを踊ろうか?』って聞いて回るの」
 聞いてもいないのに説明してくれたのは彼女だった。
 その説明につられるようにして、だんだんとアズールの意識も混乱が覚め始める。
……ラップダンス?」
「『スペシャルルーム』……個室での特別ダンスって感じかな。チップ次第だけど、さっきも言った通り、トップレスで踊るまでならOKよ。ダンサーに触れるのは禁止だけどね」
「な、……
「安心してよ。彼はそういうのも無し。大体、彼は本当はホールスタッフだしね」
「ショーに出たところで、日当でいくらかいただける程度ですしね」
 突然に付け足された声と言葉に、アズールはまた衝撃を味わう。
 わかってはいたが声がしたほうに振り返れば、そこに、先程までステージでダンスを披露していた青年が――ジェイドが立っていた。
――、」
 瞬き2回分。
 アズールが唖然としたのはその間だけだ。
 素早く席から立ち上がったアズールを見て、ジェイドは瞬時に察したのだろう。半歩下がろうとしたので、それよりも先にジェイドの手を掴み、止める。
「今日をもって辞めろ。帰りますよ」
「おや」
 アズールの言葉など予測できていたのだろう。さして驚いた様子もなく、ジェイドはただ苦笑した。その態度が逆にますますアズールを動揺させた。
「っ……言いたいことは色々ありますが、とにかく、今すぐにこの店を出ろ」
「そういうわけには。できるだけアズールの指示に従いたいとは思いますが、一応今の僕は勤務中で、この店にはこの店の支配人がいます」
「ならその人に今すぐ辞めると言ってきてください。大体、知らないはずがありませんよね? 学園は――
「アズール、その話はここでは……
「言ってる場合か……!」
「ちょっと、他の客に見えないところでやって」
 言葉を挟んだのはバーテンダーの彼女だった。反射的にそちらへと振り向けば、彼女が視線だけで周囲を見回す。何だと思ってアズールも同じようにすれば、周囲の客が数人、こちらを野次馬のように窺っていたのがわかった。
 それに舌打ちをしたところで、今度は別方向から別の女性の声がかけられた。
「アンジェロ! 部屋貸そうか? おいでよ」
 振り向けば、そこにはダンサーと思しき女性が一人立っている。店の奥――おそらくバーテンダーの彼女が言っていた『スペシャルルーム』なのだろう――個室と思しき小さな部屋の前で、片手でその部屋の扉を開けながら、彼女はジェイド達を手招きしていた。
 アズールが身を固まらせている間に、ジェイドがそれに返事をする。
「僕、スペシャルルームのチップを取られます?」
「取らないでいてあげる」
「なら、」
 ジェイドが何かを答えるよりも先に、アズールは掴んでいたジェイドの手を引っ張って、そちらへと向かった。
 女性スタッフ達のあまりにもテンポの良いやりとりや、ジェイドがもうすっかりこの店に馴染んでいること。そういうものに呆気に取られはしたけれど、今はとにかくジェイドをこの場から引っ込めたかった。アズール自身にもわからない――ただなにか、これ以上この男を他の奴の目に晒してたまるか、という焦燥が胸の内を焼いていた。
 アズールのそんな胸中を知りもしないジェイドは、ぐいぐいとアズールに引っ張られるままになっている。
 ジェイドを引きずるようにしてずかずかと迫ってくるアズールに気圧されたのか、扉前にいる女性はパチパチと瞬きをして、けれどアズール達をすんなりと部屋の中に通してくれた。
 途端、視界いっぱいに派手な赤色が広がる。外からではわからなかったが、部屋の中の壁は赤一色となっていたらしい。床は黒く、油っぽい汚れが少し見える。部屋の中央には銀色のポールが1本立っていて、あとは3人掛けのソファが一つ。
 部屋の中に入りはしたものの、『わかりやすい』内装にアズールがつい怯んだところで、この部屋に案内してくれた女性が扉を閉めた。
……落ち着いて話せそう?」
 内側――何故かこの部屋に、ジェイドとアズールと共に入った女性が、腰に両手を当ててそんなことを聞いてくる。
 それで、アズールはのろのろとその女性へと振り向き、咳ばらいを一つした。
……その、すみません、チップを払いますから出て行ってください」
 途端、目の前の女性は目を見開き、唇を引き結んだ。アズールの隣では思わずといったふうにジェイドがふきだし、慌てた様子でそれを無理矢理に抑え消している。
……初めて言われたわよ、そんなこと」
 じっとりとした視線と共に恨めし気にそう告げて、彼女は結局、アズールからチップを取ろうともせず部屋を出て行った。
 扉に一つついている丸い小窓からその背中を見送って、アズールはすぐにジェイドへと向き直る。
 スゥと息を吸えば、ジェイドが自らの片手で片耳を塞いだ。
「何やってる!」
「何って、アルバイトを」
 平素の微笑すら保って答える声は、やはり平然としている。
「何で……よりによって、こんな店で! あんな……こんな仕事を!」
「元はただのホールスタッフ兼ガードマンです。仕事もその仕事しかしていませんよ」
「ステージ! さっきの!」
 じゃあさっきのステージは何だったんだ、というアズールの言葉は、動揺のせいであまりにも端的で、稚拙な表現になった。
 けれどジェイドには充分伝わったらしい。「あれは……」やや気まずそうに言葉を濁したジェイドは、そこでやっと眉を下げて見せた。
「本当に間の悪い時にいらっしゃいましたね……
「間が悪い⁉︎」
 どういう意味だ、と激昂しかけたアズールを宥めるように、ジェイドが首を横に振った。
「あれは……月に2回あるかないか程度の、特別なイベントみたいなもので……毎日僕が踊っている訳ではありませんよ。ここは女性が踊るストリップ・クラブですからね」
 じゃあ何でだよ、と言いかけたアズールの言葉を遮って、ジェイドが言葉を重ねる。
「ええ。本当は、と言うか……僕がアルバイトとして働き始めた頃は、ダンサーは女性だけでした。店もそれを売りにしていましたし。ただ……少し前に、女性ダンサーが1人、ショーの当日に突然欠勤することになってしまって。どうしても人員が足りず、かと言ってショーを中止するわけにもいかず、急遽僕が代理を。もちろん、最初は完全な『ネタ』扱いとしてですよ。ですが、それが意外にも好評だったものですから……
 ジェイドの説明を聞けば聞くほど気が遠くなりそうだった。くらりと目眩すらしそうな心地の中、けれどアズールは納得する。
 ああそうだろう、そうでしょうとも――。この綺麗な男が、あのしなやかな肢体で、蠱惑的とも言えるようなダンスを踊るのだ。それはさぞかし好評だっただろう。それもおそらく、見事に踊りきったに違いない。兄弟の影響か知らないが、ジェイドは海でも陸でも難無くダンスを踊れていたから。それはもう、男女問わず大変に好評だったに違いない。
 アズールはそう納得したが、一方のジェイドは肩を竦めて呆れたような笑いをこぼした。
「190センチの男が踊るわけですから、皆さん面白がるんでしょう」
……どうだか」
 多分そういう理由ではない、と確信しながらも、アズールは曖昧な返事しか出来ない。
 はぁ、と溜息を吐き出せば、ジェイドは「おや」と呟いた後、たった今気にしたというように室内をぐるりと見回し、それから少し首をかしげた。
……そういえば、ラップダンスを?」
「いらない!!」
 何でそうなるんだよ、と叫びかけたところで、アズールはまたもやハッとした。
……っ、待て、まさかお前……他の人間にいつも、」
「したことありませんよ。するわけないでしょう。それに先程も言いましたが、僕はホールスタッフ兼ガードマンですよ。ダンサーではないのですから、まずそう聞いて回る必要がありませんし、第一、誰が僕にラップダンスを踊らせようと思うんです」
 きっと需要はあるのだろう、とアズールは思う。思ったが、口にするのも嫌だったので口にしなかった。その代わりにと、ジェイドの手首をがしりと掴んだ。
「今日限りでこの店は辞めさせる。店長に直談判するし、賠償が必要なら立替えてやるから今すぐ着替えろ」
「立替えなんですね」
「当たり前だろ!」
 何で僕がお前が勝手にやった事の落とし前をつけてやらねばならない、とアズールは頭を掻きむしりたい気持ちになる。
 騙されただとか無理矢理働かされたならまだしも、ジェイドは自らの判断でこの店で働いていたのだ。それも、アズールが知らないうちに。
 それについて何故僕が、といらいらとしたところで、「まあ」と聞き慣れぬ声が耳に届いた。
「嫌ぁね、かっこ悪い」
「自分勝手な男よね」
「まだお子様なのよ」
 声がした方へと顔を向ければ、いつの間にかこの部屋の扉が10cm程の隙間で開けられており、そこから3人の見知らぬ女性の顔が覗き込んでいる。
 ここまで来ると、もう驚きも無かった。
 アズールは辟易とした気持ちで黙り込み、代わりにジェイドが扉へと近付きながら言った。
「仕事をしなくていいんですか? オーナーに減給されますよ」
 言葉と共に扉はジェイドによって大きく開け放たれ、そこに立っていた女性たちがキャアと笑う。もうわかりきっていたが、店の女性スタッフ達だろう。3人共同じ、派手な衣装を着ている。
「もうすぐ出番では?」
 ジェイドが彼女たちに言葉をかける。しかし彼女たちはジェイドの言葉を無視するように、部屋の中をのぞきこみ、部屋の中にいるアズールへと言葉を発した。
「ママは『今回だけ見逃してあげる』って」
「でもアンジェロを連れて行くなら話が必要よ。頑張って」
 そう告げた彼女が、バチリと音がしそうなウインクをする。
 応援してるわ、と言い残して彼女たちはキャアキャアと扉前から去っていき、それを見送ってから、アズールは胡乱な目つきを自覚しながらジェイドを見上げた。
……『アンジェロ』?」
……それについては、後ほど説明しますので……

  ◇

 結局、アズールが同席のうえでジェイドはこの店の『ママ』と話し、即日で『自主的な退職』ということになった。
 通常ならばまず認められない話なのだろうが、そこはジェイドがまだ学生である事、NRCという学園が校則として風俗店でのアルバイトを禁止している点、そしてこの店がアルコールを提供している、という点が要となった。
 ジェイドは既に19歳であるし、この店でアルコールを口にした事は無かったので法には触れないが、ようは店にとって『面倒ごとになりそうな要素』が詰まっている。たとえば、ジェイドは法には触れずとも校則は破っていて、それについてはジェイドが店側に虚偽の申請を――アルバイト先を制限する校則は無いと――していたので店も騙されたことになるのだが、それについて学園が店側に『文句』を言おうと思えば言えるのだ。更に言えば店はアルコールの提供もしているので、そこを怪しまれてはかなわない、というところだ。ジェイドがこの店でアルコールを摂取したことはない、というのは事実だが、その事実を証明するものも無い。いちゃもんをつけようと思えばつけられる。……そこまで来ると、店としてはジェイドに出て行ってもらいたい、となるわけだ。
 そういった事をアズールが丁寧に、幾つかの例や実際にあった問題などを用いて『ママ』に説明した結果だった。その隣でジェイドは「せめてあと1週間はここでアルバイトを続けたいのですが」とごねたが、それは『ママ』も嫌がった。
「さっさと出て行きな。今まで分の給与は支払うかわり、何も聞かないし、何も言わない。それで手打ちだよ」
「そんな……しくしく」
「言ってる場合か、このバカ」
 アズールの横でわかりやすい泣き真似をしたジェイドに、この店の『ママ』はフンと鼻を鳴らした。
「それで見逃してやるって言ってんのさ、バカタレ」
 ふぅ、と煙草の煙を吐き出した彼女は、その後思いだしたように煙草の火を灰皿に押し付けた。まだ十分な長さがあったはずだ、と不思議に思ったアズールへと、彼女の視線が向けられる。
 どこか柔らかな目が、アズールを見て、それからその隣のジェイドを見やって、ふっと呆れたように緩められて。
 それで、何となく察せられるものがあった。
 おそらく彼女の中で、アズールとジェイドは『子ども』に分類されたのだろう。煙を吸わせてはいけないな、と思うくらいの、庇護対象として。
 気圧されるほどに自由に振る舞っていた女性スタッフ達を思い出す。ああも活き活きといられるのは彼女がオーナーだからなのだろうな、とアズールは思った。

 ◇

 ジェイドが辞めて出ていくとなって、店の裏口は十数人の女性スタッフ達で混みあった。
「えー、寂しくなるわ」
「アンジェロがいてくれるととっても安心できたのに」
 口々に別れを惜しむ言葉をくれる彼女達の後ろでは、まだショーが続いている。
「あなた次が出番では? もう袖に上がっているべきでしょう」
「大丈夫よ、すぐ行くから」
 そう言ったダンサーの一人が、慣れた仕草で容易くジェイドの頬にキスしていくものだから、見守っているアズールは気が気ではない。
 バーテンダーの彼女だけがアズールの心境を察してくれたらしく、「苦労するわねぇ」と笑った。「ま、大変そうだけど頑張って。ママからあの子を取り返したガッツは評価できると思うし」
「別にそういうわけでは……」「あら。わざわざ連れ戻しに来たんでしょ」バーテンダーの彼女の言葉を聞きつけたのだろう、「そうなの!?」と他の女性達が笑う。
「アンジェロ、ねぇ、卒業したらまた来てね。なるべく早くに。じゃないと私いつまでここで踊れるかもわかんない」
 アンジェロ、元気でね、また来てね、バーイ、お幸せに。
 色とりどりの声と、アクセサリーに彩られた手達を振られながら、アズールとジェイドはその店を後にした。アズール達が1ブロック先で曲がるまで、彼女たちは入れかわり立ちかわりで裏口へとやってきて、何度もアズール達に賑やかな声を送ってくれた。
 また来てよ、楽しかったわ、お幸せに。
 1ブロック先を曲がってからやっとその声は静かに遠くになって、そこでやっとアズールはふぅと息を吐き出した。嫌な気分ではないが、いささか疲れている。
 来る時には薄闇であった風景は、今はもうすっかり紺色に染まっている。時計を見れば、アズールが店に入ってから3時間以上が経っていた。薄いオレンジ色の外灯が、黒い路地を照らしている。
……『アンジェロ』?」
 ふっと隣へと呼びかければ、はぁ、と溜息だか呼吸だかわからない音があった。白い息が流れて消えていく。
……由来について話すと長くなりますが……僕があの店で働くようになったきっかけが関係しています」
 ゆっくりと言葉を紡いだジェイドを、アズールは視線だけで見上げる。
 一拍を置いて、ジェイドは心外だというように眉を上げてアズールを振り向いた。
「まさか、僕がアルバイト先を探すにあたって、いきなりあの店を選んだと?」
「そういう事もあるかなと」
 思ったままを言えば、ジェイドはますます目を丸くさせて、それから苦笑した。
「色々と経緯があるんですよ」
「ほう。聞きましょうか」
「アズール、あなた怒ってますね……
 当然でしょう、とアズールは言ってやる。
 随分と勢いは和らいだけれど、いまだ胸の内にちらちらと燃えるようにしてある怒りをあらわして鼻をならせば、ジェイドは少し黙った後、経緯を話し始めた。

 話はこうだ――
 先月、実習のためにこの土地にやってきたジェイドは、実習をしながらもこの土地でアルバイトをしようと考えた。もともとアルバイト自体は校則で禁止されていないし、実習期間中は通学する必要も無いので時間もある。モストロ・ラウンジは4年生進級時に後任の者に任せているし、一応支配人はまだアズールのままだが、そのアズールも実習に行っているのだからジェイドの仕事も無い。ちょうど一時的に金銭に困っていたのもあって、ジェイドはこの土地で、なるべくすぐに働ける場所を探すことにした。
 そうしてどこか雇ってくれる店は無いかと、散歩を兼ねて夕方の街をぶらついていたら、そこで、酔っ払いに絡まれている女性を見つけたという。
「咄嗟に彼女の知り合いのふりをして話しかけ、酔っ払いを追い払ったんです」
 すると、その女性が「御礼にドリンクでもご馳走するわ。店がすぐ近くなの、一緒に来て」と言う。ジェイドはそれを断ろうとしたが、続けざまに「それに、さっきの男、まだこっちを見てる。ここで離れたら嘘がバレるわ。お願い、私のためにも一緒に来て」と言われて、断れなかった。実際、女性が視線を向けた先にはまだ先程の酔っ払いがいて、確かにジェイド達の様子をうかがっていたのだ。
 そんなわけで、ジェイドはその女性に連れられて、繁華街の端にあるような店に入った。来てみれば女性が働いているという店はストリップ・クラブで、ちょうどその時は始業準備中だったそうだ。だから女性も自分を連れて来れたのだろう、とはジェイドの言葉だった。
「高価なものでなければ、好きなものを頼んで」そう言って彼女はジェイドをバーカウンターに座らせ、それを見たバーテンダーが「その子は?」と彼女に聞いたそうだ。
 その時に彼女が言った事がこうだった。
「そういえば名前はまだ知らない。でも彼は私の守護天使様 アンジェロなの」
 アンジェロ。
 そこでその名前の登場である。

「結局、一番安いモクテルを注文しながら、飲み終わったら店を出て行こうと思っていました」
 事の次第を話していたジェイドが、そこでほんの少し笑う。
「でもそうはならなかった?」
 アズールが先を促すと、ジェイドはニコリと笑う。ええ、と答える声。
「ドリンクを飲みながら何とはなしに店内を見回したところで、アルバイトスタッフ募集の張り紙を見つけまして」
 ――あの張り紙はまだ有効ですか?
 ――そうだけど。あんた、働きたいの?
 ――ダンサーは無理ですが、ホールスタッフなら。
 そんな会話をしたらしい。
 その時、すかさず「ホールだけなら女の子だけで間に合ってるよ」と言葉を挟んできたのは、例の『ママ』だったという。
 けれどそれに対し、ジェイドを店に連れてきた女性が言った。
 ――ママ。彼さえ良いなら、彼についてはホールスタッフ兼ガードマンにしちゃいなよ。タッパがあるし、見た感じ体つきもしっかりしてるから、存在感はバッチリよ。酔っ払った男にはきっと効果覿面。私が保証するわ。
 きわめつけに彼女が「チップもなしに何度も私たちに触ってくる奴は、ママだって嫌いでしょ?」と聞けば、そこで『ママ』は溜息を吐いたらしい。
 ――……あんた、名前は。
 投げられた問いに、ジェイドはこう答えた。
 ――では、『アンジェロ』と。

…………はぁ……
 一通りの話を聞き終えたところで、アズールの口からは溜息しか出てこない。
 一方のジェイドは何故か話すごとに嬉々とした様子を取り戻し、にこにことした笑顔で話をしめくくった。
「後は先ほど説明した通りです。最初はホールスタッフ兼ガードマンとして働いていましたが、色々あったあげく、ステージに上がるようにもなって」
 ここまで来ると、怒りを通り越して呆れてくる。
 はぁ、とまた溜息を追加してしばし黙った後、アズールはじとりとジェイドを見やった。
「というか……そんなに金銭に困窮してたんですか……?」
「タイミングが良かった、という理由が一番大きいですが、まあお金が必要だったのも事実です」
「何で……
「実は先日、どうしても欲しかった登山グッズを買いまして。ただそれが結構高額なものだったので……
 にこにこと笑いながらそう言ったジェイドに、悪びれた様子や反省している様子は無い。欠片たりとも無かった。
 アズールは思わず口を半開きにする。怒りと呆れのあまり声が出なかった。
 結局アズールが出来たこととは、盛大なしかめっ面で、口を開いたり閉じたりすることだけだ。
 悲鳴のような怒声のような、罵声のような無茶苦茶な感情はぐるぐると胸中にうずまいているのに、それらがあんまりにも無茶苦茶なものだから、どれも声となって出てこない。
 ぐぅ、と呻いて口を閉ざし拳を握りしめたアズールを見て、ジェイドはやっぱりにこにこしている。
 その様子が普段とは違う――本当に喜んでいるのだと気付いて、その瞬間、アズールの無茶苦茶な激情は、何だかへにゃりとしなびてしまった。
 吐き出すことも叶わないままぶすぶすと燻り終わったものが、胸中をどろりと汚す。
……お前、何がそんなに楽しいんだ……
 いっそ泣きたいような気持ちでそう尋ねた時だった。
 アズールとしてはまともな返答があるとも思っていなかったのに、ジェイドはパチリと瞬きをして。
 それから、蕩けるように笑った。
「ふふ、すみません……アズールが、僕を連れ戻しにわざわざこの土地にまで来たのだと思うと、おかしくて。それに……久しぶりにアズールの顔を見たものですから」
――、」
 そういえばそうだった、と今更のように気付く。
 そうだ、お互いに実習期間中だった――違う土地にいたのだ。学園からも遠く離れて、国すら違った。スマートフォンなどでやりとりはしていたけれど、顔を合わせるのは、そう、久しぶりだ。
 まあ、その久しぶりの再会が、ストリップ・クラブとなったわけだけれど。
……数週間ぶりに恋人に会いに行こうとしたら、その兄弟から『クラブでアルバイトしてるらしいよ』と教えられ、あげくその店に行ってみたらクラブはクラブでもストリップ・クラブで、おまけに恋人がその店のステージで踊っていた、という僕の気持ちがお前にわかります?」
「おや、アズールから見て、ステージにいる僕は魅力的ではありませんでしたか?」
「そういう話をしてるんじゃない!」
 わっと声を荒げれば、夜の街に音が響いていく。
 しまった、とアズールがすぐさま口を閉ざせば、隣からはクスクスと軽やかな笑い声が聞こえた。
……ああもう、本当に……、」
 たちが悪い。
 くそ、と悪態を吐いてから、アズールは息を吸った。
 深呼吸を一つ。
――ジェイド」
 名を呼べば、隣の男はすぐさま反応した。学園で一緒に過ごしていた時の通りのまま――何の警戒も無く、アズールへと振り向き、指示を受けようと顔を寄せてくる。そういうところは一切変わりない。アズールとジェイドが共に過ごしたぶん、きっちりと定着している。
 自らのほうに近付いた綺麗な顔に手をのばし、その後頭部に手を回せば、その一瞬ジェイドは驚いたようだった。見開かれた目を確認して、アズールは満足する。
 やや勢いを保って、それでも歯は当たらずに、ただしっかりと唇を合わせる。二度三度と角度を変えてキスする度にジェイドの体の強張りが解け、アズールが満足して唇を離す頃にはもう、目の前のヘテロクロミアはとろりとしていた。
 可愛い、と呟けば、その長身がぎくりと強張った。それを抱きしめて、アズールはそっと囁く。
「折角この土地まで来たんです。今日一晩くらいは一緒に過ごせますよね?」
 告げた言葉でじわじわと顔を赤くさせていくさまは、ステージで色香を放ち踊る姿から想像も出来ないだろう。
 そう思うと愉快な気持ちがこみあげてきて、アズールはこらえきれずに肩を震わせて笑った。
 この、とアズールの腕の中でじたばたと抵抗し始めたジェイドは、アズールがよく知っている、アズールだけのジェイドだった。