夜之 夢
2021-09-20 21:08:31
17468文字
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うつぼ・ねこ・うつぼ

アズジェイ。特に意味もテーマもない、ただ書きたかったので書いた、ジェイドが猫に変身するネタ。
全部捏造。※現実ではツナ缶は猫に与えないほうがいいです。


 成功すると同時に「やってしまったな」とジェイドは思った。変身魔法のことだ。
 図書館で借りた本に書いてあった、変身魔法。魔法薬を使わずに姿を変えるそれはかなり高度な魔法とされていて、興味本位で試したところで簡単には成功しない、という注意書きがきちんと書かれてあった。
 その魔法を成功させたい理由は無かったが、「まず無理」と言われたならばとにかく試してみたくなるのはどうしようもない性で――おそらく人間レベルの思考を持っていれば皆そうなるのではないかとジェイドは考えている――それを読んだジェイドもまた「やってみようか」という程度に興味を持った。
 ダメでもともと、けれど準備は念入りに。
 何度もその本を読んで呪文の発音を練習して、そうしてさあ遊んでみようかと、寮の自室で記念すべき一度目の挑戦で――それが呆気無く成功してしまったのだ。
 そんなわけでジェイドは今、どこからどう見ても完璧な、ただの黒猫だった。
 わざわざ「猫に化けよう」と思った理由は特に無く、本にあった『手始めに猫など』という言葉に従ってそうしただけだった。黒猫となったのは、猫と言われてすぐに思いついたのがグリムであったせいだろう。
 四足歩行は辛かろうと思っていたが、骨格やら筋肉までもが猫のそれとなっているせいか、不思議としっくりくる。事前に用意していた姿見を確認すれば、そこに映っているのはやはりどこからどう見ても黒い成猫であり、瞳は両方ともアンバーと化していた。本来のヘテロクロミアではない。瞳の色まで変わることを不思議には思ったが、元の瞳の色が変身後の姿にも反映されればすぐにジェイドだとバレるので、これはこれで都合が良かった。
 試しにと「さてどうしましょうか」と呟いてみれば、にゃおおぅ、という鳴き声が漏れた。おそらくこれは動物言語に長ける者にはわかるのだろう、と判断する。
 ――折角です。少し学園内を散歩してみましょうか。
 寮内にいたところで、おそらく今のジェイドをジェイドだと察する者はいない。『どこからか入り込んだ猫』として寮から放り出される前に、学園に行ってしまったほうが得策だと言えた。少なくとも学園であれば逃げ場はいくらでもある。
 ――そういえば、今日は土曜ですがアズールは学園に行っているんでしたっけ。
 今の姿であれば、アズールもジェイドに気付くまい。遠目からアズールの様子でも観察してやろうと考えて、ジェイドは自室の扉を振り返り見た。足元には自分が着ていた制服の抜け殻が落ちている。それをふかふかと踏み越えて、ジェイドは部屋のドアへと近づいた。ドアには分厚い辞書が挟まれ、10cm程の隙間が作られている。ジェイドがしたことだ。最初から変身魔法が成功するとは考えていなかったため、失敗してとんでもないことになったら助けを呼べるようにとしていたことだが、それが幸いした。そこからぬるりと猫の体を滑り抜けさせて、ジェイドは廊下へと出た。
 念のためにと左右を確認すれば、幸いなことに目撃者はいない。
 たっ、と廊下を駆けて、ジェイドは寮の鏡を目指した。

 オクタヴィネル寮と学園を繋いでいる鏡は、猫となったジェイド相手にもその効力を正しく発揮した。鏡舎の鏡から猫が飛び出したのを見た数人は驚き戸惑った様子だったが、ジェイドがそれを無視して駆け抜ければ、さすがにジェイドを追いかけて捕まえるような者はいなかった。
「今のって猫?」
「どっから出てきたっけ」
「オクタヴィネルだったよな?」
 そんな言葉を背中に、通い慣れた道を駆け抜ける。鏡舎を抜けてしまえば、後は簡単だった。
 そもそもNRCの敷地内にも野良猫はチラホラと存在している。決して多いわけではないが、姿を見かけること自体はジェイドもあった。そんなわけで、ジェイドが鏡舎から学園までの道を歩いていたところで「あ、猫だ」と見たまんまの感想をもらうくらいで、特に困るような事態にはならなかったのだ。
 ――アズールを見つけることは出来るでしょうか。
 別にそれを何より期待したわけではないが、今のジェイドにとってはそれが唯一の達成目標でもあった。元々が遊びで試して、うっかり成功してしまった変身魔法だ。その程度の達成目標でも決めなければ猫になったところで特に意味は無い。
 お行儀よくメインストリートの端を歩き、普段の登校の道順どおりに本校舎へと入る。
 土曜日であるため生徒の姿はほとんど無いかと思ったが、校舎にはジェイドが想像した倍以上は生徒がいるようだった。それを不思議に思ったが、一階の廊下を歩いていた者の会話を盗み聞けば、どうも魔法史と魔法薬学の補習があったらしい。先日に行われた小テストの結果によるものだろう。
 ジェイドは補習など体力育成の授業でしか課せられたことが無いため、これほどの生徒が補習対象になったのか、と驚くばかりだ。決して「大勢」というわけではないのだろうが、廊下を歩いて数メートルおきに2人組か1人の生徒がいる。
 さてオクタヴィネルの寮生はこの中にいるだろうか――などと歩きながらも窺っていたところで、ふと廊下の奥に見知った姿を見つけた。アズールだ。何故かはわからないが、その隣には運動着姿のリドル・ローズハートがおり、二人してこちらへと歩いてくるところだった。
 おや、と思い、ジェイドは足を止める。「猫じゃん」ジェイドの隣を通り過ぎながら、2人組の生徒が呟いた。一人気付く者が出たことで、他の者達もジェイドという猫に気づいたらしい。「あ、ほんとだ。猫」「校舎ん中まで入ってきてんの珍しいよな」「うわ、猫だ」さまざまな声と視線がジェイドに注がれながらも通り過ぎていく。中には鳴き声を真似て声をかけてくる者もいたが、ジェイドはそれをちらと見やったのみで反応しなかった。
 そうする内にも、アズールとリドルはジェイドの方へと迫ってきている。
「悪かったね、手伝わせてしまって」
「いえ。お手伝いできて何よりです」
「君のことだろうから、『貸し』にはしているんだろうけれど……
「まさか。心配のあまり、つい手助けしてしまっただけですよ」
 ニコニコと笑うアズールに対し、リドルは呆れたようにため息を吐いている。リドルの手首には白い包帯が巻かれてあり、おそらく二人の会話はそれによるものだろう、とジェイドは理解した。
 おおかたリドルが部活動中に軽い怪我をして、処置をしようと校舎に戻ってきたところで、偶然アズールに会いでもしたのだろう。それでおそらくアズールは、リドルの手当をするかリドルを手伝うかしたのだ。もちろんそれは「恩を売る」という打算があってのことだが。
 ――アズール。
 呼びかけようとして、ジェイドは咄嗟に口をつぐんだ。おそらくアズールとリドルには自分の言葉が理解されてしまう、とハッとしたからだ。
 黙したまま大人しく廊下に腰を下ろす。前足だけをついた状態でペタリと座れば、ふとその時にリドルがジェイドの姿を見た。
「猫……? 珍しいね、こんな所まで迷い込むなんて」
 距離2メートル、といったところだろうか。ジェイドという猫に気づいたリドルが歩みの速度を落とし、それと同時にアズールもジェイドへと視線を向けた。
 ジェイドは緊張しなかった。自分で鏡で確かめた通り、ジェイドは今完璧な猫なのだ。誰かに正体がバレる、その心配が一切無かった。
 案の定、アズールはジェイドを見ても「あぁ」という程度の感想しか口にしなかった。
「本当ですね」
 単なる同意でしかない返事をアズールがしたところで、また、ジェイドの横を通り過ぎた生徒の一人が「にゃーん」と気持ち悪い鳴き真似を寄越してくる。
 さらには別の一人がとうとうジェイドの方へと手を伸ばすようにして寄ってきたので、ジェイドはそれをするりと避けて前に進んだ。リドルとアズール達の方へ。
「あ、逃げられた」
「こら、君たちやめないか」
 ジェイドに触れようとした生徒へと、リドルが窘めの言葉をかけた。
「いや、外に出してあげた方がいいのかと思ってさ」
「だとしても、近づき方が下手すぎる」
 そんな会話がなされたが、ジェイドに触ろうとした生徒は本気で悪意がないようであったので、ジェイドは必要以上に逃げることをせずそこで足を止めた。ちょうど、アズールとの距離が1メートルほどになる。今更のように気づいたが、アズールを見上げる――それも、随分と下から――という感覚はジェイドにとって随分と面白かった。まじまじとアズールを見上げていれば、アズールも静かな眼差しを返してくるので尚のこと面白い。
 ――アズール、もしかして猫に興味があったのでしょうか。
 今までアズールの口からそういったことを聞いたことは無かったが、ジェイド達から揶揄われるのを嫌がって黙っていた可能性もある。
 アズールがあまりにもジェイドという猫をじっと眺めるものだから、ジェイドはそんなことを考えた。
 挨拶程度ならしてやってもバレないかもしれない。たとえば、こんにちは、だとか。それはきっと「にゃお」という鳴き声に変わるし、その鳴き声でさえ動物言語も解するアズールには通じるのだろうけれど。それくらいならば、まあ。
 ジェイドがそう考えた時。不意に、アズールがその脚を曲げて、身を屈めた。猫を――ジェイドを見つめたまま、制服が汚れるのも構わず廊下に片膝をつき、そうして。その革手袋に包まれている右手の、人さし指で。とんとん、と。自らのすぐ前、床を軽く叩いて見せた。
 ここに来い、という指示だとわかる。
 ジェイドはそんな風に呼ばれたことは無かったが、それはそういうサインだった。
 だが、だからこそジェイドは驚いてしまった。おそらくアズールの目には今、目をまん丸にした黒猫が映っていることだろう。
 ――アズール。猫相手にそれは通じませんよ。
 くつくつとした笑いが溢れそうだったが、幸いにも猫の肉体には「笑い声をあげる」という機能はついていなかったので、ジェイドは不自然に一つ、けふ、という息をしただけで済んだ。これが人間の体だったなら肩を震わせて笑っていたところだ。
 ――まあ、いいでしょう。
 面白いですし、と許して、ジェイドはそのままアズールのもとへと寄った。大人しくトテトテと歩いて、アズールが指し示したそこで前脚と後脚を止める。一応すぐに逃げ出せるようにと、腰は床に下ろさなかった。
 黙ったまま間近に迫ったアズールの顔を見上げていれば、その手がそっとジェイドの背のあたりを撫でる。不快ではなかったがそれがあまりにも不思議な感覚で、ジェイドはまたケフ、と小さく息を漏らした。
 遠慮がちに、ジェイドの背をゆっくりと、柔く、やわく撫でたアズールは、やはりその視線をじっとジェイドに注いだままだ。
 ――猫、触ってみたかったんでしょうかね。
 ジェイドはのんびりとそんなことを考えていたのだが、不意にアズールは手を止めたかと思うと、今度はその手でジェイドの顎のあたりを掬い上げた。
 ――なんです。
 思わずジェイドもムッとしたところで、それはあっさりと離された。
「随分と大人しい猫だな……
 そんな独り言がボソリと頭上から降る。
 ――そうでしょうとも。
 呆れる気持ちでジェイドが同意したところで、リドルがアズールを振り返った。
「アズール、君まで何をしてるんだい」
「いえ、首輪をしていないか確認していました。……首輪も、首輪のたぐいをしていた形跡も見られませんが、飼い猫のような気がします。全体的にあまりにも綺麗すぎる」
……なるほど。君が猫に詳しいとは意外だけれど……
「詳しいわけではありませんよ。猫にもあまり興味はありませんし」
 アズールはそう答えたが、かと思えば突然に自らの腕章に手をかけた。
「アズール? 何をしているんだい?」
 リドルと同じようにジェイドも驚いているうちに、アズールは自らの腕章のリボンを解き、外した腕章からリボンだけを抜き取った。水色と薄紫のリボンだ。オクタヴィネル寮であることを示すその色。
 ――何を。
 ジェイドが再び目をまん丸にしている内に、アズールはそのリボンを素早くジェイドの首へとかけ、やわく結んだ。そのことに驚きジェイドが咄嗟に身を引こうとしたところで、やけに真剣で静かな声が降ってくる。「じっとして」不思議とジェイドはその声に逆らえない。ぎゅ、と自らの前足を踏みとどめて体を強張らせれば、しゅるりとジェイドの首のあたりを回ったリボンが、ジェイドの首の後ろで手際よくリボン結びにされたようだった。
 え、とジェイドは体を強張らせる。
 アズールがしたことは、猫の首にリボンをつける――つまり猫に首輪をつけたことと同義であって、アズールが何の前置きもなしに、躊躇いもなくそんなことをしたのが驚愕だったのだ。
「アズール? まさか君、その猫を飼いたいのかい?」
 リドルもさすがにぎょっとした様子だ。
「飼い猫の可能性が高いんだろう?」
 焦ったように言ったリドルに対し、アズールはいたって落ち着いた様子で返した。
「ええ。だからこそです。飼い主が誰かは知りませんし、この猫がなぜ首輪をしていないのか……そういう主義の飼い主であったのか、どこかで首輪がとれてしまったのかは知りませんが、首輪が無いかぎりこの猫は野良猫と判断されます。野良猫となると、やはり皆どうしても勝手な扱いをしようとする。この猫が学園敷地内をうろついている間、他の生徒達が変に手を出そうとしてもいけませんし、無いとは思いますが……先生方が追い払うか駆除しようとしてもいけないだろうと」
 ――なるほど。
 ジェイドは素直に納得した。
 つまりジェイドの首にかけられたこのリボンは、ジェイドという猫を必要最低限守るものであるのだ。こいつは飼われていますよ、手を出さないでくださいね、という。
「な、なるほど……
 リドルもジェイド同様、驚きつつ納得したようだった。
「リボンであれば、この猫が飼い主のもとに戻った時に、飼い主がほどくでしょうから。……それに、この学園敷地内にいる内は、このリボンはそれなりに効力があるはずです」
「何か細工が?」
「いえ。ただのリボンですよ」
 アズールはそう言葉をくくり、ふと自らの胸元にあるマジカルペンに手を添えて、短く魔法の言葉を口にした。ささやくように、一瞬。
 途端、ジェイドの耳元でパチンとハサミのような音がした。本能的にゾッとしたが、見れば、ジェイドの足もとにハラリと落ちるものがあった。リボンだ。アズールの、腕章の。たった今ジェイドの首にまかれている物の、その先。
「元が長過ぎましたからね。あのままでは動きにくいでしょうから」
 躊躇いなく自分の腕章のリボンを与え、あまつさえそれを切って調節してみせた、そのアズールの行為がジェイドは信じられなかった。
 ――そこまでするとは。
 彼、猫に興味があるわけではないと言ったわりには、かなり猫のことが好きでは? などとジェイドが考えたところで、アズールは切れて落ちたリボンを拾い、自らのジャケットのポケットへと入れた。
「その、色々と意外ではあるけれど……良かったのかい? あのリボンは制服の一部だよ」
「購買部で買い直すしか無いでしょうね。まあ、そう高額なものでもありませんから」
 アズールが立ち上がり、徐に歩きだす。アズールの行動に驚き足を止めていた数人も、つられたように歩きだした。
 動きだせずにいたのはジェイドだけだ。
「そういえばアズールは図書館に行く途中だったんだろう。これから図書館に?」
「ええ」
「悪かったね、邪魔をすることになって」
「いえ、構いませんよ」
 ジェイドの前を通り過ぎたアズールが、リドルと共に廊下を行きながら、何も無かったかのように会話を始めている。その背中を見送って、ジェイドは外廊下の床近くからぼんやりと中庭を眺めた。
 ふうわりと吹いた風が、ジェイドの首に巻かれているリボンを揺らす。少しアズールの香りがした。首の後ろでされているリボン結びは、きっと、きっちりと左右対称なのだろう。
「わ、猫じゃん」
 廊下を来た新たな一人が、ジェイドを見てまた同じように声をあげた。少し嬉しげだ。また勝手に手をのばされるのは面倒だ、とジェイドは動こうとしたが、それよりも先に別の声があがった。
「やめとけ。オクタヴィネルのリボンがついてる。……誰かが飼ってんのか? とにかく触らない方がいい」
 あのオクタヴィネルだぞ、と付け足され、もう一人はすぐさま諦めたようだった。
「うわ、本当だ」
 そそくさとジェイドの横を通り過ぎていく二人をちらと見送りながらも、ジェイドは先程のアズールの言葉の意味を理解した。
『この学園敷地内にいる内は、このリボンはそれなりに効力があるはずです』
 アズールのあの言葉は、つまりこういう事なのだろう。
 なるほど、という呟きは「にゃぉ」と細い細い鳴き声になった。
 ――なんだか、色々と想定外なことになりました。
 確かに、いくら猫の姿であるからといって、生徒達に出会うたびに勝手に手をのばされては堪らない。ジェイドとてそれは面倒だったが、こうもあっさりと――それも、アズールによって――それが防がれたとなると、それはそれでどうしていればいいのかわからなかった。
 アズールを見つける、という目標は達成されてしまったし、アズールは図書館に行くと言っていたので、アズールの後をつけても退屈になるだけだ。アズールが図書館に入ってしまえば、猫であるジェイドは中に入ることは出来ず、アズールが館内でどんな風にしているかを観察することも出来ないのだから。
 ――とは言え……
 はた、とそこでジェイドは気づいた。
 アズールのことだ。図書館に用があるといっても、そう長居はしないだろう。あれは図書館を『資料庫』として認識しているタイプで、必要な知識や資料が得られればそれでさっさとその場を後にする。物語の類は借りて自室で読むし、図書館のような、他人の気配がある場所で自習をしたがらないのだ。アズールは。
 ならばアズールの後についていって、アズールが図書館から出てくるまで待っているのもいいかもしれない。
 そう考え、ジェイドはアズールが歩いていった方――図書館の方へと歩きだした。アズールとの距離は随分と離れてしまったが、見失うほどでもなかったので特に慌てずに前脚と後脚を動かす。
「うわっ、猫か? びっくりした」
「げ、オクタヴィネルのリボンついてんじゃん」
 また同じような声を通り過ぎた。

   ◇

 アズールはメインストリートに差しかかったところでリドルと分かれたらしかった。
 そのまま図書館へと歩いていくのが見えたので、ジェイドもその数メートル後をついていく。到着した図書館を見上げてみたが、外から窓越しに中の様子を窺うのは難しかった。窓まで跳び登ればそれも叶うのだろうが、ジェイドはそうまでしてアズールを観察したいとも思わない。少し考え、図書館の出入り口のすぐ傍に腰を下ろした。ちょうど日陰となっているおかげで、心地よい。
 とろりとした日差しに、時折ふわふわと体にあたる風。
 くぁ、と自然にあくびが出た。
 落ち着いたところで改めてジェイドは自分の状態を確認したが、変身魔法が解ける気配はなかった。そもそも魔法薬を使用していない分、魔力さえ持続すれば融通がきく。魔法薬での変身の場合は基本的に効果は時間制となるが、今のジェイドは変身魔法を利用している。つまりその魔法を発動させている魔力が途切れる、あるいは術者の意思で魔力を止めることがなければ、その間変身状態は続くのだ。
 ジェイド自身、自分の魔力の消費を心配したが、現時点で魔力の残量は想像より多く、安定している。今日1日程度ならば問題ないと予測できた。
 ――アズールと一緒に寮に戻って、自室に入ってから変身を解きますかね。
 ジェイドが変身したとき、たしか時刻は10時30分を過ぎた頃であった。今は時計を身につけられないため体感でしか時間をはかれないが、おそらく今は11時前後というところで、アズールも13時か14時には寮に戻るだろう。その程度の時間であればなんら問題はない。
 さてアズールはいつ中から出てくるだろうか、と考えながらも、ジェイドはぼんやりと空を見上げた。澄んだ、気持ちのいい青空だ。スカイブルー、と胸中で唱えて、そういえば彼の瞳の色と同じだな、などと思った。
 風に揺れたリボンから、時折ごくわずかにアズールのコロンの残り香が散る。
 落ち着きませんねぇ、とわざと大きめの声で言えば、「なぉう」という鳴き声になった。

   ◇

 どれくらい経っただろうか。さすがにジェイドが退屈を感じ始めた頃、図書館の方へと歩いてくる人影が見えた。生徒かと思ったが、歩くたびにはためくローブは生徒のそれではない。
 ――おや。トレイン先生ですね。
 真っ直ぐに図書館へと向かってくるトレインは、いつも通りその腕に愛猫を抱いている。その猫がじとりとジェイドを見つめたが、それ以上の反応はなかった。トレインもあまりジェイドを気にした様子がない。
 まあここに猫一匹いたところで珍しくはないでしょうから、などと考え、ジェイドも構わずにそのままでいたのだが。
 トレインは図書館の出入り口前までやって来て、その扉に手をかけたかと思うと――不意に、じっとジェイドを見つめた。思わずジェイドもぎくりとする。
 そのまま見つめあって数秒。バレただろうか、とジェイドが危惧したその時、トレインが口を開いた。
……その魔法を成功させたことは褒めよう。だが、悪戯もほどほどにしておくように」
 ミッ、と思わず声が出た。ぎくりとしたジェイドの感情通りに、少しばかり毛が立つ。それを自覚してますます居心地が悪くなったところで、トレインは一つ笑って扉を開いた。そうして何事もなかったかのように図書館の中へと入っていく。
 ――さすがにバレますか。
 逆立った毛並みがそろそろと落ち着いてくる。扉越しに足音が遠ざかっていき、ジェイドは複雑な心境で腰を上げた。
 生徒相手には騙せるが、教師レベルとなるとそうもいかないらしい。これはあまりうろうろと出歩くべきではないだろう。アズールが出てくるのを待っているつもりだったが、長引くようであれば自らで寮に戻るべきか。そこまで考えて、意味もなくその場で回り歩く。
 ちらと空を見上げれば視界の端に蝶がひらひらと横切り、ジェイドはそれを見やりながら自らのふかふかな手を思った。
 ――狩りの一つくらいしてみましょうか。
 果たして猫の体を思うように動かせるのかどうかはわからないが、折角だ。試してみるのも悪くない。
 ぎゅう、と手に力を込めるようにすれば、きちんと鋭い爪は出た。
 それを確かめて、ジェイドは蝶へと向き直る。海の中で魚を獲る時のように、意識を対象に定めて、呼吸を落ち着けた。そろりと進めた前脚は音もなく地に馴染む。一歩、二歩。
 背後で突然にガチャリと音がして、「うわっ」と声があがったのはその時だ。
 跳び上がるようにして振り返れば、そこにはアズールの姿がある。用を済ませて慌てて出て来たのか、借りたのであろう本が乱雑に脇に持たれていた。
「お前、どうしてここまで……まさか、ついてきたんですか?」
 アズールは一方的にジェイドを驚かせておきながら、一方的にジェイドに呆れたようだった。足もとの猫に対して眉を下げて話しかけ、はぁ、と溜息を吐いて図書館の出入り口を閉める。そうして先程と同じように片膝をついて身を屈め、ジェイドをジェイドと知らないまま話しかけてきた。
「僕についてきても面白いことはありませんよ」
 表情も声も困った風だというのに、伸ばされた手はくすぐったいほどにやわい力でジェイドの頭のあたりを撫でる。
 これはなかなか貴重な体験だな、とジェイドが思ったところで、アズールはすぐさま立ち上がった。本を持ち直して、自らの足もとのジェイドを見下ろす。
「僕は購買部に行きますので」
 猫相手にいちいちそう宣言して歩き出すのが面白い。ジェイドもまた、その後に続いた。

 購買部であるサムの店の前につけば、そこは平日並みの人気があった。なぜ、とジェイドは不思議に思ったが、それも時計を見て納得がいった。ちょうど昼食の時間なのだ。休日の昼食は食堂でも提供されるが、購買部で買って済ませることもできるため、いつもと違う気分を味わいたいがために購買部で済ます者も多い。
……人が多い……
 アズールがぼそりとした文句をこぼしながらも、店の出入り口へと近づいていき、ジェイドもそれについていく。
 だがアズールがドアを開けかけたところでドアは内側から勢いよく開けられ、お構いなしに中から出てきた生徒がアズールとぶつかりかけた。「あ、悪い」咄嗟に避けたその生徒が、今度はジェイドの足を踏みかけて「うわ」と声を上げる。飛びのくようにしてそれを避ければ、慌てた表情をしたアズールが、ジェイドを庇うかのようにして自らの体を移動させた。
「えっ、猫?」
 ジェイドを踏みかけた生徒が戸惑ったようにアズールとアズールの足もとを見比べたが、それは後ろから来た別の客に押し出された。「つっかえてんだよ、早く行けよ」苛立たしげな声に押されて、名も知らぬ生徒はチラチラとアズールを振り返りながらも歩いていく。その背中を一瞥して、アズールが溜息を吐いた。
……手間のかかる……
 呆れたような声と共に、その目がジェイドを見下ろした。かと思えば、アズールはしゃがみこんでジェイドの体を捕まえ、迷いなくジェイドを持ち上げた。
 ――え。
 ジェイドの頭の中に思い浮かんだのは、その一文字だけだ。
 そうする間にもアズールはその腕にジェイドという猫をすっぽりと抱え込み、片手でドアを開け、店内へと踏み込んだ。
 店内はそれなり混んでいたが、アズールに気付いた者たちは皆「アズール」に気づいてから、その腕に抱えられているものに戸惑ったようにアズールから距離を置いた。自然と道があき、その道をするりと通って、アズールがサムの前にまでたどり着く。アズールの腕に抱えられているため、ジェイドはされるがままだ。それを見守るしか出来ない。
 他の生徒にノートを渡し終えたサムがアズールへと向き直り、一瞬だけ目を丸くさせた後にたりと笑った。
「Hey、小鬼ちゃん! 珍しいものを連れてるね」
「ええ、まあ……。サムさん、ミネラルウォーターを1つと、腕章用のリボンを1つ。あと……ツナ缶を1つお願いできますか」
 頭上から降る注文に驚いたのはジェイドだ。
 ――アズール、まさかそのツナ缶というのは。
 ぎょっとしていれば、サムが少しばかり身を屈めてジェイドを覗き込んだ。二ヒヒ、と笑ったその目が何かに気づいているようで、ジェイドは身を固くする。だがサムはすぐに姿勢をただすと、アズールへと向き直った。
「珍しい注文だね。ツナ缶を買いに来るのはオンボロ寮の小鬼ちゃんくらいなものだったけど。その腕の中の子にかい?」
「ええ」
「猫用のペットフードは?」
「一時的に保護しているだけなんです。本格的に飼うわけではないのでそこまでは」
 なるほど、と笑ったサムがすかさず冷えたミネラルウォーターのボトルとツナ缶を差し出し、そして腕章用のリボンを棚から出して置く。アズールはそれを受け取ってマドルを出した。ジェイドはそれを見上げていることしか出来ない。
 餌付けする気ですか? と聞いて、それは「にゃおう」という声になったが、周りの喧騒によってその鳴き声はアズールには聞こえないらしかった。

 片手にサムの店の紙袋、片手に――というよりは片腕に――黒猫、という状態でアズールが移動した先は、中庭の木陰にあるベンチだった。平日の昼はいっとう人気で早いもの勝ちとなる場所だが、休日でわざわざここを狙う者はいない。がらんとあいた中庭のその空間に腰を下ろし、アズールはそこでやっとジェイドを解放した。
 単に腕の中から放すのではなく、子供を座らせるようにして、ジェイドを持ち上げ自らの隣にそうっとおろすものだから面白い。ベンチに一人の少年と一匹の猫が座るかたちとなり、ジェイドがベンチから地面へ降りようか降りまいかと悩んでいるうちに、アズールはツナ缶の蓋を開けてジェイドの前に置いた。やわく曲げた指の関節で押しやるようにしてジェイドの前にツナ缶を差し出し、それきり自分は素知らぬ様子でミネラルウォーターのボトルを開けている。
 パキリ、とプラスチックの封が切られる音がして、冷えたそれにアズールが口をつけた。
 ジェイドはその横顔を見ているしか出来ない。自分のすぐ前、前足のあたりに開封されたツナ缶が置かれたことは理解しているが、到底それに口をつける気にはならなかった。
 嫌だったのではない。畏れからだった。さらに言うならば、いくら肉体が猫であるからといって、動物のように顔からツナ缶に口をつけることはどうしても躊躇われたからでもある。
 別に、まあ、してもいいんですけれど。そんなふうに思いながらも結局はそれが出来ないまま、ジェイドはアズールの横顔を見つめていた。
 綺麗な線の横顔を、木陰の灰色が染めている。穏やかな風が銀の髪を揺らして、ミネラルウォーターによって濡れた唇がかすかに光っていた。硬質さを思わせる眼鏡の奥で、スカイブルーの瞳がじっとどこかを見つめている。猫を隣に置いて。
……食べないんですか?」
 先にあったのは言葉だった。次いで、前を眺めていたスカイブルーがゆっくりとジェイドへと向けられる。
 そのさまがぞっとするほどに美しかった。
 ジェイドは、猫であるため何も言えない。
 おそるおそる、首を垂れるようにしてツナ缶を見下ろした。
 ――別に、まあ、獣のように、食べてもいいんですけれど。
 恋人の前で、恋人に見られながら、犬猫のように食事をする……という趣味はジェイドには無いが、そしておそらくアズールにもそんなことさせる趣味は無いが、こうなればどうでもいい気もした。
 さてやるか、どうするか、とジェイドがツナ缶の表面を見ていると、不意にアズールが「あ」と小さな声をあげて、突然に自らの手袋を取り始めた。左手で右手の革手袋を取り、素手となった右手がジェイドの方へと伸ばされる。
 何事かとジェイドが身を固くさせていれば、そのたおやかな指が――躊躇いなく、ツナ缶の中に入れられて。
 指先でほんの少し取られたそれが、調味液の中から持ち上げられて。白い指先にのせられた魚肉が、そっとジェイドの前に近づけられた。
 スカイブルーの瞳はジェイドという猫を真っ直ぐに見つめている。静かに。
 滅多に見えることのない、アズールの素手の、指先から、とろりと液体が伝って落ちた。
 ジェイドは、猫であるため何も言えない。
 いや、それよりも。あまりに無茶苦茶な気持ちで、きっと何も言えなかった。
 ――――
 何かとんでもないことをしようとしている。そう自覚しながらも、薄く口を開いて、極力アズールの肌に触れてしまわぬよう、ジェイドはその指先の魚肉を口に入れた。ツナ缶など慣れた味であるはずなのに、猫の肉体であるせいか、舌にのったそれがひどく美味しく感じる。
 そのくせぐるぐるとめぐる思考は背徳感や罪悪感、羞恥心に染まっていた。
 そんなつもりは無いというのに、口と舌を動かすごとにぴちゃりと微かな音がたつ。尖った歯が少しアズールの肌をかすめ、そのことにジェイドの方がびくりとしてしまう。
 こんなことをするくらいならもう獣らしくツナ缶に口からつっこもう、とジェイドは決心したというのに、ひと口ぶん食べ終わると同時に、アズールはまたツナ缶の中に自らの指先を入れ、ほぐして取ったひと口ぶんをジェイドの前へと出してくる。
 拒絶することもできず、ジェイドは泣きそうな気持ちでアズールの指に口をつけた。本当にそんなつもりは無いというのに、舌がその肌を滑る。歯の先が指の皮膚にあたる。食べ終われば、またその繰り返しなだけだ。
 ツナ缶の中身がなくなるまでそれは繰り返され、空になったツナ缶の中身を見て、アズールは「食べた」とくすくす笑った。

 濡れた指先を自らで舐め取って、それをミネラルウォーターでサッと洗い流して、白い手は何事もなかったかのように革手袋の中にしまわれる。ゴミはしかるべき方法でしかるべき場所へ捨てられ、ベンチへ戻ってきたアズールは、無茶苦茶な気持ちで耳を伏せているジェイドに構わず、勝手にジェイドを抱え上げた。
 ひどく楽しげだ。猫に自分の手で餌をやれたことがそんなに楽しかったのだろうか。
「いい子ですね。一緒に寮まで行きますか?」
 囁くようにして甘く、笑みを含んだ声で言われて毛が逆立ちそうになる。
 ――猫に興味が無い、なんてとんだ嘘じゃないですか。あなた猫好きだったんですね。
 少しくらい引っ掻いてやろうかと思ったが、しっかりと抱きこまれているためジタジタと手を動かしたところで意味も無い。
 ――まあ、これで一緒に寮に戻れるなら、都合が良いですかね。
 渾身の一撃は、オクタヴィネル寮に戻ったその瞬間にお見舞いしてやればいい。その拍子にアズールの手からすり抜け、ジェイドは自室に戻る……それが一番良い方法であるはずだった。
 片腕にジェイドという猫を抱え、片手に本を数冊持って、アズールが歩き出す。鏡舎へ向かうらしかった。

    ◇

 校舎を抜け、メインストリートを抜け、鏡舎へ。そこからオクタヴィネル寮へと続く鏡を抜け、自寮へ。アズールはジェイドをしっかりと抱えたままとうとう寮へと戻り、その姿を見た寮生たちはことごとく驚愕、あるいは戸惑った様子でそれを受け入れた。
「寮長、あの、」
「その猫は……
「ね、猫飼うんですか?」
 廊下で寮生とすれ違うたびに遠慮がちに声がかけられたが、アズールはそのどれにも「一時的に保護しているだけです。明日にはいなくなります」と早口に答えて通り過ぎた。
 その言葉をジェイドは不思議に思う。
 一時的に保護している、というのは言い訳としてわかるとして。明日にはいなくなる、と断言するのが妙だったのだ。まるでこの猫はいずれいなくなるものだとわかっているような――と思ったところで、ジェイドは全身の血の気が失せた気分になった。
 ――まさか。
 まさか、まさかそんなはずは、と思っている内にも、アズールは寮の廊下を歩いていく。腕に、ジェイドという猫をしっかりと抱えて。迷いなく、真っ直ぐと――歩みを進めていく。自らの部屋ではなく、ジェイドとフロイドの部屋がある方向へと。
 ――まさか。そんな。
 そんなはずはない、とジェイドの思考は喚き、ジェイドはジタジタと暴れたが、アズールはそんなジェイドに一切構うことなく、ジェイドを抱き込み直して進んでいく。
「こら。大人しくしていてください。もうすぐですから」
 もうすぐとは何だ。一体何がもうすぐであると言うつもりなのか。だって、前方に見えたのはジェイドとフロイドの部屋で、辞書が挟まれて薄く開いているドアで。そこは本来ならば、アズールが踏み込むはずのない場所だというのに。
 にゃおう、という悲鳴じみた鳴き声をあげずにいられなかった。それはジェイドの「アズール!」という悲鳴であったのだが、アズールはそれに対してニタリと笑っただけで、歩みを、その他の動きを止めなかった。
「ほら、つきましたよ」
 言葉と共に、少しだけ開いていたドアが大きく開かれる。アズールがその中に踏み込む。ドアに挟まれていた辞書を拾い上げて、後ろ手でドアが閉じられる。部屋が閉ざされた音。部屋の中にフロイドはいない。あるのは、不自然な抜け殻となって床に落ちているジェイドの制服、それから、その近くに開かれ置かれている、変身魔法についての本。
「ジェイド」
 呼び声と共に、アズールがジェイの首に巻いていたリボンを解いて、腕の力を抜いた。それを理解した瞬間、ジェイドは崩れ落ちるようにしてアズールの腕から抜け出して、猫の体で自らのベッドの中に潜り込んだ。
 もう何も言えなかったし、何も考えられなかった。ただ怒声のような悲鳴のような、感情だけの言葉が頭の中をぐるぐると巡っている。
 ――どうして、どうして、どうして! いつから、どうして! だって、そんなの、それなら、どうして!
 猫の体のままぶるぶると震えていれば、寝具越しにポンとアズールがジェイドの体を撫でたのがわかった。そのことにすら「ミッ、」と声があがって、全身がびくつく。
「もう良いでしょう。そろそろ変身魔法を解いたらどうです。成功したんですね、凄いじゃないですか」
 笑うような声と共に聞こえてくるのは、床に落ちた制服を持ち上げる衣擦れの音。それを手で適当に払い、乱雑にジェイドのベッドの枕元に放り置く音と、それによる沈むような振動。開かれいた本が閉じられ、机に置かれたようだった。
「ジェイド」
 宥めるような声と共に、寝具の隙間からマジカルペンがさしこまれた。「ほら、早く。それ以上消耗する必要は無いんですから」ジェイドは何もかもいっぱいいっぱいであるというのに、アズールはお構いなしだった。
 猫である視界が、とうとうじわりと滲んだ。アズールは楽しげだが、ジェイドは本当に酷い気持ちだ。それでももう逃げ場などなく、ジェイドは喚きたい気持ちで、ふかふかの手でマジカルペンに触れた。
 魔法が解ける際のカッとした光は、寝具の隙間からも漏れただろう。丸まった姿勢のまま数倍に膨れた寝具を、そこにいる人物が気分良さげにぽすぽすと撫でたのがわかった。
…………最低です……
 もう既に無茶苦茶な気分だというのに、ジェイドが発した言葉は泣き声のように滲んでいて、ますます何もかも嫌になった。
 寝具の向こうで、アズールが少年のように笑う。
「最低です、最低ですよアズール」
「騙しにかかってきたのはそちらが先でしょう」
「僕はアズールを見に行っただけで、騙そうとはしていませんでした! それをあんな……僕だと気付いていてあんな行動を取るなんて卑劣だと思わなかったんですか? だいたい、アズールはいつ気付いて――
 それは、とアズールが言葉を挟んだ。
 あ、とジェイドは嫌なものを感じとる。聞くのではなかった、と反射的に思った。
「それは、最初からですね」
 もう罵り言葉も出ない。
 あの猫の姿に、ジェイドだ、とわかるような特徴など一切無かったはずだ。猫は全身真っ黒な黒猫で、目だってヘテロクロミアではなかった。一言も鳴きはしなかったというのに、どうして。
 泣き喚く気持ちでジェイドがそんなことを脳内で怒鳴っていると、聞きもしないのにアズールが口を開いた。
「確かに外見ではわかりませんでしたが……いやに大人しい猫なので妙だと思ったんです。こっちに来い、という指示を理解したので怪しいと思ったのですが、近づくと、慣れた香りがしたものですから」
 慣れた香り、という言葉に、ジェイドは一瞬怒りも嘆きも忘れて瞬きをした。その停止を感じ取ったのか、アズールがまた言葉を重ねる。
「シャンプーだとか何かで、ジェイド特有の香りというものはありますよ。それにお前のは特に、最近は僕の香りが移っていますから」
――――
 気が遠くなりそうだった。
 咄嗟に寝具の中から手だけを伸ばして枕を掴んだが、それはすかさずアズールの手によって押さえつけられる。
 この、と思わず悪態が漏れたところで、ジェイドの顔のすぐ近く、耳のあたりで、アズールが「それで」と酷薄そうに告げた。
「腕章のリボン。弁償してもらう権利が、僕にはあると思うのですが」
 そうでしょう、ねぇ、ジェイド。
 嬲るような、楽しげな、悪辣な声が囁く。その声に背筋がぞくりと震えたのを無視して、ジェイドは舌打ちと共に言い返した。
「ッ……最低です……
 財布ならそこですから、と寝具から出した手だけで制服のポケットのあたりを指さしたが、その手はアズールが絡めとり、むりやり解いて、そうして、何かを持たせた。簡易的なビニール袋の感触とサイズには、ジェイドにも覚えがある。
 どういう意味だ、とジェイドが寝具の中で目を見開けば、その様子が見えているかのようにアズールが笑った。
「お金は結構です。もう物は買ってますので、それを後で返しに来てください。ジェイドが、僕の部屋に」
 つまりそれは、ジェイド自身が今日の証拠を持って、自らアズールの元へ来るように、ということだ。ジェイドにとって、考えつく限り最悪のことだった。
……あなた、本当に最悪ですね……
 怒りやら羞恥やら何やらで、包まれたリボンを持たされた手に力がこもる。ぐしゃりと音が聞こえたが、そんなことジェイドにとってはどうでも良かった。
 アズールがくすくすと笑ってジェイドから離れる。足音が遠ざかって、部屋のドアを開ける音がした。
「待ってますね、ジェイド。首に巻いてきてくれても良いんですよ」
 我慢ならず、ジェイドは持たされていたリボンを捨てて素早く枕を掴んだ。寝具をはねのけて起き上がりながら振り向き、渾身の力でそれを振りかぶったが、それを投げるよりも先のドアが閉まる。
 結局、枕は投げつける先も失われてまた元の位置に落とされ置かれた。
「ああもう……
 ぐしゃぐしゃと髪をかきむしっても一向に何も収まらぬほど、無茶苦茶な気分だった。
 アズールの香りが移るような距離でいたことだとか、「そういうこと」に慣れてしまっていたことの自覚だとか。アズールが最初からジェイドだと気付いていたのであれば、ジェイドの首に巻かれたリボンも、それを躊躇いなく切って見せたことも、他の生徒に踏まれそうになって庇い抱き上げた優しさも、躊躇いなく手で食べ物を与えた行為も、「食べた」と嬉しそうに笑ったやましさも、全部、アズールは最初から「ジェイド」に向けていたことだとか。その一つ一つ、何もかもがジェイドの感情を無茶苦茶に乱してどうしようもない。
 くすぐったいような幸福感と、泣きたいような優しさと、どろどろと溶かされてしまいそうな欲。アズールはそういうものを全部同じだけ恥じらいなく注いでくるので、ジェイドはその度に無茶苦茶な気持ちにさせられるのだ。
 ああもう、とまた同じ言葉を叫んで頭を抱えれば、その拍子に水色と薄紫のリボンが視界に入る。
 いっそ本当に首に巻いて行ってやろうか、と考えながら、ジェイドはその包みを掴んで机に叩き置いた。