夜之 夢
2021-07-18 20:14:04
22604文字
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ハートフル5daysレシピ(2/5)

※アズジェイ。アズールへの気持ちを自覚していなかったジェイドが、気持ちを自覚したうえで失恋したと勘違いして、料理しながらそのショックを落ち着けようとする話。全部捏造。ハッピーエンドです。
月曜から金曜まで、1日ずつ更新中。最終的には支部にまとめて投稿予定です。




 翌日の火曜日の放課後、ジェイドに声をかけてきたのはハーツラビュル寮の副寮長、トレイ・クローバーだった。
 1日の授業が終わってから約1時間後の、比較的早い時間帯だった。ジェイドにはモストロ・ラウンジのシフトが入っていたが、遅番だったために出勤時間までは植物園で時間を潰そうとキノコの世話をしており、そこにサイエンス部の活動でいたトレイが声をかけてきたのだ。
「実は、新作のケーキを作ってみたんだ。その味見を頼みたくてな」
 トレイはそう言うが、その服装は実験着のままだ。実際、ジェイドもこの植物園に入った時点でサイエンス部用に与えられた花壇周辺でトレイが何かをしていたのを見ている。つまり、たった今できたケーキ、というわけではないだろう。そうなるとそれは事前に用意されていたケーキというわけだ。それを味見とは言えども呆気なく他人に、さらには自寮の寮生でもない者にさしだすというのは納得しがたい。
「よろしいんですか? 先程までサイエンス部の活動をされていたようですし……いま出来上がった、というわけでもないでしょう」
 言いながら先程までトレイがいたあたりへと視線を向ければ、トレイは「サイエンス部の作業ならさっき終わった。問題無いよ」と落ち着いた様子で答えた。
「ケーキ自体は昨日の夜に作って、1日寝かしてたんだ。シロップを染み込ませるために少し置いた方が良くてな。試作品だから誰かに出すためのものでもないんだが、放課後が終わるまで寮の冷蔵庫に入れてると、大抵誰かがつまむ。だから今朝こっそりサイエンス部の部室まで持ってきて、冷蔵庫で冷やしてたんだ。それで、授業が終わってからここに来る前にクリームやらフルーツやらを飾って仕上げにして……落ち着かせるためにもさっきまで冷やしてた。もうそろそろ良い頃だと思ったら、ちょうどジェイドの姿があったから」
 どこまで本当かわからない。かと言ってケーキが数分で作れるわけでもなし、昨日のうちからケーキを焼き上げ、少し前に仕上げていたというのは本当なのだろう。ただ出来上がったそれを、トレイが本当はどうしようとしていたのかはわからない。まさか最初からジェイドに味見を、と考えていたわけではないだろうと予測して、ジェイドは首を傾げて見せた。
「なぜ僕に?」
「ジェイドは甘いものが苦手ってわけじゃないだろ」
「いえ、そうではなく……トレイさんはそのケーキを試作品と仰いましたが、それでも他のかたに味見されることを想定して作ったものだったのでは? そうでなくとも、僕ではなくハーツラビュル寮の方々に……
 たとえばハーツラビュル寮のエース・トラッポラ、デュース・スペードあたりならば嬉々として味見役をしてくれるだろう。トレイからすれば、ジェイドよりも自寮の人間に頼むほうが頼みやすいはずだ。
 それを指摘すれば、トレイは途端に苦笑した。どこか整えられていた空気は崩れ去り、気怠げとも言えるような、悪戯を自白する子供のような様子に変わる。
「ジェイドが落ち込んでいるように見えたから」
 呆気なくバラされた考えに、ジェイドは反応らしい反応が出来ないまま頷いた。
……そうですね……。そうかもしれません」
 落ち込み、という感情までは自覚していなかったが、ジェイドの今の気持ちを表すならばそれがいちばん相応しい言葉であるような気もした。
 ジェイドがあっさりと認めると、トレイは笑いながら頷き、口を開いた。
「『落ち込み』と『空腹』は最悪の組み合わせだぞ。……ということで新作予定の試作品ケーキ、おやつ程度にはなると思うからぜひ食べてみてくれ」
 そうだ紅茶も淹れよう、とトレイが言うので、ジェイドはすかさず「ではそれは僕が」と申し出た。
「ご馳走になるのですから、それくらいは」
 言って立ち上がれば、トレイはそれを受け入れた。
「そうか。なら使って悪いが、頼んでいいか。紅茶に関してはきっと俺よりもジェイドの方が上手に淹れるだろうから」
 ただ悪いんだが、と繋がれた言葉に、ジェイドは首を傾げる。
「ここはハーツラビュル寮ではないし、キッチンでもないからな……。ここから一番近いのはサイエンス部の部室で、そこで使えるのはビーカーとかガラス攪拌棒くらいだ」
 さすがにコンロとケトルはあるよ、と言われて、ジェイドは瞬きをした。
 まともな道具はそれくらいしか無い、ということだった。

 サイエンス部の部室には当然ティーポットも無かったが、不思議とティーバッグの紅茶とインスタントコーヒーはあり、砂糖とコーヒーフレッシュはあった。
「ビーカーがあればそれで何か飲めるから」とはトレイの言葉だ。思い出したように「リドルには黙っておいてくれよ」と付け足してきたので、ジェイドはそれを笑った。
「僕が淹れます、と言っておいてなんですが……これではまともな味の紅茶を淹れる自信はありませんよ」
「構わないさ。その原因がここの備品にあることは俺がよくわかってる」
「何だか悔しいので、次の機会に改めて紅茶を」
「機会があればな。ジェイドの紅茶なら、俺は前に振る舞ってもらったことがある。ジェイドの腕前がどれほどのものか、よくわかってるよ」
 用意していたケーキを部室の冷蔵庫の中から取り出してきて、トレイが笑う。冷蔵庫の扉が閉まる直前、中に要冷蔵保存の薬品類が並んでいるのが見えた。
 トレイが作ったというケーキは、ひじょうにシンプルな外見をしていた。一見しただけでは何のケーキなのかがわからない。ただ、表面といえる表面は全て真っ白で、『上』となる面にほんの少しだけ生クリームが絞られ、その小さな山にオレンジかレモンのピールがのっている。
「表面の白いのはフロマージュブランのムースだ。中にオレンジのシロップを染み込ませたスポンジ生地、それからオレンジを煮詰めて作ったソースを重ねてる。オレンジソース……砂糖をかなり減らして作ったジャムみたいなもの、と言ったほうがいいかな。見た目ほど『重く』はないと思うんだが、そのあたりの自信が無くてな」
 トレイはケーキの説明を諳んじながら、部屋の隅にあった棚へと歩いて行った。そうして棚から包丁を取り出してきたかと思うと、少しも待つこと無く、あっけなくその刃先をケーキに刺し入れた。美しい表面が残酷なほど簡単に切られ、その瞬間、『芸術』であったものは『食べ物』に変わる。
 トレイがあんまりにもあっさりとしているものだから、ジェイドの方が「あの、」と声をかけたほどだった。
「うん?」
 何かあったか、と口の端を微笑みの形に保って首を傾げる相手に、ジェイドは結局、そろりと首を横に振った。
 おそらくは実験のために持ち込まれたのであろう一口タイプのガスコンロのうえで、趣味で持ち込まれたのであろうケトルが沸騰音を立て始めた。

 ――不思議な茶会は、植物園で行われた。
 なぜか「これはある」とトレイが取り出して来た大ぶりな銀盆に、紅茶の注がれたビーカー2つと、切り分けたケーキ2切れ、使い捨てのプラスチックフォーク2つをのせて、それを植物園に持ち込み直し、花壇のふちに腰かけて茶会は始まった。
「実はルークとも時々こういうことをすることがあってな」
 だから中途半端に物があるんだ、と説明して、トレイは素手となった手でビーカーの1つを持ち上げた。慣れているらしく、注がれた紅茶が接していなかった部分を持っている。
「紅茶の熱がましになるまではビーカーは持たないほうがいいぞ。先にケーキをどうぞ」
 片手にビーカーを持った状態で、片手でケーキを示して、そんなことを言う。
 そのちぐはぐさがおかしくて、ジェイドは思わずくすくすと笑いをこぼした。
 紙皿にのったケーキを取り、プラスチックフォークの1つを手に取って、その先端をケーキに刺し入れる。断面から露わになっていたオレンジ色と、それから黄金色のようになっているスポンジ、その間に一層分だけ流し込まれているムースの白が美しく、見事だった。フォークですくった一口分を口に入れれば、フロマージュブランに甘酸っぱいオレンジの味が重なって舌が楽しい。
「美味しいです」
 素直な感想を口にすれば、トレイはジェイドを見て笑った。「良かったよ」ごく簡単な答え。
「言った通り、試作品でな。失敗ではないんだが、自分ではどうもまだ納得がいかない」
 誤魔化し笑いと共にそんなことを言って、トレイはビーカーに口を付けた。その横顔を、背景となった植物園の草木達が彩っている。
 不思議な茶会だった。綺麗なケーキにビーカーに入った紅茶という妙な組みあわせ。実験用の手袋とゴーグルは外しているものの、互いに白衣を着たままで、植物園の花壇のふちに座って、テーブルも椅子も無しに茶会をしている。
 学生が作った、と言うにはあまりにも完成度の高いケーキに対し、風味の薄い紅茶は不釣り合いだった。自分ならこのケーキにどの茶葉を合わせるだろう、とジェイドが考えを巡らせたところで、不意にトレイが口を開いた。
「何かあったのか?」
「え?」
 手を止め、ジェイドは隣を振り返る。
 ジェイドではなく植物園のどこかを見ていたトレイは、その視線をジェイドへと向け、やわく微笑んで言葉を重ねた。
「言っただろ、落ち込んでるように見えたって。何かあったのかと思ってな」
 別に言いたくなきゃいいが、と付け足して、トレイは再びビーカーに口を付けてゆっくりとそれを傾けた。そのさまを眺めながら、ジェイドは「昨日も同じことを言われたな」とぼんやりと思った。
 さて何と答えるべきか。ジェイドはそれを考える。
 昨日オンボロ寮の監督生に話したことをもう一度トレイに話しても良かったが、ジェイドの中では昨夜、一つの答えは出たのだ。ならばそちらの方を話すべきかと考え、ジェイドはしばし黙った後、穏やかな声を意識して口を開いた。
「失恋したようなのです」
「え!?」
 予想はしていたが、周囲にはトレイの驚愕の声が響いた。トレイはぎょっとしたままの表情でジェイドを見つめ、ジェイドはそれにニコリと微笑み返してから視線を逸らした。
「失恋した、と理解するまで、自分がその人に恋をしていたことにも気付いていなかったのですが」
 トレイの視線を横顔で受け止め、何とはなしに、前方にある木の根元のあたりを眺めた。
 隣からは静かにゆっくりと息を飲む音が聞こえ、それを宥めるつもりで、ジェイドは言葉を続ける。
……ずっと親しくしていた人だったんです。見ていて飽きないほど面白い人で、その人が僕を楽しませてくれるならと、僕なりにその人の力になれるよう協力していたのですが……。その人から『他の奴のほうが使える』と言われてしまって。おまけにそう言われた理由が、どうやっても僕には出来ないことについてだったんです。……その時にショックを受けて、それで初めて自覚しました」
……そうか……
 軽くも湿っぽくもない声で、トレイが相槌を打つ。優しい人だな、とジェイドは思った。下手に距離を縮めたような共感もせず、いいかげんな慰めもせず、ジェイドを窘めることもしない。トレイの反応は優しく、おそらく正しかった。
 しん、と静かになった二人の間を、木々の間をすり抜けた風がふいていった。適切に管理された空調は暑くも寒くもなく、ほんの少しの水気を含んでいる。
――好いていた相手が、」
 言葉は、ジェイドが意識するより先にこぼれた。まさに思わずといったふうに。
……自分しか見てほしくないと思っていた相手が、別の存在に気を取られるというのは……寂しいものです」
 ありのままを述べれば、誤魔化しのような掠れた笑みが落ちた。じっと向けられた視線に振り向くこともできず、ジェイドは手を動かしてもう一口ケーキを食べた。やわらかく甘く、すっきりとした酸味を取り込んでから、気を取り直すようにして言う。
「まあ、自分の感情に折り合いをつけていくしかないのでしょう」
 実際、そうするしかなかった。ジェイドはもうアズールの理想に適わなくなったのだから、そしてアズールの理想にはどうしたって手が届かないのだから、ジェイドが諦めるしかない。世界とはそういうものだ。
 もう一口、とケーキを口に含んだジェイドへと、トレイがそろりと声をかけた。
……アズールのことだよな?」
 確認のように問われた言葉について驚きはなかった。ここまで言えばトレイにはすぐわかるだろう、とジェイドも予測していたのだ。
「ええ、まあ」
 さらりと答えれば、トレイは一拍を置いた後に問いを重ねた。
……つまりアズールは、ジェイドが出来ない『何か』を理由に、ジェイド以外の奴を必要としたってことか? でも、ジェイドが出来ないことなんて何なんだ?」
「ユニーク魔法です」
「あぁ……
 音だけの返事がトレイの納得を如実に語っていた。
 ジェイドは何も気にせず、またケーキを一口食べる。ゆっくりと咀嚼し、嚥下した。
……なぁ、ジェイド。これは確認なんだが……アズールは、その……他の奴のユニーク魔法を気に入ったのか?」
「そういうことになります。僕のユニーク魔法よりも、その方のユニーク魔法の方が便利だと言われてしまいました。……事実なんですけれどね」
 付け足して、ジェイドはその先を続けた。
「こればかりは努力や計算でどうにかなるものではありません。ユニーク魔法というのは、その人だけのもの。僕がどんなことをしても、それは手に入らないわけですから。……悔しい、という思いすら湧きませんよ。寂しさばかりです」
「寂しさ、か」
「そう表現するのが妥当である気がします。……僕はアズールのために自分のユニーク魔法を持ったわけではありませんが、自分のユニーク魔法がアズールの役に立つことを嬉しく思っていたのは確かです。……だというのにそれが、」
 それが価値を持たなくなってしまった。
 そのことがジェイドをひどく憂鬱にさせた。
 なまじこれまでに重宝されていただけに、ジェイドは、アズールから必要とされる喜びを知ってしまっている。そのうえで「他の奴の能力の方が便利だ」と言われてしまったのだから、なおのこと衝撃は大きかった。
 空調設備からの風のせいで木々が揺れ、葉が囁きあう音だけがしばらく続いた。しばらくしてからジェイドのフォークが紙皿の表面をなぞる音がかすかに立って、トレイがビーカーを花壇のふちに置く音がした。
 す、と僅かに息を吸い込む音。ややあってから、トレイが口を開いた。
「ジェイドはどうしたいんだ?」
 トレイの質問は的確だった。今のジェイドにおいて、重要となるのは結局それだ。もちろんジェイドとてその事は理解している。だからこそ、ジェイドの中でその答えは出ていた。
……僕はただ、一刻も早く自分の感情を……アズールに対して抱く感情を落ち着かせたいだけです」
「つまり、諦める?」
「諦める、というよりは……僕が自分の感情を自覚した時点で、アズールは別の人を欲していた。となると僕としては既にどうしようもない状況なのですから、あとは僕の感情だけの問題かと」
 ユニーク魔法は意図的な努力で得られるものではない。たとえアズールが何らかのユニーク魔法を欲して、ジェイドがアズールのためにそれを手に入れたいと思っても、どうやったって手に入れられないことなのだ。
 このユニーク魔法を持っている人物を連れてこい、というのならば可能だが、このユニーク魔法を手に入れろ、というのは不可能なことだった。ユニーク魔法とは、それこそアズールの『黄金の契約書』のように、吸収されるあるいは貸すという契約で『動かして』、初めて他者に渡せるものだ。
 ユニーク魔法においてアズールがジェイド以外のものを欲したのであれば、ジェイドは引き下がるしかなかった。
「もちろん、僕が副寮長でいられる内は副寮長として役割を果たしますし、モストロ・ラウンジの仕事も通常通りに。アズールが求めるうちは、僕はアズールに協力しますが」
「なるほど。だからこそジェイドとしては、自分の感情を落ち着かせたいんだな」
「はい」
 そうするしかない、ということだ。進展もなく、かと言って関係が丸ごと崩れるわけでも、突然に離れるわけでもない。アズールからすれば今までもこれからも状況に変化は無く、恋情の自覚とそれに伴うショックを受けているのはジェイドだけであるので、ジェイドが自分で感情を処理するしかなかった。
 ケーキの最後の一切れを口に入れ、しばらく口を動かしたのち、ジェイドは手を下ろした。
「ご馳走様でした。味見役、ということでしたが役得でしたね。いつも通り、大変美味しかったです。ありがとうございます」
 時間を確認すれば、あと30分で『出勤』というところだった。幾分か冷めた紅茶を一気に呷れば、察したらしいトレイがビーカーを銀盆に置いた。
「そうだ、ケーキについてアドバイスとか無いか? 味については自信が持ててない」
「ご冗談を。トレイさんが自信の無いケーキを他人に味見させるとは思えませんが」
「なら聞き方を変えるよ。ジェイドなら、どう改良する?」
……このケーキをですか?」
「ああ。たとえばそうだな、モストロ・ラウンジの新メニューとして考えるなら」
 言われ、ジェイドは瞬時に思考を展開させかけた。癖のようなものだ。毎月のようにモストロ・ラウンジのシーズンメニューや新メニューについて意見を求められるので、ほとんど反射的に応じてしまう。
 材料のアレンジ、あるいはケーキの構成、その割合、いっそ形状を変えて口当たりの変化や味の変化を狙ってみる……そういったことがジェイドの脳内に一気に広がったが、ジェイドは首を横に振った。
……いくつか思いつきますが、あくまで思いつきです。実際に試してみないことには提案できかねます」
 思いついてみたところで、それがひどい間違いである可能性もある。ジェイドとて料理慣れしているため「こうなるだろう」というおおよその予測はできるが、実際に試してみないことには断言出来なかった。
 トレイもそれを理解したらしく、苦笑した。
「はは、確かにそうだな。それならレシピを教えるから、試してみてくれないか」
 その、あっさりと告げられた言葉。それに思わず動きを止め、ジェイドはゆるりとトレイを振り向き見た。
……僕は、」
 言葉に詰まる。ジェイドとてモストロ・ラウンジで出すデザートを考案したり作るくらいのことは難なく出来るが、トレイほど製菓に特化したわけでも、特化できたわけでもなかった。
 おそらくトレイもそれを理解しているだろうに、しかしトレイは何の疑いも持たないような――否、そうであると断定するような様子で、はっきりと告げた。
「ジェイドは調理もお菓子作りも出来るだろ?」
 綺麗に整えられた微笑は一見すれば穏やかなだけだが、否定を許さないものだとわかる。
 珍しい、とジェイドは呆気に取られた。トレイは強引なタイプではないと思っていたが、それは相手と場合によるらしい。
 ジェイドが返す言葉を迷っているうちにも、トレイはたたみかけるようにして言葉を続けた。
「なんなら、ジェイドが気にいるものが出来たらモストロ・ラウンジのメニューに使ってくれてもいい」
「え……
「俺の実家は確かに洋菓子店だが、俺自身がいま店をやってるわけじゃないからな。俺のレシピが外に出て、違うアレンジをされても構わないさ。むしろ自分以外の誰かがアレンジをすると、自分が思いつかなかったことが出てきたりして楽しいんだ。俺が今持ってるケーキのレシピだって、どんどん改良してくしな。今のこのレシピ自体に高い価値は無いよ」
 言いながらも、トレイは白衣のポケットから実験記録をつけるためのメモを取り出し、それに何かを書きつけ始めている。ジェイドがたった今食べ終わった『試作品』だというケーキのレシピに違いない。「字が少し汚いのは許してくれ」言葉とは裏腹に整った筆跡で次々に材料と手順を書きだしながら、トレイは穏やかに微笑んだ。
「お菓子作りはいいぞ。没頭してしまえば嫌な感情も薄れる。出来上がれば腹も満たせるしな」
……なるほど」
 どうやらトレイは、ジェイドの『感情の処理』のためにレシピを教えてくれるらしい。ジェイドが「一刻も早く自分の感情を落ち着けたい」と言ったから、それなら「没頭すれば嫌な感情も忘れられて、出来上がった時には空腹を満たせる」ようにと、わざわざレシピと共にケーキ作りを提案してくれたのだろう。
 トレイからのやわらかな気遣いを理解し、ジェイドは意識せず微笑んだ。
「そういえば……料理ができる人というのは、感情の処理に料理をするのでしょうか」
「ん?」
「実は、監督生さんも同じようなことを」
 昨日そう言われたのだと簡単に説明すると、トレイは明るく控えめに笑った。
「まあ、全員がそうではないとは思うが、ある一定数の同意は得られることなのかもな。……ジェイドは違うのか?」
「さあ……今までそんなことを考えたことも無かったので」
 口元に手を当て首を傾げ、ジェイドは考える。
「ですが、そうですね……確かに、監督生さんやトレイさんが仰ったように、料理をしている間というのは冷静に自分と向き合える気がします」
 昨日感じたことだった。
 トレイはジェイドの答えに少し目元を細め、動かしていたペンを止めてメモを数枚ちぎりとった。それをジェイドへと突きつけるようにして差し出す。
「それなら、新しいレシピが欲しくなったら俺のところにでも来てくれ」
……ありがとうございます」
 目の前のメモ用紙をそろりと受け取れば、トレイはニタリと笑った。それから何かに気づいたようにして、周囲を見回して口を開く。
「ここは俺が片付けておくよ。置いておいてくれ」
「いえ、ご馳走になりましたから」
「それを言うなら俺もだ。それに、その銀盆もビーカーもサイエンス部の備品だからな」
「ですが……
「これからモストロ・ラウンジだろ? 俺はそういった用事は無いし、やっておくよ」
 言って、トレイはとうとうジェイドの手からビーカーを奪ってしまう。乱暴な手つきではなかったので、ビーカーが落ちることはなかった。
「妙にお優しいのですね」
「妙に? 自分で自分のことを優しいと評したくはないが、『妙に優しい』と言われるのは、いつもは優しくないと言われているみたいで心外だな」
 ジェイドがじっと黙っていると、トレイは一拍を置いて苦笑した。
「慰めみたいなものだよ。根本的な解決にはならないが、だからって優しくしない理由にはならないだろう」
 慰め。そのあまりにも予想外な言葉に、ジェイドは思わず目を丸くさせた。ぱちりと瞬きをすれば、トレイがますます困ったように眉を下げる。
「気に障ったなら謝るが」
 そう言う割にその声は落ち着いていて、ジェイドが怒りださないことを分かっているようだった。
「慰め……ふふ、なるほど。慰めですか」
 時と場合によっては怒りを刺激するものなのかもしれないが、嫌な感じはしなかった。
 ありがとうございます、と答えて、ジェイドは中途半端に上げていた手を下げた。トレイが微笑んで頷き、自らの方へと銀盆を寄せる。
「では、お言葉に甘えて。……今度、ぜひモストロ・ラウンジにお越しください。今日の御礼としてサービスをさせていただきますから」
「気持ちは嬉しいが、うちは寮での茶会が多いからな。機会があれば、とだけ言っておくよ。それより……そうだな、ケーキの改良案。良かったらいつか聞かせてくれ」
 繰り返しケーキ作りをすすめるくせに、トレイにはそれを強制するような様子が無い。
 致命的に優しい人だ、とジェイドは思った。苦笑するしかなかった。

   ◇

 自室に戻り、制服から寮服へと着替えるためにクローゼットを開く。
 ジェイドがモストロ・ラウンジに入れば、必然的にアズールと顔を合わせることになるだろう。そう考えると僅かになんとも言えない気持ちになったが、支障は無い程度だった。そもそもジェイドが例の件でショックを受けたのは先週の土曜のことで、受けた傷の傷跡はまだ塞がっていないものの、それ以上傷つくようなことは起きていない。
 昨日から何度かアズールとは顔を合わせているし、そこでいちいち憂鬱になるほどジェイドは軟弱な精神をしていなかった。
 一通りの着替えを済ませ、鏡を見る。いつも通りのジェイドがそこにいた。
 大丈夫だ、とジェイドは思った。
 それは自分への叱咤でもなく、励ましでもなく、自己暗示でもない。感覚で理解した事実だった。
 何となくわかる――今はまだ自分の感情がうまく飲み込みきれていないだけで、それでも昨日今日と誰かしらとふれあいながら、少しずつジェイドの動揺はおさまり始めている。
 大丈夫だろう、と思った。大丈夫だ。時間と共に少しずつ飲み込んでいける。咀嚼に難儀したとしても、飲み込んですっかり胃の中におさめてしまえば、もうそれで済む話だった。
 それを肯定するかのように、鏡の中には何の乱れも無い自分がいる。
 その姿を確かめ、タイを整え直してハットを手に取れば、もう何も気にならなかった。
 
   ◇

 モストロ・ラウンジは平常通りの賑わいを見せ、ジェイドはその中で1日のホール業務をつつがなく終えてみせた。
 業務の中で何度かアズールと面と向かって接することもあったが、ジェイドの中ではプライベートとビジネスは明確に分断されている。『モストロ・ラウンジの支配人』としてアズールと接するならジェイドにとって何ら支障無く、アズールから声をかけられたところで少しも動揺しなかった。
 とは言え、たとえば今日というタイミングでアズールから「『お話し』を」と指示されたなら、ジェイドも何か感じるものはあったのかもしれない。だが今日はアズールへの相談者はおらず、契約違反者を絞めあげることもなかったので、モストロ・ラウンジはカフェとしての機能だけを果たした。そのためジェイドの心の内の傷跡が何かの拍子に露呈することはなく、少なくとも、アズールと他の従業員は誰一人としてジェイドの様子を訝しむことはなかったのだ。ジェイド自身がそれだけ上手くやったとも言える。
 閉店のための作業が全て終わりとなれば、今日自体が何のこともない一日で終わったかのようだった。数時間労働したせいか、トレイと植物園で茶会をしたことすら夢か想像のように思えてくる。
 そういえば茶会をして――ケーキのレシピをもらったのだった。
 思い出してジェイドがスラックスの後ろポケットに手を差し入れれば、そこには確かに紙の感触があった。
 改善案を考えてくれ、と言ったトレイの声と表情が思い出される。お菓子づくりはいいぞ、とニヤリと笑った彼の、あの言葉の意味。
 ホールの時計を確認すれば、あと2時間で日付が変わるというところだ。
「さすがに2時間でケーキを完成させることは無理でしょうが……
 レシピの確認くらいは出来るかもしれない。あとはこのモストロ・ラウンジのキッチンの冷蔵庫内で『業務外で使用しても良い』とされている材料の内、このケーキの材料がどのくらい揃っているか。
 それを確かめてみるだけでも良いかもしれない。たとえば、もし可能なのであれば、オレンジソースを作ってみるだけでも。
 監督生が言った「感情の整理のために料理をします」という言葉と、トレイの「お菓子作りはいいぞ」という言葉が重なるようにして脳内に甦る。
……感情の整理」
 そっと呟き、ジェイドはゆったりとした足取りでキッチンへと向かった。

 モストロ・ラウンジのキッチンには当然ながらもう誰もおらず、電気も消されているためにほとんど真っ暗と言えるような状態だった。VIPルームにはまだアズールがいるためホールの電気もついており、その光が差し込んで薄っすらと中の様子はうかがえるが、何もかもが黒に埋もれている。
 ごくごく薄く銀のきらめきを放つシンクが素っ気なく、余計に静謐を感じさせた。
 だが、ジェイドにとっては慣れた光景だ。
 躊躇いなくその中に一歩踏み込み、すぐ横にある電灯のスイッチを付ける。パッと白に染められたキッチンは清潔で業務的な場所と化し、シンクや調理台、調理器具の銀色がいかにも硬質に光った。
 カフェの営業のためにと置かれている冷蔵庫たちの一つ、一番隅にある物の扉を開ければ、余った食材たちが言い訳のように保管されている。一昨日や昨日に使用した野菜や果物で余ったもので、客には出せず、まかないにしか使えないものたちだ。
 運良くそこにオレンジが2つ、ラップに包まれた状態で置かれてあるのを見て、ジェイドはわずかに目を丸くさせた。
 まさか本当にあるとは、という思いからだったが、思い出せば、2日前の日替わりデザートにはオレンジも使用されていた。ラップに包まれている状態からしておそらく一度は包丁を入れたもので、使うつもりでいて結局余ったものなのだろう。
 このままこのオレンジを置いていても、明日には口にして良いものかいよいよ怪しくなる。「現時点で誰も手をつけていないのだから廃棄同然」と判断して、ジェイドはそれを取り出した。
 取り出したオレンジを調理台の上に並べて置き、ストールの片端を掴みながら、ジェイドはキッチンの出入口を振り返る。料理をするならば少なくともハットとストール、ジャケットは脱ぐべきで、脱いだそれをどこに置こうかと考えてのことだった。
 キッチンの出入口から一番近い席が見え、ジェイドはそれに向かって歩き戻りながら、自らのストールを抜き取った。

   ◇

 オレンジの皮を剥き、果肉を切って、片手鍋に入れる。本来のレシピより少し少ない分量であるので、それに応じて砂糖の量も減らした。他の材料を入れて弱火にかければ、後は鍋の中身を黙々と混ぜるだけだった。鍋の底に熱が伝わるとほぼ同時に砂糖が液状になり、それがオレンジと混じっていく。
『ジェイドは調理もお菓子作りもできるだろ』
 静かすぎたせいか、不意にトレイの言葉が甦った。放課後、ケーキのレシピと共に受け取った言葉だ。
 確かにそうだ、とジェイドは他人事のように考える。実際、ジェイドは料理も菓子作りも苦ではない。どちらが得意ということがない分、どちらも不得意ではなかった。
 ジェイド自身、最初は自分が菓子作りをするなど想像してもみなかったが、陸での料理に一度慣れてしまえば菓子作りについても自然に興味を持った。
 別に甘いものが好きだったわけではない。嫌いでもないが。
 ただ、初めてまともに砂糖を口にしたアズールが――陸の菓子やらケーキやらを口にした時に、目をきらきらさせて「すごい」と一言こぼして。多分ジェイドは、そのことを覚えていた。
 思えば、ジェイドが菓子作りに手をつけたのも、アズールからの言葉があったからだった。
『カフェを開きたいんです』
 このナイトレイブンカレッジに入学して、3ヶ月経つかという頃だ。その頃からしきりに学園の設備や寮の設備を確認していたアズールは、真剣な顔で唐突にそう告げた。
 カフェと来たか。ジェイドはその時、まず、そう思った。
 実家がリストランテであるアズールが陸の料理に興味を持った時点で、陸で何かしらの商売をやりたがることは目に見えていた。だがそこで「カフェ」と提案してきたアズールのことが少し意外でもあったのだ。
 ともかく飲食店を開くとなれば、土地や設備、食器は言わずもがな必要になるとして、そこで出す品についても考えなければならない。料理は問題無いが、カフェと名乗るならばドリンク類とデザート類は必須となるはずだった。
……メニューはどうするつもりですか?」
 試しにと聞いてみれば、アズールはあっさりと「これから考えるつもりです」と答えた。
 そうしてフロイドとジェイドに、手伝え、と言ったのだ。きっと面白いことになるから、と。
 フロイドは二つ返事で了承し、ジェイドもそれに頷いた。

 デザートの考案と開発――菓子作りならばフロイドも出来たが、調理と勝手が違い、菓子作りは材料のわずかな分量の差でも味や出来に大きな変化が生じる。そのあたりがフロイドのムラっけと相性が悪く、フロイドは菓子作りの『研究』にはあまり向いていなかった。気分がのっていれば素晴らしい一品が生み出されるが、気分がのっていなければ形になるかも怪しいのだ。そんなわけで、デザートの考案と研究にはジェイドの方が手をつけた。
 その頃にはジェイドももうじゅうぶん料理に慣れていて、苦も無く次々とレシピのアレンジを生み出していたと思う。
 デザートを作って試食を繰り返すうちに甘味に対して舌がバカになり始めて、それを和らげるために紅茶を淹れるようになった。「カフェならばコーヒーと紅茶はメニューに必須だろう」ということで、その練習も兼ねてのことだった。
 ジェイドが自らで紅茶を淹れるようになったのはそれがきっかけだ。生まれて初めて淹れた紅茶は、茶葉の量と抽出時間を誤ったせいであまりに渋く、アズールと共に笑ってしまったことが懐かしい。
 そんなこともあったな、とジェイドは自らの記憶に触れる。
 あの時ですらアズールは怒らなかった。
 そのことを思い出して、目の奥が熱を持ちそうになる。
 渋いのか苦いのかもわからないようなものを向かい合って飲んで、アズールが「渋いな」と顔をしかめて。それでも二口目を口に含んで。
 ジェイドも同じようにしたが、想像以上の苦さにジェイドの方が笑いだしてしまった。アズールまでもがそれにつられたようにふっと笑って、それから2人して笑いが止まらなくなった。
 キッチンで立ったまま、向かい合って腹を押さえながらくつくつと肩を震わせたあの時。あの空間はきっと、とんでもなく幸せだったのだろう。ジェイドはそう思う。
 結局、一度派手に失敗したせいか、不思議と「紅茶を淹れる」行為はそれ以降上達するばかりだった。一口飲んで顔をしかめるような渋い紅茶は、あれ以来生み出せていない。たぶん今では「作ろう」と意識しても作れないだろう。ジェイドの中で降り積もり形成された感覚や意識が、きっとブレーキをかける。

「ジェイド?」
 背後のほうから声をかけられたのは、ジェイドの嗅覚がオレンジの香りにすっかり麻痺してしまった頃だった。
 呼び声に反応して振り返れば、キッチンの出入口にアズールの姿がある。
 ハッとして時計を見たが、調理開始から1時間も経っていない。おそらくアズールが自室に戻るのもまだの筈で、だとすれば何か用があってVIPルームからキッチンに来たか、とジェイドは即座に考えた。
「何か……あぁ、もしかして何か飲み物を?」
 紅茶でもご用意しましょうか、とジェイドは問いかけたが、アズールは怪訝そうにジェイドの手元を見ただけだ。それを察して、ジェイドはすぐに言葉を繋いだ。
「あぁ、オレンジソースですよ。今日トレイさんにレシピを教わったので、試しに作っていたんです。冷蔵庫に廃棄同然のオレンジがあったので使わせていただきました。オレンジソースと言っても本当はケーキに使用するためのもので……そういえばケーキのレシピごと教わったのですが、トレイさんが『良いアレンジが見つかったら、それをそのままモストロ・ラウンジのメニューに使ってもいい』と」
「え……あ、あぁ……そうですか」
 悪くない話だろうとジェイドは思ったのだが、アズールの反応は鈍い。それに首を傾げかけたところで、ジェイドはふと気付いた。
「あぁ、すみません。飲み物でしたか? 紅茶で良ければすぐに淹れますよ。これはもう出来上がるところですから」
 これ、とジェイドが見下ろした手元では、小さな片手鍋が持たれ、コンロの上で弱火にかけられている。その中で随分と煮詰まったオレンジソースが、ふつふつと気泡を作っていた。
 オレンジの果肉と果汁、それから皮も刻んで少し。そこに砂糖とレモン果汁を加えて煮詰められていたオレンジソースは、気付けばキッチンにその香りをめいっぱい広げている。今更のようにそのことに気付いて、ジェイドは苦笑して見せた。
「すみません、もしかして香りが……
「いえ……別に。確かにホールにまで柑橘類の香りが漂っていたのは少し驚きましたが、そういうものを作っていたのであれば納得します」
 どうやら怒られることはないらしい。そのことにジェイドが密かに安堵していると、アズールはふとジェイドの双眸へ視線を定めて、不思議そうな表情を見せた。
「トレイさんにレシピを教わったんですか?」
「ええ、はい。今日の放課後に」
……そういえば昨日もオンボロ寮に行って料理をしていたと聞きましたが……
「ええまあ、少し」
 あっさりと答えて見せながら、ジェイドは苦々しいような、面白いような複雑な気持ちだった。
 連日こうも他寮の人間と料理をしていたと知れたならば、さすがのアズールも怪訝に思うだろう。おそらくアズールからすればジェイドが何かを企んでいるのではと思うはずで、案の定、ちらと見やったアズールはわずかに眉間を寄せている。苛立ちや不機嫌によるものではなく、戸惑っているような様子だった。
 それを宥めるようにして、ジェイドはやわらかく微笑んでみせた。
「最近、他の方とレシピを交換する楽しみを知ったんです」
「レシピを?」
「ええ」
 はたしてアズールを騙せるかはわからない。だがアズールがジェイドの言葉を疑ったとしても、こう言っておけばアズールはこれ以上踏み込めないはずだった。
 ジェイドの思惑通り、アズールは不可解そうな表情をしているものの、否定や疑いの言葉を投げかけてこない。数秒の沈黙の後、渋々といったふうに「そうですか」と返事があった。
「モストロ・ラウンジで使用しているレシピを外に出すようなことはしていませんから、ご心配なく」
「当たり前だ」
 途端、アズールが不快そうに眉をつり上げた。言うまでもなかった、ということにジェイドは僅かに満足する。アズールがそれを「当たり前」として考えていたなら、少なくともジェイドはそんな風には思われていなかったという証で、それはジェイドにとって小さな喜びでもあった。
 くすりと笑い、ジェイドは再びアズールへと問いかけた。
「それで、アズール? 紅茶でも? それともコーヒーの方が良いですか」
 アズールがVIPルームから出てキッチンに来たということは何かを求めてやってきたというわけだから、そこから想定される答えはそれくらいしかない。よほど疲弊している日ならば夜食という可能性もあるが、今日はその様子も無いのだから「飲み物でも取りに来たのだろうか」と考えるのが妥当なはずだった。
 尋ねながらもジェイドは鍋に向き直り、コンロの火を止め、鍋を火からおろした。ふつふつと音を立てていたオレンジソースは、鍋が傾いた拍子に一度ジュウと一際大きな音を立て、調理台の濡れ布巾の上に置かれて次第に静かになる。
 アズールはその数秒を黙ったまま眺めていたが、鍋が黙りきったところで思い出したように口を開いた。
「あぁ、いえ、そうですね……紅茶でも持ってきてもらおうかと思って来たのですが、ホールにオレンジの香りが満ちていたものですから、一体誰が何をしているのかと」
 アズールの言葉に対して声無く笑い、ジェイドはふと視線を上げた。体ごとアズールへと振り返り、真っ直ぐにアズールを見つめる。
「アズール」
「何です」
 呼びかければ、アズールは僅かに緊張したように表情をかたくした。
 それを宥める気持ちで、ジェイドは目を細めて笑いかけた。
……昔。僕に料理を教えてくださって、ありがとうございます」
 本心だった。
 感情の処理のために料理をする――それすらも、そもそも料理が出来なければ使えない手段なのだ。それが出来て、昨日のように誰かにレシピを教えるのも、今日のように誰かからレシピを教えてもらえるのも、全てはジェイドが料理というものに慣れているからだ。
 そう考えればジェイドは、生きる手段のうちの一つであり交流の手段の一つでもある「料理」というものを、アズールから教え与えられたことになる。
 それはきっと、幸運なことだった。
 ――オレンジソースを煮詰めながらジェイドが考えたこととは、そういうものだった。
 アズールからすれば、突然の意味不明な言葉だっただろう。ぽかんとした表情で固まっているアズールへと、ジェイドは穏やかな口調で続けた。
……僕が陸での料理を苦手としたままであれば、誰かにレシピを教わったり、一緒に料理をする、ということもなかったでしょうから」
 ですから、ともう一度笑顔を作り直し、ジェイドはまた鍋へと向き直る。
 アズールへと背を向け、いつも通りの声で告げた。
「後ほど紅茶をVIPルームまでお持ちします。どうぞお戻りに」
「え……
 さすがにアズールは戸惑ったようだった。何かを言いたげな声がジェイドの背後から聞こえたが、ジェイドはわざと振り返らなかった。
「すぐにお持ちしますので」
 言い聞かせるようにして言葉を被せれば、たっぷりとした沈黙の後、アズールが戸惑いながらも踵を返す音が聞こえた。

   ◇

 ノックも無しにVIPルームの扉が開けられ、室内にそろりと踏み込んだアズールが「フロイド」と呼びかけてきたので、ソファに寝転がっていたフロイドは、視線だけで声がした方を見た。
 先ほどVIPルームにて今日1日の売り上げを確認していたアズールが突然に顔をあげ、「そういえばジェイドは」と室内を見回し、向かいのソファにいたフロイドに「ジェイドは?」と問いかけ、フロイドが「知らね」と素っ気なく事実を返した後、アズールが部屋を出て行って、それから数分後のことだった。
 怪訝そうに――あるいは心配そうに――VIPルームを出て行った支配人は、今度は何かに気圧されたような様子で戻ってきたので、フロイドはそれで何となく大体のことを察した。
 まずアズールの様子からするに、少なくともアズールはジェイドと顔を合わし、会話をしたのだろう。そうでなければアズールはまず「あいつは何処に行ったんだ」とでも言いながら戻ってきたであろうし、少なくともこんな、何かにショックを受けたような様子でいることはない。
 ではアズールがジェイドと会話をしたうえでこんな様子であるとするならば、アズールはジェイドの言葉によって何かしらのショックを受けたということだ。となると次の問題は「ジェイドはアズールに何を言ったのか」ということだが、フロイドはこれについてもおおよそのことが想像できた。
 たぶんジェイドはアズールと距離を取りたがっただろうから、適当な理由をつけてアズールに「VIPルームに戻れ」とでも言っただろう。それでアズールは気圧され戸惑いながらも、のろのろ戻ってきたに違いない。
 アズールからすればジェイドの言動の理由がわからないだろうが、フロイドにはそれがわかった。
 ――簡単なことだ。アズールは知らないだろうが、先週の土曜の夜、ジェイドはモストロ・ラウンジから戻って着替えるなり、自室でじっと椅子に座り、ひたすらに無駄に思考をかき混ぜていた。言い訳のようにキノコの図鑑を開いてはいたが、ページは1ページも進んでいなかったし、もっとよく見ればジェイドの視線は左右にすら揺れていなかった。図鑑を通り抜けたどこか一点だけをぼうっと眺めて、そのままの状態でジェイドは思考をどこかにぶっ飛ばしていた。
 余程深く、あるいは遠く――素っ頓狂なところに――考えを飛躍させていたに違いない。なにせフロイドがそれだけ無遠慮に視線を注いでいても、ジェイドはそれにすら気づいていなかったのだ。普段なら3秒も視線を注げば「どうしました」とこちらを振り向くというのに、それすら無かったのだから重症だ。
 ジェイドが何をそんなに思い悩んでいたのか、フロイドはそれも理解している。アズールは知らないだろうが、あの日アズールは無意識にもジェイドの『地雷』を踏み抜いたのだ。その瞬間にはフロイドも同じ場にいたので、フロイドが「あ」と思ったほどで、サッとジェイドへと視線を向ければ、案の定ジェイドは一瞬、本当にほんの一瞬だけ表情を失っていた。すぐに取り繕ってはいたが、ジェイドがあれからしばらく放心状態だったのはそのせいだろう。
 まあ無理もないだろう。アズールにとっては本当に何気ない言葉だったのだろうし、それに対してとんでもない方向へ思考を飛躍させたジェイドも悪いだろうが、これについてはどちらかと言われたならばアズールに非がある、とフロイドは思っている。だって、アズールが言った言葉とは、ジェイドのユニーク魔法よりも他の奴のユニーク魔法が便利だ、という言葉であったのだから。
 ジェイドは存外にフロイドとアズールに慈しみを注いでいる。
 フロイドに対しては兄弟として、互いに選びあった相手として、互いに互いを満足させる存在として。アズールに対しては数少ない友人として、そしてやはり自分を満足させる存在として。
 ジェイドは『自分に面白いことを持ってきてくれる存在』としてフロイドとアズールを気に入ったのだろうが、そういう意味ではジェイドにとってアズールは『重要な存在』と言えた。何しろアズールは考えることやること全てがいちいち興味深くて面白いのだから、ジェイドからすればお気に入りのおもちゃみたいな存在だろう。
 アズールに協力すれば面白いことになる、とわかっているからこそ、ジェイドはアズールに助力し従っている。利己的と言えるが、見方を変えればその分ジェイドはアズールに対して忠実で、時として献身的なほどだった。自分を楽しませてくれるから好き、という理由から始まってはいるが、ジェイドのそれはきっと愛情と言えるだろう。
 たぶん、そのへんの学生同士の恋愛感情よりずっと深くて強いものだ、とフロイドは感じている。
 だってジェイドは、自分を楽しませてくれるからこそアズールが好きで、そのアズールのためならば自分に出来ることは何でもしてやりたいと考えている。アズールのことがお気に入りだからこそ、アズールが欲しがるものを差し出してやりたいと思っている。
 たとえばもしアズールから、資金を集めてこい、と言われたなら何かしらの方法でそれを必要分集めてくるだろう。魔導書なり薬草なり鉱物なり、あれが欲しい、と聞いたならそれを用意してみせるだろう。
 命をよこせ、と言われて、その時ジェイドがアズールを信頼できたなら、そしてそれがアズールにとって害とならないなら、きっとジェイドは自分の命すら平気で差し出すに違いない。その結果が自分にとって面白くなると予想できれば、本当に平気でそれを差し出すのだ。
 それはもう愛情だ、とフロイドは考えている。
 つまるところ、ジェイドはアズールを愛している。
 ……だというのにその相手から「他の奴のユニーク魔法の方が便利だ」と言われてしまったのだから、ジェイドとしては相当にショックだっただろう。アズールは知らないだろうが。
 さらに付け加えるならば、おそらくジェイドはそのショックを受けるまで自分の感情を自覚していなかった。フロイドから見れば簡単に「それってもう愛情じゃん」と判断できるものを、たぶんジェイド自身が自覚していなかった。
 だがアズールの何気ない一言によって大いにショックを受けたジェイドは、そのショックの大きさに自分でびっくりして、そしてたぶん、それによって自分の感情を自覚して、ますますショックを受けたらしかった。恋を自覚した瞬間に失恋したようなものだから、まあショックなのだろうなとフロイドは一応納得はしている。アズールはその一切を知らないだろうが。
 そんなわけで、土曜の夜からほとんど放心状態でいたジェイドは、月曜の授業開始からやっと何とか我に返り、少しずつ少しずつ自分の感情を落ち着かせようとしているらしかった。
 オンボロ寮の監督生が「料理をしてみるのはどうか」と提案したらしく、ジェイドは昨日今日と何かしら料理に手をつけている。
 モストロ・ラウンジのキッチンを営業時間内に業務以外の目的で使う暇などないので、必然的にジェイドの料理セラピーは他寮、あるいはモストロ・ラウンジ営業終了後になるわけで、しかし何も知らないアズールは、ジェイドのその行動こそが不安らしかった。
「ジェイドいた?」
 いたのだろうなとわかっていながら、フロイドはソファに寝転がった状態のままアズールに問いかけた。しんとした沈黙の後VIPルームの扉が閉まって、アズールがうなずく。
「キッチンにいました」
「ジェイド何か作ってたの? なんかオレンジの……甘ったるい匂いする」
 ほんのかすかに入り込んだ香りを吸い込み、フロイドは内心で「オレンジソースだ」と判断した。
「トレイさんにケーキのレシピを教わったらしく、それに使うオレンジソースを作ってみたと」
「ふーん」
 出来上がったそれをジェイドがすぐに吸い込んでいなければ、明日の放課後までは冷蔵庫にオレンジソースがあるだろう。明日モストロ・ラウンジのキッチンに入る前まで残っていたらパンにでも付けて食べよう、などとフロイドが考えたところで、アズールがうろうろとし始めた。
「なぜいきなり……聞いた話では昨日はオンボロ寮、今日はハーツラビュル寮ですよ」
「明日はどこだろね〜」
「そういう話をしてるんじゃない。あいつ一体何を企んでるんだ……
「さあ?」
 意味なく出入り口付近でぐるりと円を描いて歩き回ったアズールは、ぶつぶつと何かを言いながら自分のデスクへと歩いていく。「まさか……モストロ・ラウンジに飽きたか?」「ホールじゃなくてキッチンを希望し始めたとか? 別にそれでもいいが、ホールにはジェイドが必要で……」「いやそもそも……
 見当はずれな言葉ばかり聞こえてくるので、フロイドは呆れて上半身を起こした。申しわけ程度に姿勢を戻し、やっとソファに『座る』かたちになる。
 アズールへと視線を向ければ、アズールは自分のデスクにつくなり俯き両手で頭を抱え込んだ。
「飽きたか……いや、だからといって縋るなんて……もともとそういう関係だっただけだ……僕があいつにとって退屈な存在になってしまったのだとして、僕に何の非がある?」
「ねー、アズールー」
 呼びかけたが、アズールはピクリとも反応しなかった。
 これはもうダメだな、と判断してフロイドがますます呆れ返ったところで、アズールはハッとした様子で顔をあげ、フロイドへとまともに視線をよこした。
「いや、でも……じゃあフロイドは何なんだ?」
 言われている意味がわからない。フロイドがムッとして顔を顰めると、アズールは今更フロイドに気づいたように瞬きをして、それからそろりと問いかけてきた。
……フロイド。お前にとって僕は退屈な存在になりましたか?」
「え? 何で?」
……いえ……
 フロイドとしては何故そんなことを聞かれたのかがわからない。感情通り何故だと聞き返したが、アズールはそんなフロイドを見て口ごもったようだった。
「まだすっげー面白いけど」
……それはそれで腹立たしいな……
 一応と思い言葉を付け足したが、今度はムッとされただけだ。難しいな、と諦めて、フロイドは何となしにアズールを眺めた。
「ジェイド何か言ってたわけ」
「いえ……その……昔に料理を教えたことの御礼をいきなり言われて……意図がさっぱり読めず……。それに先ほども言いましたが、今日はハーツラビュル寮のトレイさんにレシピを教わったと。昨日はオンボロ寮、今日はハーツラビュル寮ですよ。一体何なんだ……
 ぼそぼそとそう言ったアズールは、今度は椅子の背もたれにだらりと背中を投げ出すようにして姿勢を崩し、天井を仰ぎ見た。
 何かあるのだろうかと思ってフロイドも同じ方向を見上げたが、ただシャンデリアがあるだけだ。アズールがそこに何を見たのかはわからなかった。
 はぁ、とぐったりした溜息がアズールの口からこぼれて、次いで舌打ちがあった。
「くそ、嫌な想像ばかり思いつく……
「嫌な想像って?」
 フロイドが問えば、アズールはのろのろとした動きで姿勢を戻し、一応、支配人らしい姿勢で椅子に座り直した。機嫌が悪いらしく、剣呑な視線がじとりとフロイドを見やる。
 これでアズールが不機嫌になるのは八つ当たりに近いのでは、とフロイドは思ったが、黙っておいた。
……ジェイドのことです。様子がおかしい」
「かもねー」
 そんなことはフロイドもわかっている。それどころか、きっとアズールよりもジェイドの心境を理解しているだろう。その自信がある。
 だがそれはフロイドからアズールに説明すべきことではなかったし、そんなに優しくしてやる気持ちもフロイドには無かった。
 アズールはアズールでジェイドの『地雷』を踏みぬいたことに気付いたほうが良いし、ジェイドはジェイドで自分の感情に鈍感すぎることを自覚し改めてほしい。というのがフロイドの真剣な思いだ。ついでにいうとジェイドについては、時々ささいなことでとんでもない方向へ思考をぶっ飛ばす癖も直してほしかった。
 そんなわけでフロイドは、今の二人についてなるべく助力したくなかったのだ。とんでもなく拗れた場合は仕方なしに腰を上げるとして、そんなことになる前に自分達で何とかしてほしい、というのが切実な思いだ。稚魚でもあるまいし。
 だがフロイドがそんなことをぼんやりと考えている間にも、アズールは自らの額を押さえながらも、やはり見当違いなことを言い始めた。
「その……ジェイドにとって僕は『自分を楽しませる存在』でしょう。別にそれについてとやかく言うつもりはありませんが、ジェイドが僕に従っているのはそれが理由です。ですから、その……ジェイドが他寮に気を取られるようになったということは、ジェイドにとって僕はついに退屈な存在になり始めたのかと……
……ふーん」
 何だかもう全部嫌になってきたな、とフロイドは思った。頭の良い二人がそれぞれ違う方向に思考をぶっ飛ばすと、それはもう面倒なことになるらしかった。
「何だその反応」
 アズールはアズールでフロイドの反応が気に入らなかったらしい。ムッとした顔で言われて、フロイドはげんなりとした。
「んー、べつにぃ。アズールのせいじゃねぇの」
「は……!?」
 なけなしの慈悲だ、と思ってフロイドなりのヒントを寄越したが、それが正しくアズールに伝わったかはわからない。多分だめだろうな、と思いながらも、フロイドはソファから立ち上がった。
「もーオレ巻き込むのやめて」
「巻き込む……? おい、ちょっと待てフロイド!」
「オレもうシフト終わってるし。アズールおつかれー」
 まったくもって面倒くさい2人だった。
 もう本当に最終的にどうにもならなくなったなら、そのときに仕方なしに助け船を出してやろうと決めて、フロイドは今は傍観することに決めた。




ハートフル5daysレシピ
(火曜日に諦めた)