Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
夜之 夢
2021-05-08 13:55:23
14840文字
Public
Clear cache
さよなら僕のアンジェラ
本当はエイプリルフールに投稿するつもりだった、突然のジェイ監(♀)夢。
※男装監督生。
監督生の設定は、フォローさせていただいているある御方をモデルにしています。
(なかばノリだけで一応の許可は得た
…
と認識しているのですが、ご冗談のつもりだったとか、やっぱりダメ!という場合はすぐにご連絡ください。削除します。
そういった問題がなければ、このたびは誠にありがとうございました。)
※ジェイ監だけど、アズール視点
※個人的には「ジェイドくんの複雑な恋心と、わかりにくい優しさ」というテーマで書いたものですが、どことなく暗いです。
============================
アズール先輩、という呼び方で呼び止められるのは珍しいことだった。だからこそアズールは呼びかけられたその瞬間に、それが誰なのかを理解した。
というのも、アズールのことを『アズール先輩』と呼ぶ人物は少ない。アズールのことをわざわざ呼び止める人物、となると他寮の寮長かアズールとある程度親交がある者、あるいはオクタヴィネル寮生、あるいはアズールに『相談』があって頼ってくる者、あるいはアズールに喧嘩を売りに来る輩
……
といったところだが、寮長クラスであればアズールのことを名かファミリーネームで呼び捨てにするし、アズールと親交がある者も大抵がアズールのことを名だけで呼ぶか、あるいは後輩であれば「アーシェングロット先輩」か「先輩」と呼んでくる。アズールに『相談』があってやって来る者も同じだ。たとえ三年生の者がやって来たとしてもその時はファミリーネームで呼ばれる。他、アズールに喧嘩を売りに来た者は先輩後輩問わず十中八九「アーシェングロット」と呼び捨ててくるので、アズールのことを『アズール先輩』と呼んでくるのは、二人くらいのものなのだ。
その二人というのが、サバナクロー寮のジャック・ハウルと、オンボロ寮の監督生である。
二者の声はあまりにも違うので、アズールは『アズール先輩』と呼びかけられた時点で、それがオンボロ寮の監督生のものだと理解していた。
振り返り、わかりきっていた相手の姿を視認し、アズールは口を開く。
「どうされましたか」
問いかければ、それに被せるようにして監督生は答えた。
「これ」
ずい、と目前に突きつけられたのはモストロ・ラウンジのポイントカードだ。だがそれは白紙に近い。3ポイント。おそらくは3回の御来店。
アズールの記憶に違わない
――
このオンボロ寮の監督生は、ほとんどモストロ・ウランジに来店したことがなかった。むしろ来店を極力避けていたと言った方がいい。
そしてその理由についてはアズールも知っており、それなりに同情できる理由であったので、アズールも監督生に無理に営業をかけた事は無かった。
だが監督生は今、アズールにその『白紙に近いポイントカード』を突き出して見せている。
「
……
頼まれてもポイントは追加しませんよ」
一応と思いそう告げれば、監督生は据わったような眼差しでアズールを見た。その唇が開かれ、言葉を発する。
「これって」
「はい」
「1000マドルで1ポイントですよね」
「そうですが」
「それが30ポイントで『満タン』」
「そうなります」
「
……
考えたんですけど」
「はい」
「それなら今この場で3万マドル払いますから、アズール先輩、相談にのってください」
険しい表情でそう告げた監督生を前に、アズールは何も言えなくなる。
ただ、実際のところアズールの脳内では様々な思いが渦巻いていた。
なるほどそうきたか、という感心だとか、4万マドル積まれたって監督生の相談事には関わりたくない、という気持ちだとか、自分を巻き込んでくれるな、という厭わしさだとか。
そういったものを全てひっくるめて、アズールは苦々しい思いで口を開いた。
「
……
そのポイントは本来そういうものではないんですよ」
「わかっています。本当なら、いいえ、本来ならわかります」
珍しく監督生は食い下がろうとする。本当に珍しいことだった。
だからこそアズールにもわかる。監督生が最早そこまで追い詰められていることを。それを哀れだと思いもしたが、それ以上に面倒な気持ちがあった。
「諦めてください」
そう言って背を向けようとしたアズールの腕を、すかさず監督生が掴んだ。
「責任とってくださいよ」
大声、というほどでもないが、はっきりした声だった。怒りのこもった声。
廊下にいた数人の生徒達が、その声にハッとしたようにアズール達を振り向き見る。「オクタヴィネル寮の、」「アーシェングロット?」「あれってオンボロ寮の」「もめごと?」「おい、まずいんじゃないのか」ひそひそとした声がちらほらとアズールの耳にも届いてさすがのアズールも言葉と反応に困ったが、これについては監督生も意図せぬことだったらしい。同じく周囲のざわめきと視線を感じ取ったらしい監督生はすぐさまアズールから手を離し、咳ばらいを一つしてから声を小さくした。
「視線と誤解を集めてしまったことについては謝りますけど
……
とにかく責任とってください。アズール先輩にも非と責任があることなんです」
「監督生さんが僕に相談したいこととは、ジェイドのことでしょう。僕には非も責任もありませんよ」
「3万マドル」
言葉と共にポイントカードが下げられ、すかさず監督生の手が突きつけられる。3本の指が立ててられているそれを一瞥し、アズールは溜息を吐き出した。
「要りませんよ
……
。わかりました、ではとにかく放課後モストロ・ラウンジに」
渋々と答えれば、監督生はこくりと頷いた。その目が緊張をたたえた視線でアズールをじっと見る。
「ジェイド先輩は抜きですよ」
「わかっています」
ダメ押しに言われて、アズールの口からは再び溜息が出た。
そんなことわかりきっている
――
ジェイドがその場に居たならばそもそも監督生はアズールに相談事を話す暇も無いであろうし、そうなればアズールも無駄に時間を取られるだけだ。それは避けたい、と判断し、アズールは監督生に向かって口を開いた。
「VIPルームをご用意しておきます。今日はジェイドにもラウンジのシフトが入っていましたから、たとえジェイドが貴方の来店に気付いたとしても問題無いでしょう」
「そうですね」
それだけの言葉であっさりと納得した監督生を、アズールはじっと見る。アズールからの視線に気付いた監督生は首を傾げて疑問を表現して見せたが、アズールはそれに対して首を横に振った。思う事があったが、言うのも無駄か、と判断したためだ。
「いえ、何も。
……
ではそろそろご自身の教室に戻られてはどうですか。もう5分は経過しましたよ」
「本当だ。じゃあアズール先輩、放課後に。移動中に捕まえてすみませんでした」
「よく言う
……
わざとそうしたんでしょう」
告げた言葉に疲弊の色は混ぜたが、実際のところアズールに怒りの類の感情は無かった。よく考えたものだ、と呆れのような感心の思いがあって、あまり不愉快ではない。
目論見
――
アズール1人だけを確実に捕まえる方法として、教室の移動中に声をかける方法
――
を言い当てられた監督生は「すみません」と苦笑してアズールに会釈した。おそらくそれは会話の終わりに添えられた言葉で、アズールの指摘に対する肯定と謝罪だった。
アズールがそれを無言で受け取ったのを確認し、監督生は背を向け、来た廊下を駆けだした。
監督生が目指す方向に視線を向ければ、廊下の奥には三人の人影がある。その外見と身長からして、おそらくはハーツラビュル寮の1年生と、サバナクロ
―
寮の1年生だろう。それから黒猫の姿をした生き物が一匹。遠巻きにではあるが、監督生の様子を見守っていたに違いない。
「ごめんね!」
その集まりに向かって駆けながら、監督生が弾んだ声で言う。三人と一匹に向かって手を振る。
その後ろ姿を一瞥して、アズールは目的地であった教室に入った。
オンボロ寮の監督生、という存在をジェイド・リーチがいやにつつき回すようになったのは数ヶ月前からだった。
明確にいつから、と尋ねられたなら、アズールはそれに答えることが出来る。自分がオーバーブロットしてから、と。
だからアズールとしてはジェイドの感情の変化の経緯が手に取るように解る。
――
おそらくジェイドが監督生に向けたものとは、最初は警戒であり、牽制であり、そしてほんの少しの興味であったに違いない。『自らがよく知る、自寮の寮長をオーバーブロットさせて、さらにそれを鎮めた存在』として、ジェイド・リーチは監督生を『要警戒対象』として認めた。だから最初は嫌がらせとも「ちょっかい」とも言えるような曖昧なことばかりをしかけて、その度に監督生からそろりと距離を置かれていた。
――
オンボロ寮の監督生は聡明だったと思う。少なくともアズールはそう思っている。ジェイドという、目に見えて揶揄いをしかけてくる相手に対して、怒るでもなく弱って見せるでもなく、やんわりと断りの言葉を使って、自分の方がそぅっと距離を置こうとしたからだ。
たとえばいつだったか、こんな事があった。
まだジェイドの監督生に対する「ちょっかい」が今ほどひどくなかった頃。ジェイドが監督生をまだ『要警戒対象』として見ていた頃だ。
昼休みの食堂にて偶然にもタイミングが重なって、アズール達と監督生とで昼食を共にしたことがあった。その際に監督生が、料理に添えられていたキノコのソテーを丁寧に皿の端に避けていたのだが、それを見たジェイドがすかさず「キノコはお嫌いですか」と話しかけ、「美味しいですよ」「一口でも召し上がってみては」「いくつかは僕が採ってきたものが入っているかもしれません」としきりにすすめ始め、けれど監督生はそのどれにも曖昧な、それでいてジェイドに対してはちっとも嫌味ではない返事をしてみせた。「キノコだけはどうしても苦手で」「口にするのが怖いほどなんです」「ジェイド先輩が採られたんですか。凄いですね」といった風に。極めつけに「先輩、キノコがお好きなんですか」と問いかけ、調子に乗ったジェイドが長々とキノコと山の魅力について語り出したどころでフロイドが怒り、その隙に監督生は誰にも邪魔されずに自分の食事を進めていた。結局一度もキノコを口に運ばずに。
わあわあと口喧嘩を始めたフロイド達を放って監督生は先に席を立ち、アズールに向かって「ありがとうございました」と会釈をして去ったのだ。
「賢い人ですね」
監督生が立ち去るなりジェイドはスッと静かになり、そうしてまず言った言葉がそれだった。
アズールは頷きで同意した。
「
――
なるほど」
その時ほんの小さな声でジェイドがそう呟いたのを、アズールはよく覚えている。
それが最初のことだったのか、何度目かのことだったのかまでは覚えていないが、同時期にジェイドは度々監督生に嫌がらせのようなものをして、それを躱されてはそう呟いていた。
多分その『なるほど』が積み重なるごとに、ジェイドの中の何かはエスカレートしていったのだろう。アズールはそう思う。
ジェイドの、監督生に対する「ちょっかい」あるいはちょっとした嫌がらせは、それから次第に頻度を増していったからだ。
廊下で出会えば声をかけて挨拶をし、かと思えば機会さえ見つければ嫌味とも取れる言葉をしっかりと添え、それでいて錬金術や魔法薬学の授業で監督生と一緒になったならすかさず自分が監督生のペアとなり、監督生の知識をちくちくと詰りながらも完璧にサポートをしてみせ、モストロ・ラウンジの割引券を自分から渡しておきながら、監督生が来店したなら値引き額が無意味になるような注文に導いてしっかりと金銭をむしり取る
――
そういう、好意なのか嫌がらせなのかわからないことが増えた。アズールの目に余るほどに。フロイドが首を傾げるほどに。
だがオンボロ寮の監督生は聡明であったのだ。ジェイドのそういったわけのわからない言動に振り回されないほどには賢かった。
「なるほど、ジェイド先輩はどうやら自分のことが疎ましいらしい。ならば極力関わりを持たないでおこう」と冷静に正しい
――
あまりにも正しい
――
結論を出すほどには、賢かった。
だからオンボロ寮の監督生が次に取った行動とは『必要最低限以上はジェイドと関わらない』というものであり、それは正しかった。正しい選択だとアズールは思う。だから監督生が正しかった分、間違いはじめたのは恐らくジェイドの方だった。
きっとまだ自分でもそれがどういうことなのかわかっていないまま、ジェイドの言動は止まらなかった。限度を超えてエスカレートしたりはしなかったが、ずっと続いている。
さすがに、と言うべきか、やっと、と言うべきか。三週間ほど前からとうとう監督生の我慢が爆発したらしく、監督生は目に見えてジェイドを避け、あるいはわかりやすくジェイドに対して顔を顰めるようになった。それでもまだ静かな反応だ、とアズールは思う。
対してジェイドは、言うと、露骨な反応を返すようになった監督生をますます面白がるようになって、事態は悪循環している。
フロイドはもうだいぶ前にこの事態を面白がるようになっていた。けれどフロイドはジェイドよりも物分かりが良かったので、フロイドが味方したのは監督生だった。だから監督生はジェイドよりもよっぽどフロイドとの仲が良い。
悪循環、とアズールは思っている。
放課後。モストロ・ラウンジ開店から数十分後に監督生は来店した。店内への案内を担当する寮生には事前に言いつけていた為、監督生は恙無くVIPルームに通され、アズールの前にやって来た。
一人である。いつも一緒のグリムは置いてきたらしい。そのことを訊けば、監督生は少し苦笑した。
「一緒に来るか訊いたんですけど、今回ばかりは嫌だ、と言われました」
「なるほど、グリムさんにしては珍しく賢い選択ですね」
「そうなんですか?」
「今日のあなたの相談事については、グリムさんにとって面白いことは無いでしょうから」
アズールの答えに、監督生は曖昧な表情を見せた。唇の端をほんの少しだけ上げたような、微笑んだような、あるいは唇が引き攣るのを抑えたかのような。
複雑な表情は、監督生の心情をそのまま表したものなのだろう。
す、と視線を伏せてから監督生を見つめ直して、アズールは掌でソファを指して見せた。
「どうぞ、お掛けになってください」
言われた通りに監督生がそこに腰を下ろしたのを確認して、アズールは向かいのソファへと座る。ソファとソファの間にあるテーブルにはあらかじめ紅茶を用意していたので、それをティーポットからカップへと注いで、監督生へと出した。
「ありがとうございます。
……
すごい。いつもそうですけど、良い香りですね」
香りの良し悪しがわかるあたり、監督生は紅茶のことが少しわかる人間なのだ。前々から気付いてはいたことに確信を得ながらも、アズールは無言で自らの分の紅茶を別のカップに注いだ。
「まさかとは思いますけど、これ、ジェイド先輩が淹れたやつではないですよね?」
「違いますよ」
カップに口を付けようとした監督生がすかさず尋ねてきて、アズールは溜息混じりに答えた。そうして自らの分に一度口を付けてから、カップを置く。
「ジェイドが淹れたものには口もつけたくありませんか?」
「そういうわけじゃないんですけど。
……
今はちょっと」
答えて、監督生は結局紅茶に口を付けず、カップを戻し置いた。
『今はちょっと』。その何の答えにもなっていない言葉で、アズールはまた一つ確信を得る。
「
……
それで? ジェイドに関することで僕に相談事とは?」
時間を無駄にするのは嫌だった。単刀直入に、と考えアズールはそう問いかけたが、しかし監督生から返ってきた言葉は、アズールの予測を大きく超えていた。
「あのですね、ジェイド先輩に告白されたんですけど」
「
……
は?」
私だって、と監督生が言う。咄嗟に出たのだろうその一人称に、あ、と思ったが、アズールはそれを聞き逃したことにした。
「私だって、信じたくありません。というか、信じていません。付き合いたいなんて思いもしないし」
「それは
……
まあ、そうでしょうね」
それは何故、と問いかけて、アズールはそれを別の言葉にすり替えた。何故、など。そう訊くほうがどうかしている。ジェイドの今までの言動を、わけのわからない行動をぶつけられ続けた監督生が、ジェイドを好く理由など欠片たりとも無かった。つまり、ジェイドの告白ははじめから成立しないものなのだ。そこまで思考を走らせて、アズールは密かにハッとした。
おそらくジェイドは、そうと解っていたからこそ告白などしたのだろう。
「ジェイドには何と言われたんです」
「驚かないんですね」
決して厳しくはないが笑ってもいない声で指摘され、アズールはそっと息を吐き出す。
「驚きはしました。ただ、ジェイドがそういう手段に出てもおかしくない、と思えたので。驚きはしたが納得した、と言えば伝わりますか?」
答えれば、監督生は自分の分のティーカップを持ち上げ、そのままの状態でアズールをじっと見た。
感情の読めない静かな眼差しが注がれ、アズールもそれを無感情に受け止める。
二秒ほどの静寂が生まれ、それは監督生がカップの中の液面にそっと息をふきかけたことで薄まった。
静かにカップのふちに唇をつけた監督生が、こくり、とその一口を飲んだ。
「
……
本当だ。いつもと味が違う」
わずかに安堵したように告げられたその言葉に、アズールはほんの少し憂鬱さを感じた。
今の監督生の言葉がどれほどまずいものかを理解したからだ。
いつもと味が違う、など。
ではその『いつも』は誰が淹れているのか、という話だ。
おそらく監督生は無意識だったのだろう。自分の発言を気にした様子も無く、瞳をとろかすようにしてティーカップの中の液面に視線を注いでいる。アズールが淹れたそれに。
いつも、などと言えるほど。監督生が味を覚えられるほどの回数分、ジェイドが監督生に紅茶を淹れたことと、監督生がそれを自覚していない、ということがひどく危うい気がした。
「
……
ジェイドは、何と言ってあなたに告白を?」
問う声は自然と強張りそうになる。つとめて口調をやわらかくしてアズールは尋ねた。
別に、と監督生が言葉を繋ぐ。口を付けていたティーカップを下ろして、それをそっと置き直して言葉を続けた。
「別に、普通ですよ。よくあるような
……
あなたに好意を持っているので、付き合ってもらえませんか、と」
「
……
驚かなかったんですね」
「驚きましたよ。この人何言ってんだろう、って思いました」
そう答えた監督生は、にこりともしなかった。照れ隠しや、場を和ますために言った言葉ではないのだと嫌でもわかる。
「
……
では、返事に悩んでいる?」
アズールは問う。監督生は首を横に振った。
「返事には悩んでいません。悩まなかったので、その場で答えました」
「断ったんですか」
「そうですね。お断りします、って言いました」
「ジェイドは何と?」
「残念です、とだけ。でも笑ってましたよ」
そうですか、とアズールは答える。思っていたよりも小さな声になった。
それでアズールも監督生も黙ったので、室内には静けさが訪れた。閉ざされた出入口の扉の向こうからごくかすかに外の声や物音が聞こえるのみで、アズールは突然同席した静けさをどう言って退かせばいいのかわからなくなる。
先に口を開いたのは監督生だった。
「驚かないんですね」
やはり監督生の声は厳しくなかったが、おそらく今のこれは非難だ。そう判断し、けれどアズールは罪悪感を抱かなかった。そんなものはどうでもいい。そんなことよりも、もっと、様々なことが問題だった。それを考えねばならなかった。
「驚きませんよ」
自分に文句を言ってくるのは間違っている、と言外に伝えて、アズールは言葉を繋ぐ。「それで? そのうえで、監督生さんは僕に何を相談したいんですか?」
「ジェイド先輩がちょっかいかけてくるのをやめさせてください」
「あぁ、なるほど」
なるほど、とは言ったが、アズールはそれが不可能であることを理解していた。「あいにくと、」気分に伴って、声は重苦しい音になった。
「あいにくと、それについては僕でどうにも出来ませんよ」
答えながらも、アズールは不思議に思った。こんなこと、この監督生は察していそうなものなのにと。それを問おうとして監督生の顔を見て、そうして理解する。少しもがっかりした様子の無い表情。やはり監督生は初めからアズールの返答を理解していたに違いない。
ではなぜ、と思って、またすぐに理解した。最初から監督生は「相談にのってほしい」と言ったのだ。依頼などではなくて。
思わず眉間に力が入るのを感じながらも表情を繕わず、アズールはひたと監督生を見つめた。
「
……
一度、ジェイドと付き合ってみるという選択肢は?」
ジェイドが淹れる紅茶の味がわかるくらいなんでしょう、と言葉の刃を一つ差し出してみる。「冗談!」
残酷なほどに明るく笑って、監督生は被せ気味に答えた。
「紅茶。紅茶はそうですね、出されますからいただく事はあります。でもキノコは大嫌いですし、そうでなくても、たくさん食べる人も好きじゃありません。自分に対して悪質なちょっかいばかりかけてくる人はキノコと同じくらい大嫌いです。大体、ジェイド先輩のあれは、面白いオモチャがどこまで保つか試してるようなものですよ。そこまでわかってて、そんな人と付き合うなんて出来ません。したくありません」
監督生の言葉には悪意はなく、それはただ正論だ。その鋭い正論を明るい口調で、笑い話をするようにずらずらと並べて、監督生はティーカップを持ち上げた。
「アズール先輩。ジェイド先輩に止めるよう言ってくださいよ」
「ジェイドは僕の言葉に従うわけではないんですよ」
「従わせてほしい、と思ってるわけじゃないんです。でもアズール先輩が口を出したなら、それなりに効くかなと思って。責任とってくださいよ。アズール先輩、ずっとジェイド先輩のこと放置してたじゃないですか」
痛いところをついてくる、とアズールは密かに嘆息する。確かにアズールはジェイドを放置していた。ジェイドがどんな感情でもってしてどう行動するのか理解しながら、ジェイドの行動が次第に変質していっていることを知りながら。口を挟んでやりたくないと、ただそれだけで放置していたのだから。そのジェイドを加害者とするなら、被害者である監督生に責められても文句は言いにくかった。
「
……
僕はジェイドの保護者ではないので」
苦し紛れに、けれど事実であることを返答にすれば、監督生はむすりとした表情を見せた。珍しい、とアズールがそれを見やれば、次の瞬間にはもう笑っている。
眉尻が下がるさま。諦めとも慈しみとも見えるような眼差しでティーカップの液面を見て、唇は穏やかに微笑んでいた。
「
……
そういう風に言われるだろうな、って思ってました」
穏やかな人間だな、とアズールはぼんやりと思った。「ジェイドが好きになるなら、こういう人間だろうな」と想像した、その理想図のようなものに似ていると思った。頭が悪くなくて、穏やかで、度胸があって、不本意にジェイドを面白がらせるような。
そこまで考えて、息が詰まる。思わず顔を顰めたところで、派手な物音と共にVIPルームの扉が開け放たれた。
反射的に振り返ると同時に、扉を開け放った犯人が視界に入った。扉を開けた姿勢のままでそこに立っているフロイドが「小エビちゃんじゃん」と目を丸くさせている。
「フロイド先輩」
そう呼びかけて、ぱっと表情を明るくさせた監督生の姿にアズールの胸が痛む。ジェイドには決して見せない姿だったから。
だがアズールとて理解している。けっして監督生が悪いわけではないのだと。監督生がむごいわけでも、フロイドが悪いわけでもない。
――
自分に嫌がらせをしてくる人物を好きになる人などいないだろうし、その反対として自分にそれなりに友好的である人物を嫌う人は少ない。
ジェイドが監督生にちょっかいをかける反面、フロイドは監督生に友好的であったのだから、監督生がどちらに友好的になるかなど考えずともわかる。
何しに来てんの、と笑ったフロイドはそのまま室内にずかずかと入ってきて、誰の許可も得ずに監督生の隣に座った。監督生は笑ってそれを受け入れている。
「ジェイドのこと相談しに来たとか?」
「まあ、そんなところです」
「ジェイドややこしいからね」
「フロイド先輩にとっては『ややこしい』で済むんだと思いますけど」
「ごめんねぇ」
フロイドが何気なく告げた言葉に、アズールは目を見開いて密かに拳を握りしめた。監督生はそれに気付いた様子は無い。フロイドの言葉を重く受け止めた様子も無い。
――
ごめんね。
フロイドが言った言葉が、アズールの脳内をぐるぐると回る。
許容であり、認可であり、お願いであり、それから多分、諦めだった。
あぁ、フロイドも気付いていたのだ、とアズールは愕然と思う。
許してあげて、とフロイドが笑って言った。
監督生さんが来ていましたね、とジェイドがアズールに声をかけてきたのは、モストロ・ラウンジ閉店後だった。スタッフである寮生たちがモストロ・ラウンジの締め作業のために動き回っている中、ジェイドはわざわざアズールに紅茶を持ってきてそう告げたのだ。
「お前、もう少し素直に接したらどうなんです」
「監督生さんにですか?」
誰に、と言わなかったのはわざとで、ジェイドがそれに自ら言及したということは、ジェイドは少なくとも自分の言動を客観的に見ているということだった。
誤魔化すことはしないのだな、とアズールは不思議な気持ちになる。ジェイドの問いに「ええ」と頷けば、ジェイドはアズールの前にティーカップを置いて、するりと手を引いた。
無言。
ちらと見やったが、ジェイドの表情は常の微笑のままだ。何かを言う気配も無い。
仕方なくアズールも、常にそうするようにしてティーカップを持ち上げた。美しい紅色の水面に、ふぅと息をかけて、アズールにしか使われないティーカップのふちに唇を付ける。カップを傾けようとして、ジェイドが口を開いたのはその時だった。
「
……
素直に接して、好意を持ってもらって? それからどうします?」
思わず唇を離して、ティーカップをソーサーの上に戻す。
アズールが唖然として顔を上げた先、そこにお行儀よく立っているジェイドが、もう一度「どうすると言うんです」と嫌な笑い方をした。
明らかに挑発するような問いかけに、アズールは答えることができなかった。
きっとそれは、それこそが今のジェイドをこうも歪ませている理由だと、この数秒で理解したからだ。
異世界から来て、いつかは異世界に帰るのだと言う存在に恋をして何になるだろう。そこに思い出と感情を重ねて何になるだろう。オンボロ寮の監督生
――
物分かりが良すぎるがゆえに諦めるようにしてこの世界で過ごしている彼女は、けれど元いた世界に帰ることを決して諦めてはいない。たとえこの世界で何年経って、この世界でどれだけのものが得られようと、それでもきっと最後には帰ってしまうのだ。そう確信させるものが、彼女にはあった。少なくとも、今やすっかりこの世界に順応している彼女は、それでも学園長に「元の世界に帰るすべは」と聞くことをやめていない。
だからきっと、元の世界に帰る方法が見つかれば帰ってしまうのだ。
――
そんな存在に恋をして、何になるだろう。引き留めておくことが出来ないとわかる相手に恋をするなど。
「
……
それでも、監督生さんが元の世界に帰ったあと
……
良い思い出、として覚えていてもらう方がましでは?」
声が掠れないよう意識して、アズールは問いかける。
アズールの問いを受け止めたジェイドは、一拍を置いてからふっと気配と表情をゆるめた。苦笑するような、あるいは何かを慈しむような曖昧な表情で、そろりと口を開く。
「アズールのそういう、温厚な考えが出るところが僕は嫌いではありませんよ」
温厚。温厚なものか、と反論しかけて、言葉が口から出る直前でアズールはハッとした。
ジェイドを怒鳴りつけようとして中途半端に開いてしまった唇を、そろそろと閉ざす。
アズールのそれを、おそらくは「普通」とされるであろうその手段を、ジェイドは「温厚な考え」と評した。つまりジェイドにとっては、その手段は呑気なものでしかないのだ。そういう考えや手段が意味をなさないところにジェイドはいるのだろう。もうだいぶ前にそこに踏み込んでいたのだ。
そう理解して、アズールを無言でジェイドを見つめた。
その視線を受け止めて微笑み、ジェイドが嬉しそうな声で告げる。
「知っていますか、アズール。楽しかった思い出よりも、嫌な思い出の方が色濃く残るそうですよ」
「
……
ハ。お前がそんな幼稚な手段を取るとは」
お前はもっと利口だと思ってた。苦しまぎれにそう言葉を添えたアズールを無視するように、ジェイドは笑顔のまま言葉を繋げた。
「だってそうじゃないですか。監督生さんと甘く優しいだけの思い出を作って、それで? 彼女が元の世界に帰った後に『楽しかった』なんて思われながら、その思い出を別の誰かで上書きされるくらいなら、彼女が元の世界で『嫌いなものを勧めてくる、嫌な奴がいた』と思い出してくれる方がずっと良い」
呆れた理論だった。あまりにも幼稚で、可哀想になるほど危うくて、それでいてジェイドはどこまでも冷静で、だからこそ呆れた理論だった。
馬鹿なことを、と一言で叱り飛ばせないのは、その結論に至るまでにジェイドの中で様々な葛藤があったからと察せられたからだ。
手にとるようにわかる
――
きっとジェイドはまだ監督生を警戒せねばならず、それでいて自分に面白いことを運んできてくれる貴重なオモチャで、完璧とまではいかずともジェイドの理想に近い相手であって、けれど恋をしてしまったなら報われない。
監督生はいつかは必ず元の世界に帰る。その事実が虚無感を生む。いつ帰るのかもわからない。明日、明後日、数ヶ月後、あるいは数年後、数十年後。その間ずっとジェイドはそのことを想定していなければならない。明確に恋をしてしまったなら、監督生が帰るとなった時に、おそらくジェイドは手を離してやることが出来ない。そして、監督生から手を離されることにも耐えられない。女々しさではなくて、監督生が最終的に元の世界を選んだ、という裏切りに耐えられないからだ。それはジェイドにとって敗北なのだから。
考えれば考えるほどに、ジェイドからすれば監督生は爆弾のような存在だ。アズールを失墜させ、自分のことまで乱すその存在。ジェイドにとっての危険因子。それでいながら適度にジェイドを楽しませ、ある程度ジェイドの理想に沿う存在。けれどいつかは必ずジェイドの元を離れていく。面白いけれど、壊してもならないし触れてもいけないオモチャだ。
なるほど、とアズールは溜息と共に呟いた。
ジェイドからすれば監督生を「好きになれない」のだとわかる。アズールでさえ結論はそうなった。実際のところアズールは監督生に対してそれほどの無茶苦茶な感情を抱いてはいなかったので、アズールが監督生に苛立つことは無かったが。
音にもならないような、陰鬱で小さな息を吐き出して、アズールは置かれたティーカップの水面に視線を固定した。
「
……
告白をしたのでは」
ジェイドの顔を見ないようにして、問う。
「断ってくださると、わかっていたので」
答えたジェイドの声はひどく満足げで、思わず顔を上げたアズールの視界には、本当に嬉しそうに微笑むジェイドがいた。
可哀想に、とアズールは悲しくなる。随分と久しぶりに感じる、本当の悲しさだった。じわりと水が流れるかのように、胸の奥に、感じるはずのない痛みが広がった。
ジェイド・リーチは自らの身の内に飼う色んなものに歪められようとしながら、それでもその凄まじい理性をもってして正常なままだった。だからこそ苦しむ。歪まないから軋む。壊れていないからこそ、歪んでいないからこそ、その身のうちにあるものは他者からわからない。漏れ出さない。
ジェイドが本当に歪み始めていたならば、きっとそのほうがよっぽどわかりやすかった。監督生にとっても。もしそうであったなら、二人は今ごろ仲良く過ごしていたのかもしれない。
たとえば、とアズールは思う。
たとえばいつか監督生が元の世界に帰ったら、そのとき監督生は自分の世界で、ジェイドのことを「嫌な奴だった」と思い出すことがあるのかもしれない。傷にもならないような程度の記憶、監督生にとって一番後腐れがない思い出だ。それでいて、この世界にいた「不特定多数」よりは浮き上がる記憶。
おそらくそれがジェイドなりの優しさであって、誠意だ。
そんな風にいつか監督生が元の世界に戻って、その時になって初めてジェイドは、それが恋であったと認めることが出来るのかもしれない。その時になって初めて、監督生はジェイドの「ちょっかい」の数々を思い出して笑うのかもしれない。互いに安全になって、初めて。
ぐ、と唇を引き結めば、ジェイドは用は済んだとばかりに背を向けた。
本当に紅茶を出すために
――
それを口実に、今日監督生が来たことを確かめるだけに
――
来たらしい。
そういえば紅茶を出されたのだった、とアズールは今更ながらにハッとする。一度持ち上げたものの結局まだ一口も口にしていない紅茶を見て、アズールは咄嗟にジェイドの背中へと声をかけた。
「監督生さんは、」
ジェイドが足を止める。振り返りはしなかったが、今まさにVIPルームの扉を開こうとしていた手は止まっていた。その背中へと、アズールは言葉を続ける。
「ジェイドが淹れた紅茶の味を、覚えていましたよ」
それがジェイドにとって正解になるのか問題になるかはわからなかった。
味を覚えさせてしまった、ということをジェイドは嫌がるのかもしれないし、味を覚えさせた、ということに仄暗い安堵を覚えるのかもしれない。両方かもしれない。
わからなかったが、わからずとも、アズールはそのことをジェイドに伝えておきたかった。少なくともお前の行為はそれくらいには監督生の中で降り積もったのだと。監督生の記憶の中に、少なくとも一つ、ジェイドの良い思い出が息づいているのだと。
しんとした静寂が室内を通り過ぎて、それがすり抜けて行った扉へと手を置き直し、ジェイドはわずかにアズールを振り返った。振り返ると言っても、ほんのわずか。ほとんど顔など見せぬ状態で。
「そうですか」
そぅっと落とされた声は、アズールの想像よりずっと柔らかかった。「では、監督生さんには悪いことをしたかもしれません」言葉には苦笑が混じっている。そのあまりにも頼りないこと。
思わずアズールが立ち上がりかけたところで、ジェイドはそれを制するようにはっきりとアズールを振り返った。
そうして、とろけるような微笑と共に、「ですが、」と言葉を繋いだ。
「ですが、ええ、そうですね
――
それくらいは、とも、思うんですよ」
ぁ、とアズールの唇から声が漏れて、その瞬間にジェイドはするりと笑顔を変えた。めったに見られないとろけるような笑顔は一瞬で平素の愛想笑いに変わり、その手がぐいと扉を開ける。
「では、僕はこれで。明日もよろしくお願いします」
綺麗な笑顔でそう言って、ジェイドはあっさりと部屋を出ていった。止める暇も無い。止められるだけの理由をアズールも持ってはいなかったが。
自重で扉がゆっくりと閉まっていくのを呆然と認めながら、アズールは中途半端な姿勢から、崩れるようにして椅子に腰を下ろした。ぼすりと体が受け止められると同時に、起きた空気の揺らぎで紅茶へと風が当たる。ゆるやかに立ち上っている湯気がゆらりと揺れて、美しい香りがたった。
さよなら僕のアンジェラ
広告非表示プランのご案内