パチ屋で出会い、パチ屋で育んだ愛は、継続が難しいらしかった。両親は私の小学校の卒業式出席を口実に休みを得て、役場に行った。離婚届を出すためだ。つまり、私に七七七と名付けたのが夫婦として最初の共同作業で、最後がこれだ。すこぶるセンスがない。
私は下水臭の漂う街中を走っていた。人通りの多い道だが、時折「危ないやろ」と叱られるくらいで、ぶつかりはしなかった。
ハッと後ろを確認する。赤、青、紫。虎模様にシマウマ模様。目に入るすべてがとにかく騒がしい。そんな中を一人、全身黒尽くめの人物が私に向かって叫んだ。「ちょぉ待ってって!!」
なんなのだ、と思った。駅の改札を抜けてすぐ、いきなり私の肩を掴んで「当ナナミさんやね。こいつ、アンタの父ちゃんで間違いない?」と動画を見せてきたのだ。辺りが騒がしくて、音は聞こえなかった。ただ、暗い画面に揺らめく人影があって、それが長らく顔を合わせていない己の父のものであるとはすぐにわかった。
「違います」私は言った。
「違わんやろ」
「いえ、本当に人違いです」
「そっかぁ。すまんかったな、堪忍してや……ってドアホ! そんなわけあるかい! こちとらめちゃめちゃ下調べしてきてんねん」
私は「あ」とその人の後ろを指差した。古典的な脱出術。相手の目が己から外れる。私は思い切り足を踏み出した。人混みをぬい、よく知った道を駆ける。
そして今。
細い路地に入り、怪しげな喫煙者たちの背後を進む。右に折れ、少しして再び大通りに出る。メイド服の女性やカラオケ屋の着ぐるみマスコットの差し出してきたポケットティッシュを半ば押し付けられるようにして受け取りながら、私は進んだ。
ブブブ、とスマートフォンが震えた。バイト先の店長からだった。「はい」
「あ。当さん? 申し訳ないんやけど、解雇ね、解雇。今日までの給料はちゃんと振り込むから。また確認しといて」
一方的に通話が切られる。は? と困惑がこみ上げてくる。
リダイヤルを押そうとした時、肩にポンと手が置かれた。
「良かった、追いついた。自分足速いなぁ」
そのまま強い力で腕を引かれる。時間が、とかここどこやねん、とかぶつくさ呟きながら、人混みを逆らうように歩いていく。
路地に入り、右折し、左折し、大通りに出て、また右折して路地に入る。
同じところをぐるぐる回っていた。前を歩く人物の表情からは読み取れないが、行動だけで判断すれば迷子だった。
「あの、どこに向かってるんですか」たまらず尋ねる。
足が止まる。その人は、振り向いて「カフェ&バー ビービーオーサカ東口西店三番処」と言った。
「駅前のコンビニの、左側に伸びてる路地をまっすぐ進んで、ドンツキを右に曲がったとこにあるんやけど」
フラミンゴみたいなおばちゃんがやってる帽子屋の横らしいわ。知っとる? と問われる。
「その店は知らないですけど……駅前のコンビニなら反対側です」
その人はロンと名乗った。コピー用紙をハサミで切ったみたいな小さな紙を名刺として渡してきたのだ。何から何まで怪しい。そもそも、男? 女? 父がまた何かやらかしたのか。と思考が巡る。
ロンさんが立ち止まった。店先に出た看板に書かれた小さな文字を睨みつけ、頷いた。
「ビービーオーサカ東口……こんな汚い字ィも英語やったらお洒落扱いされんの不思議ちゃう?」
カラコロ、と戸を押し開ける。
店内は薄暗い。ジャズが流れているだけで、客はなかった。
勝手に店中を進み、席につく。
「また借金ですか」と私は切り出した。顔を合わせることのなかった父だが、代わりにその取り立て人が尋ねてきたことならあったからだ。案の定、「そんなとこかな」と返ってくる。
詳細を、と思ったのと同時に、店主とおぼしき人が注文をとりにやってくる。ロンさんが「冷コー二つ」と告げるとすぐに奥へ消えていった。
「それで、いくらなんですか」
「五百万と四百十円」
「は? ご、五百万?」
「あと四百十円ね」
どうしてこうも借金を膨らませられるのだ。我が父ながらに呆れる。センスどころか、頭もないなんて最悪だ。
ため息をつきながら考えた。自分の貯金、向こう一年で得る予定の賃金。全てを掛け合わせれば足りるか? いや、なぜ職さえ失いかけている私が、ずっと顔を合わせていない父のために金を工面してやらねばならないのだ。当の本人から何の連絡もないことも含め、不満がモヤモヤと渦巻いた。
「無理です。申し訳ないですけど。父から搾り取ってください。肝臓とか腎臓とか、何でもあるでしょ」
私が言うと、ロンさんは面白いものでも見たような顔をした。口元に笑みを浮かべながら「いやいや」と手をひらひら振る。
「私も母も薄給の中、必死に生きてるんです。もし仮に私たちがお金を掻き集めたところで、焼け石に水にしかなりませんよ」
「せやろね。君の父親なんぞは無職な上に、貯金はマイナス。このままやったらだぁれも返済できんやろね」
「なら……」
「あのな、勘違いせんといてほしいねんけど、私は別に取り立てに来たわけやないで」
さも当然のことのようにロンさんが言った。一瞬、耳をすり抜ける。
店主がアイスコーヒーを二つ運んできた。なみなみと注がれたそれは、机に置かれると同時に少しこぼれた。すぐにペーパーナプキンで拭き取る。「ごゆっくりどうぞ」と軽く会釈した店主は、静かに定位置へと戻っていった。
「取り立てじゃなかったら何なんですか」
「うーん。私は例えるなら保険屋っちゅうんかな、ただ担保の回収に来ただけ」
「担保の、回収……」
「そう。君の父親が、私の扱う資産を取り立て屋に提出して、換金する言うから。それで晴れて借金完済、拍手喝采っちゅうこっちゃ」
奇妙な気分だった。
父は一体、
「何を担保に」
と、問う。
急にロンさんの表情が冷たく感じられた。恐ろしくもあった。唇はゆるく円を描いているというのに、私の脳はそれを笑顔と認識しなかった。
人差し指がこちらを向く。次いで、口が開かれ、ロンさんのややハスキーな声が私の鼓膜を震わせた。
「君と、君の母親の戸籍」
全く最低だな、と思った。
ただ不思議と、怒りも、失望も、すぐに凪いだ。代わりに、淡々と事実が心の内でこだましていく。父は家族を売ったのか。それも、「たった五百万」私はつい笑ってしまった。
「君の母親には別の人間が説明にあがっとる。予定通りやと、もうすぐ来んのちゃうかな」
ロンさんは契約書を数枚、テーブル上に広げた。どれもすでに父の署名と拇印があった。
「サインはこことここね。今のうちに目ぇ通しといて」
突然、プルルルとスマートフォンが鳴り響いた。思わず、肩をビクつかせる。
「はい」と応じたロンさんは、そのまま相手と話し始めた。いくつか言葉のやり取りをした後、「へ?」と慌て始める。
「東口西店でしょ」「え? 三番」「そうそう。洋風な感じの……」
話がついたのか、スマートフォンを置いたロンさんが「店間違えた」と一言呟いた。それから店主を大声で呼ぶ。
「ここ何番?」
「一番です」
「ちなみに、三番てどこ」
「三番は、当店より北に進んで一つ目の路地を左折したところに。ピンク色の帽子屋が目印です」
「なるほどなぁ……って、ややこしすぎやろ!」
ロンさんが振り向いた。くるん、と渦巻いたポニーテールが勢いよく揺れる。
「コーヒー一杯分。当ナナミとして過ごす時間が増えたと思ってよう考え」
そう言って、ロンさんはガラスコップに手を伸ばした。私も倣う。持ち上げると、紙のコースターに何やら文字が書かれていた。看板と同じ汚い洒落文字だった。
「当七七七てええ名前やな。縁起がいい感じがする」
「そんなことないですよ。母が破水した時、二人の打ってた台が同時に確変に入ったらしくて。その時の未練が由来ですからね」
その未練は、福を呼ぶだの、あんたが後一時間でも遅く生まれていればだの、都合により姿を変える。だから私は、自分の名前をあまり好きにはなれなかった。名前を音ではなく文字として認識し始めた瞬間から、からかわれることが増えたし、微妙に書きづらい流れの悪さも嫌だった。
それも今日で終わりなのか。
私はストローに口をつけた。鼻で息をしながら一気に飲み干していく。ガラスコップの中で取り残された氷がカランと音を立てた。
頭の奥がキンと痛む。
私は財布から小銭を取り出して、テーブルに置いた。
「……四百十円。コーヒー代くらい自分で払います」
「君、なかなかセンスいいね」ロンさんが楽しそうに言った。
*
カラコロと、ナイス12珈琲屋本店の扉が開く。
「いらっしゃいませ」メニュー表を手に向かう私の胸にはもう、当の文字はない。
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