溶けかけ。
2024-07-20 23:42:18
1536文字
Public ほぼ日刊
 

青天の霹靂

お買い物に行って、お洒落したのを褒めてもらいたいフリーナと泳がせてから爆弾投下するヌヴィレットの甘さしかないお話です。


「ヌヴィレット褒めてくれるかなあ……?褒めてくれるといいな」

 鏡の前でくるりと一回転するのに合わせて、新調したワンピースの裾がふわりと舞った。
 1週間前から夜更かしを控えて肌を整えたから化粧のノリも悪くない。ワンピースと一緒に買ったリップもつけて鏡を覗き込む。

「あ……

 ふと、伸びた髪に目がいった。肩口まで伸びた髪は市井に下りてから経った月日を物語っていた。
 掛け時計に視線を移す。メイクのために早起きをしたおかげで待ち合わせにはまだ余裕がある。舞台で使うような複雑なヘアアレンジでなければ、十分に間に合うだろう。

「ちょっとだけ……





「おはよう、ヌヴィレット。……ごめん、待たせてしまったかい?」

 待ち合わせ場所にはすでにヌヴィレットがいた。いつもの堅苦しい正装ではなく、ワイシャツに紺のベストというラフな格好だ。

「おはよう、フリーナ殿。いやなに、少しばかり仕事が早く片付いたので散歩のつもりでいたら、早く着いてしまったのだ」

「そう……それならいいんだけど……

 一体、いつから待っていたのかは知らないが彼のこういう気遣いが時々、少し苦しい。――期待させないで、と心のなかで僕が叫んだ。

「それで、今日はどこへ?」

 ヌヴィレットの声で我に返る。

「あ……えっと……新しく出来たカフェだよ。水そのものに拘っているから、コーヒーや紅茶は勿論、スープ類も絶品なんだって」

「ほう」

 無表情に見える顔が僅かに明るくなる。これは興味があるときにする顔だ。

「各地から取り寄せた水を買える場所も併設されてるんだって」




「ではな、フリーナ殿」

「うん、またね。ヌヴィレット」

 踵を返したヌヴィレットを引き止めようと手を伸ばしかけてやめる。
 今日は褒めてくれないのかい、なんて面倒な女みたいで口が裂けても言えないし、僕と彼はそんな関係ですらない。いつも褒めてくれていたのは、あくまで社交辞令のようなものでそれ以上でもそれ以下でもない。だって僕がそうやって褒めるように教えたのだから。

 向きを変えて、服や装飾品の入った紙袋を持って家の鍵を開ける。

「今日の服とリップは見たことがないものだったのだが新品だろうか?……よく似合っている」

 帰った筈の彼の声が聞こえて、振り向けば背後にヌヴィレットが立っていた。

「ヌヴィレット!帰ったんじゃなかったのかい!?」

「忘れ物をしたのでな」

「忘れ物?」

 忘れ物なんてあっただろうか、とフリーナは思案する。今日の買い物はほとんどフリーナの物が主で、ヌヴィレットが買ったものといえば、ペンのインクやマグカップなど必需品の類が多かったと思うのだが。それでもフリーナのように嵩張らず、ひとつの紙袋に収まるくらいだったと記憶している。

「すぐに済む」

 彼はそう言うとフリーナの髪に指を絡めた。

「舞台以外で結い上げているのは初めて見たが、なかなか良いものだな……私のためにしてくれたのなら、嬉しく思う」

 ヌヴィレットの唇がフリーナの髪に触れる。いつもより早くなった鼓動がやけに耳についた。

「あ、ありがとう……べ、別に……キミのためってわけじゃなくてだね……

「そうか……それは残念だ」

 クスッと笑い、ちっとも残念そうに見えない表情でヌヴィレットが言った。朝焼け色の瞳には全てを見透かされているような気がして酷く居心地が悪い。

「忘れ物はもういいだろ!帰れよ!」

 ヌヴィレットの背を押して、強引に扉を閉める。扉の向こうで「おやすみ、フリーナ殿」という優しい声が聞こえた。

……おやすみ、ヌヴィレット。良い夢を」