孤児院にいる子供で攫われたのは、コーディ一人だけであった。しかし、孤児院へと向かった声を出迎えたのは、まるで孤児院の子供全員が攫われたかのような、息をするのも憚られるほどの静寂だった。
微かに聞こえるすすり泣き。ひそひそと囁かれる不安の言葉。どうすればいいのだろうか、という目配せが大人子供を問わず幾度も行き交っているのだろうということが、建物の外にいてもひしひしと伝わってくる。数日前まで、子供たちの歓声が賑やかに響いていたとは思えないほどの静けさだ。その理由は、コーディの拉致だけが原因ではないのだろう。
(アランさんが亡くなったのが、大きな痛手だったんだろうな)
教会や、その関連施設に常駐している司祭はアラン一人ではないのだろうが、彼が精神的に大きな支柱の一つを担っていたのは間違いない。元異端審問官という経歴からも、アランは責任ある立場にいたのだろう。
孤児院のには到着したものの、ノエは静まり返った建物の前で足を止めてしまった。
このまま素知らぬ顔で入っていいものか。入ったところで、今の自分に一体何ができるのか。
だからといって何も知らないような顔をしてこの街を出ていく、という選択肢だけはノエの中には存在していない。しかし、具体的に今の自分が何かできることがあるとも思えない。
そう思って二の足を踏んでいると、
「ノエ様……!? よかった、戻られていたのですね」
勝手口から庭に顔を出した女性――プリシラが、ノエの顔を見て安堵を顔に滲ませ、駆け寄ってきた。
「皆さんから、ノエ様が大怪我をしてベルナール様の屋敷に運ばれたと聞いて、一体何があったのかと……心配でなりませんでした」
プリシラはノエの全身に視線をやると、改めて安心の息を吐く。この時ばかりは、ノエも父が自分の治療のために力を惜しまないでいてくれたことを感謝した。
ヤルマルが来訪してから屋敷を出るまで、結局ベルナールには会えずじまいだった。使用人に聞いたところによると、昨晩から彼は寝る間も惜しんで、街の復興と防衛のために各所に顔を出しているらしい。
アランの訃報による衝撃にもあって、ノエは治療に関する言伝も残せずに屋敷を後にしてしまった。街を出る前に再会する機会がないなら、せめて伝言の一つでも残しておこうと思っていたところでもあった
「体の方は……父さんが手を回してくれたおかげで、後遺症なども残っていません。それよりも、ヤルマルさんから話を聞いたのですが……その……アランさんがお亡くなりになったと」
コーディのことを口にすれば、孤児院の子供らの世話係でもあるプリシラの気持ちを大きく乱してしまうかもしれない。
そう思い、ノエはひとまずアランの訃報の件について尋ねることにした。
だが、それとて決して明るい話ではない。プリシラの顔は、再会の安堵から、喪失の悲しみにあっという間に染まっていく。
「……はい。飛竜たちがいなくなり、街の安全が確保された知らせの鐘が鳴らされた後、子供たちの中にグレンがいないことに気がついたんです。オランローさんたちにも協力していただいて、皆と一緒に探しに行ったら……孤児院から少し離れた通りに、アラン司祭が……倒れていて……」
プリシラは、震えた声でかろうじてそう言うと、ゆっくりとかぶりを振るそれが彼女の精一杯だと察したヤルマルが、「オランローから聞いたところによると」と言葉を繋いだ。
「通りに倒れていたアラン司祭のそばで、グレンが茫然と座り込んでいたそうだ。その時には、すでにアラン司祭は事切れていた。遺体の状態から、亡くなってからそこまで時間は経っているようには見えなかったのだけれど……」
「……治療は、もうできない状態だったんですね」
ノエの確認に、ヤルマルはやりきれないといった様子で首を縦に振る。
「その時には、心臓はすでに止まっていたそうだ。その状態を見て、ひとまず憔悴した様子のグレンとアラン司祭の遺体を運ぼうとしたときに、グレンが手近な石を拾って、地面に文字を書いて知らせてくれたらしい。その場に一緒にいたコーディが、飛竜に連れ去られた、と」
グレンのメッセージとアランの遺体という状況を鑑みれば、その場で何が起きたかは明白だ。
アランは、いつものようにグレンとコーディと共に外出をしていたのだろう。夕暮れどきだったから、夕飯に足りないものを買い足しに行ったのかもしれない。
そこに、警鐘が鳴り響いた。アランは、二人を連れて逃げようとしたはずだ。だが、飛竜の思いがけない来襲に遅れをとった。
元異端審問官なら、一人ならば竜の襲撃を退けて逃げるぐらいの技量は持っているはずだ。
しかし、子供たち二人を守りながら、となれば勝手も違う。彼はグレンは守り切ったのだろうが、深手を負い、コーディが拉致されるのを許してしまった。そして、無念のままに息絶えた。傍らにいたグレンは、その一部始終を見ていたといったところか。
「……アラン司祭の魂は、きっとハルオーネ様の御許に旅立たれたことでしょう」
プリシラは赤くなった目尻を拭い、掠れた声ではありながらも、どうにか言葉を紡ぐ。
「これから孤児院の子供達と、アラン司祭のご遺体に花を供えに行くところだったのです。お時間があるようでしたら、良かったらみなさんご一緒していただけますか」
「それは構いませんが……良いのですか。部外者の僕たちが、そのような場所に立ち入っても」
しかし、ノエの遠慮に対して、プリシラは静かに首肯を返す。
「アラン司祭は、出会った方の縁を大事にする方でした。ノエ様にも死出を見送ってもらえれば、きっと喜ばれることでしょう」
実際、ノエにとっても、アランはこの街に来てから得た貴重な知己だ。
宿を貸してもらった縁はもちろんのこと、アランはノエの伯父であるフィリベールの知人でもあった。そのうえ、彼は、異端審問官であったという経歴を持つにも拘らず、自分が異端者として討った者の血縁――グレンのことを気にかけてもいた。
異端者は死んでも構わない。異端者は国に対する裏切り者だ。そのような考えを持つ者も多い中で、アランのように異端者の身内の心情まで慮れる人は多くない。
そのような人物だからこそ、グレンにとっては母の仇にあたる者であったとしても、彼こそがグレンを支えるのに相応しい人物だと、ノエは思っていたのだが。
(グレンさんは今、どうしているんだろう……。よりにもよって、自分の目の前で知人が殺されて、その上友人が攫われるなんて……)
子供たちが来るまで室内で休んでいてほしいと、プリシラによって孤児院の中へ案内されたノエは気がつく。
アランの最後の別れに向かうために、玄関付近に集まったと思われる子供たち。その中に、グレンのあの細い影はなかった。
「あの……グレンさんは、ここにはいないのですか」
ノエの問いかけに、プリシラは世話係の女性と顔を見合わせる。
「グレンなら、行かないって書いてたよ」
返事をしたのは、集められた子供たちの一人だった。グレンより年下と思しき少年は、二階に続く階段の方を見やると、
「ぼく、グレンと同じ部屋なんだよ。でも、何度も誘ったんだけど、絶対に行かないって。引っ張ってもつついても、ちっとも動かないんだ」
「……無理もありません。わたしも、もし、大事な人が自分の目の前で、自分を庇って亡くなったなんて……そんな状況だったら……」
オデットの沈痛な呟きに、昨日のノエの件も踏まえていた。
危うく、ノエはオデットに同じ気持ちを味わせるところだったのだ。たとえ、それがお互い様だったとしても。
「……うん。とてもじゃないけれど……平静ではいられないと思う」
オデットの肩にノエは軽く手を載せ、彼女の気持ちへの労りを見せる。同時に、仮定ではなく、現実に起きたこととして悲劇に対面したグレンの心情に思いを馳せる。
「あの。もしよければ、僕が様子を見に行ってもいいでしょうか」
気づけば、ノエの口は勝手に動いていた。プリシラはノエの申し出に驚いた様子だったが、何度か鍛錬に付き合っていたノエならば問題ないと思ったのか、首肯を返してくれた。
「それじゃあ、ボクたちはプリシラさんと一緒に、先に教会に行っているよ。後で合流しよう」
ここでグレンの合流を待たせるのも申し訳ない。ノエはヤルマルの提案に賛同し、プリシラから改めて許可をとって二階へと向かった。
***
板が軋む音がよく響く階段を上っていくと、その先に広がる廊下には扉がずらりと並んでいた。この扉の一つ一つに続く部屋が、孤児院の子供たちの住まいとなっているという話だった。
部屋の数は一般的な家屋と比較すると、かなり多い。本来は、この家も宿として使っていたのかもしれない。
廊下に並ぶ扉の一つに向かい、ノエは軽くノックをする。そこが、プリシラに教えてもらったグレンの部屋だ。
ノックの返事は、沈黙だった。扉が開く様子はないものの、扉の向こうには誰かがみじろぎする気配がする。ならば、グレンはまだこの部屋にいるのだろう。
「突然の訪問、すみません。今、よいでしょうか」
そう呼びかけると、みじろぎの気配が大きくなり、小さな足音が扉の向こうから聞こえた。
ノブが捻られ、ゆっくりと扉が開く。針を通したような隙間から見えたのは、見覚えのある金髪と、昏く沈んだ紫紺の瞳だった。
「こんにちは、グレンさん」
できる限り、深刻さを抜いた声音で挨拶をする。グレンの唇が「ノエさん」という言葉を作るのを、ノエは確かに目にしていた。
「部屋に入っても、いいでしょうか」
ノエの問いかけに、グレンは頷きを返す。グレンが開いてくれた扉を通り、ノエは室内へと足を踏み入れた。
階下にいた子供が言っていたように、この部屋には三人の子供が使っていたらしい。小さな寝台が部屋に押し込まれるように三つ、隅に並んでいる。
私物を置くために作られたと思われる棚には、一番上の段には木の棒やぴかぴか光る石が雑多に置かれていた。真ん中の段には、擦り切れてぼろぼろになった絵本が数冊置かれ、一番下の段にグレンが鍛錬で振っていた木剣が転がっていた。
どこに座ればいいものかと思案していると、グレンは空いている寝台を指さした。
「ここって……」
他二つの寝台が、シーツに皺がより、毛布が適当に端に寄せられているのに対して、この寝台だけはおざなりではありながらも、丁寧に毛布がまとめてある。まるで、誰かに言われて渋々布団を直したかのような。
日常の残滓が感じ取られるソレは、昨日の悲劇が起きる前にここに居たものが誰かを訴えていた。
「ここは、コーディさんの寝台ではないのですか」
ノエの問いかけに、果たしてグレンは頷いた。それでも、彼はその寝台を指差し続けている。まるで、そこだけ時が止まったかのような空間を、誰かが壊してくれることを望んでいるかのように。
けれども、グレンの手では、コーディが残していった日常の名残を壊すことができなかった。だから、彼はノエに頼んでいる。そんなグレンの気持ちが伝わるような、無言の指示だった。
「……失礼します。もし、後でコーディさんにバレて怒られたら、その時は僕も一緒に怒られますね」
ノエがそう言うと、グレンの顔に小さな驚きがよぎった。
グレン自身、コーディはもう戻ってこないと考えていた所はあったのだろう。けれども、ノエはコーディの遺体を目にしたわけでもないのに、コーディが戻ってこないものという前提で話を進めたくなかった。
「プリシラさんから、話は聞きました。……僕が、軽々しく言えることではないのですが……グレンさんにとっては、とても辛いことだったでしょう」
グレンは、無言で俯き、ゆっくりと首を横に振る。自分は平気だと、他ならぬ自分に言い聞かせているように。
しかし、その振る舞いこそが、ひどく傷ついた自分を守るための行いだと、ノエはよく知っている。
「一日で受け入れられることではない、と分かっているつもりです。ですが……残念ながら、アランさんの葬儀は、あなたが今回の件を受け入れるまで、待っていてくれないみたいなんです」
グレンが眼前でアランを失ったことを飲み込めるようになるまで、一週間以上はかかるだろう。目の前で知人が息を引き取るさまを目にするというのは、それだけ心に大きな傷を残す。
庇われたわけではないが、グレンより何歳も年上のノエとて、ウヴィルトータの死を完全に飲み込むには、何日もかかったのだから。
「本当ならば、グレンさん自身が、お別れの時に一緒にいるべきだと思うのですが……」
しかし、グレンは頑なに首を横に振っている。ちょうど、先ほどグレンと同室の子供が言っていたように。
「グレンさんの気持ちも、できる限り尊重したいと僕は思っています。ですが、このままでは、アランさんの新たな出立に際して何もできなかった……と、未来のグレンさんが後悔してしまうことになるんじゃないかと……そう、思ってしまうのです」
気持ちの上では、受け入れられないかもしれない。
自分を庇って死んだ人を前にして、おめおめと顔を出すなどと、たとえ相手が何も言えない死者だとしても、自分自身が受け入れられないという場合もあるだろう。
「グレンさんは、納得できないかもしれません。アランさんに合わせる顔がないと思っているかもしれません。それでも……せめて、今だけは、アランさんを見送る場に共にいる自分を許してあげられないでしょうか」
今は受け入れられなくてもいい。だが、未来の自分がいつか受けいられる日が来ると期待して、共にアランを見送りに行ってはどうか。
しかし、ノエのこの誘いに対して、グレンはゆっくりと首を――横に振った。
(やっぱり、それだけ心の傷が大きいんだろうか……)
無理もない。昨日の今日のことである上に、グレンはコーディを目の前で攫われたのだ。
コーディの生死は不明ではあるが、グレンにとっては知り合い二人が自分を置いて死んだようなものである。
たとえ、母親の仇だったとしても、アランがグレンをとりわけ気遣っていることはグレンには伝わっていたようだった。なればこそ、アランが自分を庇って命を落としたのは、グレンにとってはただ知り合いが命を落とした以上の痛みを与えただろう。
グレンはシーツの上に指を置くと、ノエでも目で追うのもやっとのスピードで文字を綴っていく。
――僕には、あの人を見送る資格はない。
それだけを書いて、グレンは膝を抱えてしまった。
(やっぱり……グレンさんは自分を庇って二人が死んでしまったと思ったんだろうな)
アランは、グレンが重荷を背負うのを良しとはしないだろう。それは、コーディとて同じはずだ。けれども、残された側には残された側にしか分からない重荷だってあるのだ。
「……それなら、せめて。グレンさんからアランさんへ送る言葉を、預かってもいいでしょうか」
グレンはおずおずと顔を上げる。悲しみよりも濃い不安が彼の顔を覆っているのは、死んだアランが自分を拒むのではないかと思っているからか。
「アランさんは、あなたのことをずっと気遣っていました。ですが、グレンさんにとっては……アランさんは、お母様の仇です。それも、またあなたにとっては覆せない事実です」
グレンの手をとり、ノエは続ける。
「憎い相手だったかもしれません。あの人の気持ちは、あなたにとっては煩わしいものだったかもしれません。あなたにとって、アランさんがただの『仇』だったなら、僕からの申し出はなかったことにしてもらって構いません」
けれども、もし、それ以外の気持ちがあるのなら。
「もし、あなたに少しでもアランさんに届けたい気持ちがあるのなら。……僕は、責任を持って、あの方にあなたの言葉を届けます」
たとえ、アランがもう起き上がり、感謝の言葉を口にする日が来なかったとしても。
これが、遺されたノエとグレンにとっての自己満足に過ぎなかったとしても。
そこに意味があると、ノエは思いたかった。
誰かを送り出すというのは、きっとそういうことだから。
グレンは動かなかった。
十秒、二十秒と、自分の指が記したシーツの皺だけを見つめていた。
やがて、まるまる一分ほどが経ち、ノエがこの場を去るべきかと考え始めたときだった。
グレンは、ノエの服の裾を引き、彼の手をとった。
言葉を発せない少年は、ノエの手の上に言葉を綴る。
――手紙、書くから。少し待ってて。
***
グレンがアランに宛てた手紙は、とても質素なものだった。
言葉にするなら、たった二言に過ぎなかったのだから。
――ありがとう。
――ごめんなさい。
殊更に隠すでもなく、彼は自分の綴った言葉をノエにも見える形で記し、ノエへと託した。もう一度、実際にアランのもとに向かうかと誘ってみたが、やはりグレンは首を縦に振らなかった。
さすがに、それ以上はグレンの気持ちに対して負担になるだけだと、ノエは手紙だけを受け取って教会に向かい、中へと一歩を足を踏み入れ――そこで思わず息を呑んだ。
「……ひどい」
開け放たれたままになっている教会の扉。その向こうに広がる光景を目にして、ノエはまずそう呟いてしまった。
皇都に比べれば控えめではあるものの、人々の心の拠り所としてあっただろうその建物は、街の人の半分は収容できるのではないか、と思うほどの広さがあった。
門扉を潜り抜ければ、戦女神のハルオーネを模った象が真っ先に目に入る。本来ならば敬虔な信者たちが祈りを捧げるための礼拝堂として、この場は機能していたのだろう。
しかし、今や信者が座るための座席は全て片付けられ、代わりにずらりと『あるもの』が並んでいた。
啜り泣く人々の声。寒冷地に辛うじて咲く草花を寄せ集めた簡素な花束が飾られた――それは、死者が眠る棺の群れだった。
一つ二つでは到底済まない。十や二十、あるいはそれ以上の数を容易に彷彿させる人々の『死』に、ノエは一瞬、言葉をなくして、凍りついてしまった。
「棺の数が足りないんじゃないかって、司祭が心配していたな。最悪の場合は、藁に包んで埋葬ってことになるかもしれん」
馴染みのある声が急に耳に飛び込んできて、ノエは思わずそちらを見やる。視線の先、儀礼用と思しき見慣れない装飾が施された杖を持った、見覚えのある男が立っていた。
「ルーシャンさん。よかった、無事だったんですね」
「お陰様でな。そっちこそ、怪我の具合はどうだ。ヤルマルから聞いた話じゃ、親父さんに手を回してもらって、治療はしてもらったみたいだが」
「ええ。おかげで、傷は塞がっています。あの……それよりも、一体、どうしてそのような格好を?」
ノエがそう言うのも無理もない。今のルーシャンは、持っている杖もさることながら、普段のローブの上から、無地の黒いローブを羽織っている。そのせいで、普段のルーシャンとは全く違った印象をノエに与えていた。
「見ての通り、今回の件でこんなにも死者が出てしまっただろ。だが、葬儀をするにも墓穴も司祭も全く足りない。いくら、この辺りが寒冷な気候だって言っても、死体をずっと放置していたら腐っちまう」
「それはその通りですが……もしかして、司祭様の手伝いをしていたのですか?」
「そういうことだ。……って言っても、俺は司祭様が執り行う儀式の流れなんざは殆どわからない。だから、祈りの代わりに、担ぎ込まれる遺体が腐らないよう、凍結の魔法をかけていっているんだ」
ルーシャンは持ちなれない杖を軽く振ってから、周囲の人々へと視線をやる。言われてみて、ノエも建物の中が室内であるにも拘らずひどく冷え込んでいることに気がついた。
凍え死ぬほどではないにしても、気温が一段下がって感じるのは、ルーシャンが言うように遺体を保全するために気温を意図的に下げているからだろう。
「……僕も、何か手伝えることがあるといいんですが」
「気にするな。俺はたまたま、似たような仕事をしたことがあるから手伝ってるってだけだ。もし、何か手伝いたいって言うなら、後で棺を運ぶ手伝いをすればいい。この様子だと、まだまだ運ばれてくるだろうからな」
ルーシャンが言うように、二人が話している間にも、入り口の扉を新たな葬列が通っていった。小さな棺には、逃げ遅れた子供が入っているのだろうか。
棺を抱えて運ぶ夫婦と思しき男女の啜り泣く声が、ノエの耳にこびりついて離れなかった。
「それよりも、お前はお前で別れの挨拶をしなきゃいけない相手がいるんじゃないか」
ルーシャンが目線で示した先。礼拝堂の一番奥の片隅に置かれている棺には、孤児院の子供を筆頭とした人だかりに囲まれていた。
見慣れない顔もあるので、ノエの知らない街の人もアランに最後の別れを告げに来ているようだ。彼は、それだけ街の者に愛されてきた人だったということだ。
ルーシャンに軽く別れの挨拶を告げて、ノエもそちらへと向かう。折よく、人だかりに切れ目が生まれ、孤児院の子供たちがそっと棺から離れる様子が見えた。
「ノエ様」
プリシラの呼びかけに、ノエは短く首を横に振る。グレンは連れて来られなかった、と示すために。
「……そうでしたか」
「代わりに、と言ってはなんですが……言伝を預かってきました。一緒においてもよろしいでしょうか」
「ええ、ぜひ」
答えるプリシラの声は、長い時間泣き濡れていたのを示すかのように掠れていた。それでも、涙をこぼすまいとする気丈さが彼女の様子から伺えた。
子供たちの手前、ずっと泣いているわけにもいかない。プリシラがノエたちを誘ったのも、第三者が立ち会うことで、自分の気持ちを引き締め直そうとする意図があったのかもしれない。
棺に近づき、その中へと視線を落とす。
まだ凍結の処理がされていないのか、常よりも血の気の薄いものの、今にも目を覚ましそうな気配を漂わせて、その人は――アランは、そこにいた。
厳しさと優しさを混ぜた口元は、今はしっかりと結ばれている。胸のところで組まれた手には、異端審問官の頃についたものか、微かに傷跡が残っている。
後ろになでつけていた髪の毛は前に下ろされ、生前の厳格な空気は少し和らいで見えた。
今にも目を覚まし、皆にきびきびと指示を出すように見えたその人は、しかしもう目を覚さない。色を無くした肌が、彼が永久に目覚めないことを示している。
(……アランさん。僕はまだあなたに会ったばかりで、あなたのことをよく知っていると言える立場ではありません。できることなら……もっとあなたと話をしたかった)
膝を折り、胸に手を当て、祈りを捧げる。続けて、ノエは道端で摘んでおいた小さな花を、子供たちが捧げた花束に添えた。
寒冷地で育つ草花は限られているので、どうしたって死者に供える花は野に咲いたものに限られる。花束というにはあまりに質素だが、アランならきっとどのようなものでも静かな笑顔と共に受け取ってくれるように思えた。
「グレンさんから、あなた宛に言伝を預かっています。……もし、できるのなら、ハルオーネ様の御許に旅立たれる前に、彼の元に立ち寄っていただけますか」
そのような願いを口にしても、死者が生者の言葉を知るわけがないとわかっている。それでも、一縷の希望と奇跡に祈りを託して、ノエはそのような希望の言葉をアランへと送った。
いつまでも、棺のそばで長居しているわけにも行かない。そう思い、立ち上がりかけたノエは、改めて棺の中に眠るアランを見やり、気がつく。
「あの……アランさんのご遺体に被せてある布なのですが」
アランの遺体が着ている衣服は、さすがに死亡時のものから着替えさせてあるようだ。白を基調とした詰襟のシャツ――その首元に、本来なら装飾としても不要なはずの白い布が何重も巻かれている。
「背中から首のあたりにひどい裂傷があってね。おそらく竜から子供たちを庇ったものだろうけれど……流石に、傷跡を晒したまま埋葬するのは気が引けたから、隠れるようにしておいたんだよ」
ノエの問いかけに、ヤルマルが小声で説明を添える。背中から首にかけて、ということは、アランは子供たちを抱えて自らの背を盾としたのだろうか。
その様子を思い浮かべてしまい、ノエが顔を顰めていると、
「それだけじゃないんです。アランさん、お腹のあたりにも傷があって……小さなものでしたけれど……亡くなった方の傷は、わたしの魔法では塞げなくて……」
オデットの沈痛な呟きにつられて、ノエはアランの遺体の腹部に目をやる。その部分は流石にシャツに覆われているためか、布は巻かれていなかった。不自然な凹みなどはないところからして、腹部が抉れるような大きな傷ではなかったようだ。
「傷自体は小さくて……首の傷の方ばかりが目立っていたので、私もすぐには気が付かなかったんです。着替えていただいたときに、初めてそこに傷跡があることに気がついて……」
プリシラの涙混じりの声へと頷き返しながら、ノエは微かな違和感を覚えていた。
飛竜は細身の体に大きな翼を持った竜だ。その手は翼と一体化してしまっているものの、鋭い爪や牙は脆いヒトの皮膚など容易に切り裂いていく。
上空から襲いかかってきた彼らの爪牙が、子供を庇おうとしたアランの背を切り裂く姿は容易に想像できる。その攻撃が運悪く、首元を切り裂き、大量に溢れでた血がアランの命として流れ落ちていったのだろう。
(……じゃあ、腹の傷はいつついたんだろう。それも、飛竜の戦闘中だろうか。でも、飛竜の体格とアランさんの体格じゃ、腹部に傷をつけるのはかえって難しいんじゃないだろうか)
わずかに疑念が残るものの、他にもアランの弔問のために街の人は訪れている。
いつまでも棺の側にいては邪魔になると、ノエは子供達を連れて孤児院へと戻るプリシラたちの後を追いかけた。
***
ヤルマル、オデット、そして子供たちと一緒に孤児院へと戻る途中、ノエは間近に迫ってきた孤児院の建物を見て、
「あの、誰か来ているようですが……今日は、来客の予定があったのですか?」
「いえ、そのような予定はなかったはずですが。それに、あれは……騎士様?」
プリシラからノエへの返事に含まれた言葉通り、孤児院の玄関先には騎士と思しき姿の男がいた。背に負っている盾に刻まれた紋様からも、彼が領主直属の騎士であることは間違いない。
「もしかして、コーディの件で何か進展があったのかもしれません。あの襲撃の後、誘拐された被害者がいないかと、一度確認をされたんです」
プリシラは口早にそう言うと、子供達を他の世話人に任せて駆け出した。ノエも、ヤルマルたちに一言言い置いてから後を追う。
後を追いながらも、ノエは胸の中に生まれたざわめきを無視できなかった。針でうなじをつつかれたようなチクチクとした感覚が、彼の後をついてきていた。
孤児院の玄関先では、来訪した騎士に誰かが応対をしていた。
「オランロー! どこにもいないと思っていたら、孤児院にいたのか。一体何をしているんだ?」
「ノエ、戻ってきていたのか」
騎士の応対を一時中断し、明け色の瞳がノエへと向けられる。襲撃のときは、荷物の準備をしていたはずのオランローとサルヒの顔を、ノエは屋敷から戻ってからはまだ一度も見ていなかった。
「見ての通り、オレとサルヒはここの手伝いをしていたんだ。アラン司祭が亡くなって、子供たちが落ち着かないようだからな。世話係は子供たちに寄り添う方に注力してもらって、オレたちは裏で料理を作ったり、雑務を手伝ったりしていた」
オランローとサルヒは、黒い鱗をもつアウラ族だ。ドラゴン族によって傷つけられた直後の人の元に顔を出せば、不安や敵愾心を煽ってしまう。そう判断した彼らは、事情を知っている孤児院の人たちのために、裏方に徹していたようだ。
「昨晩は、お二人に随分と助けてもらったんです」
「そうだったんですか。それで……そちらの騎士様は、何のご用事でこちらに?」
ノエが再び話題を来訪者に戻すと、騎士は小さく咳払いをしてから、
「……たしか、こちらの施設で預かられていた子供が一人、飛竜に攫われたとのことでしたね」
「え、ええ。そうです。もしかして……見つかったのですか?!」
「いえ、そういうわけでは」
騎士はできる限り感情を殺そうとしているかのように、平坦な声音で続ける。
「……ベルナール様によると、明日には被害者の合同葬を執り行うとのことです。それまでに間に合うように、棺と墓の手配を済ませるようにとのことです」
「アラン司祭の葬儀については、すでに手配を済ませておりますが……」
プリシラが怪訝そうに首を傾げて答えると、
「いえ、ですから……攫われた子供の分も、ということです」
彼の発言を聞いて、なぜ騎士が声音に感情を乗せていなかったのか、遅まきながらノエも理解した。
攫われて、生死不明になっている子供の棺と墓を用意せよ。
その言葉が指す意味がわからないほど、ノエもこの場にいる者も愚かではない。
「まさか、見捨てるというんですか……!?」
「そんな……! あの子は、竜どもに攫われただけなんです! どうか、助けてに行ってはもらえませんか! あの子だけじゃない、他にも攫われた人はいるんでしょう!?」
プリシラの必死の嘆願を聞いても、騎士はゆっくりと首を横に振るだけだった。
彼は伝えるべきことは伝えたと言わんばかりに、「よろしくお願いします」と決まりきった文句だけを口にして、その場を去っていった。
残されたオランロー、プリシラ、ノエは、齎された最悪の情報を前にして、皆言葉を失っていた。オランローは無言で「どうする」とノエに問いかけていたが、ノエとてすぐに答えを出せるような内容ではない。
「ベルナール様……どうして……」
プリシラの震えた声が、生まれつつあった沈黙に波紋を投げかける。
「あの方は、領民のことは第一に考えてくださっている方だったのに……どうして、急に見捨てるような真似を……」
彼女が震える声で、そうつぶやいた瞬間。
ガタン、と何か軽いものがぶつかる音がした。反射的にノエはそちらへと視線をやり、目を見開く。
家の陰に隠れるようにして立っていた小さな人影――それは、少し前にノエが言葉を交わした少年ことグレンだった。
「グレンさん、まさか今の話を聞いて……」
ノエの言葉が終わる前に、グレンは踵を返して駆け出した。プリシラたちの脇をすり抜け、彼は何かから逃げるように街の中へと飛び出していってしまう。
「グレン! 待ちなさい、一体どこに……!」
「プリシラさん、危ない!」
グレンの後を追いかけようとしたプリシラだったが、コーディの件があまりに衝撃的だったのだろう。走り出しかけた彼女は、自らの足にもつれて、その場に倒れ込みそうになる。
咄嗟にノエが体を支えて事なきを得たものの、彼女の体は押し寄せる現実の数々に打ちのめされ、小刻みに震えていた。
「ノエ、彼女の様子はオレが見ておく。それよりも」
「ああ。グレンさんのことは、僕が追いかけておきます。ですから、プリシラさんは他の子供たちのことを頼みます」
コーディの件をどう扱うか、そればかりは部外者のノエが口を出せることではない。
だが、グレンはまだ生きて、この街にいる。彼が一人で飛び出して危険な目に遭わないようにすることは、今のノエにもできることだ。
立ち上がりかけたノエの腕を、プリシラは震える手で掴んだ。
「……ノエ様。どうか、お願いします」
「はい。グレンさんは、必ず見つけて連れ戻してきます」
「ありがとうございます。どうか、あの子たちのことを……どうか……」
プリシラの発言は、無意識だったのだろう。それはノエにも推察できていた。
それでも、ノエには彼女の発言がこう聞こえてならなかった。
――どうか、あなたの力でコーディのことも助けてもらえませんか、と。
***
路地に降り積もった雪を蹴散らし、ノエはグレンを探すために街のありとあらゆる場所をくまなく探してまわった。
それらしい少年を見かけていないか聞き込み、通ったこともない細道を覗き込み、時には外壁の周囲も防備についている騎士に頼んで、街の外のも確認させてもらった。
そうして、街の主だった部分を確認し終えたが、グレンの姿は見つからなかった。
「闇雲に探し回っても、この調子じゃ見つかりそうもない……。一体どこに行ってしまったんだろう」
軽く乱れた呼吸を整えるついでに、一度足取りを緩めてノエは思案する。
ひどく心が傷ついたとき、逃げ込めるような場所。それは、グレンにとって思い入れのある場所だろう。あるいは、思い出が強く焼き付いているところだろうか。
だが、グレンはこの街の出身ではないとコーディが語っていた。だとしたら、グレンが向かう場所は限られるはずだ。
「でも、鍛錬をしていたあの広場にはいなかった。じゃあ、一体他にどこが……」
そこまで考えを整理して、ノエは気がつく。
日々を過ごした孤児院の周囲を除けば、今のグレンにとって強く思い出が焼きついた場所など、一つしかない。先だって、プリシラに教えてもらった場所を頭の中の地図に刻み込み、ノエは再び駆け出す。
通りをいくつか曲がった、ちょうど商業区と居住区の中間ほどにある、とある道。
広くもなく、かといって狭くもない通りの一つに入り込んだノエは、ようやく見つける。
くすんだ金髪と、乱れた髪の毛を押さえつけるように被せた帽子。線の細い影を石畳に刻みつけて、彼はその場に佇んでいた。視線の先に、存在しない何かがあるかのように。
「――グレンさん」
ノエの呼びかけに、グレンはゆっくりと顔を上げる。
(……なんて顔をしているんだろう)
世界から自分だけが取りこぼされたような、深く昏く沈んだ瞳。底なしの沼よりもなお暗い瞳が、ノエを見つめ返していた。
出会った時から感情表現に乏しい部分はあったが、今のグレンは感情という感情をごっそり削ぎ落としたかのように無表情だった。
体が冷え切ったせいか、それとも聞かされた話から受けた衝撃のせいか。グレンの唇はすっかり色を失っている。その様子はまるで、棺の中に眠っているアランと全く同じに見えた。
「……ここに、いたんですね」
なるべくグレンをこれ以上傷つけないように、ノエはできる限り穏やかな声音で彼へと話しかける。
グレンはようやくノエがいることに気づいたかのように、視線をノエに合わせる。だが、それも束の間、彼の視線はすぐに地面へと落ちた。
夜に降り積もった雪のおかげで、その場所にあっただろうものは残っていない。だが、そこに何があったのかを、ノエはプリシラに教えてもらっている。
(ここで、アランさんが亡くなったのか……)
グレンは、昨晩の悲劇の現場に戻ってきていたのだ。まるで、そこに戻ったら昨日をやり直せるのではないかと思っているかのように。
一体何と声をかけたらいいか。ノエが逡巡していると、
「……ノエ、さん」
耳に、声が飛び込んできた。
ノエとグレン以外、誰もいないこの場所で。
何年も喉という器官を使っていなかったかのような、錆びついた掠れた声が、響く。
それゆえに、ノエはそれが最初誰の声か分からなかった。
「コーディは、助けて、もらえない、って……いう、のは、本当……ですか」
だが、数秒後に気がつく。
ノエのすぐそばに佇む少年が、必死に喉を震わせ、唇を動かし、声を発している。その事実が頭に染み込み、ノエは目を見開く。
「グレンさん、もしかして、声が……」
「ノエさん。コーディを、助けに、行ってくれませんか」
ノエが驚く間もなく、グレンは矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。まるで、声として発せる音は限られていて、これを逃せばもう話せないとでも思っているかの如く、懸命に拙い音を連ねている。
「僕のせい、だから。だから……助けに、行ってくださ、い。お願い、です」
ノエの上着を掴み、辿々しい言葉でグレンは願い続ける。
「お願い、します。僕、は、もう……いや、です」
少年の口から漏れる音に、はっ、はっと吐き出される息が混じる。呼吸そのものを犠牲にしながら、それでもグレンは言葉を紡ぐのをやめなかった。
「やさしい、人が……僕のせいで、いなくなるのは……だから、お願いします」
それだけを言い切ると、グレンは立っているのも限界を迎えたように、その場に崩れ落ちた。
「グレンさん!?」
ノエが伸ばした腕に体を預けて、グレンは浅い呼吸を続けている。
言葉を発する。ノエたちにとっては当たり前のことして行われている振る舞いではあるが、グレンにとっては精神にも肉体にも多大なる負荷をかけるものだったのは間違いない。
「……あなたの気持ちは、確かに受け取りました」
母を失ったときに、母の死を肯定する世界から己自身を切り離すかの如く、グレンは言葉を発さなくなった。それは、彼にとっては自らを守る壁でもあったのだろう。
ノエとて、失意と絶望のあまり、母を失い、ウヴィルトータに拾われた頃は殆ど口をきかなかった。
けれども、自分を守ってくれた人を失い、今また友を失うかもしれないと思った少年は、自らの壁を打ち破って、ノエへと手を伸ばした。命の危機にさらされた友人を救ってほしいと、嘆願した。
それが、自らが拒絶した世界に再び飛び込むことになるとわかっていたのに。
負荷が限界に達したのか、目を瞑ってうずくまってしまったグレンを、ノエは抱え上げる。線の細い少年は驚くほどに、とても軽かった。
(できるなら、今すぐにでもグレンさんの希望を叶えてあげたい。竜を討ち取って、友人を彼の元に返してあげたい)
ノエには戦う力はある。しかし、ドラゴン族を相手に一歩も引けを取らないような凄腕かと問われると、ノエは首を横に振るしかない。
まして、相手がなぜ人々を拉致したかもわからない。これが罠なら、ノエはのこのこと相手の罠にハマりに行くことになる。
(罠であっても構わない。コーディさんや、他の皆が無事なら。……そう、思いたいのに)
孤児院が見える通りに差し掛かると、ノエにとって見慣れた薄紅の少女が――オデットがこちらへと手を振っている。
その姿を目にした瞬間、ノエは胸の奥が引き絞られるような痛みに襲われた。
ノエが危ない場所に飛び込むことを、心底から憂えているオデットの気持ちは、ノエにも痛いほど伝わっている。そして、罠かもしれないと分かって攫われた人々を追いかけるのは、オデットの心配を踏み躙る行為だ。
(だからと言って、このまま見捨てていいのか)
自問への答えが返る前に、ノエは見る。オデットのそばから顔を見せた、司祭のローブを脱いで片腕にまとめた男――ルーシャンの姿を。
瞬間、彼は思い出してしまう。
――お前には、オデットの記憶を取り戻すのを手伝ってやるって仕事があるんだろ。こんなところで、竜の餌食になっている場合じゃない。違うか?
先だっての襲撃の際に、ルーシャンに投げかけられた言葉が、ノエの中でこだまする。
自分が一体何のためにここにいるのか。なぜ、父親の手紙に従い、ここまで来たのか。
それは、オデットの記憶のためではないのか。自分が守りたいと思った彼女のためではなかったのか。
今朝、オデットからかけられた言葉の数々も、ノエの意思を揺さぶっていく。
――無茶はしないで。独りにならないで。
――何もかもを……背負おうとしないで。
何かをしなければならないという気持ちはある。父に続くものとして、自分は何者かを証明したい気持ちは嘘ではない。
だが、それはオデットを一人残してまで完遂しなければならないものなのか。
――誰かを殺して、その命を奪ってまで成し遂げねばならないものなのか。
そもそも、自分は一体何をすれば、この焦燥に似た感情に折り合いをつけられるのか。
(僕は、オデットの記憶を取り戻すために、イシュガルドにやってきたんだ)
今一度、自分の中で旅の目的を振り返る。その目的に、ドラゴン族との対立は含まれていなかった。
それでもなお、腕の中にいる少年の願いを叶えたいと思う自分もいる。
父親がこうして竜との戦いに従事しているのに、無関係のような顔をして素通りしていいのかと問いかける己がいる。
ままならぬ自分自身の気持ち。二つに割れそうな己の心を抱えて、ノエは奥歯を割らんばかりに強く噛み締めていた。
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