shirajira
2024-07-17 21:20:42
8423文字
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まだ食べ終わってないから

リクエストもらったお屋敷の主人ヨダナとお抱えコックのビマのパロです。多分こういうことではないな……とは思うのですが、こうなっちゃいました。リクエストくれた方ごめんなさい。

「ビーーーーマがおるではないかあ!?」
 ビーマが長期休暇を終え、十日ぶりに職場に顔を出した途端、雇い主が悲鳴を上げた。
 その場には宅配ピザだの店屋物の容器だのが散らばっており、ビーマが留守にしている間、雇い主である男がどのような食生活を送っていたのかは一目瞭然であった。
「えっ、お前、一ヶ月は帰ってこないはずでは……
「確かにお前にもらった休みは一ヶ月だ。でもな、路銀も尽きそうだったし、何よりお前が浮気してねえか心配でな、早めに切り上げてきたってわけだ」
「あれだけ渡したのに足りんかったのか!? 何に使った……いや待て、聞かんでもわかる。全部食費に消えたな? かーっこの狼腹め!」
「俺の金の使い道なんてどうでもいいだろ。それよりドゥリーヨダナ……いや、旦那様」
 ビーマは跪いて、雇い主――この広大な屋敷の主である男の手を取った。十日前より艶のない肌を撫で、男の顔を覗き込む。
「土産代わりに、一品振る舞っても?」


 十日ぶりの厨房に入った途端、帰ってきた、という感覚に、自然と肩の力が抜けた。ビーマは鼻歌を歌いながら、手早く髪をくくり、エプロンを身につける。今日はまだ一応は休みだ、コックコートを着るまでもないだろう。
「あ、ビーマ! 帰ってきてたんだ? 何か早くない?」
「おう、藤丸」
 荷物の中から今回の旅で買ってきた食材を取り出していると、物音を聞きつけでもしたのだろう、同僚の藤丸が現れた。
「どうだった、旅先は?」
「うまいもんいっぱい食えたぜ! めぼしい物は食ったし、俺がいない間のことも気がかりで帰ってきたわけだが……
 ビーマは巨大な、業務用の冷凍庫を開けた。旅行に出る前、毎食分冷凍して用意していたはずのドゥリーヨダナの食事は一つも残っていなかった。藤丸がえーっと、と口ごもる。
「最初はね? ビーマの用意してたご飯を食べてたよ? でもビーマが休みを取って三日後に、急な来客があって……
「そこで全部出しちまった、と。見えっ張りなあいつらしいな。その来客ってのは?」
…………ドゥフシャーサナさんたち」
「見栄張る必要ねえじゃねえか!」
 ビーマは呆れた。それで自分が食べるものがなくなって、手当たり次第に店屋物を頼み、ちょっと食べては口に合わないを繰り返していたのは想像に難くない。
 顔を見れば肌が荒れていたし、どこかやつれた様子だった。ここ数日、あまりちゃんと食べていないのだろう。
 それかジャンクなものばかり食べていたかだ。ビーマのいないうちにと目につくものを片っ端から口に入れ、一口で飽きて周りに食わせている姿は簡単に想像できた。
「っとにあの旦那様はよぉ……。今更店屋物なんかで舌が満足できるわけねえって、何でわからねえんだろうな」
「たまに思うんだけど、ビーマのその自信ってすごいよね。どこから来るの?」
「ん、悪い、聞いてなかった。何か言ったか、藤丸?」
「ううん、何も。……何作るの?」
「汁物なんだが……向こうで食ったやつでよ、適当にちぎった団子みてえのが入ってるんだ」
 小麦をこね、それを綺麗に丸めたりせず、適当にちぎって投げ入れる。それが面白くて、帰ったら食わせてやろうと思ったのだ。いわゆる郷土料理だというのも、食わせてやりたい理由の一つだ。
 向こうで買った調味料を並べ、よし、と腕まくりをしていると、何か手伝うことある? と藤丸に尋ねられた。正直なところ不要であったが、土産話の一つくらいしてもバチは当たらないだろうと、ビーマは「野菜の皮向き、手伝ってくれるか?」と気の置けない同僚に笑いかけた。


「うま~い! シェフを呼べ!」
 最初にそう言われた時、本当にそんなことを言うやつがいるんだな、と思ったし、個人経営の店とは言え飲み屋で言うことか? とも思った。自分はシェフなんて呼ばれるような、大層なもんじゃない、とも。
 料理人になるのが、ずっと夢だった。たくさんの人を笑顔にし、満たすことができる、そんな大人になりたかった。日々そのための、努力を続けてきた。
 けれども、努力だけではどうにもならないこともある。ビーマが調理学校を卒業する頃、ここ数十年見ないほどの不景気が世間を襲った。失業者は毎日のように増え、就職先に恵まれない学生は山のようにいた。
 自分で店を持つほどの蓄えや経験はまだない。かと言って、ホテルや有名レストランでの求人もほとんどない。辛うじて結婚式場の内定を取ったと思ったら、その一週間後に廃業するので内定の話はなかったことにと告げられた。
 何とか雇ってもらったのは個人経営の飲み屋で、店主である老人が趣味でやってるような小さな店だ。アルバイトとしての雇用だから、ビーマの現在の肩書きはフリーターである。
「おう、お客様がお呼びだビーマ。行ってきな」
 営業中にも関わらず、カウンターで常連たちと酒を飲んでいた店主にせっつかれ、ビーマは渋々、一見客のところに向かった。
 何で酔っぱらいの相手なんてしなきゃいけねえんだよ。後で恥ずかしくならねえのかこいつ。思いながらテーブルに近寄り、客の顔を見る。
 相手はビーマとそう歳が変わらないように見えた。けれども学生にしてはどこか纏う空気が落ち着いている。社会人だろうか。腕につけている時計はブランドもの、着ているジャケットも質がよさそうで、羽振りがよさそうだった。
 いや羽振りがよけりゃあこんな飲み屋には来ねえか。ただの見栄っ張りか? 思い直して首を横に振ると、男が「お前がこれを作ったのか?」と小鉢に入った肉を指差してきた。
 牛すじ肉のビール煮だ。ビーマが作った。この店は賃金は低いが、鷹揚な店主は原価さえ割れなければ好きに料理を作らせてくれた。もっとも、常連たちは「いつもの」の一言で店主の料理を頼むから、ビーマの料理はあんまり注文されなかったけど。
 手書きのメニュー表に踊る自分の字をちらりと見てから、ビーマはうなずく。
「ああ、そうだ……です」
 慌てて敬語に直すと、ぶはっと男が噴き出した。
「お前、敬語下手くそだなあ! まあいい。わし様は寛大ゆえ、許してやる」
 わし様。何だそのトンチキな一人称。キャラ作りにしてもおかしいだろ。ビーマが瞬きしていると、トンチキ一人称男が「これ初めて食べたが、うまいなあ」としみじみとした声で言った。
 緩んだ頬。小鉢の中身に向けられた柔らかい眼差し。名前すら知らない男の横顔に、胸が詰まる。
 そうだ、自分はずっと、その一言が、笑顔が欲しくて、料理人を目指したのだ。ままならぬ日々の中で忘れかけていた夢が、ゆっくりと揺り起こされる。
 酒のついでに消費されるような料理じゃなくて。じっくり味わってもらえて、食べた人を満たすような、そんな料理がしたかった。
 無意識に拳を握っていると、男がビーマの方を見て、ところで、と首を傾げた。
「ビール煮とは何だ? と思って注文したが、特にビールの味がするわけではないのだな」
「ああ、まあ……肉を柔らかくするためにビールに浸けるだけだからな、です」
「ほう、それでこんな肉が柔らかくなると……このトロットロの玉ねぎもビールに浸けたから柔らかいのか?」
「それは単に長時間じっくり煮込んだから柔らかいだけだな、です」
「いやその下手な敬語やめろ? 普通でいいわ。どうせ歳も同じくらいだろ?」
 年齢を聞かれる。答えたら同い年だな、と返ってきた。男が向かいの席を指差す。
「ちょうどいい、お前、話し相手になれ。酒くらいなら奢ってやる」
「は? いや俺、仕事中……
「大将は仕事中でも飲んで、客と話してるではないか」
 いやそれはそうだけど。でもあれは常連客で。思いながら助けを求めて店主の方を見ると、「お言葉に甘えちゃいなビーマ」といい加減な言葉が飛んできた。
「ちゃんと注文の料理さえ作ってくれれば、時給は出すからよ」
「ほら、大将もこう言っておる。座れ」
 にこにこと、男が言う。人好きのする笑顔だったが、どこか油断ならないとビーマは思う。まるでこちらを品定めするような目が、落ち着かない。
 とは言え、店主の許しが出てしまった以上、客に冷たくするわけにもいかないだろう。一応ビーマの料理を褒めてくれるわけだし。
「ん?」
 仕方なく男の向かいに座ろうとしたビーマの足が、何かを蹴飛ばした。カラン、という音に目をやれば、杖が落ちている。見覚えのない、つまりは店の備品ではないものだった。
「ああ、拾ってくれんか」
 男に乞われるまま、杖を拾って渡す。思わず「どこか怪我でもしてるのか?」と尋ねると、男がちょいと片眉を跳ね上げた。
「いや? ……生まれつき左足が悪くてな。それだけだ」
 だから遠くに行くことはできなくて、彼にとって食事は少しでも広い世界を知る手段の一つなのだと、そう知ったのは、それよりずっと後のことだった。


 湯気の立つお椀をお盆に乗せてビーマが部屋に入ると、すぐに気づいたドゥリーヨダナが、眉を八の字にしたり、かと思えばしかめっ面をしたりと、百面相を始めた。いつものことなので、ビーマは気にせず配膳をする。
「少しは何か食べたんだろ? だからまあ、とりあえず今日はこれだけな。足りないようだったら他にも何か作るが」
……いや、別にいい。そんなに腹は空いとらんし」
 珍しく殊勝な様子の主人を、ビーマは見下ろす。ビーマが彼に雇われたのは、三年前の話だ。
 店主の大病が発覚し、勤めていた飲み屋が店を畳むことになった。その頃にはすっかり常連になっていたドゥリーヨダナが、それを知って声をかけてきたのだ。
 住み込みのコックにならないか、と。レストランとは違うが、ドゥリーヨダナの屋敷には来客も多いから、腕を振るう機会はいくらでもあるぞ、と。
 ドゥリーヨダナが提示した給金は、ビーマのそれまでの賃金の五倍はあった。休みがほとんどないにしても、住み込みで家賃もかからないことを考えれば、破格の待遇だった。
 お前の料理はうまい。このまま食えなくなるのは惜しい。わし様は欲しいものを手に入れる努力は惜しまんのだ。これで足りんのならもっと出すぞ。労働条件の見直しだってする。
 悪い話ではないだろう?
 裏があるのではないかと疑いはした。そもそもビーマは、その時既に、兄の伝でホテルを紹介してもらえることになっていた。求めているのは高い給金ではないし、兄の顔を潰すのは忍びない。断ろうと思った。
 けれどもいつも通りの表情を作ろうとして失敗したような歪な顔が、ビーマの返事を待って赤く染まっていくのを見て、気が変わった。
 常連で、ほとんど友人のような口の利き方をしているとは言え、あくまで店員と客、それだけだ。きっとここで断れば、こいつとの縁はそのまま切れるのだろうと、何故だかわかった。
 若くして成功した経営者であるドゥリーヨダナは、端的に言ってしまえばいけすかない男だった。本人に悪気はないのかもしれないが、上から目線でプライドが高い。気分屋で、かまってほしがりで、気前がよくはあるが、面倒な男だった。
 間違いなくビーマが自ら友人に選ぶタイプではない。しかしビーマは、ドゥリーヨダナのことが嫌いではなかった。少なくとも、兄には誠心誠意謝ればいいか、と当初の考えを改めるくらいには。
 これだけ求められることもそうあるまい、まあ向いてなかったら辞めればいいかと、そうしてビーマはドゥリーヨダナの屋敷に勤めるお抱えコックになった。
 朝昼晩、主人の料理を作り続ける。半日程度の休みは取れるが、まとまった休みはほとんどない。あるのはドゥリーヨダナがどうしても遠方に赴く必要があり、屋敷を留守にする時だけだ。
 それでも、ビーマは特に不満もなく勤めていた。そんな中で、突然一ヶ月の休暇を言い渡されたのが、十日前。三年勤めたのでリフレッシュ休暇だ、というのが主人の言い分だった。
「これな、旅先で食べた郷土料理。味噌や野菜もその土地のやつ買ってきて作ったからよ、ちゃんと再現できてるはずだぜ。冷める前に食ってくれよ」
 ビーマが促すと、ドゥリーヨダナはのろのろと箸を取り、もそもそとお椀の中身を口に運び始めた。
 はらりと藤色の前髪が一房、流れ落ちたのが見えて、お椀の中に入らないようにとビーマが払ってやると、大袈裟なくらいに肩を揺らして、ドゥリーヨダナがこちらを見上げてきた。その顔を、ビーマは見下ろす。
 出会ったのは五年前。雇われたのは三年前。
 初めてキスをしたのは三ヶ月前。体を重ねたのは、二週間前のことだった。
 キスとはこんな、胸がいっぱいになるものなのだなあ。
 いつだったかビーマの作った料理を、初めて食べたがうまいなあ、と言った時と同じ顔をして微笑んだ男が、今はふてくされたような顔で、ビーマを見上げている。
……何で、帰ってきた。せっかく休みをやったのに」
「休みの日にどこにいようが、俺の勝手だろ。だいたいお前、俺がいなきゃ食うもんに困るだろうが」
 ビーマの指摘に、ドゥリーヨダナが口をへの字にした。「お前の、そういうところが嫌いだ」と、吐き捨てた唇が震えているのを、ビーマは見つめる。
 給金を増やすと言われたのは、この男を抱いた翌日のことで、ビーマはその場で断った。ドゥリーヨダナは目を丸くして驚いていた。
「何故だ?」
「何故って、別に俺は今の生活で満足してるし、それにお前、恋人だからって給料増やすのは公私混同だろうが。他に真面目に働いてるやつらは、いい気持ちしないだろ」
 この広い屋敷には、多くの者が出入りしていて、雇われている者も多い。ビーマのように住み込みの者もいれば、通いの者もいる。皆真面目で、気のいい同僚ばかりだった。彼らの不興は買いたくない。
「じゃあ……わし様はどうしたらいいのだ?」
「別にどうする必要もねえよ。今のままでいい」
「でも、それじゃ……わし様ばかりが……
 その言葉の続きは、聞き取れなかった。朝食の用意の時間が迫っているのもあって、ビーマは後ろ髪を引かれるような思いで、俯くドゥリーヨダナを置いて厨房へ向かった。
 そうして朝食を用意したところで、突然一ヶ月の休暇を与えられた。しばらく帰ってくるなと、当面の生活費と共に。
 それが、二週間前のことだ。
「ドゥリーヨダナ。お前、何で俺をお前の側から遠ざけようとした?」
 ふい、と顔を逸らしたドゥリーヨダナの顎を掴んで、無理やりこちらを向かせる。「それが主人に対する態度か!」と罵声が飛んできたので、「今はオフだからな」と返してやった。
「質問に答えろよ。……抱かれるの、嫌だったか」
「それは別に……思ってたより気持ちよかっ……いや、痛くなかったし……
 頬を赤くして、ドゥリーヨダナが目を泳がせる。ビーマは内心ほっとした。それが理由だったらどうしようかと思っていたのだ。
「そうかよ。じゃあ何でだ? 何で俺に急に、長い休みなんて与えた?」
………………
 だんまりだ。普段口数の多い男にしては珍しい。
「なあ、教えろよ。さすがに俺も、やっと恋人になれたと思った相手にわけもわからず避けられちゃ、傷つくぜ」
 まだ赤い顔を覗き込む。ドゥリーヨダナが「お前、その顔はずるいだろ……」と唸った。
「あ、顔? 何か変か?」
 片手で自分の顔を触ってみるが、よくわからない。首を傾げていると、ドゥリーヨダナがため息をつき、ぐでんと背もたれに体を預けた。
「あーもう……。いいか、一度しか説明しないからよく聞けよ? わし様ばっかお前なしじゃいられないようにされてるのが腹立つから、お前なしでもいられるようにお前を追い出してやったのだ! もしかしたらもう帰ってこんかもしれんな~とは思ったけど、そしたらお前の家族知人友人全てにお前にひどい目に遇わされたって言い触らしてついでに適当に慰謝料でも請求してやろうと名簿まで作りかけてたのに、お前が帰ってきたから全部パア! どうだこれで満足か」
「何一つ満足じゃねえが、つまり、幸せすぎて逆に俺に捨てられるかもって怖くなっちまったってことか?」
「ちちちちちがわい! どこをどう聞いたらそうなるんだ!?」
 首まで真っ赤にして怒る顔に口付けると、途端におとなしくなった。こいつのこういうところは可愛げがあるな、と思う。
 態度がでかくて横柄なくせに、臆病で小心な男だ。急かさないようにしていたつもりだったが、抱くのはもう少し後にした方がよかったかもしれないな、と思う。
 抱かれている最中ずっと、自分のことはそっちのけで、ビーマのことばかり気にしているようだった。好きでいてくれ、飽きないでくれ、側にいてくれと、全身で訴えかけてくる必死さが愛おしいと、伝えてやればよかったかもしれない。
 別に足が悪いくらいなんだ、わし様はお金持ちだからな、一人でだって十分生きていけるんだ。できないことは金で解決すればいいし。
 それが男の口癖だった。家族に引き留められても一人で暮らすことを選択した男は、自分一人じゃできないことばかりで人頼みばかり、おまけに寂しがりのくせに、高いプライドのせいで空回りして、自分を追い詰めるようなことばかりしている。
 かつてビーマが勤めていた店にだって、人恋しくなって、賑やかな話し声に誘われてついふらりと入ったと言うのが真相らしいから、よっぽどだと思う。別にドゥリーヨダナが声をかければ駆けつけてくれるやつなんて、いくらでもいるだろうに。
「お前が何を怖がってるのか知らねえが、別に無理して一人で生きていく必要もねえだろ。いいじゃねえか、俺なしじゃ生きられなくなっても。そんだけ俺の料理が気に入ったってことだろ? 料理人冥利に尽きるぜ」
「わし様は何も怖がっとらんわ! 勝手なことばかり言いおって! ……そりゃあ、お前はいいだろう。お前は、わし様がいなくったって、生きていけるんだから。どこにだって、行ってしまえるだろ」
 むすり、と口をへの字にした男の瞳が揺れる。ビーマはしゃがみこんで、下から男の顔を覗き込んだ。男の膝に手を乗せて、とんとんと叩く。
「ドゥリーヨダナ」
 男はこちらを見ない。ビーマは待った。何分でも、何時間でも待つつもりだったが、結局耐え性のないドゥリーヨダナは、しばらくしたらすぐにビーマの方を向いた。ふてくされた、けれど湿り気を帯びた眼差しで。
「確かに俺は、お前がいなくなったって生きていけるだろう。でも、お前がいるならお前の側で生きたい。お前にたらふくうまいもの食わせてやりたいし、腹も、胸も、全部俺が満たしてやれたらって思う」
 震えている拳に、包み込むように触れる。何かに耐えるような瞳を見上げる。
……でも、それじゃあわし様ばかりが受け取る側だ。お前はわし様からろくに受け取ろうとしないじゃないか。それは……惨めだ」
「そんなことはねえよ。お前はいつだって、俺の欲しいものをくれる。金の話じゃねえぞ?」
 きっと本人は知らないだろうし、下手をしたら覚えていないかもしれないが。あの日ドゥリーヨダナが、ビーマが勤めていた店に来て、ビーマの料理を褒めたから、ビーマは自分を見失わずに済んだ。
 雇われて、毎日食事を用意して。ドゥリーヨダナは時に上から目線、時に我が儘ではあったものの、料理に対する感想を必ず口にしたし、来客がビーマの料理を褒めれば、我が事のように喜んだ。
 そして何より。うまいなと笑うその顔が。初めて食べたと見開かれた目の輝きが。ビーマを満たすのだ。
 その顔を、独り占めしたいと思うくらいに。
「そんなに不安なら、終身雇用契約でも結ぶか? それとも籍でも入れれば満足か? 構わないぜ俺は、どっちでも。願ったりかなったりだ」
 未だ腑に落ちないとでも言わんばかりの顔にそう言ってやると、「え? えっ、あ? ほんとに? マジか?」と狼狽える様子を見せたので。
「料理、冷めちまったろうから温め直してくるな」
 ビーマはそう言って、雇い主兼恋人に時間を与えてやった。冷めたお椀を持って、厨房に向かいながら考える。
 ドゥリーヨダナは強欲だ。おまけに抜け目がない。片方しか選べないとはビーマは言ってないと、すぐに気づくだろう。
 気づいて、ちゃんとドゥリーヨダナから求めてきたら。ビーマは応えよう。料理人として。恋人として。
 別にどちらか片方でもいい。料理人のビーマでも、恋人のビーマでも。満たしてやることに代わりはない。
 鼻唄を歌いながら厨房に入る。勝ちしかない、賭けですらない賭けは気分がよく、早く結果が出るのが待ち遠しかった。