毛布に包まるくらいが心地よい肌寒い夜更け。まだまだお役御免な暖炉を筆頭に閉め切られたカーテンの裾から差し込む月明かりが雲に隠され、灯が消えた暗い室内を穏やかな寝息が盈たす。
広々としたベッドの中央。寝穢いとは程遠い長い四肢が緩いカーブを描く事無く伸ばされる光景は長年狭い場所で就寝した際、如何に窮屈さを感じないようにするか自然と身に付いたものだ。
それ故寝苦しい夜や悪夢に魘されない限り寝返りひとつ打つにしてもコンパクトかつ手足を乱雑に投げ出したりしなかった。
触り心地の良い寝間着と毛布、硬すぎず柔らかすぎないベッド、寝易いに越したことはない室温と揃い踏みの中、眠りが浅かったわけでもなくふと目を覚ましたライオスが自室の扉に視線を投げかける。チルチャックのように五感が優れているわけではない。
されど、月明りのない暗闇に慣れたはじめた視界にぼんやり浮かぶ扉向こうから感じる気配に枕元に置いていた護身用の剣を見ずに掴んだ。指先から手の平全体に広がる握り馴染んだ柄の感触によしと頷く。
気が遠くなる年月を経て老朽化した扉を当時の職人がものの見事に修繕し威風堂々たる佇まいを見せている豪奢な装飾が施された扉。いつもであれば何てことのない相も変らぬ派手過ぎる扉で済むというのに、今宵は無数の節足動物の乾ききった節の脚が蠢き回るような言い知れぬ気配に満ち満ちていた。
張り詰めた緊張感が息を潜め意識を集中させる。息遣いや鼓動、ライオス自身が生み出す音を意図的に排除した結果、無音状態で多々起こる不快な耳鳴りが精悍な顔付きを歪ませた。
程なくして扉一枚隔てた先、
「随分物騒じゃないか。私は丸腰だというのに」
忘れもしない悪魔の耳触りのよい物腰柔らかな声がライオスの鼓膜を震わす。
姿は見えぬともクツクツ喉奥で笑っているのがありありと目に浮かぶ。暗闇に紛れることもなければ、紛れる気が更々ない煌めく金色の毛皮を纏う翼ある獅子の雄々しきメリニを守護する獣を模した姿。
律儀に扉前で佇み危害を加えるのを諭させぬ表情がたった一言で脳内に犇きあい、聞こえてもいない鋭い爪が幾重にも掛けられた防御魔法をいとも簡単に削り引っ掻く幻聴まで聞こえてきた。
適度に硬いものに爪を立て爪痕を残す行動に「猫、爪とぎ…」とライオスが胸中呟いたのが、何故か筒抜けだったらしく扉前にいる翼獅子があからさまに不服だと云わんばかり空気を澱ませる。
だが、ライオスはそんな事を意に介さず寝室を警護する警備兵の安否を気にかけていた。
侵入者を知らせ叫ぶ声や甲冑を動かすけたたましい音が全く聞こえない不気味さ。身を挺して王を守るのが彼らの役目であろうとも無力化されただけで扉前に転がされていてくれと願い、扉下から許可なく部屋の奥へ入り込み毛足の長い絨毯に染みこむ死臭塗れの海が満ちていく光景が翼獅子の魅せる幻覚だと理解したのは警戒態勢を解かず広がる黒い海に爪先が触れた途端、跡形もなく消え去ったときだった。
「……趣味が悪い」
「私もそう思うよ」
「よく言う」
扉越しの会話。多寡が扉一枚の不可侵条約。いつ何時破断の危機に陥ろうとも不思議ではない。
突如鼻につく獣に酷似した臭い。深く吸い込めば吸い込んだだけ、よくないものを取り込みそうな感覚に抑えていた呼吸を一層抑えた。窓を閉めている寝室に立ち込める臭いは、馴れ馴れしい猫のようにライオスの周りに漂い纏わりつき離れない。
息苦しさを覚える前に剣を携え扉に近付いた瞬間「私よりご執心な者が来たようだ」残念がっている様子の悪魔の気配がフッと消え、向こうの罠であるのも含め油断せず柄に掛けかけた手を離さずに扉をライオスが開ける。
果たして、其処にいたのは暗闇に溶け込めなかった銀髪と漆黒を掬いあげた隻眼を持つエルフが佇んでいた。不意に浮かぶ疑問の数々は、トールマン一人通れる分の隙間だけ開けた扉から顔を覗かせ”誰も倒れていない”廊下を目の当たりにしたライオスの脳内から俄かに消え去ってしまった。
何故、あれだけ寝室内に立ち込んでいた獣に酷似した臭いが今は夜霧のような冷たく澄んでいる香りにすり替わっているのか。
何故、扉前に現れた翼獅子の気配が消えるのを見計らったかのようにミスルンがいるのか。
何故、澱んでいた空気が先程以上に澱み肺の中がズシリ重苦しくなっていくにも関わらず警戒心を解いてしまったのか。
明晰夢は明晰夢を見ているのだと分からない限り明晰夢だと気付けないように、少しでも考えれば勘付く違和感をライオスは見落としてしまっていた。短絡的な指令を下す脳が翼獅子はミスルンが追い払ってくれたと芽吹く違和感をすり潰す。
ホッと胸を撫で下ろし朗らかに笑い完全に柄から手を離すや否やライオスの手首をミスルンがするりと掴む。そのライオスより小柄な手は凍り付いた瀑布のように冷たく、枯れ果てた草原を駆ける空っ風のように乾いていた。
漸く催眠状態が解け利腕はない手で剣を抜くも本来あるべき剣を掴めずに空ぶる。視線を落とせば携えていた場所に剣はなく、背中から無機質で微かな悲鳴がライオスを数度呼び静かに息絶えた。
「何処を見ている」
抑揚のない有無を言わさない透明な声音。手首を掴んでいた細く骨ばった指先がライオスの厚い手の甲を這い指同士を絡ますたび、皮膚の下に張り巡らされた血管に流れている血液から熱を奪い、熱を奪われた血液が心臓に運ばれ冷たくなった血液を全身に送りだす。
北の国出身と云えど、いや北の国出身だからこそ命の危険を最も孕む体温の下がり方にライオスの頭蓋奥で警告音がけたたましく打ち鳴らされる。
やおら自覚有無にかかわらず一先ず低体温症を引き起こしている要因であろうミスルンに視線を戻した。
すると、如何だ。あれだけ寒くて冷たくて敵わなかった氷のような手がじわり熱を持ちライオスの強張っていた身体を解していき、振り解きたくとも振り解けなかった手を指を自ら折り畳み冬が明けた春先の柔らかなあたたかさにライオスの瞼が眠たげに閉じていく。
「私以外に連れて行かれるのは許さない」
ミスルンの放たれた言葉を最後まで聞くのを待たずしてライオスの意識はプツリと途切れ再び目覚めたときには、だらしない寝間着姿で夜更けに寝室に訪れたミスルンを中へ招き入れている最中だった。
ぼんやりとした目を白黒させ踵を返し扉を開けた。首を左右に振り長すぎて奥が霞んでいる廊下の異質さに疑問を抱き掛けた刹那、既にベッドに腰掛けている訪問客の声にライオスは思考を放棄する。
終わりのない廊下なぞ如何でもいい。今は新しい迷宮調査に行ったミスルンから魔物の話を聞きたくてしょうがない。
興味薄に扉を閉め軽快な足取りでベッドに赴き隣に腰を下ろした。ライオスの瞳は新しい寝物語を聞く子供のように純粋に輝き、部屋の中を駆け回りたいほど興奮する気持ちを宥めに宥めていた。
そんな様子のライオスにミスルンの纏う空気が和み基本希薄な表情が微笑みに彩られる。
「次の迷宮調査、お前も同行するか」
「えっ!? いいの!!?」
「別に構わない」
ミスルンの淡々とした物言いに対して、ライオスは座っているのも儘ならず腰を上げ部屋の中をはしゃぎ回ってはミスルンの手を両手で握りブンブン振り回し喜びを噛み締め、
「あ。彼らにも念のため許可を取って──」
「それは誰だ」
「誰って……誰だっけ?」
霧深くなる脳内に浮ついていた心が凪いていき、
「許可を取る必要はない」
「そう、だっけ…」
「そうだ」
「そっか…、そうだった、な」
仄かに熱を帯びた自分より小さくも多くの経験を積んだ手に引かれ仰向けにベッドに沈み目を閉じた。
「次の迷宮調査の日が楽しみだ」
あたたかな闇の中。ライオスは身体に覆い被さる重みと息遣い、首筋を撫でるくすぐったさから肩を竦め薄ら目を開け、瞼裏に見えていた闇よりも深く黒いミスルンの隻眼に映り込む幸せそうに蕩けた自身の顔が近付いてくるのに笑みを深め、もう一度目を閉じたのだった。
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