遠藤晃
2019-02-25 21:56:37
3601文字
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舞台「凜-RIN-」と映画「凜-りん-」の違いと考察

10年以上前に一度だけ見た舞台「凜-RIN-」をずっとこじらせている人間の思う映画との違いから考えた戯れ言です。舞台のがっつりネタバレ、映画もまあまあネタバレ注意。

舞台の「凜-RIN-」と、映画の「凜-りん-」は、大まかな設定や流れは似通っているけれど、話としてはだいぶ違う。大きいところを言えば映画には舞台にはいなかった女性キャラクターがかなり重要な役として出ているし、神隠しの顛末もまったく違う。
そして何より、映画の「凜」は耕太とそれを取り巻く人々の物語であるが、舞台の「凜」は真島と天童の幾度目かの巡り合いの話である。耕太は出演者の中で最後まで残り、いわば二人の物語を見届ける役目のような印象だった。

舞台の「凜」は、映画と同じく冒頭部分では天童という転校生と耕太・真島・竜次・ダイブツというグループが仲良くなるまでが描かれる。違うのは、天童は妙なずだ袋を持ち歩いていたりわかりやすく変人な感じであること、天童が引っ越してきた理由は病気の母の療養のためであること、そして真島も天童より前に村に引っ越してきたものであるということ。
釣りのときに天童がずだ袋を使った漁の仕方を教えたことをきっかけに、皆は仲良くなる。皆に天童が自分と同じずだ袋を分け与え、皆で「ずだ袋の友情」なんて合言葉を決めて盛り上がったりもする。特に、真島と天童は昔からずっと知っているような奇妙な懐かしさを覚え、親友といえるような間柄になる。

100年に一度の神隠しの伝説になぞらえたような行方不明事件が起こり、それを皆で調査しようとしたりしているうちに、ダイブツと竜次も行方不明となり、そしてやってきたよそ者でありわかりやすく怪しい天童一家が疑われるようになる。耕太も天童のことを疑うが、真島はそれを制しかばい続ける。

ここで、映画と舞台で決定的な差がある。
映画では神隠しの犯人は別の人物だが、舞台では神隠しの犯人は真島と真島の父なのだ。
真島たちは他の国からやってきた者で、この国の人間をさらって祖国に送るということをしていた。村に神隠しの伝説があることを利用し、それになぞらえて山伏の格好をして目撃させたりしてもしていた。
真島が天童のことをかばい続けるのは、友達だからというだけではない。天童が犯人でないことを知っているからだ。真実を告げれば天童の疑いは晴れる、けれど言うわけにはいかない。真島にとって父と祖国は逆らえない存在で、圧倒的な暴力のまえに屈し従うしかできない。そうしなければ、自分が死ぬだけだ。親友が自分のせいで疑われ苦しんでいるのに、ただかばうしかできない真島の悲しみ、苦しみ、罪悪感、やりきれなさみたいなものが後から思い返すと切なくなる。

そんなある日、疑われ続けたことで天童の母の容態は悪くなり療養どころではなくなったので、天童家は明日引っ越すことになったと天童から真島は告げられる。
「俺な、今まで親友っておらんかったけど、お前のこと親友って思っても、いいかないいよねいいよ!」
と天童のよく言う自分で言ったことに自分で肯定する妙な言い回しに、
「なんで今、そんなこと言うんだよ。俺はもう、とっくにお前のこと、親友って思ってたのにな」と、笑って答える真島。
そうして、別れを告げ去っていく天童を、真島は走って追いかけてゆく。

ここから先の展開が、ちょっともう11年も前のことなので曖昧なのですが、
・天童は5人目の神隠しに選ばれて拉致される
・拘束されている天童を耕太が見つけて、助けようとするが「見つかる前に逃げろ、そして助けを呼びにいってくれ」と耕太を逃がす
って展開だったと思う。
そして、暗闇の中で車に乗っている真島親子の会話。5人目をさらったからお国に帰れると上機嫌な真島父、うかない様子の真島。
そして、父が真島の持っているずだ袋を「そんな汚い袋なんか捨てろ」と言った瞬間、とうとう真島が「やめろ!」と逆らう。
「お前に、俺たちのずだ袋の友情の、何がわかるんだよ!」
もみ合う声、そして車が横転する音。

山の中を走っていた耕太は、山伏の鳴らす鈴のような音に導かれ、無事に村へ逃げ戻る。
そして、拘束されていた天童も、何故か逃げ出せていた。
「季節外れのサンタクロースが助けてくれたわ。なんか、山伏みたいな格好してたな。なんだか、真島に似てたわ」
なんてことを話す天童。
ダイブツと竜次は消えたまま、そして真島家も行方知れずになっている。
かつて5人で来た丘で、天童と耕太は二人で空を見上げる。というようなラストだったかなと思う。

ここからは想像です。
舞台では300年前の話になっていた「山伏の儀式で生け贄にされていた子供を、若い山伏が逃がした。子供は逃げきったが、若い山伏は代わりに殺された」という伝説。
舞台では、真島と天童はこの若い山伏と生け贄の子供の生まれ変わりもしくはそれに類するものとして描かれていたと思う。
「100年に一度巡り合い、親友になる」、そして「天童を助けて真島が死ぬ」、そんな運命が二人には負わされている。いつからかはわからないが、それが100年周期で繰り返されていて、その幾度目かの物語だということだったのだと思う。
天童が拉致されたのは、追いかけていった真島がしたことなのか、それとも真島の父が捕まえたのか、そこは定かではないけれど、でも、天童を助けたのは真島だったのだろうと思う。それが生きていた真島なのか、事故で死んだ真島の魂のようなものだったのか、それはわからない。
私としては、「サンタクロース」「山伏のような格好」「真島に似ていた」というところを考えると、「事故で瀕死の状態の真島が、カモフラージュに使っていた山伏の服を着て天童を助けに行った」「血で赤く染まった服を「サンタクロース」と例えた」なのかな、と思うけれど、実際のところはわからない。

舞台の「凜」は、真島と天童の幾度目かの巡り合いと別れの話だった。
けれど、映画の「凜」はそうではない。
真島と天童に、舞台のような深い繋がりは感じられない。そして、真島が天童のために死ぬこともない。二人は出会うが、別れることはない。

映画の真島は、舞台でのどうしようもない生まれの凄惨さはとても薄まっている。暴力を振るうろくでなしの父がいるだけで、それも最後には抗って決別し未来へ向かおうとする。
一方、映画の天童は舞台にはなかった取り返しのつかない過ちを犯している。もはや償うことも叶わない、一生悔やんで背負っていくしかないものだ。少し変わり者なだけだった舞台の天童とは、根本的に立ち位置が違う。

ここからは私の想像、妄想です。
映画の「凜」は舞台の「凜」とは違い、真島の不幸は薄れ、代わりのように天童がなかったはずの不幸を背負っている。
これはもしかして、舞台のあとの100年を繰り返したあと、そのどこかで天童が忌まわしい運命の輪廻を変えたあとの世界なのではないかと。
どういった手段かはわからない、けれど輪廻を変えた結果、真島が背負い続けるはずだった不幸の一部を天童が肩代わりした。その結果、真島は死ぬことなく、二人とも未来へ向かえるようになったのではないだろうか。
私が気になるのは山伏の伝説の差異、
舞台では
「若い山伏が生け贄の子供を逃がし、代わりに殺された」
映画では
「若い山伏が生け贄の子供を逃がそうとしたが、二人とも捕まって一緒に殺された」
となっている。
これは、「天童を助けて真島が死ぬ」という運命が変えられたという意味ではないだろうか。天童が真島と同じだけの不幸を負うことを選び、そうしてどちらかがどちらかのために死ぬことはなく、同じように未来へ生き続けられる世界へたどりついた、そのあとの世界なのではないだろうか。
そうして、二人を結んでいた忌まわしい運命の輪廻が断ち切られたことにより、真島と天童をつないでいた縁のようなものも途切れた。だから、映画の真島と天童は無二の「親友」ではなく、他の皆と同じ「友達」であるようにしかならなかった。そんな気がする。

私は舞台の真島がとても好きだった、あのこの逃れられない運命に涙した。
映画になってまた真島と天童に会えると嬉しかった、同時に真島の悲しい運命を見ることは少し切ないとも思った。
でも、実際の映画は違った。
真島が運命から逃れ、ただ「普通」の人生を歩んでいける未来もある、そんな優しい世界だった。あのこが幸せになることを許された世界だった。

映画で「家族が身体悪くて療養に引っ越してきたとか?」と尋ねられた天童は、「悪くない」と答える。
映画はやはり、舞台とは違う世界軸なのだろう。
舞台では二人しか残らない(しかもおそらく天童はこのあと村を離れて耕太だけなる)ラストシーン。
映画では5人がずっと永遠なのだと、これからずっと変わらないのだと、そう告げてくれた。
あのときの悲しかった子たちが、今になって救われた。そんな気持ちになった。
ありがとう。