久しぶりの休日、オーターはマーチェット通りに足を運んでいた。もう一人の弟子、ドット・バレットから昼食に誘われたからだ。集合場所であるカフェへと先に到着していた赤髪の弟子は、確保していたテラス席から師の姿を認め、大きく手を振っている。
「オーターさん!」
オーターは頷き、ドットがいる丸テーブルへ近寄り、彼が座る向かいの席に着いた。
「ランスは?」
ドットのことだから、青髪の弟子と一緒に来ているものだとばかり思っていたが、姿が見当たらない。素直に疑問を口にすれば、ドットは「ああ!」と言ってからそれに答えてくれた。
「ちゃんと誘いましたよ。ただアイツ、午前中は先約があるって言っていたんで」
「先約?」
「レアン寮の先輩と参考書買いに行くって。時間的にそろそろ来るころだとは思うんすけど」
弟だ。オーターは確信した。
中庭で談笑する弟とランスを見かけてから半月が経っている。相変わらずオーターと弟との仲にこれといった進展はなく、顔を合わせた折に挨拶程度の言葉を交わすだけ。いつも弟は視線を合わさないように逸らしてしまい、笑顔など程遠い。一方でランスは、休日に弟と二人で買い物に行くほどの仲だという。
オーターが弟と出掛けたのは、一体いつだろうか。記憶を遡ると、幼い頃に母と弟と使用人の四人で出掛けたのが最後のように思える。二人きりで街を歩いたことなど、一度として無いことに気が付いてしまった。
「お、きたきた。オーイ!」
「うるさい。そんなに大声を出さなくとも分かる」
「人が親切で声を上げたっつーのになんだその態度はゴルァ!」
そう時間の経たないうちにランスが合流し、ドットが一気に騒がしくなる。他の客に迷惑になるわけにはいかないため、オーターが黙してドットに視線を向ければ、意図を察した彼は素早く声量を落とした。
「それが先輩に選んでもらった参考書?」
ランスの腕には書店のロゴが入った紙袋が抱えられている。マーチェット通りの中にある書店の中でも、参考書の取り扱いが豊富な店舗のものだ。
「ああ、手持ちのものには知りたい項目が詳しく記載されていなくてな。オススメを教えてもらった」
ドットの問いに答えながら、ランスはオーターの左側の席に腰を下ろす。
「良いものが買えた」
「ふーん。オレも相談してみようかな」
「良いんじゃないか? アイツは相手のレベルに合わせて参考書を選ぶのが上手いからな。ついでにお前でも理解出来るよう解説もしてくれるだろう」
「オレのことしれっとディスってんじゃねえよ、このスカシピアス」
メニュー表を受け渡ししながら交わされる二人の会話に、弟は人に教えることが上手なのかと知った。座学の成績が非常に優秀であるとは人伝に聞いていたが、相手の程度に合わせて教えられるというのは理解がより深いという証でもある。
弟がそれだけ勉学に対して真摯に向き合っていることが知れて嬉しい半面、それがランスの口から語られている事実に胸の辺りが微かに痛んだ。
注文したランチが運ばれてくる。プルドポークをたっぷりと挟んだサンドウィッチにかぶりつくランスと、店特製のケチャップが使用されたオムライスを満足気に頬張るドットが交わす言葉を耳にしながら、オーターも運ばれてきた食事を口にした。そして時折彼らから振られる話に、二言三言返す。三人での昼食では自然と交わされるようになったやりとりだ。
「てか、今日その先輩と一緒に来ていいって言ったじゃんか。誘わなかったのか?」
食後の紅茶を嗜みながら発されるドットの言葉に、オーターは目を見開いた。
「誘う前に、急用が出来たと駆けていったから、そのまま解散となった」
ランスの返答を聞き、オーターは右側の、誰も座っていない席を見る。急用とやらが無ければ弟が隣に座っていたのか、と。そんなたらればを考えて喜びそうになってしまった自分に、オーターは眉を顰めた。
隣に座ってくれたから、何なのだ。どうせろくに会話も振れない、気の利いた言葉も返せない兄の癖に。弟の前ではまだぎこちなさが勝って、弟子たち相手のように自然な振る舞いすら出来ずにいる。そのような体たらくでは、学生同士で共通の話題も多いであろう弟子たちと会話を弾ませ、その瞳に自分ではない人物を映し込む姿を目の当たりにするだけだ。
ここでオーターはその考え自体が可笑しいことに気がついた。弟が学生らしく交流を持つことの何が悪いのか。あの教育だなんだと言いながら我欲を押し付けてくる父の目と手が届かぬ場所で、年相応に振舞って、同じ年頃の相手と言葉を交わして何が悪いのか。寧ろ親に押し付けられた価値観で雁字搦めになっていた弟にとって、他者と友好を深めることは、多角的な視点が得られる良い機会のはずだ。
それなのに先程から、弟が自分以外の誰かと楽しげに会話をすることをまるで良しとしないという思考に陥っていることに気づいてしまった。そしてそんな弟を想像するだけで、喉から胸にかけて澱みを感じるのだ。
学校の中庭で弟がランスと二人で笑いあっていた光景を目の当たりにしてから、どうにもオーターは可笑しくなってしまったらしい。
空席を黙って見詰めていたオーターをランスは横目でちらりと見た。そして視線を戻すと「ポスターを見ていました」と言ってから珈琲に口をつけた。
「ポスターが? え?」
「急用だと言って立ち去る前、オーターさんの弟、本屋の店先に貼られていたポスターを見ていましたよ」
「お前が一緒に参考書買いに行った先輩って、オーターさんの弟さんだったのか!」
「これは以前アンナと一緒に買い物に出掛けた時の話ですが」
「えっ、弟さんがポスター見ていたって話は?!」
ドットの言葉などまるで聞こえていないように、ランスはつらつらと己の妹とのエピソードを語り始めた。
ランス曰く、その日は生活必需品や文具などを買いに出掛けていたらしい。その帰り際に通りかかった店のショーウィンドウに並んだ青のギンガムチェック柄のカチューシャに、彼の妹は僅かな時間であるが目を奪われていたのだという。ランスはすぐに妹がそれを気になっていることが分かった。しかしその場で買い与えようとしても、心優しい妹はきっと遠慮してしまう。その事を兄として重々理解していたランスは、日を改めて一人でそのカチューシャを購入し、日頃頑張っている褒美にとプレゼントした。包みからカチューシャを取り出した妹は、大層喜んでくれたそうだ。
「アンナが『これ気になっていたの。何で分かっての? 凄い! お兄ちゃん、ありがとう! 大切にするね』とお礼を言って微笑むその顔は、天使の如く……いや、天使そのもの!!」
ドットの「また始まったよ、コイツ」とボソリと呟く声など、シスコンには当然聞こえていない。ロケットペンダントを強く握りしめて己の妹がいかに尊い存在か一頻り熱弁してから、ランスは続きを語っていく。
カチューシャが気になっていた理由、そのデザインのどこに惹かれたのか、何故その柄が良いと感じたのか、友達が付けていた髪飾りの話題、最近学校で流行っているもの、エトセトラ。ランスがプレゼントしたカチューシャを皮切りに、二人で色々な話をし、とても有意義な時間を過ごしたそうだ。
「妹の視線の先には、妹が興味を抱いているもの、気になっているもの、好きなものがある。それがきっかけで話題が広がるという話です」
オーターは目を瞬かせる。
「ああ、だからポスター!」
「オーターさん、話が続かないと困っているようだったので」
「オーターさんへのアドバイスなら、アンナちゃんの話八割くらいカットできたんじゃね?」
「何を言っている。アンナのエピソードは一言一句漏らさず世界に伝えるべきものだが?」
呆れ顔のドットのなど視界に映っていないかのように、ランスは言葉を続けた。
「あの時オレもそのまま店を後にしたので、何のポスターだったのかは把握していませんが、話のタネにはなるんじゃないですかね」
「……そうですか」
オーターはカップに残っていた珈琲を一気に飲み干した。そしてコートの内ポケットからマネークリップを取り出し、抜き取った紙幣をドットに差し出す。
「会計はこれで済ませてください」
「いいんすか!? ありがとうございます、ご馳走さまです!」
「ご馳走様です」
ドットはお礼を言いながら紙幣を受け取り、風で飛ばないよう手早く伝票ホルダーへとそれを挟む。ランスもカップをソーサーに戻してから礼を述べた。
「私はこれで失礼します」
「オーターさん」
席を立ち退店しようとするオーターに、ランスが声を掛ける。
「少し遠回りな方法を話しましたが、本来なら本人に直接訊いても良いんです。アンナならきっとそうするし、オレもアンナにそうしてきました。それに、」
空色の瞳が真っ直ぐにオーターを見据える。
「質問すれば文句を言いながらも答えてくれる、アイツはそういう奴でしょう?」
兄という立場を持つ者として、ランスが親切心で言っているのはオーターも重々承知だ。
しかし弟の人となりを当たり前のように知っているその口ぶりが、胸の中に澱みを増やしていく。
「……助言、痛み入ります」
オーターはふつふつと込み上げてくる何かを抑え付けながら、辛うじてそう返すことしか出来なかった。
カフェを後にしたオーターは、休日故にいつにも増して賑やかな通りを足早に歩いていた。
マーチェット通りに構える本屋を全て把握しているオーターは、ランスと弟が一緒に行ったという店の場所も勿論知っている。ドットが指定したカフェとそう離れた所でないあたり、買い物を終えたランスが合流しやすいようにとの配慮だったのかもしれない。オーターは存外早く目的の店に到着した。
参考書を多く取り扱っていると一聞すると、学生御用達のように思われがちであるが、どれを手に取れば良いか分からなくなるほど豊富すぎる品揃えを有するこの店の客層は、実は一般学生ではない。特定分野の専門学生や学者などがメインターゲットで、学術書や辞典の類も数多く取り扱っている。店先に貼られているポスターには、有名所からマイナー所の辞典の改訂版に関する告知や、学術誌の広告が大半であった。
この中に弟の興味のあるもの、気になるものがあるのだろうが、勤勉な弟のことだからどれに関心があっても不思議ではない。弟が見ていたというポスターを自分は判別することが出来るのだろうか。一抹の不安を覚えながらも、オーターは端から順番に眺めていくことにした。
結論から述べると、弟が見ていただろうものがどれなのか、オーターは知ることが出来た。厳密に言うならば、視界に入れた瞬間に解ってしまったのだ。
ポスターというよりは、フライヤーと称した方がしっくりとくるB5判サイズのそれ。いつかの絵本と同じ、青い青い空が印刷されたそれ。
〝彼は言った。大空は神様のキャンバスだと〟
そう綴られていたのは、空を描き続けた画家の十三年ぶりとなる個展の告知。マーチェット通りにあるアートギャラリーでの会期が今日からであることも記載されている。
間違いない。弟が見ていたというのはこれだ。
視線の先には、興味を抱いているもの、気になっているもの、そして好きなものがあるという。弟の瞳に映るのは、今も空の色。駆けていってしまうほどに、好きなもの。
嗚呼、喉の辺りに生じた澱みが、全身を侵食していくようだ。どうしようもなく息が苦しい。
オーターは浅く細い呼吸を繰り返すことしか出来なかった。
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