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千代里
2024-07-16 08:28:49
10944文字
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リーブラ13話
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リーブラの針は問う・13話・その27
ふ、と意識が浮上して、ノエはゆっくりと目を開く。
青銀の双眸が何かを確かめるように瞬きを繰り返し、ぼんやりとしていた焦点が定まっていく。視線の先には、見慣れた木の天井ではなく、暖色の淡い照明を反射する暗色の布が見えた。
「ここ、どこだったっけ
……
」
朦朧とした意識の中、寝返りを打つ。その瞬間、ノエはここ数ヶ月どころか、十年以上味わったことのなかった柔らかな布団の感触に目を丸くした。
続けて、曖昧になっていた前後の記憶が徐々にはっきりとしてくる。
ノエは、飛竜によって火傷を負ったベルナールの治療をしていたはずだ。しかし、体力が限界の状態で、父の治療に全力を出しすぎたせいで、意識を失って倒れてしまった。
最後にベルナールの声を聞いた覚えがあるので、彼が倒れたノエを屋敷まで運んでくれたのだろう。正確には、召使や従者を呼んで運ばせた、といったところか。
「怪我は
……
治してくれたみたいだな」
竜の血と自分の血で汚れた上に、飛竜の吐く炎で所々焦げていた上着は脱がされ、代わりに清潔なシャツとズボンに着替えさせられている。
このような上等な生地の衣服を着るのは、十五年ぶりではないだろうか。慣れない生地の質感に眉を寄せつつ、ノエは服のボタンをはずして、そっと自分の肌に手を滑らせた。そこに痛みが全くないことを確認してから、ノエは服のボタンを留め直す。
手を開いて閉じてを繰り返し、足も軽く動かしてみる。肉体にも大きな支障がないことを確かめてから、ノエは小さく嘆息した。
(
……
ここまで良くしてもらっているのに、父さんに感謝の言葉を口にしたくないと思っている自分はまだいるみたいだ)
そのせいで、助けてくれてありがとう、という言葉が、喉の奥に引っかかって出てくるのを拒んでいる。
かといって、助けてほしいなどと頼んでない、などと言うのも如何にも子供っぽい。結局、ノエは最低限の礼は言うべきだという結論を自らに飲み込ませた。普段なら、なんて事もなく口にできるお礼の言葉だというのに。
「それにしても、僕は何時間眠っていたんだろう」
体の調子を確かめている間に、徐々に頭も覚醒してきた。
柔らかな寝台は全体的に薄暗い気配に包まれていたが、それはベッドを覆う天蓋のカーテンが降ろされているせいだ。防寒と防音のために下されたと思しきカーテンを引くと、ベッド脇に置かれた照明器具が真っ先に目に入った。
灯りに促されるように、部屋を見渡す。寝台の向こうにあるはずの窓には、きっちりとカーテンが引かれていた。ということは、今は夜ということだ。
襲撃は夕方から夜にかけてのことだったので、ノエが丸一日寝ていたわけではないのなら、今の時刻は襲撃から数時間後といったところだろうか。
大雑把な時刻を把握したところで、ノエは寝台脇の文机に手紙が置かれていることに気がつく。一番上に記された文字が、見慣れたヤルマルの筆跡だと気がつき、ノエはすぐに目を通し始めた。
『君が倒れた経緯については、ベルナールさんから聞いている。君に話したいことが幾つかあるんだが、今はとりあえず休息に集中するように。明日の朝、経過を見るために一度屋敷に行く約束を取り付けてあるので、待ってていてくれるかな。まったく、君はすぐに無茶をするんだから』
ヤルマルのからっとした物言いが聞こえてくるような筆跡に、ノエは思わず口角を緩める。この様子だと、あの場に残した面々は無事だったのだろう。その予想を裏付けるように、メモの下には見慣れた面々の筆跡が残っていた。
『ヤルマルから話は聞いている。今は休んでいてくれ。出立は、どうせこの調子ならまた先延ばしになるだろう』
『ノエ、今はゆっくり体を休めていて。オデットの面倒は私が見ている』
『兄さん、あとでお説教ですからね。絶対ですよ』
オデットの文字は皆の文字に押されるかのように控えめだったが、彼女の声が聞こえた気がしてノエは瞑目する。
無理をする前に相談してほしい、と言われたばかりなのに、自分はまたオデットを心配させるようなことをしてしまった。
ベルナールを庇ったときの怪我だけではない。異端者を仕留めた直後、ノエたちを襲ってきた飛竜に相対したときのことをノエは思い出していた。
あの瞬間、ノエは自分の命を捨てる覚悟を決めかけていた。
「黙っていれば分からない
……
なんてことはないだろうな。オデットは、僕以上に僕のことをよく見ているから」
オデットにとって、ノエはかけがえのない存在である。それは、先日、炎の妖異と戦い大怪我をしたときに、この上なくはっきりと思い知らされた。
何せ、あなたのいない世界など耐えられない、とまで言われてしまったのだから。
「
……
でも、それは僕も同じなんだよ。オデット」
もし、あの場面でオデットを一人残し、他の人々を守る選択をしていたなら、ノエは間違いなく生涯引きずる後悔を抱えていただろう。
かといって、周りを犠牲にしてオデットを助ける、などという選択肢をとれるほど、ノエは非情になれなかった。それもまた、ノエにとっては超えてはならない一線だったのだ。
だったら、自分の命を使えばいい。そう思ったが故に、ノエは己の全てを賭けて飛竜に立ち向かわんとした。
「僕にとっても、オデットのいない世界なんて耐えられない
……
って言っても、やはり怒られてしまうんだろうな」
ともあれ、今は二人生き残ったことに感謝しよう。そう思い、最後にオデットの下に残されたルーシャンの走り書きを見る。
『町で見つかった異端者は、全員倒すことができたそうだ。お前が守った連中も無事だ』
「
…………
っ」
彼のメッセージを目にした瞬間、ノエは思い出す。
自分の剣が、竜の鱗を貫いた感覚。鱗から溢れ出る、夥しい血の奔流。
その竜が、ほんの数分前は人の姿をしていたことも含めて、全て鮮やかに、思い出す。
無意識のうちに、ノエは自分の心臓を抑えるかの如く、服を掴んでいた。己の肌一枚の下にある心臓は、異端者を殺した瞬間を思い出したと同時に嫌な動悸を走らせている。
そして、自分は相手の鼓動を止めるために剣を振るったのだ。
「
……
僕が、あの人を殺したんだ」
名前すら知らない。顔だって、食堂で一瞬見ただけで朧げにしか記憶に残っていない。
それでも、その人物の命は、ノエの手によって永久に失われた。彼が、あの食堂のカウンターに座る日はもう二度とない。
彼は異端者だ。何者かの思惑に従い、ノエや他の人々を殺そうとした者だ。それは、揺るぎようのない事実である。
だが、だからといって彼を殺すことが正しいと、ノエには言えない。
それを肯定すれば最後、自分は人を殺しても眉一つ動かさない存在になってしまうような気がした。それこそ、最もノエにとって受け入れ難いことだ。
「
……
でも、彼を殺すことが正しくないのだとしたら、僕はどうすればいい。これから、僕は
……
これに、どう向き合えばいい」
誰かに『こうすればいい』と答えてほしいと願う気持ちはある。しかし、同時にどんな相手であろうと、『かくあるべき』と伝えられたことを自分は受け入れられないだろうと、ノエ自身わかっていた。
己の導き出した答えでなければ、きっと納得できない。だというのに、今のノエにはどんな答えであろうと、全てが間違いに思えてしまう。
思考は、始まると同時に行き止まりにぶつかっていた。
動悸はおさまらず、短い呼吸を何度も繰り返す。全身に寒気を覚えているのは、夜のせいだけではないだろう。今、このまま横になったとしても、朝まで眠れるとは到底思えない。
「
……
気晴らしに、少し歩いてみるか」
気持ちを切り替えるためにも、ノエは自らにそう提案してみせる。
ノエにとって、父の屋敷は知らない場所だ。勝手に歩き回っていては、迷子になってしまかもしれない。だが、一方で、見知らぬ場所への興味が今の気持ちを紛らわせてくれるかもしれないという期待もあった。
布団から体を出して、用意されていた室内用の上履きに足を通す。本来ならブーツや靴を履いて歩くべきなのだろうが、屋敷の隅々まで出歩くわけではない。それなら、今の装いでも問題ないと判断した。
ベッド脇の机に置かれていた、クリスタルの照明を入れたカンテラとともに室内を横切り、扉に手をかける。どうやら、ノエが眠っていた部屋は、客室として使われている部屋だったらしい。うっすらとカンテラが照らした部屋は、客人向けと思しき洗練された内装となっていた。
ベルナールは、豪奢な調度品をいくつも飾って権威を示すという考えは持っていないらしい。代わりに、最低限の調度品でも優れた美的感覚は人を惹きつける、という感性に沿って用意されたと思しき内装が、ノエの視界に広がっていた。
どこか懐かしさのある家具の配置や壁紙の色味。それもそのはず、それらはかつてノエがいた屋敷と似たものだったのだから。
「
…………
」
郷愁を振り解き、ノエは部屋の外に出る。予想通り、部屋は夜間用の最低限の照明だけが灯され、それ以外は闇に沈んでいた。先日、夕刻にベルナールの部屋まで案内された頃と比べると、全く別の建物に迷い込んだかのようだ。
見知らぬ場所への興味が勝り、ノエの動悸は今は落ち着きを取り戻している。ランタンを片手に扉を出て、とりあえずは右手に続く廊下を歩いていくことにした。
カーテン越しに差し込む月明かりは、白々とした光を布越しに廊下に落としている。試しに、廊下に下ろされたカーテンの一つをずらすと、窓の向こうには街の様子がよく見えた。精巧な細工物のように見える街は、夜の間に少し雪が降ったのか、粉砂糖をかけたような薄い白に覆われている。
その様子は、薄いレースを街にそっとかぶせたように美しい。だが、そこにノエは違和感を覚えていた。
この街にきて、まだ然程経っていないノエであっても気づく違和感。それが何かをノエ自身が探り、
(
……
ああ、そうか。灯りが少ないんだ)
真夜中近い時間であったとしても、酒場には灯火が点っていることも少なくない。皇都から街並みを見下ろしたときも、暖色の灯りが雪に反射してとても美しかった。
しかし、今の街は静謐な美を湛えている一方で、まるで大きく傷つけられた生き物が身を丸めているような痛々しさを感じさせる。よくよく見れば、街のそこかしこに傷ついた建物が見て取れて、ノエは眉を寄せた。
「
……
これが、異端者が残した傷跡か」
「ええ。異端者は全員討伐できたようだけれど、皆、不安がっている」
いきなり自分以外の話し声が割り込んできて、ノエは驚きのあまり、勢いよく振り返る。
視線の先には、黒髪に紫紺の瞳を持つ少女が佇んでいた。寝巻きと思しき厚手のローブ状の衣服を纏い、ノエと同じく片手にカンテラを持った娘ーーその顔を、ノエは一度見ている。
「あなたは、たしか
……
」
「イヴリー・ド・ラペイレット。あなたと、半分だけ血が繋がっている妹よ。いまさら、兄と呼ぶつもりはないけれど」
彼女の名乗りに、ノエは小さく息をのむ。そこにいたのは、先日の訪問の際に短い間ながら再会を果たしたノエの妹だった。
彼女がノエに向ける視線に、どんな感情が込められているか。今のノエには分からない。だが、彼は真っ先に自分が言うべき言葉ならわかっていた。
「
……
すみません。また、この屋敷に足を踏み入れてしまって」
「どうして、謝るの」
「あなたにとって、僕は
……
あなた方姉妹の母親を殺した者、です。それに、部外者のくせに、あなた方の生活も乱してしまった。それなのに、こうして世話になるというのは、あなたにとって愉快なことではないでしょう」
ノエの説明を聞いて、イヴリーはわずかに眉を寄せる。
ノエが直接言葉を交わしたイヴリーの姉ーーエヴァリンヌに比べると、イヴリーは口数の少なく、静かな物腰の女性のようだ。しかし、静かだからといって何も考えていないわけではない。
「確かに、楽しいことではない。この前、エヴァリンヌも言っていたけれど、私はやっぱりあなたを許せるとは思っていない。できれば、もう二度と顔も見たくなかった」
イヴリーは一瞬の躊躇を交えてから、
「ここにあなたが来ると知ったとき、どうしてあなたが今更来るのか、と思った。あなたがどれだけ謝っても、私たちの中に許しという気持ちは生まれない。あなたを兄と呼ぼうとも思わない」
形はどうあれ、ノエはイヴリーたちの母親を殺した。その事実は、なにをどう言おうと覆るものではない。
だが、イヴリーの言葉は恨み言だけでは終わらなかった。
「でも
……
あなたはお父様を庇った。私たちにとって、唯一残された家族を守ってくれた。だから、あなたがこの屋敷の敷居を跨ぐことを許さないなんて
……
そんな恩知らずなことは私はしない」
エヴァリンヌも、とイヴリーは付け足す。
ノエに向かって、イヴリーは一歩分、歩を進める。ほんの小さな一歩に過ぎなかったとしても、それは屋敷を預かるものの血縁者として、彼女が見せた大きな一歩だった。
そこに、家族の情はなかったとしても。
家族を守ってくれた者への恩義と、敬意はあった。
「ありがとう。お父様を守ってくれて。私の
……
大事な家族を守ってくれて」
寝巻き姿ではあったが、イヴリーはスカートの裾を引き、自身の父を守った騎士へと感謝の礼をする。白々とした、神々しさすら思わせる月明かりがイヴリーを照らし出す。
淑女からの誠意を込めた感謝の礼に、一瞬ノエは胸の内にあった靄すらも忘れ去っていた。
「
……
そのお言葉、ありがたく頂戴します」
そして、彼女からの礼を、騎士は素直に受け取ることを選んだ。謙遜をしては、それこそ失礼になるからだ。
「あなたは、他にも異端者から街の人を守ったと聞いた。
……
ただの冒険者であるというのに、街の防衛のために尽力してくれたこと、心から感謝しています」
続けて、頭を上げてからもイヴリーは礼の言葉を口にする。そこには、妹の情は微塵も残っておらず、街の統治者の血族としてあるべき姿だけが残っていた。
けれども、ノエは彼女の言葉を契機に、忘れかけていた事実を思い出す。
異端者をーー人をこの手で殺めたという事実を。
「
……
どうかしたの。随分と顔色が悪いようだけれど。具合が悪いようなら、医師か魔道士をーー」
「違うんです。これは、体の具合が悪いんじゃなくて
……
」
自分でも今の自分の心境をどう説明していいか分からず、言葉が迷子になる。
イヴリーは、ノエの様子をじっと見守っていた。何を言うでもなく、ただ黙って、ノエを見つめ続けていた。
ここで彼女が帰ってくれたのなら、ノエは言葉にならない迷いを胸の内に秘め、部屋に戻っていただろう。そして、迷いを抱えながらもオデットたちと再会し、笑顔の裏に終わらぬ懊悩を押し込んでいたに違いない。
だが、イヴリーはここに居続け、ノエの言葉の続きを待っている。
異端者となった母をノエに殺された妹は、この場に佇み続けている。
だからだろうか。
「
……
僕は、今日、異端者を殺しました」
いつのまにか、言葉が口をついて飛び出していたのは。
「その人は、ほんの数分前まで、食堂で食事をしていたんです。でも、竜に変じて
……
僕たちや街の人を殺そうとした。だから、止めようとして
……
僕が、殺しました」
「そうらしいと、話は聞いている。あなたと一緒にいた魔道士と、異端者を仕留めてくれたと」
「はい。
……
あの時と同じように、僕が殺したんです」
いつしか、ノエはイヴリーの存在を視野に入れず、自分の手へと視線を落としていた。今は汚れ一つない手が、今にも血に濡れ、真っ赤に染まっていくように見えた。
「異端者を殺さなければ、他の人が死んでいた。彼は、僕らを殺すつもりだった。だから、僕は僕の命を
……
他の皆の命を守るために、その人を殺した」
「
…………
」
「でも、それは
……
本当に、正しいこと、だったのだろうか」
何度も何度も自分に向けて問いかけた言葉が、音となって響く。
「異端者になった上に、人に牙を剥いた。そんな者を生かしておくことのほうが、私は正しいとは思えない」
そして、為政者の血縁として、イヴリーはイヴリーなりの答えを返した。彼女にとっては意味不明にも思えるノエの自問自答に、イヴリーは一石を投じてくれた。
「
……
そうなんだろうと、僕も心のどこかでは思っています」
そして、予想通り。ノエは、イヴリーの言葉をすんなり受け入れられなかった。
「だけど、僕はあの人の全てを奪ってしまった。あの人のこの先、生きたかもしれない数十年を、その可能性を、全て壊した。否定した。僕が死にたくないと
……
生きたいと願った。それだけの理由だけのために」
ノエが殺さなければ、多くの人が命を落としていた。だが、多くの人を救うためなら、誰かを殺していいなどと、ノエにはやはり思えなかった。
ちょうど、オデットを守るためなら、他の人が死んでもいいと思えなかったのと同じように。
「誰かの生きる未来を否定して奪うのが正しいことと、僕は
……
思いたくない。なのに」
「私はあなたじゃないから、あなたが何をそこまで恐れて、嫌がっているのか分からないけれど」
終わりのない問答を繰り返すノエに、イヴリーは言う。
「私は、もしあなたが異端者如きのために自分の命を譲るべきだった、なんて言ったら。私は、あなたを心の底から軽蔑する」
イヴリーの冷え冷えとした眼差しが、ノエへと注がれる。思わず、ノエは顔をあげ、彼女の視線と相対する。
「すでに、あなたは私のお母様の命の一端を踏み台にして生きている。だったら、お母様の命の分も、あなたが背負い、歩き続けて。私が今のあなたに望むとしたら、それだけ」
偉業を成し遂げずともいい。平凡な冒険者として、思うままに生きるだけでいい。それ以上をイヴリーは望む気持ちもない。
「私たちのお母様の手から逃れて生き延びたその命を、あなたは自分のために使いきって。そんな名前も知らない人のために遠慮するなんてこと、私は認めない」
「
…………
すみません。あなたに、言うべき言葉ではありませんでした」
異端者として処された母を持つ娘に、ノエが初めて殺した相手を母とする少女に、自分はなんてことを口走ってしまったのか。己への羞恥心と居た堪れなさで、今すぐ己の首を絞めたいぐらいだった。
再び項垂れるノエを見つめ続けていたイヴリーは、やがて微かに目を伏せ、
「私は、誰かを殺したこともない。あなたのように剣を取ったこともない。だから、私がこんなことを言うのはお門違いかもしれないけれど」
迷い続ける青年に向けて、一つ、言葉を送る。
「
……
もし、私が誰かに殺されるのだとしたら。私だったら、自分の死をについて真剣に悩み続けてくれるあなたのような人に殺されてよかった、と思う」
何の慰めにもならないかもしれないけれど。
そのように付け足した少女は、いまだ心から血を流し続ける騎士を労わるように、無言で瞑目した。
***
翌朝。ノエは身支度を整え、手紙にあった通りヤルマルの到着を待っていた。
ボロボロになってしまった上着に袖を通すわけにもいかず、ひとまずは鎧の下に着ていた洗い直されたと思しきシャツに袖を通す。配膳されてきた軽食を食べると、ようやく気持ちも体力の面も一旦の落ち着きを取り戻してくれていた。
そうして、この後どうするかを考えて待っていると、程なくしてノックの音が響く。召使の女性が来客の訪れを知らせ、部屋に通して構わないとノエは許可を出した。
まるで本当の貴族の子息のようなやりとりに、ノエは思わず自嘲に似た笑みを浮かべてしまう。
そうこうしているうちにも、扉の前にいくつかの足音が響いた。
「やあ、体は回復したようだね」
部屋に入ってきたのは、本人が手紙に記した通り、ヤルマルだった。激戦を潜り抜けてきた直後だからか、彼女の言葉こそいつも通りだが声にはいつもの張りがない。
「はい。治癒魔法をかけてもらったようで、傷も残っていません」
「そいつは重畳。
……
ただ、防具や武具の方はそうはいかなかったようだね」
ヤルマルが視線をやった先にあったのは、ノエが愛用していた皮のコートだ。
竜の牙や爪が貫通したり、炎のブレスの余波を受けたせいで、ところどころに焼け焦げや破れができたしまっている。
「相当無理をさせてしまいましたから。どこかで買い直す必要があるでしょう。盾も破壊されてしまいました」
「兄さんは、無理をしないでと言った側から無理をするんですから」
ヤルマルの背中から顔を出したのは、オデットだ。彼女の顔を見て、ノエはバツの悪さから視線を逸らす。
ずんずんと部屋を横断して、ノエが立つベッド脇にやってきたオデット。思わず、ノエは一歩後ろに下がる。構わず、オデットはノエにさらに一歩詰め寄り、
「わたし、兄さんの話を聞くって言いました。兄さんが背負っているものの全部は持てなくても、相談くらいは乗れるって」
「
……
うん」
「でも、兄さんはいつも、一人で全部抱えて渡してくれません。飛竜が来た時も、既にボロボロだったのに皆さんを守ろうとして自分の力を使い果たそうとしてました」
「
……
わかってるよ。きっとオデットは悲しむだろうし、僕がそんな真似をしても喜ぶわけじゃないってことは」
「だったら、どうして!」
もし、オデットがノエと同じ背丈なら、彼女はノエの胸ぐらを掴んでいたかもしれない。
それほどまでの剣幕を前にして、それでもノエは、今度は「ごめんね」と言わなかった。
「それでも、オデットを失って僕だけが生き残るよりは、ずっといいと思ったから」
「
……
!」
「君が、僕のことをとても大事に思ってくれているのと同じくらい、僕だって君のことが大事なんだ」
昨晩、頭の中で考えていたことを彼は口にする。
「でも、たとえどんな気持ちが僕にあろうと、君が感じた気持ちを否定する権利は僕にはない」
何を言ったところで、自分の行動を正当化するつもりもないし、正当化されるとも思っていない。ただ、自分の気持ちを誤魔化してオデットの糾弾を受け流すのは、不誠実だと感じた。それだけだ。
「
……
兄さんは、ずるいです」
一瞬、息を呑み、開かれた瞳は、ゆっくりと伏せられる。ゆるゆると首を横に振り、彼女はつぶやく。
「そんな風に言われたら、わたしは何も言えなくなってしまうのに」
たとえ、ノエから「どう思っても自由」と言われても、はいそうですかと受け入れられはしない。自分を守るために全力を出すと言う人に、無理をするなと言うのは、前提とは真反対の内容を飲んでくれと言うようなものだ。
とはいえ、それだけであっさりと引き下がれるほど、オデットも守られてばかりの子供ではなかった。
「だけど
……
兄さんの気持ちを分かっても、わたし、やっぱり言い続けたいです。無茶はしないで。独りにならないで。何もかもを
……
背負おうとしないで」
そこに込められた言葉の意味を察して、ノエは口を引きむすぶ。
ノエが誰かの命を奪うという行いを忌避していることを、オデットはよく知っている。だからこそ、今のノエが平時の心穏やかな状態でいられているわけがないと、彼女は察している。
「
……
うん。僕の中で整理をつけるのに、君の力が必要だと思ったら、そのときは頼らせてもらうよ」
今にも泣きそうな顔をしているオデットに、ノエは今度こそ精一杯の笑みを見せる。ゆるい癖の残る彼女の頭を撫でてやると、オデットも静かな首肯と共に笑ってくれた。もっとも、それは「ちゃんと分かってますか」と言わんばかりの、苦みと労りの混ざった笑みだったが。
「話はもういいかい?」
「すみません、ヤルマルさん。せっかく来てくれたのに、待たせてしまって」
二人の会話が終わるまで待っててくれていたヤルマルに、ノエは謝罪を送る。ヤルマルはひらひらと手を振り、「気にしていないさ」と言ってくれた。
「色々あっただろう。一言では言い尽くせないほど、色々とね。できるなら、君にはじっくりと考える時間をあげたかったんだが
……
残念ながらそうも言っていられないんだ」
ヤルマルの厳しい顔つきに、ノエもつられて表情を強張らせる。オデットも、ヤルマルが何を言おうと察したのか、表情を曇らせる。どうやら、ノエの知らない何かが、ノエが気を失っている間に起きてしまったらしい。しかも、良くない方の何かが。
「何が、あったんですか」
「一つは
……
君も既にベルナールさんから聞いているかもしれないが、飛竜による拉致事件んについてだ」
ヤルマルが予想していたように、ノエはそこまで大きな動揺は見せなかった。ベルナールがリンクパール越しに口にしていた言葉を断片的に聞き取り、その可能性は予想していたからだ。
「飛竜は、街を焼いただけではなく、街の人を誘拐したのですか」
「ああ。その数は決して多くない。飛竜の半分は砲で撃ち落とせたようだし、残りの半分も多くは騎士が討ち取ってくれたようだ。だが、中には街の人を抱えたまま、外壁を飛び去っていったものもいる。街の人も、何人もその姿を目撃している」
「
……
ですが、何故そんなことを」
飛竜が人を拉致する、という行為そのものに対しては怒りは覚える。しかし、それ以上にノエの感情を占めたのは疑問だった。
飛竜のような大きな生き物にとって、ヒトは餌としてふさわしくない。竜をヒトに例えるなら、パンの一欠片を得るために、魔物の巣に飛び込むようなものだ。
「それについては、君のお父様はある程度推測を立てているようだけれどね。だが、今はその話をする前に、こちらの話をしておこう」
ヤルマルはより一層厳しさを残した表情で、ノエに歩み寄る。彼女のただならぬ様子を見て、ノエは思わず唾を飲んだ。
数秒の沈黙を経て、彼女は言う。
「
……
今回の襲撃が終わったあと、アランさんの遺体が見つかった」
「ーーーー!?」
もたらされた凶報に、ノエが息を呑む。だが、訪れた驚きを飲み込む前に、さらにヤルマルは言う。
「それと、最後にもう一つ。孤児院の子供が一人、見当たらないことが分かった。一緒にいた子供の証言によると、飛竜に攫われてしまったんだそうだ」
「
……
攫われた子どもは、誰なんですか」
ヤルマルは目を伏せ、やるせないといった様子でゆっくりと首を横に振る。
そして、告げる。
「
……
コーディだよ。アランさんが飛竜に殺され、コーディが攫われた。その一部始終を見ていた子供が、教えてくれたんだ」
その子供の名は、もう聞かずともノエにも分かっていた。
それでも、問わずにはいられなかった。「教えてくれた子どもとは、誰のことですか」と。
答えてくれたのはオデットだった。
「
……
グレンさん、です」
自分の友人や知り合いの窮地を知らせんと、顔を真っ青にして文字を書き殴る少年の姿。
その姿が、ノエにはありありと想像できてしまった。
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