うよ
2024-02-10 22:14:55
13469文字
Public サブドムスモロ
 

サブドムスモロ7

つづき、つづき、だんだん大変。

「つながりませんね」
 十四時の予約時間をすぎても現れない患者に電話をかけていた看護師がため息をついていた。別に珍しいことではない。高齢者の中には連れて来てくれる家族が都合がつかなくなったという者もあれば、若い患者には急な仕事で連絡できない者もある。後日予約を取り直してくれればそれでいい。電話をしてみれば「具合が悪くて行けそうにない」という患者もいて、看護師は都度事情を聞き、受診を促す。
「コールはするんですが、留守電にもなりません」
 入院時と外来と、二度スモーカーの受付処理をしたことのある看護師はそう言ってコール音の止まない子機を置いた。担当医師の予定が貼られた壁の時計は十六時をすぎている。外来業務の終わりまで一時間ほどは残っているが、この様子なら今日は来ないのだろう。火曜、当直前に引き出しから救い出してあったボールペンのクマで一度頬をぐりとやって、ローは首をすくめた。
「急な仕事でも入ったかもな」
「本人の携帯のほかに、職場の方がキーパーソンとして登録されていますけど、かけます?」
「緊急ってわけじゃねぇからな……
「ほかに連絡のつく方は登録されてませんね。ご家族は……カルテの、施設に入られているお母さまだけですか?」
「そう聞いている」
次の診察まで薬は一か月分出してあるから足りる。二度目のケア外来を終えたばかりで調子も上向きだった。あの後、帰り際に採った血液では数値の改善がみられている。プレイを一週間延ばしたとしても今ならまだ崩れることはなさそうだと判断できる。
「もし折り返しがあったら次の金曜に捻じ込んでくれ」
「今日より予約人数が多いですけど入れていいんですね?」
「仕方ない。飛ばしたのは患者だからな、多少の待ち時間は我慢してもらうしかねぇ」
「わかりました。電話交換にも伝えておきます」
 まぁ、折り返してこないだろうな。がっくり落ちた肩をまわすと凝りがひどかった。首もつられてひどい音をたてる。看護師は苦笑して、すぐに諸々の手配に取り掛かる。あの男のことだ、病院の電話番号など登録すらしていないのではないか。そして見知らぬ番号がどこのものか、わざわざ検索することもないのだろう。二日前に交わした約束を忘れるほどの年齢でもない。急な都合なら、落ち着いた時に本人から連絡があるかもしれないが、そうでなかったら。関係性の構築に努めてきて、それは良好に結ぶことができたと思っていたが、患者からみてどうだったのか。受診拒否となると予約取り直しなど見込めない。職場復帰の書類が必要なのではなかったか。
「どこかで判断を間違ったかもしれねぇ」
 開いたカルテを何度も眺めてしまっていた。外来終了の時間を過ぎ、医局で鮭おにぎりと、おかず代わりに買ったちくわを齧りながら、初回の受診日から順にスモーカーのカルテを開けてしまう。
「そんなことないわよ」
 所属科で共用している冷蔵庫から、誰かの差し入れだという缶コーヒーをロビンが出してくれる。同じ缶を受け取りながら、マルコも読んでいた資料から顔を上げた。独り言のつもりだったが思いのほか大きな声が出ていたらしい。レジデントは看護師に呼ばれて病棟、科長は会合だかで退勤している。
「回復の兆しがあった患者がドロップアウトするのしんどいよなァ」
「まだ一回受診しなかっただけでしょう。ドロップアウトと判断するのは早すぎる」
「それもそうかね。忘れた頃にしれっと通常診療に来るのもいるしよい」
「リワードを渡したあとの反応が気になってはいたんだ」
「不随意運動。プレイの一連が成り立っているのに……
 いつの間にかそれぞれのパソコンで同じカルテが開けられていた。二人は興味深そうに、これまでの記録を読み返している。だが情報量が足りない。患者背景を聞き出すのは主にカウンセリングだが、まだ一回しか受けておらず、受診と入院生活で得られた以上のものはあがっていなかった。
「数値上は改善しているし、バイタルも問題ない。顔色、皮膚状態もよく、疎通も改善していて問題はなかったんだがな」
「画像検査もしてあるものね」
「脳梗塞やら神経系の疾患はなさそうだなぁ」
 全身の探索は最初に一通り行っている。特に異常はなかった。肺でさえも。
「心因性か」
「再現性があるのなら、どちらとも言えるけれど、リワードだけに反応するとなると」
 ダイナミクスの乱れによって引き起こされた体の不調に対するストレス、業務内容の制限、慣れない受診への、薬剤調整への、そして初めてのケア外来への。スモーカーにとってはストレス続きだったろう。そうした一連の負荷が現れていると見立てることはできる。人間は自分の体が思い通りに動かないことに対して強くストレスを感じるもの。だが、服を脱がないのかと聞いたこと、平易な解説本すら初めて見るようだったことから、最近のあれこれだけではなく、そもそもダイナミクスを乱すに至った原因となる背景が関与していると考えるのが自然だろう。
「カウンセリングを進めるのがよさそうね」
 二回目のカウンセリングは翌々週の火曜を予定していた。そこに来なければ手立てを考えねばならない。
 マルコは缶をずずっと啜って、読みかけだった資料に戻った。
「大丈夫に見えたがねぇ。トラ先生がいいって、言ってたろ。自信持ってていいんじゃねぇかよい」
「そうだといいんだがな」
 一見Domに主導権があるように見える関係性は、Subの許容なしには成り立たない。ダイナミクスの手綱を任せるという受け入れ姿勢がなければ。診察と治療という立場上、多少の誘導はあるが、任せるという意思がスモーカーにはあったと感じていた。ローはボールペンのクマを撫で、まだサイズ感の慣れない代替機を触る。たった一回来なかっただけだ。当直帯に入ってもなお医局の机を離れない医師を動かすのはピッチの呼び出し音。マルコとロビンのそれがほとんと同時に鳴って、二人がそれぞれの現場に向かったあとも、ローはしばらくスモーカーのカルテを見直していた。
 土曜は朝から暑いくらい晴れていた。確実に冬へと向かっていた季節が、急に裏切って回れ右したかのような。八月ほどの湿度はなく、高気圧がもたらす雲ひとつない空には、秋というには強い陽ざしが差していた。
 ローは日直ではなかったが、担当している学生の退院にあわせて出勤した。病棟のエレベーターホールで看護師とカウンセラーに見送られ、中央待合へ出てきた患者は両親と一緒だった。初めて見た父親は、少年によく似た顔立ちをしていた。ローを見つけると、揃って頭を下げる。
「予定通りの退院でよかったな。プログラムもよくがんばった。試験が上手くいくよう祈っている」
「先生ありがとうございました。もうここに来なくていいようにします」
 若い瞳は凛々しい。
「もちろん、それが一番だが、無理はするな。おかしいと思ったら、小さなことでも早めに対処することが肝心だ。完全に崩れてからだと立て直しに時間がかかる」
「はい」
「息子がお世話になりました。ぼくも発現がないので気づきにくいんですが、注意して様子を見ようと思います」
 そう父親が言って、隣に立つ母親と視線を交わした。ひと月後、自宅での経過を聞く通常診療があって、よければ基本的には終わりだ。その後はこれまでのかかりつけ医に通うことになるだろう。進学先が決まる頃にはローの手を完全に離れているが、ほとんど心配はしていない。
 斜めに差す陽が眩しい正面玄関で親子を見送った。休日でほとんど空の駐車場にぽつんと停められた車に両親が荷物を積み込み、言葉を交わしながら患者と乗り込む。重なる在りし日。ゲートに向かって走り出す車が完全に後ろ姿になると鳩尾がざわりとした。ああ、何年たっても慣れない。実際に走り出すのを見送ったわけではない。あの日ローはそこにいなかった。だからこれは何度も夢に見ただけの残像。太陽に目をやると世界が眩む。
 医局の机でスリープしていたパソコンを立ち上げ、借り物のスマートフォンを手に取る。ドフラミンゴのトーク画面を開けると「誕生日おめでとう」のまま止まっていた。一週間も放っている。さすがに良心がチクリとする。パソコンを操作して科の共有カレンダーを開け、学会や勉強会の予定と、ドフラミンゴが提示してきたいくつかの候補日を見比べる。毎年この時期に日程をすり合わせ、ローはドフラミンゴと墓参りに行く。ローの家族とロシナンテ、そしてドンキホーテ家の母親が、皆同じ霊園に眠っている。一人で行けばいいと思う。だが毎年欠かさず誘われ、断ろうとなんだかんだ理由を探すも結局は一緒に行っていた。ドフラミンゴに対して抱える申し訳なさは一生消えることはないと思うのに、あの男が人恋しい性分だとも知っている。誕生日はまわりのあたたかな人間に祝ってもらえて嬉しい日ではあるが、その日から真冬にかけて、ローは落ち着かない日々を過ごし、不調をきたす。
二日ほど合わせられそうな日を見つけ、返信を打ち込む。文を見直し、だが送信ボタンをタップする前に、院内の緊急コールが鳴り響いた。病棟の応援要請だ。心停止などの急変があった際に、病院全体に放送されるもの。どの科の医師も看護師も、専門分野など関係なく駆けつけて対応に当たるべしとされるアラートだ。ローはトークアプリを閉じた。
 夜七時をすぎてもなお外気は暖かかった。一日のほとんどを病院内で過ごすと、その間の外のことはわからない。気温や風、雲が多いとか少ないとか、仕事中は無縁だ。窓がある場所にいても、じっくり眺めたり、開けて外の空気を吸ったりするほどの時間は取れない。急な大雨に気がつかないこともある。患者が濡れた傘をビニールに収めて持ち歩くのを見て「ああ雨か」といった具合だ。相談室には窓があるが、そこにいるのは週に一度だ。
職員通用口からようやく外に出ると、とっくに空は暗くなっているのに置いて行かれたように気温がまだ髙かった。曇っている。ごくたまにちらちらと光る星が、流れていく厚い雲の隙間から見えた。代替機のロックを解除しようとして、やり方が違うことを思い出す。自分の機体なら親指ひとつで二秒とかからず明るくなる画面に、小さな点が表示されている。もたもたと指でたどって天気予報を開いた。深夜から雨になるらしい。ローはいつものようにリュックの紐を握って足早に歩き出した。傘は持っていない。病院を出てすぐ、向かいの小さな公園で近所の犬が草むらに鼻を突っ込んでいた。飼い主の女性が緑のポーチを手に、リードを引いている。マンションの群れを通り過ぎると、繁華街の向こうにある駅の方から、緑のユニフォームを着た人々が歩いてくるのとすれ違う。見覚えのあるそれは、先日のスポーツバーでシャチやスモーカーの部下が応援していたチームのもので、リーグの上位三チームで行うトーナメントが行われると新聞に載っていた。今日はその試合だったのかもしれない。みな、大きな荷物を持っていた。そのそこかしこから、チームカラーのなにかがはみ出している。大小揃いでユニフォームを着た親子が、雨が降る前に終わってよかったと話しながら向かってくるのを、ローは歩道の端に寄ってやり過ごした。子どもは緑の帽子に重ねて黒い帽子をかぶっていて、なにやらチームの名前らしき漢字とカタカナの組み合わせが刺繍された袋を肩にかけていた。
繁華街とは反対方面の自宅に向かって曲がり、いつものコンビニへ向かう。自動ドアをくぐると先日と同じ店員がぱっと顔を上げた。
「あっ」
 おにぎりを選ぶ暇もなく大きな声で呼び止められ、仕方なくレジの前に立つと店員はバックヤードからあの日の紙袋を持ってきた。
「処分でいいって言ったんだが」
「すみません。捨てる前に念のためと思って中を確認したら……
 台の上に置かれたのはチケットだった。このコンビニとは違う社名ロゴが縁に載った紙に、さっきすれ違ったユニフォームの野球チームと対戦相手の名前が連なって印刷され、切り取り線がある。日付は今日だ。午後の試合だったらしい。ローの目が券面の文字を読む間、店員は何度も頭を下げていた。
「これは」
「今日だったんですよね。これ取るの大変でしたよね。補償させていただきますので……
 試合に行けなかったことは補償できるようなものではない、楽しみにしていたのだろうに申し訳ないと、土下座でも始めそうな勢いの店員は、もしかするとファンなのかもしれない。ローは慌てた。
「待ってくれ、おれのじゃない。この袋は、あの日その……一緒だった奴が持っていたもので、おれじゃない。その店のお菓子を届けたあとで、空の袋だと思っていたから、こちらこそ、勝手に処分していいなんて言って悪かった」
 スモーカーは今日の試合に行くつもりだったのだろうか。もはやただの紙になってしまった、二枚分の券。
「いえ、こちらの確認が足りないばかりに。申し訳なかったです。ではその方の連絡先を教えていただくことは……
 できない。ローはスモーカーの連絡先を知らない。男は患者だ。カルテに登録されている情報はあるが業務上でしか扱えない。スモーカーが診察かケア外来にもし来れば、チケットのことを伝えることはできるが。いままさに音信不通になっている患者が果たして来院するかどうか。
何度も下げる頭をとうとう台に擦りつけそうになっていた店員をなだめ、ぐったりと重い体を引きずって店を出てから、買うつもりだった夕飯をなにひとつ買っていないことに気がついたが戻る気力はなくなっていた。ペンギンの差し入れがひとつくらい残っているだろう、たぶん、ゼリーのひとつくらい。暗い道をとぼとぼ歩く顔が、羽でも触るような感覚に襲われる。くすぐったい頬をぐいと押すと親指が濡れた。雨だ。街灯の光の中を、埃かと見間違えるような細かい粒が舞っている。霧のような、心許ない降り方。深夜にはまだ早いのに。舌打ちして、もうあと十メートルほどに迫ったアパートに走り込もうとすれば、そこには黒い大きな塊があった。各部屋のポストが据えられただけの、エントランスともいえない階段口の分厚いガラス扉をふさぐように。どきりと胸が鳴る。すぐさまポケットのスマートフォンを、反対の手でリュックの紐を握った。微細な雫が髪に降り積もる。玄関灯を背中に受けて座り込む膝の間に埋まっているのは白髪。肩が大きく上下している。その名前を呼んだ時にはもう、ローは地面を蹴っていた。
「スモーカー!」
 どうしてアパートを知っているのかという疑問が一瞬浮かぶ。このワンルームマンションにはオートロックがない。どうせ寝に帰るだけの家だと立地を優先したことを、いつだったかドフラミンゴに咎められた。今はその顔を頭から追い出す。
 うずくまる大柄にまとわりつくような、煙る雨を蹴散らした。まだアスファルトに溜まるほどもない湿り気はしかし靴底を滑らせた。膝が崩れ、スモーカーの肩が動くのに合わせて鳴る喘鳴が近づく。息を吸い込む時に、ひゅうっと穴のあいたラムネを吹いたような音がしていた。ケア外来からたった四日。経過は良好だったはずだ。もう一度名前を呼ぶと、ぐしゃぐしゃにかき回された白髪の下からのそりと額がのぞいた。転げそうになるのを支えると同時に男の肩に手をかけると大げさに跳ねる。膝に隠れていた顔は、一気にいくつも年を取ったようで。濁ってくすんだ赤い目が、陰になった顔面に浮かぶ。乾いた皮膚が唇の表面で立ち上がっている。ぞっと血の気が引く。明らかに様子のおかしいSubに引っ張られそうになって、ぐっと踏みしめた靴の横には、山になった吸い殻があった。
「せん……?」
「薬は?持ってるか?」
 呼びかけに答えはなかった。目線が合わない。かろうじてドロップしていない程度の、かなり悪いところにいる。男のまわりに鞄の類はない。これまでの診療にだってそういったものは持参していなかったように思う。ではあの日はどうだったか。降りだした雨につられてか、傘を差しかけられた日曜が蘇る。だが鞄のことは思い出せない。紙袋を提げていたことしか。あの時と同じ、濡れたアスファルトとヤニの臭いに頭を揺さぶられる。細かい灰が舞い上がっている。詳細に記憶を掘り起こそうとすると、ガチンと硬い手ごたえがあった。蓋だ。実のところコンビニでの衝動から自宅までのことはもやがかかったようになったまま。開けられないままでいる。
「悪いがポケット探すぞ」
 しっかりしろ、との台詞は自分に向けてもいた。鞄についてはあの日の記憶ごと放り投げる。まだ開けられない。患者と一緒に落ちるわけにいかない。一言断りを入れながら、どっしり地についた尻と床のタイルの間に手をねじ込んだが、指が潰されただけ。他のポケットはとスモーカーの姿を改めると上着を着ていなかった。昼間、暖かかったとはいえ、秋の夜だ。元々着ていなかったのか、どこかに忘れてきたのか。アパートの前を車が通りすぎて雨混じりの風が起こるとぶるりと体が震えた。ここで粘っても時間の無駄だ。風邪をひく危険性もある。ぜえ、ぜえ、とざらついた呼吸が乱れている。気管支が痛んでいれば、容易に炎症を起こすだろう。ローは自分のポケットに手を入れた。取り出した端末の画面に点が九つ浮かんでまた舌を打つ。濡れていた指は服で拭いた。
「しんどいだろうが、もう少しがんばれるか、救急車を呼ぶ」
 しかし点と点を結ぶ前に指が大きくぶれた。突然掴まれた上腕が軋む。大きさも厚みも馴染まない借り物の機体はあっけなく手の平を離れ、床にぶつかって滑り遠のく。吸い殻が散らばった。「代替機が故障した場合は実費です、ご了承ください」と女性店員の声が頭をよぎる中、打ちどころの悪そうなスマートフォンを目で追って反応が遅れた。急に押されてガラス戸に背がぶつかる。
「おれは、病気じゃねぇって、言ったな……
 思わず瞑ってしまった目を開ければ、眼球の片方に喘鳴がかかってまた閉じた。煙草の臭いと、空気中の湿度がにじみ出たような雨にもうもうと包まれ、身動きが取れない。
「おい、スモ」
「病気じゃねぇんだろう、先生」
「そうだ、病気じゃ」
「救急車はいらねぇ」
 薄い片目で見た男は浮浪者と言われてもおかしくない様相だった。どこを見ているのか、表情は虚ろだ。痰が絡んで咳き込む口から唾が飛んでくる。
「スモ」
「呼ぶんじゃねぇ、あれはもう死ぬ」
「なん……
「死んでくれ、もう死ぬんだ」
 見開いた目に血の跡が飛び込む。スモーカーの服に付着していた。いったい誰の血液だろうか。状況が理解できない。握られた両腕にはぎりぎりと圧が加わり続けている。のし掛かる大きな男。顔にかかる呼吸は確かに弱っている者の証なのに、死ぬ、ともう一度口にした男に噛みつかれそうだった。あの散歩の犬とは違う、首輪のない野犬。
「はな、せ」
「病気じゃねぇ。おれは病気じゃねぇって、言っ、」
 最後まで言い切らずスモーカーはまた咳き込んだ。げぇ、と喉に引っ掛かって嘔吐く。どうすればいい。どうする。何度か身じろぎを試みたローの息も上がっていた。横目でスマホを探したが、沈黙したままのそれは遠い。そもそも手が動かせないのではどうしようもない。腕がすりつぶされそうだ。
「スモーカー、落ち着け。このままだと」
「そうだ、もう死ぬ」
 鳥肌が立っているのは、濡れた尻からくる寒気と、目の前で落ちそうなSubのせいか。会話は噛み合いそうにない。ここではコマンドも使えない。この様子では薬もないのだろう。危機感がそろそろ恐怖にすり替わろうとしていた。だがそれは阻止される。靴音だ。少し踵のある、革靴の。コツ、コツ、とゆったり歩幅のある足音に目をやると、覚えのある香水と派手なピンク。
「いつまでも連絡がねぇからとうとうパートナーでも作ったかと思ったんだが……フッフッフ、手が必要か?ロー」
 一年ぶりに見る、義兄の姿がそこにあった。傘も差さず、雨など降っていないかのような佇まいで長い足を進めるドフラミンゴは、そこにいるだけで大きな存在感を示す。二メートルをゆうに超える長身と血管を流れる高値のDom性。ローにとっては、子どもだった自分を保護していたもの。だが、見下ろされる圧迫感にスモーカーは警戒心をあらわにした。上下の歯を擦りあわせ、唸って喉を鳴らす。まるで獣だ。急に現れた見知らぬDomをねめつける様に振り返るその視線の先、呆れ顔のドフラミンゴがサングラスに手をかけていた。ローはその意味をすぐに理解する。どん、と衝かれたように心拍が暴れる。胸の真ん中から焦燥と冷や汗が堰を切ってどぼどぼ流れ出す。あのサングラスは、生まれ持った弱い目を守るために出るGlareを隠すもの。だめだ、見るな。ローの声に反応したのならよかったのに、びしりと強張ったスモーカーは、受けてしまったのだろう。まずい。ぶるぶると震えだす白髪と同じくらい、ローも体の芯から震えていた。ただし意味のまったく異なるそれは、発熱したホルモンが水晶体を燃やして眼球から飛び出そうとするはたらきだった。攻撃されたSubを守ろうとしてGlareが出るのはディフェンス行為だが、呼び方がどうであろうとローにとっては同じ。あの、男と。両親と学生が車に乗り込む、遠ざかる窓枠、手を振る妹。
「目を出すなドフラミンゴ、おれの患者だ!」
「それにしちゃあ、熱烈すぎるんじゃねぇか?」
 半笑いのドフラミンゴはスモーカーを、Subを馬鹿にしているというわけではない。いつでも余裕を崩さないようするのは義兄が世を渡る中で身に着けた癖で、その行動は義弟を守ろうとしているからだと、ローにはわかる。どうしてこう悪い方へ転がってしまう。
「ぐ、ゔ」
 肩をいからせ、ローを押さえつけたまま、首をねじって硬直した男の喘鳴が聞こえなくなっていた。皮肉なことに、スモーカーが変わらず腕を握っているおかげでローの体は暴れ出さない。また壊してしまうわけにはいかない。瞼に集まる熱を口から吐き出す。呼吸の音がSubに聞こえるように。
「スモーカー、息をしろ、目線をはずせ。ドフラミンゴ、大丈夫だからサングラスをしてくれ」
 ぎ、ぎ、と錆びた音を立ててスモーカーの太い首がまわる。二度のプレイとこれまでの診療は少しでもこの男の中に積み上がっているだろうか。そうだといい、そうであってくれ。祈るように見つめるローの方へ向き直ったスモーカーの顔は青く、開いた口から舌が出ていた。犬のように忙しい呼吸は合わない。救急外来でも舌を出していた。あの時もせん妄様で、口のまわりを舐める動作があった。違うのは、ここではコマンドが使えないということ。
スモーカーはなおぎこちない動きで背中を丸めた。家の前でうなだれていたのも呼吸が苦しかったのだろう。強く腕を握りしめていた手がゆるむ。
ドフラミンゴの目はサングラスの向こうに収められた。見慣れたローでさえ今の状態ではあまり目を合わせたくない。Glareの気配が遠のいて、血管を沸騰させていたものがわずか凪ぐ。ほ、と小さく息が漏れたとき、違和感が膝頭を撫でた。
「スモーカー?」
黄ばんではいるものの前歯が意外にも行儀よく並んでいた。ひとつひとつの歯が大きいな、なんて、視界を占める光景から逃げをはかった意識がこぼす。まばたきの止まった画面の中で、ローひとりくらい丸飲みできるのだと、ぱっくり開いた口角を涎がつたっていった。だらんと広い舌はローの膝にべとりと。デニム越し、尻をじっとり濡らす不快が急に思い出される。何をされたのかとっさにわからず、ただ眺めた。「おい」と声を出したのはドフラミンゴで、えらく遠くに立っている。スモーカーは、細かい雨で濡れたタイルに両膝と、薬もなにも入っていなかった後ろポケットをべったりつけ、はっはっと肩を揺らしていた。これは正しくkneelの姿勢だと。歓喜のDom性に反して戦慄する背中。思わずstopと出そうになって力ずくで飲み込んだ。湿気を含んだ大きな気泡が食道でつっかえて、下っていかない。とぷ、と胃液が袋の縁を跳ねる。制止の言葉が出てこなかった。何を口走ってもコマンドになってしまう。Subがひざまずいて膝を舐める姿を称えるホルモンとそれを咎める理性に乱されるローのことなど置いてけぼりで、ゆっくりとべろをしまったSubの男は笑んだ。突き落とされた気分だった。
「やめ、やめろ、やめろスモーカー、だめだ、それはやりたくねぇんだろう」
 ローは無茶苦茶に首を振った。Glareを浴びたSub性のもたらす挙動を拒否することのできない男の代わりに。やめてくれと咆哮したのはお前だったはずだ。とっくに力の入っていなかったスモーカーの腕は解け、暴れたローの足がそれを蹴った。気持ち悪く緩んだ表情が怒りに変貌する。
「やめてくれ、いいこだから……
 幼児のように手足をバタバタさせながらそう言う姿は滑稽だろう。ドフラミンゴの深いため息が容易に想像できる。だがSubの反応は早かった。組み換え迷路をばらまいたのと同じ、不随意な揺れに襲われ、ぎゅうとスモーカーがさらに体を縮める。はっとしたローが謝罪を口にするより早く、大きなげっぷの鳴る口を塞ごうと、口元を抑えた指の間から吐しゃ物がこぼれた。汚い音を立てて噴き出す。ローは頭に冷や水を浴びせられたようだった。服にかかるのも構わずスモーカーに飛びつく。ドフラミンゴがハンカチで顔を覆っていた。今自分はなんと言ったのか。頭皮から冷たい汗がだらだらと流れて背中を濡らしていく。リワードに近いような言葉を使わなかったか。コマンドは増やせる、そう言ったケア外来の自分が他人の姿のようにちらつく。その気がなかったなんてただの言い訳で、ローはどこまでいってもDomで、言葉の形だけ選び取ろうとしたところで、スモーカーをSubとして動かしてしまう。そんなこと、わかりきっていたはずなのに。判断を間違えた。
 スモーカーは胃の内容物を吐き戻し、粘った唾液しか出なくなってもえっえっと舌を突き出した。ローはその姿が黒く覆われていくのを見ていた。違う、そうではなく、自分の視野が狭まっているのだった。ぞわぞわと体にしみ出す黒い悪寒。目も、耳も、穴が塗りつぶされる。また、おれのコマンドで。塞がった頭の中に子どもの声が響く。
「コラさん、“hug”」
 それがコマンドとして正しく機能していたのかどうかは実のところよくわからない。だがあの日、それを聞いたコラさんがやっぱりローを抱き上げ、互いがよろけて立てなくなるまでぐるぐると踊って、踊ったから、だからコラさんはSubのままになっていた。ロシナンテは珍しいSwitchで、だから、それで。雨が降っていた。迎えに行くからと言われてローは待っていた。傘を、そう、持っていなかった。今日と同じで。通りすぎる車が巻き上げる雨混じりの風を浴びながら、いつまでも待っていた。遅いな、コラさん。
 街灯も玄関灯も頼りにならなくなった視界で、うずくまっていた巨体が再び動くのを、ローはコマ送りで見ていた。ふいに鈍痛、どこに、さっきも同じところが痛かった、そこは腕だ。
「ぜっ……
 言葉を成さない喘鳴が、電球色に照らされた金髪から。なにか言おうとしているのか。声は喉で潰されて蛙のようだ。ちゃんと聞きたい。なにを伝えたいのか。
「ロー、それはとても患者には見えねェが」
 もう一つの金髪は、ロシナンテとは違う色の瞳をしていた。顔がとても似ている兄弟だったから不思議で、ねだっては見せてもらった。だが、高いところで強く輝く瑠璃のようなそれは簡単に空気を焦がす。なんでそんなことをする。こんなに弱っているのに。それを浴びせたら死んでしまうかもしれないのに。
 一一〇番か、一一九番かと詰め寄る圧に、一度滾った血液がみる間にまた内臓を燃やし、今度は目から飛び出した。
「やめてくれ、ドフラミンゴ……
「フッフッフ、それで、おれはどうすればいい、先生?」
 一瞬晴れたのかと見間違えるほどに、視界が明るく白み、こめかみの痛みを伴って明度が下がった。玄関灯に照らされている現実は白髪で、ローの腕に食い込む爪から臭うのは六四番ではない。その指先のささくれも、上下する白い毛先の枝分かれも、よく見えすぎて眼球が痛い。手足もGlareの余韻を引きずって痺れている。足元には汚物が広がっていた。わかるような固形物はない。たいして食べられていないのだろう。ヤニと混ざってひどい臭いがする。荒い呼吸はさっきより弱く、ローを掴んで崩れないようにしているだけで、意識は朦朧としているに違いない。できることなら巻き戻ってほしかった。自宅へ帰って来たところまで。いや、もっと前、あの日曜の前まで、スポーツバーで出くわす緑の夜の前まで。そんなことは絶対に叶わないと、はるか昔に思い知っている。ローは親指で頬を突いた。自分はもう医者だ。子どもだったときとは違う。本人が嫌だと言ったとしても、意思表示カードはない。判断力の低下した急患。できることはひとつ。コマンドも、薬剤投与も。
「乗せてくれ、ドフラミンゴ」
 北部総合病院まで。ローは義兄を見上げた。救急車を呼ぶより到着が早く、ウォークインなら確実に受け入れられる。再びサングラスに覆われた目がわずかに見開かれた。
「ロー、お前」
「お前の車なら五分で着くだろ」
 車を汚すのは申し訳ないが、一分一秒でも早く処置をする必要がある。止まらない冷や汗を拭うこともせずそう言うと、ドフラミンゴは無言で駐車場へ足を向けた。

 お前のせいじゃない。
 ドフラミンゴはそういうことを言わなかった。それがなんの救いにもならないと知っているから。あの時もローは手を引かれていた。中学生になったのだからと振りほどこうとして、握り直されたのを覚えている。家族がふたりだけになった夜だった。
「痴話喧嘩だったなら邪魔したかもしれねぇが、そうでないなら家を知られて大丈夫な患者なのか?それは」
 ルームミラー越しに向けられる目線の意味はサングラスをかけていてもわかった。返事をする余裕はない。口を開けば今度は自分が嘔吐する番だ。貧乏ゆすりが止まらない。なんとか座位を保っているスモーカーの息が細くなっているのを耳に聞くしかできない。どこからそんな力が出るのか、手首から先だけは硬直したようにローを掴んだままで。その腕をいつのまにか握り返していた。服の上からでは動脈の触れなどわからないのに、無意識に指が肘の内側を探った。ドフラミンゴがいつも身に付けている香水に、シートの革と煙草と濡れた衣類、胃酸の臭いが混じる。義兄の免許に金色の線が引かれていると知っている。それでも減速するたび耳鳴りがクラクションを鳴らした。そうかといってスムーズに進めば、速度に乗る座席がひとりでに飛び出して体が前へのめる。こっちに向かって突っ込んでくる対向車のライトにGlareを出しそうになって目をそらす。全部が妄想だ。わかっている。その場にいなかった子どものローが想像力を働かせたがゆえに何度もうなされた情景だ。決して見ることはできない、家族の見たシーンを。恐怖を。
「ロー」
 はっとする。もう一方の手の中にスマートフォンが二台、汗か雨かにまみれていた。慌てて手の平を開く。片方はスモーカーのものだろう。代替機を拾ったとき、その傍にあった。同じく落ちて滑ったような、画面に走るななめの傷、カバーの隙間には濡れた砂が挟まっていた。
 大丈夫だと言うかわりにその手をわずかに上げる。たかが携帯用の端末が重い。運転手に見えているかなんて気にしていられない。なにが大丈夫だというのだろう。五分で着くといった病院がこんなに遠い。酔い止めがあると言われても首も振れなかった。車窓から外を見れば幻覚、車内を見ても幻覚、目を瞑れば揺れと速度に振り回される。留められずあちこち目をやると視界がまわる。家族が生きていたころ車に乗った記憶はとっくになくなってしまった。思い出せない、家族旅行、塾の送迎、ラミの夜泣きドライブ、なにもかも。ぐるぐると落ち着かない目が何度目かのささくれた指先を通り越す。ふいにスマートフォンが震えた。ずっと揺すっていた膝が大きく飛び跳ねて、取り落としそうになったのを握りしめる。光る画面は自分の代替機ではない。重ねているから一緒に震えているだけ。鳴っているのはおそらくスモーカーの電話で、画面にななめの線でずたずたになった文字が。見たことがある。施設名。握ったままの腕をゆすった。
「すも、スモーカー」
 男の首はすでにヘッドレストにもたれていて、電話に出られるはずもない。もう一度揺すってみるが意識が落ちているのかもしれない。まずい。互いの血圧、体温が下がっている。早く、と運転席に懇願する前に、慣性の法則で体が放り出された。着いた、と言いながらドフラミンゴはもう降りていて、後部座席を開けてくれる。もう電話は切れていた。