番号を呼ばれて診察室の扉を開けたスモーカーはうろ、と彷徨いかけた視線を、眉間に力を入れてまっすぐに戻した。不自然に真正面を向いた目が捉えたのはスタッフが通る廊下につながる扉。胸元に目がいっているという指摘は覚えていたらしい。マウスを握る手にわずか力が入って、不要な右クリックがメニューを開いた。火曜、退院後初めての外来受診だった。
連勤や急患が続くと体力的にも、ダイナミクスにも負担になるが、病院で仕事をしている間はある程度呼吸がしやすい。第二性と向き合い、薬とカウンセリング、役割行動療法によって患者がコントロールを得る手助けとなるのは、自ら志したところである。皮肉なことに厳格な管理が第二性からの解放につながるのだ。それでも完璧ではない。ほんの小さなきっかけでホルモンは乱れ、人生を翻弄するから、専門科が必要とされている。
「調子はどうだ」
ひとつ前の患者に病状を説明しながら紙に書いて、そのまま机に置いていたクマのボールペンをポケットに戻す。椅子に腰かけた男はあからさまに眉間の皺を深くした。
「頓服は飲んだか?」
「飲んだ」
「退院時に増やした薬は?飲んでからおかしなことはなかったか」
「ねぇな。頭痛が減った」
一歩前進のようだ。顔色は退院時とあまり変わらず、最初に来たときに比べれば随分と血色がよくなっている。乾燥で粉を噴いていた頬はすっかり水分を取り戻し、髭剃りがスムーズに滑りそうだ。それなのに表情は明るくない。顔をそらされる。
「気になるのか」
ポケットを指すと苦々しいといった風に顔をゆがめた。
「見るなと言われると気になるだろ」
患者の言うことはもっともだ。見てはいけないと意識すればするほどそこを気にかけてしまう、そういう風にできている。ローはボールペンをそこから再び抜いて、一時的に引き出しへしまった。念のためと前置きして、ペンギンに冗談で言われたことをそのまま口にする。場が和むような言葉がけも多少は必要だし、万が一の可能性を除いておく目的もあった。
「単純にクマが好きっていうんじゃないよな?」
「先生はクマが好きなのか」
ローは目を丸くした。病室で高齢者に対して高いコミュニケーション力を発揮したくせ、スモーカーはここでそれをする気はないらしい。
「嫌いではねぇが、あんたはそういうわけじゃないな?」
「ねぇな」
和むどころか空気は岩のようにびくともしなかった。この男の診察で冗談めいたことを言うのは金輪際やめようとローは思う。首にかけていた聴診器を耳にいれた。服をめくってもらうと腹部、背部ともに皮疹はなく、心音に異常なし、脈は相変わらず時々飛んでいるか。
「薬が良い作用をし始めていると思う。開始して今日で四日だ。これからもっと効いてくる。内服をきちんと続ければ体調はもっと上向いてくるだろう」
「先生は」
「なんだ?」
「先生の調子は、大丈夫なのか」
寄せられたままの眉が心なしか形を変えたように見えた。心配されているのか。だとすれば恥じ入るほかない。プライベートとはいえ、目の前で物を壊すような性質をあらわにしてしまったのだ。ローは言い淀んだ。
「……大丈夫だ。一昨日は変なところを見せてすまなかった。頓服を飲んでから、おかしなことはなかったんだな?」
「ねぇと言ってる」
ポケットのスマホはひび割れて真っ暗なままだった。しばらく代替機すら手に入れることは難しいかもしれない。電源の入らない画面を指ですい、とやってしまう度に、自分の暴力性を突き付けられる。早く直してしまいたい。でなければ、同じだ、自分も、あのDomと。
Dom性に絶望することは母を否定することだった。それに気がついてからは、傍聴席から見た顔をなるべく頭から追い出すようにした。母親からその性の圧力の片鱗を感じたことはなかった。まだローに発露がなかったからわからなかっただけかもしれないが。父との暮らしは穏やかで、二人ともそれぞれの医学に真摯だった。母が完璧にコントロールできていたのだとしたら、自分にもできるはずだった。そしてそれは、制御のないDom患者の治療にもつながる。だからローは目指す分野を変えたのだ。
「おかしなことがないなら何よりだ。あんたの前でダイナミクスが乱れるのは二度目だな。それについては謝罪する。おれのことなら、自分のメンテナンスも仕事のうちだ、医者だからな」
「謝るこたねぇが、医者だって人間だろう」
「だからカウンセリングも服薬も欠かさない」
スモーカーはむず、と動く唇を一度引き締めて、言おうかやめようか迷うような仕草をして、口を開いた。もう顔はそらさなかった。
「飯でも、と言ったのがまずかったなら、おれこそ謝らなきゃならねぇ。部下が些細なことでも飯を奢れと言ってくるから、それしか思いつかなかった」
「おれはあんたの部下じゃねぇし、礼はいいと言ったろ。あんたの調子を整えるのは業務だ。世話になっているなんて考えなくていいし、体調がよくなってきていることは、正直に嬉しい」
「嬉しいのか」
「そりゃ、仕事がうまくいったってことだからな」
だから服薬は遵守してほしい、と続けた。他人のダイナミクスの心配をするなどと、初日の患者からは欠片も想像できなかった。これも進歩だと考えればいい。調整の賜物だろう。他意はないと明言されたからか、いくらか気分が軽かった。診察後には臨時のケア外来も設定している。さらに三日後の金曜は定期のケア外来と、退院を早めたかわりの集中プログラムだ。そこでリワードによるリセットがうまくいけば、もうポケットを見ることも、おかしな行動もなくなる。
「先生でも」
一度言いかけて、スモーカーは言葉を変えた。
「いや、Domでも、調子を崩すことがあるんだな」
「もちろんある。Dom性もSub性も、ホルモンの分泌によるものだ。どちらだってそれが乱れれば調子が悪くなることはある。あんたのまわりのDomは……あまりそういうことはなさそうだな」
補佐の顔が浮かんだ。受診もカウンセリングも定期的に受けていると言っていた。女性は生理などにも左右されるが、近年では生理休暇なる制度が用意されている職場もあると聞く。何より、たしぎは第二性を整えておくことに気を遣いそうだった。整っていなければ職務を果たすことは難しいだろう。仕事に真面目で、誇りがあるように見えた。
「おれが鈍いのか、たしぎがおかしなところは見たことがねぇし、今まで見た他のDomはもっと偉そうな奴が多くて、具合が悪くなるなんてことは考えたことがなかった」
ひと昔前であれば、一般の認識はほとんどそうだった。凶悪な事件を起こした犯人がたとえばDomだったら、それはDom性を持つ人間すべての心象を悪くする。Dom性と凶悪犯罪の相互関係についてはまた別の専門分野だが、被害者がSubの事件においては特にその数が多いことはデータでも示されている。だから誰もダイナミクスを明かさない。
現在は、Domも調整が必要な性だと認識されている。GlareはDomの不調のひとつ。攻撃性が高いのは自分やパートナーを守る行動だから。多くのDomはダイナミクスを持たない人間と同じく、人間性に問題がないと知られている。凶悪犯罪を起こすSubもいるし、その被害をDomが受けることもあると改められてきた。
この男だって仕事には熱心なのであろうと思う。それなのに乗船停止になるまで己の性と向き合ってこなかったのは、本人の知識不足と、同じような第二性の人間ばかりに囲まれた生育環境だったと推測できる。スモーカーにとっては、たしぎの方が珍しい例なのだ。
「昔に比べて薬の種類も増えたし治療も多岐にわたるようにはなったが、調整をしないDomもSubもまだ存在する。あんたは今後、Sub性のコントロールを得ることができる。たしぎさんと同じように、働けるようになる」
「そうか」
「鈍いということについては否定しないがな。思い返してみれば昔から不調だったということはないのか」
「わからねぇ。眠れないのは昔からだ」
最初のケア外来で見せた、いまや時代錯誤といってもいいほどの誤認識と、推測される生育環境から、その鈍さで身を守ってきたのかもしれない。限界までドロップしなかったことからしても。
「頭痛と食欲不振は突然出たのか」
「突然てこたねぇんだが」
「ここを受診する時に、少なくとも以前よりひどくなった自覚があったんだな」
スモーカーは頷いた。その辺りのきっかけを聞き出すのはカウンセリングに任せた方が賢明かもしれない。ダイナミクスの診療は、たかが数回の受診ですべてを把握することはできない。患者の育ちや人間関係、男女性にもまつわるひどくプライベートな背景が絡むからだ。
「わかった。話してくれてありがとう。薬はしばらくこのまま続ける。次の診察は一か月後、間でカウンセリングとケア外来を挟むが、薬は一か月分出す。また調子を聞かせてほしい」
診療に集中すると自分の輪郭を掴み直せるのがありありとわかった。やはり患者とのやり取りは病院に限る。カルテを更新してローは診察の終了を告げた。スモーカーはもうふんぞり返ってはいなかった。まっすぐ伸ばした背を少し前に傾け、机に乗せた片腕の手は開かれて、リラックスした姿勢だった。
患者の退室後、カルテをさらに書き足し次の患者を呼ぶ準備をしている間に看護師から声がかかった。開業医から患者の紹介を受ける地域連携室からの連絡。
「受けていい件かどうか判断しかねるので先生に相談なんですが」
担当者が読み上げた紹介状の内容は看取りの依頼のように聞こえた。施設入所、高次脳機能障害のあるSubの女性。他院にて肺の悪性腫瘍の告知済みであり、悪くなったり持ち直したりの呼吸不全を繰り返しながら徐々に弱っていく終末期を酸素投与と疼痛緩和で過ごしていると。施設名は聞き慣れないものだったが、いわゆるホスピスと括られる所だと電話口で説明された。
当院の受診歴はない。施設入所までの経緯がわからないうえ腫瘍の病態についても情報がない。なぜ問い合わせがきたのか問うと、ダイナミクスの管理が困難だと施設側は主張しているらしい。
「元々の高次脳機能障害からくる認知症が進行して、介護スタッフの指示もコマンドと認識して従おうとしたり、せん妄様の行動が目立つそうです。施設ではドロップとの違いも判断が難しく、ダイナミクスの薬剤調整依頼と、できれば看取りまでもという話のようなんですが……」
正直なところ、看取りの近い状態を想定すると薬疹に注意しながら投与量を上げていくくらいしか、できることが少ない。コマンドを使ったプレイは体が動かなければ成り立つものが少なく、認知機能の低下も著しいとなると入りにくいと考えられる。コマンドに答えられないと認識させてしまえば容易にドロップを引き起こす。せん妄も、となると役割行動療法の導入には慎重にならざるを得ない。残念なことだが。
「うちは急性期病院だ。主病の病態がわからないが、問題がダイナミクスに限定できるものでないうえ、終末期でその状態とするとうちでもできることは限られる。看取りならホスピスの方が専門だろうし、もし、せん妄様の行動が痛みからくるものなら、家族の同意を得て鎮静していくものじゃないかと思うが、そこはおれでは専門外だ、悪性腫瘍の専門科と相談してもらうしかない」
平たく言うと受け入れは難しいということだ。病床数に限りがある以上、何から何まで受け入れることは不可能で、こういう事例も度々存在する。担当者はちょっと待ってくださいと慌ててメモを取るような音を立て、数分考え込んだのちに、わかりましたと電話を切った。時計を見る、次の患者を待たせている。急いでカルテを用意し、受付番号を読み上げた。
スモーカーの臨時ケア外来はその日最後の枠で取っていた。診察との間に時間ができてしまうことは退院時に伝えてある。一時院病院を離れていたらしい患者は、珈琲と煙草の臭いをさせて戻ってきた。
「吸ったな」
「院外でな。禁止じゃねぇんだろう」
やめようという気は一本分もないらしい。期待もしていなかったがこれに関してはどの患者が同じことをしても多少はがっかりする。せめてもう少し消臭してから来院するとか、隠そうという気くらい持ち合わせてほしいところだ。
月曜の朝、あのままペンギンの手でクリーニングに出され、それでもなお臭い気がすると、今朝、看護師に消臭剤をふりかけられ、乾かされた後に真四角に畳まれた上着はアパレルショップのビニールバッグに入れられて相談室に用意されていた。渡すと、スモーカーは怪訝な顔をした。忘れていたらしい。
「クリーニングしてもらったのか。すまん」
そう頭を掻く患者との役割行動療法は二回目。コマンドひとつで終わった前回からひとつ進み、別のコマンドを二つ試すのが通常だ。
ローは自身の手首を確かめた。平常時の脈だ、安定はしている。外来業務の終わりが近い院内は会計を終え駐車場へと向かう患者が一人、また一人と正面玄関を後にして、人の気配がまばらになっていた。相談室の中は前回と異なり蛍光灯の明かりに頼っている。徐々に濃紺に飲まれつつある空色と、落ちたばかりの陽が残す薄い橙が窓枠を絵のように見せていた。
始まりの姿勢を取るとスモーカーは背筋を伸ばした。ここでは多少の緊張感は必要なこと。集中力を高めてくれる。
「まず、説明する。話を聞く間はここを見ていていい」
コマンドを使わず胸ポケットを指した。
「前回とは違うコマンドを二つ試す。ひとつは“take”。もうひとつは“sit”や“say”になると思うが、ひとつ目の様子を見ながらこちらで決めさせてもらいたい。任せてもらえるか」
「わかった、先生に任せる」
「ありがとう。話に集中できているな。今日のプログラムを始める前に、あんたが気にしていたリワードを渡そう」
思っていたほどスモーカーの視線は固定されていなかった。ポケットまわりを見てはいるようだったが二度ほど目が揺れたのを認めた。誤差の範囲と言える程度だ。気もそぞろという風でもなく、耳はこちらに注意が向いていたよう。
「“good”、よく見ていたしよく聞いていたと思う、上出来だ。もう見ていなくて大丈夫だ」
Gの発音をわずかに強く、リワードを出すと、前回と似たような反応があった。椅子の足を浮かせるほどの体動とそれに伴う音があって、しかし立ち上がることは堪えたらしい。ぐっと自らの膝を掴んでスモーカーは押さえつけた。持ち上がった下半身が座面に戻り、がたがたと貧乏ゆすりのように足が動く。すぐに止まったが、不随意な体の動きに「なんなんだ」と零れた混乱。患者の脈を測ると診察時より大幅に走っている。リワードは入った。コマンドを前提としていなかったのにローの心拍と体温は緩やかに上がっていた。それに引き換えスモーカーは心地よさを得ているようには見えない。元々コマンドを使ったプレイに対する嫌悪を抱いていたところへもたらされた二度目の成功体験。ホルモンのはたらきに、心理的な部分が追いついていないのかもしれなかった。
SubもDomも個人差が大きい。コマンドの入りやすさも体質に左右される部分が少なからずある。薬の方が効果が高い者もいる。前回、それまでほとんどしてこなかったプレイをスモーカーは順調にこなした。胸元を見る動作を引きずっていたことからも、コマンドに対する感度は高い方だという予測が立つ。だが経験が少ないからそうなのか、生まれ持った体質か、まだ断定できる段階ではなかった。
「違和感がある時は教えてくれ。ケア外来は無理に進める必要はない。コンディションによっては中断できる」
患者の返事を待つ間にカルテを打つ。患者背景についていくつか確認を試みてほしい項目をカウンセラーにわかるように。
「続けてくれ」
返事ははっきりしていた。ローは頷いてメトロノームを動かした。スモーカーが自然と呼吸のペースを合わせる。スムーズだし違和感もない。同じように呼吸を調節しながら、メトロノームの隣に置いてある小さな箱からビー玉を二つ取り出し、机に置く。不安定に転がりかけた二つは離れた位置で止まった。
「おれは今からあっちに座る」
前に使わなかったソファを指した。セットのローテーブルには積み木に似た箱を出してあった。ビー玉迷路や組み換え迷路と呼ばれる木製の知育玩具。昔好んで作っていたからくり装置は空き箱や文房具を用いるので設置も片付けも手間なうえ、ある程度広い場所が必要になる。ケア外来では既製の似たようなものを使っていた。片付けも楽にできて、子どもの患者の興味も引きやすい。組み方で立体的に使うこともでき、動きがあるから視線の誘導にも役立つ。
「あれはビー玉を転がしてゴールを目指すものなんだが、このビー玉を、おれのところまで持ってきてほしい。できるか?」
「わかった」
天井の蛍光灯を反射する赤と黄色の透けた玉をスモーカーは大きな手で握った。セーフワードは前回と同じ。ローはたっぷりとした歩みで移動した。メトロノームがゆったりと部屋全体に一定のテンポを響かせている。座面に深く腰掛け、箱を膝に乗せてローは口を開いた。
「始めるぞ。ビー玉をここへ持ってきてくれ。“take”」
スモーカーは神妙に頷いて立ち上がった。固く握った拳の中に小さなビー玉を二つしっかりと包み、のしのしと一歩ずつ歩く姿はあのボールペンのモデルになった動物のようだ。一歩ずつ確かめるようにしているのは、呼吸がずれないように気を遣っているからだろう。その大きな足がたどっているのは、先ほどローが歩いた足跡の上。見えないそれをそらでなぞっていると理解したら脈がまた上がった。Subが無意識に取った行動にDomの血液が騒ぎ出し指先まで行き渡る。目の前まで来た男を見上げる頃には顔がぽかぽかと暖かかった。
「持って来たぞ、先生」
「ここへ入れてくれ」
玩具のスタート地点となる窪みを指すと、ビー玉を指でつまんで恐る恐るそこへ。この男には小さすぎたか。力を入れすぎないよう慎重にひとつひとつ、スモーカーは高い集中力をもってそれを成し遂げた。ころんとあたたかみのある木の音が二つ落ちる。
「“good”だ、ありがとう」
リワードは目を合わせてから。スモーカーはぶるりと肩を震わせ、長く大きく息をついた。
「そのままで。脈を取る」
差し出された手首では先ほどより少し落ち着いた血流が触れた。たくましく拍動する血管はローのそれと同じように手首、手のひら、指先までの体温を上げている。ローが触って確かめる間もスモーカーの呼吸は一定の速さで。両足は肩幅に開かれしっかりと地面を捉えており体重のかけ方もなんら問題はない。震えが現れることと不随意に体が動くことには再現性があった。この患者特有のコマンドに対する反応とみていいだろう。いいか悪いかの判断はまた別だ。再びスモーカーの顔を見ると相変わらず眉間に皺を寄せてはいたが表情は悪くなかった。
「気分は悪くないか」
「ねぇな。体が熱い」
「冷や汗が出たりは?」
「してねぇよ」
「そうか。呼吸も合っていて順調だ。これは迷路なんだが、似たようなものをダイナミクス以外の治療にも使ったりする。ただの玩具に見えるがな」
スモーカーの目線をそこへ誘導し、ローはビー玉を転がした。手に持った平面迷路を前後左右へ傾けながら、二つのビー玉に揃って順路を往かせる。立ったまま高い位置からそれを見ていた頭は、玉が転がり進むにつれ少しずつ近寄ってきた。首が、背中が、腰が少しずつ屈み盤面に吸い寄せられるように。白髪がローの頭とぶつかりそうなほどの位置まで。
「スタートとゴールがあって過程がある。無心でもできるし考え事もできる。やってみるか?」
「わかった」
「じゃあ次のコマンドを出す。“sit”、ここへ座って」
ローは隣の座面を軽く叩いてみせた。スモーカーは丁寧に一度ローの目を見てから再び頷き、体を起こしてそこへ座った。患者が見続けているなか、ローはビー玉を取り出しブロックを組み替えた。先ほどとは違う道ができる。木の箱をスモーカーの膝に置いて、リワードを出した。
「“good”だ、なんの問題もない。完璧だ」
かたんと揺れた膝の上の物をスモーカーは慌てて押さえた。浅い箱は縁が低く、さっきのように大きな体動をすればブロックが転がり落ちてしまう。両膝を内側へぎゅっとしていた患者は落とさなかったことに安堵していた。スタート位置にビー玉を戻し、ゴール位置はここ、とローは促した。
両手で箱を持ち上げたスモーカーはローの真似をして傾けた。ごろ、と転がったものはカーブにそって曲がってゆくが片方だけが先に行ってしまいもう片方がついてこない。戻して、合流させて、また傾ける。ゆるい曲線では揃って転がるガラス玉は、きついカーブに差し掛かると離れ離れに。二つ揃えて転がすには意外とコツがいる。勢いをつけすぎるとコースアウトするし、慎重すぎてもうまくいかない。
「うまくいかなくていい、評価はない。コースをはずれたら、そこからやり直していい。途中でやめてもいいが、ゴールするとちょっとした達成感だ」
繊細さを求められるようなことが得意そうには見えない。スモーカーはじっとそこに集中したまま耳だけで話を聞いて、引き続きビー玉を転がした。ごろごろごろ、と重なる二つの音はメトロノームには合っていないが不快感はない。追いたてられるほどの速さもない。ついたり離れたりの二つがゴールの手前、U字状のカーブに入る。スモーカーは息をひそめ、目線と箱をほとんど同じ高さにして無事に転がしきった。
「できたぞ」
「よし」
さして表情には出ていなかったが心なしか得意気に聞こえたのは、二度のコマンド成立による互いの高まりから。医師によって行動療法に使う道具は様々。ローはこの玩具を好んでいた。無言の時間が長くなっても自然で、集中もでき、子どもの患者からおとなまで対応できる。ゴールできなくてもいいという体験はプレイの信頼感に厚みを生む。
赤と黄色の玉をつまんで手のひらに乗せ、スモーカーはこちらへ差し出した。ローはそれを受け取らず席を立ち、元のパソコンの前へ戻る。五分ほど早いが時間だ。メトロノームを止めた。
「そろそろ終わりだ。片付けるから、こっちへ“take”、持ってきてくれ」
最後のコマンドは予告をしなかった。宙ぶらりんに上げたままの手の上で光る赤と同じ目が少し開いたが、患者はすぐに承知したとばかりに立ち上がってビー玉を机の上に戻した。膝に乗せていた木箱も並べてそこへ置く。患者が元の椅子にかけると始まりの位置に収まった。指針がなくとも呼吸は合っている。
「“good”、ありがとう、対応できている、上出来だ」
木製のブロックはぶつかると思いのほか大きな音が立つ。跳ねる膝を抑えようとした手は箱を返した。道は崩れ立方体が机と床に衝突する音がいくつも転がる。不安定に二つ寄り添っていたビー玉は落ちてワックスのきいた床を転がり、ひとつはローの足元で止まったがもうひとつはソファの下に潜った。
「大丈夫か」
「くそ、先生すまん」
「謝る必要はない。再現性の確認をしたかった」
シューズをこんと突いた赤玉を拾い上げ、ローはスモーカーとブロックを集めた。ソファは二人で持ち上げると簡単に浮く。随分前に転がり込んだであろう緑色のビー玉と、他にも何かのパーツのようなものが取れたし、ここは掃除をした方がよさそうだった。
「再現性ってなんだ」
「最初もそうだったが、リワードを受け取ると意識とは別で筋肉が動くだろう。原因がわからないが必ずそうなるのかをまず確認したかった」
スポーツバーの夜、ドロップしたスモーカーにコマンドを使用した際は不穏に備えて他の医師が両足を押さえていた。点滴を刺していた腕が落ちたのを看護師が戻したことを覚えている。多くのスタッフがバタバタして処置ベッドも揺れていたし、ドロップ症状のひとつに痙攣もあるため大して意識していなかったが。
「やっぱり、なにかおかしいのか」
「わからないが、重篤な病気や緊急性のあるものではないと思っている。プレイそのものに不慣れで体が驚いているだけかもしれないしな。起こるとわかっていれば、リワードを出す際にこちらが気を付ければいいだけで、あまり気にしなくて大丈夫だ」
「そうか」
「ご苦労だったな、無事終了だ。この間みたいなこともあるから念のためもう一度リワードを出しておくか?」
「いや、いい」
体動が起きるとわかったばかりだ、断るのも無理はない。スモーカーの顔色はよし、脈もいいリズムで打っており、体温は常より暖かいまま保たれていた。眉間の皺も取れている。肌に少し赤みが差して軽い運動後のよう。心地よい疲労感。ローが感じているのと同じものだった。
三日後の金曜にまたケア外来へ来ること、帰りに採血を取ってほしいことを伝え、患者を解放した。ローにとっては日常のひとつだが、スモーカーには長い一日だっただろう。やっと帰れる、とひとちごちて、またシロクマのような足取りで採血室へと歩いて行った。
最後の患者を送り出し、日暮れとともに薄暗くなった相談室にはビニールバッグが残されていた。三十分ほど前に返したばかりの上着。ローは掴んで走った。煙の染みついた忘れ物を預かるのはこりごりだった。階段を駆け下りて、もう閉まっている採血室の自動ドアに手をかざすところだった患者を呼び止める。
「また忘れてるぞ」
「ああ」
週間予報では冬に向け日に日に最低気温を更新し始めている。
「寒くなるらしいから、必要だろう」
「ああ、まぁ、寒いのは別に苦じゃねぇんだ」
「その、気を遣わせてすまなかった、ありがとう」
「何もしてねぇよ」
採血室の扉は中から開いた。顔を出したのはイッカクだ。
「はいはい、もう閉める時間になりますからね。あら先生、お疲れ様です」
スモーカーの手に患者ファイルを認めた採血室の看護師は素早くそれを取り上げた。ローに軽く会釈して、大きな背中を遠慮もなくぐいぐい押して患者を中へ連れて行く。会釈を返して二階へ戻ろうとしたローを、彼女は見逃さなかった。
「先生も!ついでだから採りましょ!」
「いや、おれは」
「定期検査飛ばしてから採血してないでしょ。次の定期まで待ってあげてたんですけどね、ペンギンが心配してましたから。ほら早く」
言われてしまえば逆らうという選択肢などない。ロビンにしろペンギンにしろ、人の体調をあちこちで吹聴するなと言ってやりたいが、それだけ心配をかけているのだと思うとおとなしく口を閉じるしかない。このところ、体調のコントロールがままならないことが続き振り回されていたのは確かだ。
看護師も退勤だから早く、と催促されて仕方なくスモーカーの隣のブースに座る。袖をまくって太い腕をすでに出していた男は目を丸くした。
「先生も血を採られるのか」
「吸血鬼みたいに言うんじゃねぇ。定期検査も仕事のうちだ」
「じゃあ仕事さぼってたってことですね先生」
イッカクの嫌味が刺さる。そのにこやかな顔から目を逸らし、すまんと小さく呟いて、次回の定期検査はアラームでもかけておこうと思った。思いついたままに白衣のポケットに手を入れスマートフォンに触れると、ここ二日間で何度も重ねたため息が漏れた。真っ黒なまま機能を停止しているそれを修理に出さなければアラームはかけられない。
「先生も針は苦手か」
肩を落としたのを勘違いしたのか、スモーカーはアルコール綿で拭かれている自分の腕から顔をそらしローを見ていた。
「違ぇよ。安心しろ、イッカクは刺すのが上手いから」
「そうか」
頷きはしたがそこを見ないあたり穿刺が苦手そうだという予想は当たっているらしい。何度も針を刺して悪いなと言ってやると、ばつの悪そうな顔になった。
「先生は」
「はい終わり!次先生ですよ、腕出して」
「もう終わったのか」
採血ブースの机は衝立で仕切られているためローからは見えなかったが痛みを感じる間もなく終わったらしい。採血管を軽く振りながら、イッカクはスモーカーの腕を絞めていたゴムバンドを解いた。スモーカーは心底驚いた様子でパッチを貼られたところを押さえる。
「患者さん、次の採血も私だといいですね。すぐ終わらせてあげますよ」
「そうだと助かる」
先生、と催促されてローも拳を握った腕を出した。先生のは痛くしておきますね、なんて言いながら長く勤める看護師は正確で痛みのない穿刺をする。痺れるところはないかと確認するのは相手が誰であれ染み付いているルーチン。あっという間に三本分の血液は溜まった。
大の男が揃って採血された腕を圧迫する姿はさぞ間抜けだと思う。院内ではそう珍しくもないが、自分が患者と同じ立場になると極力見られたくないもの。しかし採血室から出たところで、ローの願いはむなしく別の患者に呼び止められた。先生、と重なった二つは嵐の土曜に入院したDomの子どもと母親だった。入院後の経過は順調で血液の数値も改善しており、あの夜以来Glareは出ていない。今はGlare教育プログラムを受けながら、退院に向かっているところ。幼児ではないので母親は泊まり込みではないが、それでも毎日病棟を訪れていることは知っていた。
「先生も採血ですか?」
「まぁな。プログラムは順調そうだな」
「はい」
Glare教育プログラムは認知行動療法とアンガーマネジメントの手法を用い、Glareが出やすい場面をこれまでの症例なども使いながら学び、自らのGlareを振り返って感覚を掴んでいくことを目的とする。ダイナミクスがまだ不安定な若い時には定期的なカウンセリングの中に組み込まれていることも多い。専門科ではGlareを出したことがきっかけで入院したDomに対し、カウンセリングとは別で集中的に行われる。この患者の場合、苛立ちより焦りや不安のコントロールが課題だったが、カウンセラーとの相性が良いようで順調だとカルテに記載されていた。
ローはこのプログラムを苦手としていた。自分のカウンセリングはここ数年ペンギンに任せきりだがこれだけを取り出してやってもらったことはほとんどない。怒りの行き着く先が、いつも同じところだから。
「担任の先生に試験日程も何とかしていただいて、おかげで落ち着いて治療を受けることができています。診断書をありがとうございました」
親子関係に問題がないのも治療の大きな手助けとなっている。発現のない親の場合、ダイナミクスを持つ子どもの行動理解に苦労することも多いのだが、この母親は自らの父がDom性であり、そのGlareに苦労した経験があったことから、ずいぶん勉強もしているらしく、子どものプログラムに立ち会っている。
「大丈夫だ。この調子なら週末の退院で調整できるから、もう少しがんばろうな」
「はい。先生に、学校でGlareを出したら大変だって言われて、プログラムを受けて確かにそうだなと思いました。勉強はまた頑張ります」
体をしっかり整えて冬休みに臨めば受験勉強も追い上げられる。入院中も学校の課題はやっていると看護師の記録にあった。
夜食を買いに院内のコンビニに行くという親子を見送った。育ち盛りには病院食では足りないのだろう。ホルモンの値以外は年相応の血液データであるため食事制限はしていない。食欲があるのはいいことだ。
壁のように彼らとのやり取りを黙って見ていたスモーカーを、業務終了の準備を始めた警備員がちらちらと見ていた。
「もう閉まるから、あんたも会計に行った方がいい。上着はありがとう、今日は長時間ご苦労だったな」
「Glareってのは訓練みてぇなことができるのか」
「それで完璧ってことはねぇがな。そういうプログラムがある」
「色々あるんだな」
「そうだ、みんな自分の第二性と色んな方法で向き合っている」
さっきローが駆け下りた階段を、二階の外来看護師が走ってきた。見つけられてよかったと差し出された手でPHSが鳴っている。預けたままにしていたもの。礼を言って受け取りながら、スモーカーに「また金曜」と告げた。男も挨拶代わりに片手を上げる。
「またな先生。ああ、ボールペン、診察室に忘れてるぞ」
もらったものなんだろう、と言うだけ言って、通話ボタンを押したローの返事を待つことなく会計に向かった患者の背中を呆然と眺めた。電話の向こうから先生、と呼ばれて我に返る。喉がつっかえておかしな音で返事をした。
通話先はさっきの連携室スタッフだった。取り込み中かという問いに大丈夫だと返す。本当に大丈夫かは後で再考せねばわからない。ただの親切にしては違和感があったのは、あの男がいちいち人のボールペンがきちんとそこにあるかどうかなんて細かいことを気にするような人間でないように思うからだ。
「先生?」
「すまん、なんだ」
「さっきの施設から再度の連絡なんですが」
やはり第二性の薬剤調整を引き受けてほしいという旨だった。看取りは当初の計画通り施設で行うのでダイナミクスの調整をとのこと。疼痛コントロールはできていると伝えられた。緩和ケアを受ける患者の予後は一~二か月であることがほとんどだ。だが最期の時まで身体機能を保って生活できるようリハビリが行われる。リハビリ指導をコマンドとして取ってしまうのを抑えたい、そこまで調整できれば元の施設へ再転院でいいということだった。呼吸や歩行訓練をコマンドとして受け取られるのでは確かに各部門のスタッフが困ってしまう。
ローは一度通話を保留し科長に相談、短期の薬剤調整で元の施設へ戻ることを目標に引き受けることで合意した。緩和ケア施設からの転院など滅多にない症例だ。病棟にもそのように連絡を入れる。レジデントにも声をかけ、一緒に担当するよう伝えた。
「短期の薬剤調整で受け入れする。転院の手続きをしてくれ。明日か明後日、先方の都合のつく方でいい。ベッドは明日午前中には空けてくれるそうだ」
「助かります先生。ありがとうございます」
連携室スタッフに伝えると感謝された。最初の連絡からずっと、今日はこの件に振り回されていたらしかった。
しかしその後当直勤務に入り、明けた水曜の昼過ぎ、ローの元に入ったのは、患者家族の意向により転院を見合わせたという連絡だった。それ以上の詳細は伝えられなかったが、家族から見て、本人を動かすことが相当な負担になると思ったのかもしれない。直接診ていないものは何の判断もできないが、終末期で認知症も進んでいるとなると、もう何もかもやめてくれと家族が鎮静を希望することだってある。患者と家族の意志は優先される。ローは受け入れ調整に尽力してくれた各所に断りの連絡を入れた。こうやって、来るというものが来なかったり、来ない予定のものが突然来たり、医療機関ではよく起こることではある。皆多少のやるせなさを抱えながらも、目の前の患者に次々取り組んでいる。ローもまた。学生のGlare教育プログラムと併走しながら、同じ夜から入院している女性のカルテもロビンと共有している。短期間で二度ドロップした彼女は、十日間の入院で診療計画が作成されていた。パートナーが変わらず協力的なおかげで回復に向かっているが油断は禁物だ。救急での誤解は解けたが、ローはこの件に関してほとんど後方支援のような形で診療に当たっている。以前のドロップをあまり覚えていないこともあり、患者は女性医師のロビンと良好な関係を築くことができていた。
水曜の救急当番は静かなもので、定時をわずか超えた時間にローが勤務を終えると通用口でシャチが待っていた。連れ立って訪れたのは携帯電話のショップ。カボチャとオバケの貼られた窓ガラスを背に二人、四角いソファで順番を待つ。予約のない来店は受付まで時間がかかるようだった。
「オンラインでも修理依頼できるんですけどね、面倒でしょどうせ」
「助かる」
何度も触ってしまうくせに後回しにしていた。優先度としては高くはないのだ。日ごろから連絡を取り合っている者は病院にいればつかまる場合がほとんどで、たまに連絡をしてくるような実家もない。そういえばドフラミンゴに返信するのを忘れていた。デリンジャーからの電話は日曜。三日の間に催促の連絡があったかもしれない。
「ドフラミンゴに返信してねぇの忘れてたな」
「えっ!また、あんたは!知りませんよ」
「まぁ、別に」
「代替機もらったらすぐしてくださいよ、そのうち病院に来ちゃいますよ」
それはさすがに避けたい。あの男は目立ちすぎる。堅気なのだが、スーツとサングラスとセットの巨体は世間にはそうとは映らない。見た目だけで人間を判断するのもどうかと思うがあれを見れば十中八九、人に言えない職業をイメージする。サングラスを常用しているのは目が光に弱いのと、本人にそのつもりはないのに目線にGlareの圧迫感があるから。ドフラミンゴの血液はDomのホルモン値が異常に高い。母親譲りの体質らしい。カルテを見たことがないからどこまで正確かわからないが、病気を抱える網膜を庇う形で微量のGlareが漏れているという話だった。
「さすがに職場まで押しかけては来ないと思うが……」
「そうならないようにしてくださいねってことですよ」
発現してからペンギンはドフラミンゴが苦手になってしまった。それまではローの幼馴染としてごく普通の近所付き合いをしていた。それはローがドンキホーテ家に引き取られてからもそうだったのだが、遊びに来ていた時に一度、運悪くサングラスが落ちてしまったことがあったのだ。以来ペンギンが来るときはドフラミンゴは席を外すようになった。
「終わったら飯行きましょ」
雑誌の表面に目を滑らせながらシャチが言う。一枚つまんだカラーページには「秋の味覚 和食特集」の文字。ぱりっと割れた秋刀魚の皮の上で、真っ白なおろしと抱き合うもみじおろし。こんにゃくと人参とひしめき合うキノコが椀に浮かぶ。大ぶりな陶磁の茶碗では白米の間からサツマイモの黄金が顔をのぞかせ、黒ゴマで化粧されている。一気に飛び込んできた写真に胃袋が不満を鳴らした。
「ペンは?」
「今日は出かけるって。もしかするとデートじゃねぇかな」
「えっ」
「あれ聞いてない?隠してる風じゃなかったんだけどな。言うタイミングなかったんすかね」
それぞれがいい大人だ。多忙で時間が取りにくいということはあっても、ペンギンに恋人ができたことは、これまでにも何度かあった。面倒見もよく気配りのできる友人だから、そのいいところを見つけてくれる人が、昔からよく知っている自分たち以外にもいてくれるというのは悪くない。
「そういえば日曜も出かけてたって言ってたな」
「あーたぶんそれ、そうだと思う。おれ断られたもん、その日」
デート帰りだったのにわざわざ寄ってくれたのか。それを知ると申し訳なさが倍増した。この先、これまでよりもさらに自分の手綱をしっかり握らなければ。あまりペンギンを頼りすぎるのは、彼の人生の足を引っ張ることになる。シャチの雑誌を横から覗きながら、ひとつ前の順番で待っている人が呼ばれるのをローは聞いていた。ここでは患者のように、自分も呼ばれるのをただ待っている。
三日ぶりにまともに動く端末を手に入れ、腹いっぱい秋の味覚を食べて、ローは機嫌よく帰路についた。深夜の路上は肌寒く、いつかの日のようにリュックの紐とジャケットの前を一緒に握るくらいではそろそろ厳しい。明日からはもう一枚、薄手のアウターを荷物に入れておこう。クローゼットの秋冬物を思い浮かべながら、自宅近くのコンビニに足を向ける。ここは日曜にスモーカーを待たせたところで、昼も夜も結構な頻度で訪れるため、直接声をかけ合うようなことはないものの、まず間違いなく店員に顔を把握されているであろう店舗。徒歩移動のローはあちこちで買い物をするのが面倒で、洗濯洗剤もシンクで使うスポンジも、床の埃を拭くドライシートもトイレットペーパーもここで買う。そろそろシャンプーがきれそうだったと自動ドアをくぐった。
ついでにコンディショナーとゴミ袋、ヨーグルトの支払いを済ませると、ローの顔を見た店員は初めて声をかけてきた。
「あの、いつも来る方ですよね」
「なんだ?」
「顎髭と二連ピアスの常連さんにって預かっている物があって」
レジカウンターの内側から出てきたのは、きちりと折り畳まれた紙袋。見覚えのある焼き菓子のロゴマークが乗る厚い紙の表面は少し波打っている。濡れて乾いた跡のような。
「日曜日に落とし物って預かったんですよ」
「誰に?」
「誰だったかな。シフトが別の人間だったので、今すぐにはわからないんですけど。ただの紙袋だから、取りに来なかったら処分していいって言われてました」
鍵や財布は引き渡しにサインがいるんですけど、と言いながら商品をビニール袋に手早く詰めて店員はそれを手渡してくれる。
ローは首を傾げた。スモーカーが持っていたものだと思う。そしてきっともう必要ない。あの男はどこまでこれを持っていたっけ。最後に見たのはスポーツバーを出たところで、ローは電話をしながら歩いたから、まったく記憶になかった。
「どうします?処分でいいですか」
「ああ、そうしてもらっていいか」
どうせ忘れているだろう。一応金曜に報告だけしてやるか。ちらりと目をやった店員の背後は番号を振られ律儀に整列している煙草の箱。左下あたりの箱がスモーカーの吸っているやつだろう。片手で足りる回数だけ買ったことのある、記憶の煙は六四番。今日は必要ない。要る物だけをぶら下げて、ローは店を出た。
そうして「またな」と結んだはずの金曜日、時間になってもスモーカーは来院しなかった。
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