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うよ
2023-10-22 10:59:01
18658文字
Public
サブドムスモロ
サブドムスモロ4
Xにあげているsub🚬とdom🐯のスモロ。ロ誕~スモやん退院
僕はSubでないからその欲求がどんな感覚なのかわからないけど、母様に対して跪くことには何の違和感もないんだよ。
リビングで眠ってしまった母と妹に毛布をかけるとき、膝をついてその顔を眺めていた父の姿をよく覚えている。部屋の一角に動物柄のマットが敷かれていて、作りかけのルーブ・ゴールドバーグ・マシンを置いておいてもいいスペースがあった。そこで新しい仕掛けを試しながら、家族と同じ空間にいるのが、子どもの頃の常だった。
先日に続き家族の夢を見るのは、年に一度の今日と、その先にある日が近づいているからだ。滅多に鳴らないスマートフォンが時折メッセージの到着を知らせてくるのをひとつずつ開いて、返す。出勤後すぐからかけられる「おめでとう」に礼を述べる。ロッカーに掛けられた、ペンギンとシャチからのプレゼントを開ける。外来スタッフやカウンセラーがみんなで用意してくれた焼き菓子を受け取る。恒常化して三年になる。
「先生、少しだけ病棟に上がれますか」
午後のケア外来を三件終えて、次の予約まで三十分ほどの空きができたタイミングだった。金曜は看護師に預けているPHSにコールがあったらしい。用向きはわかる。病棟スタッフが用意しているものを取りに来いということだろう。
研修医だった頃に別の病院を一年ずつ経験して以降は北部総合病院にずっと勤務するローは、よそがどうなのかよく知らない。それにしても、ここはかなりアットホームな職場環境なのではないかと思う。特に所属科は特殊なせいもあって、他科に比べ医師も看護師も異動が少ない。医師の誕生日なぞを祝う習慣が続くくらいの関係性は築けているということ。そのおかげで長く働くスタッフが多いというのはいいことだ。
病棟に上がるエレベーターで、面会に来たたしぎと会った。先日の上司の喫煙について謝罪を受ける。予想通り、部下の一人がこっそり荷物に入れていたらしく、厳しく指導しておきました、と女は眼鏡の位置を正した。該当フロアに到着し、血液検査の結果を伝えるついでにスモーカーの顔とバイタルを見ておくかと病室まで同行した。
「たしちゃーん!」
「おめでとーう!」
「誕生日だぜー!」
病院では聞くことのない、いくつもの破裂音とともに、紙吹雪を浴びせられたのは初めてだ。いや、正確には紙吹雪は初めてではない。病院でされたのが、だ。音を聞きつけて病棟師長が飛んできた。当然だ。
「何をしているんですか!」
「すみません!」
たしぎがお辞儀をするのは早かった。不測の事態に慣れすぎている。だがこの女は、さっき誕生日おめでとうと言われていたのではなかったか。
「たしちゃんが謝ることじゃないんだぜ」
「そうそう、悪いのおれたちだからさ」
「すみませんでしたー!」
並ぶ面子はあのスポーツバーで見たものだ。つまり職場の人間で、スモーカーとたしぎの部下にあたる。奥のベッドではスモーカーが青筋を立てていた。
「おれぁやめろって言ったんだがな
…
」
「まぁまぁスモやん、そんなこと言うなよ」
「毎年恒例なんだ、スモやんにプレゼント渡してもらうの」
布団の上にはサックスブルーの紙袋が置かれている。怒りのあまり声も出なくなった師長の横で、スモーカーにパスコードを横流しした例の爺さんが、まぁまぁ多めにみてやんなよ、と笑っていた。
この爺さんというのはロビンの患者で、Domの妻を亡くしてからというもの、認知機能の低下も相まって服薬を遵守することができず、調子を崩してはたびたび入院する顔だった。介護の手も入ってはいるが、生活動作は自立しており受け答えも一見しっかりしているため、あまり手厚いサービスは適用がない。身寄りはないが、近所付き合いはそこそこできているようで、何かあったときに救急に付き添ってくれているのは向かいの家の者らしかった。時々ちょっとした悪さをやらかす以外は、人はいいので病棟でもおおかた歓迎はされているが、今後さらに弱ってからのことが心配な患者であった。
年を重ねたからといって、ダイナミクスにまつわる欲求や不調から解放されるわけではない。これは一生付き合うものだ。五十代~六十代に差し掛かると、男性ホルモンや女性ホルモンとのバランス、生活環境の変化などにも左右され、それまで安定していたものが急に崩れ始めることもある。ダイナミクスが発現したばかりで調子を崩しやすい十代から高齢者まで、病棟には常に様々な年代の患者が入れ替わり立ち替わりやってくる。
四人部屋の残る二人も何やら楽しげな様子なのを尻目に、ローも呆れ果ててため息をついた。
「それは、退院してから改めてやってもらえるか」
「先生、すまん」
「すまん、じゃないんですよ。たまたま同室の方が落ち着いてらっしゃる状態だからといってやっていいことではありません。それでなくとも、スモーカーさんは無断での病室抜け出し、喫煙とあわせて三回目です!強制退院を検討される行動です!」
師長の言い分はもっともだ。この件は職種をまたいだ全体のカンファレンスに挙がるだろう。血管の一本でも切れそうなこちら側とは反対に、当の部下たちは「スモやん勝手に抜け出したのかよ」「ちゃんと寝てないとダメだぜ」なんて呑気なものだ。日々海の安全を守る、時に命を危ぶむようなこともある仕事というのは、これくらいでないと務まらないのかもしれないが。
強面の上司と真面目な上司にせっつかれ、横から師長にぶつぶつと小言を唱えられ、彼らはのんびりながらも一応は謝意を口にし、ばらまいたものを片付け始めた。先日の夜といい、手慣れている。救助も、片付けも。あの時スモーカーは出入り禁止になっている店舗もあると言っていた。
「あんたも大変だな、上といい、下といい」
クルクルと細く巻かれたピンクと紫の紙テープが髪に絡まるのを指でつまみながら、ローはたしぎを憐れむ。彼女は大変に恐縮していた。
「皆さん悪い人ではないんですが、普通の感覚では推し量れない部分がありまして
……
。先生方には申し訳ありません」
「いや、まぁケガ人が出るようなことじゃないし、誕生日なのに頭を下げてばかりなのはご苦労なことだな。おめでとうございます」
「ありがとうございます
……
」
肩にひっかかっていたテープをたしぎが取ってくれた。乾燥するようになったからか静電気を帯びたものが背中の方にもついていた。
「クマは変えたのか?」
手の中でくしゃくしゃとまとめたものを、同じように集めていた部下の一人に渡したところだった。スモーカーがふと疑問を口にした。ローは胸元に目をやる。今朝包装から出したばかりのボールペンの顔であるクマの耳にもテープが一本引っ掛かっている。
「ああ、毎年新しいのをもらうから、変えるんだ」
「そうか」
「そうだ。どうかしたか?」
いや、と言葉を飲み込んだスモーカーはその先を持たないようだった。今年のボールペンは市内の動物園の開園二十周年を記念したデザインで、軸にはその数字と園の名前が書かれているが上の白クマは昨日まで差していたものとそう変わっていない。そういう細かいことにいちいち気がつきそうには見えないし、ケア外来でのことを思い返しても、リワードは渡しているはずだ。偶々だろうか。
一時的にクマの隣へ戻っていた端末が音を立てた。次の予約の時間だ。ナースステーションからは、先生早く、と呼ばれる。あらかた片付けを終えた部下に、面会時間内に退散するよう言いつけ、ローは病室を出た。スモーカーがたしぎに紙袋を渡す様子と、あとを任せた師長の嫌味を後ろに聞き、自分もスタッフからのプレゼントを受け取る。ひとりに「ぼくらもやりましょうか」とクラッカーを開くジェスチャーをされ、やめてくれと首を振った。
エレベーターで降りる途中、スマートフォンを確認すると朝と同じ通知が二件、うちひとつは礼を一言とスタンプを添えてすぐに返信した。もうひとつの返信は後でしなければらない。メッセージアプリのアイコンはドフラミンゴを示していた。
送られた文字列はすっかり見慣れたもの。事務的に見えるそれは、毎年律儀に送ってくるところがドフラミンゴという男の人間性のあらわれだとローは思っている。画面には誕生日を祝う言葉と、墓参りの候補日が表示されていた。ひとつのメッセージ内に並ぶにはちぐはぐな内容。だが互いの中ではこれでいい。ドフラミンゴは忙しい男だ。一度で済むならその方がいいに決まっているし、様々な複雑を男と共有するローにとっては、幸か不幸かのどちらか片方に転がるようなメッセージより、こうしてバランスが取られている方が淡々と返信できる。ローはスマホをポケットに仕舞って、残る二件のケア外来へ意識を向けた。
夕方、天気がよければ西日にさらされる相談室は蛍光灯ばかりが光って薄暗かった。ここ一週間で一段と季節が進んだせいもあるが、どうやら週末は崩れるらしい。シャチが今度はサッカーを見に行くだかで、わざわざ時間休を使い三十分早くに退勤していった。例の野球チームは、三位のチームがあの翌日に負けを喫したおかげで二位に留まり、そのうち始まるリーグの上位三チームで行われる首位決定戦のようなトーナメントに出られることが決まったそうだ。今日から新しくローの胸元に収まったクマをあわただしく確認しに来てすぐさま帰って行った。その顔を見たおかげでローは薬のことを思い出し、十七時ぎりぎりに調剤室へ。ウニに「珍しいすね」と言われながら、朝マルコに処方してもらったものを受け取る。シャチと観戦に行ったのかと思っていたがどうやらあいつはまた振られたようだ。
薬の用量はほとんど元に戻してもらった。頓服はまだ手元にあるし、昨日のカウンセリングもあって割と調子はいい。今日のケア外来も定期患者ばかりで、あまり荒れなかったのがよかった。
あんな騒動があったから、スモーカーに血液検査の結果を知らせようと思っていたのがすっかり抜けていた。帰っていく面会者がぽつぽつエレベーターを降りてくるのと入れ替わりで、ローは再び病棟に上がった。予定ではスモーカーは今日、カウンセリングと栄養指導を受けているはず。外来患者の空いたところで呼ばれて行われるそれらは、カルテに記録されるのも夕方以降になることが多い。明日のローは昼前に出勤してからの当直入り。スモーカーの退院までに目を通すことはできそうだ。
ノックして入室すると、患者は本を読んだり、ラウンジで面会者と話したり、夕食前の時間を思い思いに過ごしていた。騒がしい集団はたしぎと共に去ったようで、部屋はすっかり静けさを取り戻している。窓側のスモーカーは眼鏡をかけ、新聞を三冊オーバーテーブルに広げていたが、ローの姿を見ると外して眉間を揉んだ。
「目は悪いのか?」
「小さい字がな。だんだん見え辛ぇ。だが老眼ってほどでもねぇらしい」
「眼科にはちゃんと行くんだな」
「まぁ
……
困るからな。それに眼科は職場の嘱託医がいる」
スモーカーは眼鏡のつるを二度、三度と擦っていた。第二性についてももっと早めに受診すればよかったのに、という意図は伝わっているらしい。いや受診はしていたか、内服調整のない整形外科を。
「先生もかけてたろ」
「おれのはただのブルーライトカット」
厚めのレンズは伊達だ。学生の頃から愛用している。後ろめたさから逃れることに失敗した男は無精ひげを掻いた。内科も同じように、すぐ相談できる医師が配置されているか、提携のクリニックがあっただろうに。不調を放っておいたのはよくなかった、という実感が以前よりあるならば、まぁいい。
「血液検査の結果だが、アレルギー項目に問題はなかった。あの二種類を避ければ、他は使えるとみていい。明日の朝から薬をもう一つ増やしてみる。ケア外来とカウンセリング併用で、早期の職務復帰を目指す」
「わかった」
「カウンセラーとはどうだった?」
「悪くはなかった。無理にしゃべる必要はないと言われて、聞かれた症状なんかを簡単に紙に書いた。あとはサッカーの話をした」
担当のカウンセラーはもちろんDomだ。小柄な男で話し口が穏やかなので、安心感があると評判だ。オーバーテーブルに置かれた新聞のうち、ひとつはスポーツ新聞。他は全国紙と、スモーカーが所属する組織が発行しているらしきものだった。
「スポーツはよく観るのか」
「部下が好きだしな。それに
……
くじがあるだろ」
ローは何のことかわからず首を傾げた。自身は患者や上の人間との話題に困らない程度に野球とサッカーの結果をニュースで把握しておくくらいのことで、試合の中身や特定の選手には特に興味がない。スモーカーがスポーツ新聞を読むのは好きな選手がいるとか、推しているチームがあるとかかと思ったが、男が口にした横文字の名称は、確か金銭を賭けるものであったような。
「野球はやってねぇからな」
要領を得ないぼやきになお首をひねっていると、この話はやめだとスモーカーは言った。少なくともローよりはスポーツを観るという理解でいいのだろうか。あとで件のカウンセラーと、シャチに聞いてみればわかるかもしれない。なんにせよ、カウンセラーとの相性が悪くなさそうだとわかったのは、ひとつ収穫だった。ケア外来をメインに、そう何度も実施はできないが、退院後もカウンセリングを組み込めそうだ。
夕飯が運ばれてくると、医師でさえ病室にずっといるのは邪魔になってしまう。必要な話はできた。明日は服薬指導があることをスモーカーに伝え、向かいのベッドにも一声かけて、ローは廊下の方へ向き直った。もう一人はまだラウンジだ。スモーカーは再び眼鏡をかけ、配膳された盆の横へまた新聞を広げている。隣のベッドを覗くと、「先生」と爺さんの声。
「どうした、どこか悪いか?」
「悪かないがね。誕生日だろ、おめでとうさん」
だからどうしてそれを知っているのか。ローは頭を抱えた。医師の個人情報は患者に漏らさないよう、スタッフは教育されているはず。最周知が必要だ。どう師長に伝えるのが一番波が立たないかを懸命に考えるローの視界で、スモーカーが目を見張っていた。
「聞かなかったことにしろ」
「クマが変わったのはそれか」
鈍そうな癖してそう思い当たるのは馬鹿ではないからだろう。ローはこれ以上の会話を避けるためにまた明日、と出口に足を向けた。患者にプライベートなことを知られて良いことなどない。だが背後からスモーカーに呼び止められてしまう。なんだ、と振り返ると殊勝な顔をしていた。
「いろいろ悪かった。先生、誕生日おめでとう」
今度はローが驚く番だった。随分丸くなったもんだな、と妙に感心する。
「ありがとう、だが聞かなかったことにしろ」
そう念を押して、ローはナースステーションに寄った。
下に降りるとペンギンに探されていた。ロッカールームではマルコも待っている。退勤するつもりでPHSの電源を切っていたことを二人に怒られ、あれよあれよと着替えを終えると「今日は飯食って帰りましょうね」と両側から腕を取られた。そういえば去年も一昨年も、同じように連れて行かれて祝ってもらった。ああ、シャチの早退はそういうことか。今夜当直の科長を除いて、店にはロビンとレジデントも待っていることだろう。ペンギンの「ローさんおめでとう」を聞きながら、昼の騒動を思い出す。たしぎもきっと、盛大に祝われているに違いない。穏やかな気持ちで一日の締めくくりへ向かう中、ひとつ残った返信のことを、忘れていた。
翌明け方から降り始めた雨は、特大の低気圧が雨雲を重たく留め、昼をすぎたあたりから土砂降りとなった。週末でスタッフの少ない院内は普段より薄暗く、窓の向こうに葉を打たれる植え込みが見えるだけで静かなものだったが、夕方から風も加わって荒れた天候と共に様相を変えた。
「トラファルガー先生、北新都医療センターの先生から連絡です!」
心臓の病気で運ばれてきていたDomの患者に対し、痛みでGlareが出ないよう循環器の医師と投与する薬剤を調整しながら、スタンバイのできた手術室へ送るところだった。救急外来の看護師が市内の夜間一次救急を担う施設からのコールを告げる。それとほとんど同時、首から下げているセンターピッチが鳴った。
昼間はスモーカーのカウンセリングと栄養指導の記録に目を通していた。昨日途中で切られた話はやはりスポーツくじのことだったようだ。趣味、とくくられた欄には他にも、競艇、陶芸、と書かれており、組み合わせのおかしさにひとり笑った。採血は特段変わりなし、まだミネラルのバランスがよくないが今朝からの薬でどうなるか。食事摂取は朝が五割、昼が七割で昨夜眠剤と鎮痛剤の使用はなし。ケア外来、カウンセリングをそれぞれ一回ずつ終えた経過としては妥当なところだろうと判断している。
残って資料を作っているはずのレジデントを呼ぶよう看護師に告げ、ローはPHSの方に出た。救急隊員より、駅前でDomとSubの男女が揉めた末Glareを出し、Subの女性がドロップ状態になったと伝えられる。受け入れ要請だ。
レジデントが受けた方は、十代のDomで受験生。試験期間に季節柄流行り始めた感染症に罹患、そちらは軽快したもののダイナミクスのコントロールがきかなくなり、意図に反して時折Glareが出るようになってしまったという話だった。親子喧嘩になった際強めのGlareを出してしまったと、母親と一次救急を受診、そこの医師の判断で入院加療を希望しているという内容だ。どうしますか、と言ったレジデントに受け入れを承諾するよう指示する。救急隊にも女性をすぐ運ぶよう返して切った。ダイナミクスを専門で扱う科は、市内にローの勤務する北部総合病院だけ。ここで受け入れができなければ、隣市の機関病院へ運ぶことになる。救急車でも四十五分かかる。子どもを入院させるにしても、自宅と同一市内の方がいいだろう。幸い病棟には空きがあるし、待機のロビンも呼べる。マルコが休みなのが痛いが、Domのロー、ロビン、Subのレジデントでなんとかやれそうだ。ダイナミクスを持つ看護師には他の患者の処置と替わってもらうよう指示し、Neutralの看護師と患者を待った。
先に着いたのは子どもだった。意識もはっきりしており母親と歩いて入室したが、唐突に唸り声をあげて息が上がるとGlareが漏れた。すぐに落ち着きを取り戻すが同じことを繰り返す。点滴で一時的には落ち着いても、帰宅して数値が乱れると出るだろう。緊急性は低いので一般病棟に連絡を入れた。念のため、かかっていた感染症の検査を出してからの入院となる。結果を待つ間に薬剤投与を始めておく。レジには不用意に近づかないよう言った。これも念のため。Subの医師は知識もあり自身のメンテナンスも欠かさないため、Glareを浴びてもすぐにドロップすることは少ない。それでも大きな負担だ。特に臨床経験の少ないうちは、避けられるものは避けた方がいい。彼にはもうすぐ到着する予定の女性の方を迎える準備を頼んだ。
「お母さんのダイナミクスを聞いてもいいか?」
「私は発現していません。家族の中ではこの子だけです」
並んで掛けている親子の前にしゃがんで問診をする。両親はそうでないが祖父がDomだと。Glareが出ているとは、本人がそう言ったらしい。
「先生、学校に行きたい。試験を休んだから、別日で受けないといけないんです」
「この子、さっきの病院で点滴だけ受ければ帰れると思っていたようで」
すみません、と母親が頭を下げる。横でうーっと唸る歪んだ顔、Glareが出る。焦りや落胆をうまく処理できていない。ペンギンに無理を言って明日の午前にカウンセリングをねじ込まねばならない。こういうことがあるから、自分の予約を動かすことは躊躇われるのだ。
「入院してコントロールを戻した方がいい。学内の試験はいずれ受けられるが、同級生をドロップさせるようなことがあったら後悔するぞ」
知らないだけで、同じクラスにSubがいることもあるだろう。部活のメンバーにだって。黒々と艶のある瞳に涙が滲んだ。若く力のある目だ。
「自分で言わなきゃ母親にGlareはわからなかったんだ。よく言えたな」
まともに浴びないようローは少し自分の位置をずらす。子どもはしゃくりあげようとして喉をひっかけ、咳き込みながらまた唸り、吸い込む胸元をひゅう、ひゅう、と鳴らしてまたGlareを放つ。ローはその背を支えて横向きに寝かせた。
「一度目を閉じろ、そう、瞼が熱いはずだ。息は鼻で吸って、口から吐き出す。学年とクラスは言えるか?」
「さん、ねん、
――
組」
「席はどのあたりだ」
「前か、ら
……
四番目、の窓から
……
二列
……
」
部活は、帰りに寄るならどのコンビニに、学校から塾に着くまでにかかる時間は、板書の上手な教師は、などローはほかにも他愛もない質問に答えさせる。合間にゆっくり息を吐かせると呼吸は落ち着いて、Glareが抑えられてきた。ほっとする間もなく、遠くから救急車の音。搬入口が慌ただしくなる。さっき応援を頼んだロビンはまだ来ていない。
看護師に親子を任せ、ローはレジデントがカルテに打ち込んだオーダーをチェックする。特に問題はない。見た名前だと病歴を開くと、十日前に外科病棟でドロップした女性だった。短期間で二度目だ。何があった。
PHSを切ってから思ったより時間が経っていた。駅から病院までは徒歩十五分ほど。ストレッチャーを入れるための扉が開くと、外からごうと風が吹き込む。米神が冷やされて、汗をかいていたと知った。土と青臭い匂い。こんなに荒れる予報だったか。
バタバタとストレッチャーが入れられ、処置ベッドに患者がうつされる。付き添いは先に受付に案内されたようだ。車内で除細動器の作動があったと報告を受けたレジデントがローに走り寄る。
「患者の家族が搬送を拒否していたそうです。他へ運んでくれとのことでしたが、この天気で道が混雑していたのと、うちの病院を退院したばかりの患者だったのでなんとか説得して運んだと」
嫌な感じが背中に広がる。前回は乱れた脈を薬剤でおさめたが、この度機器を使ったということは心臓が止まる危険性があったことを意味する。不安をのぞかせたレジデントに大丈夫だと言い聞かせ、患者のそばを任せる。後のコマンド使用のためなるべく鎮静をかけないようダイナミクス安定剤の調節を指示した。
同意書を手に待合へ。事務員と鉢合わせる。
「ご家族がドクターと話がしたいと仰られてるんですが、気持ちが昂っておられるみたいでGlareを出されていて
……
。私Subなんです。頓服を飲んできてもいいですか?」
「そうしてくれ。おれが対応する。Glareをおさめてくれるまで他の事務か警備員に替わってもらうといい」
頭を下げて走って行くスタッフの代わりにローは待合室へ出た。あの時病棟で、しっかりダイナミクスの手綱を握って、パートナーに緊急コマンドを使うことの同意書にサインした男は別人のような表情で受付に立っていた。外の嵐の中へ出たような、薄く鋭利な物が時折顔を擦るようなGlare。制御できず広げたなどでなく、それはロー個人に向けられている。
「あんたですよ、先生。あのコマンドのせいなんじゃないんですか」
「何があったか問診をしたいんだが、まずはGlareをおさめてほしい。他の患者もスタッフもいる。ドロップ患者が増えると手が足りない」
ローはつとめて冷静に話した。救急外来には衝立てはあるが個室になるようなスペースが少ない。扉の閉まる家族控え室は、さっきの心臓の患者家族が手術の終わりを待っている。受付にはすぐに次の急患がやって来る。長くGlareを出すことは本人にとっても負担だ。
「緊急薬を持っているなら服用をすすめる。水が必要なタイプなら自販機はそっちだ」
「またコマンドをやらせたくないんです、よその病院に行かせてください」
「今Subの医師が診察しているが、ドロップからの回復にはほぼコマンドが必要だ。ダイナミクスの専門科がある病院に送るとなると一時間かかる。ドロップが長引くと命に関わるぞ」
「退院してからずっと調子が悪かったんだ、食べても吐くから薬も飲めてないし、プレイも成立しなくてどんどん悪くなりました!先生は依存性はないと言ったけど、あのプレイのせいじゃないんですか」
ローはさっき見たカルテの記憶を開き彼女の病歴を遡っていた。主病は消化器系のよくあるもので、手術の侵襲は小さかった。麻酔あけの食事で餌付けが上手くいかなかったのは、入院手術によるストレス反応が、術前術後の一時的な内服中止によって大きくホルモンに作用したのだと推測できた。
「トラファルガー先生の処置は適切だったわ。彼女の血液の数値でも説明ができます。必要ならカルテ開示請求を。ひとまずこちらへ入りましょうか」
待っていた応援だった。走ってきてくれたのだろう、息のあがったロビンがローと男の間に入る。
「遅くなってごめんなさいね。渋滞がひどくて歩いてきたの」
湿った髪をひとまとめにして女医は男に名札を見せ名乗った。第三者が現れたおかげでGlareが緩んだのを機に診察スペースへ誘導する。
「緊急時のコマンド使用はドロップした患者にいつも行われる治療よ。患者が女性だし今回は私がやりましょうか」
「それで本当に治るんですか。前やった直後はよかったのに、家に帰ってから悪かったんです」
「コマンドを欲しがるような様子はあったか?」
「ない、ないです。ただこのへんがずっとむかむかしていて、食事も喉を通らなかった。食べても戻すんです」
男は胸から腹にかけてを手でさすって見せた。ロビンと目が合う。同じ仮説にいきついている。カルテを再度スクロールする。彼女の受けた手術は、後も腹部症状が続くことが一定の確率で起こる。それにより薬が飲めなかったことでダイナミクスの乱れも生じた。相互に症状を増幅させてしまっているが、嘔吐とドロップはそれぞれ別々の疾患からきているものだ。だが消化器症状がダイナミクス不調時のそれと似ており、そのせいで家族は混同してしまっている。
病棟でのコマンド使用への不信からパートナーとのプレイに集中できなかったこともドロップを引き起こした要因のひとつと考えられる。片方からの信頼が揺らぐと必ずもう片方も足元が崩れる。前提が崩れているプレイはかえって体を悪くする。最初は術後後遺症だけであったものが次々よくない方へ転がった結果だ。
ロビンがひとつひとつ順序立てて説明し、男はGlareをおさめた。気分転換にと出かけた駅前では食事のことで患者と口論になり、Glareを出してしまったのだと。汗だくの体から力が抜ける。焦りや後悔は時に攻撃の形を取って他者へ向く。手持ちの薬をすぐ服用させた。
「ひとつ確認しておきたいのだけど、妊娠はしていないわね?」
「
……
たぶん、していないと、思います。でも、わかりません。前にCTを撮っているはずですけど、わからないんですか?」
前の画像に妊娠の兆候はない。だがこれも念のためだ。妊娠検査と婦人科への連絡、そして消化器の当番医を。
体に重しが乗ったような疲労感が一気にやってくる。ひとりでドロップ状態を診ているレジデントのところに行かなければ。緊急時の同意書はロビンが取得し、コマンド使用も彼女が請け負うことになった。ローに対して男は誤解を認めたが、患者と家族に不安要素は少ない方が治療はうまくいく。
先に診ていた子どもの結果が出たと看護師が伝えに来る。感染症は陰性。現在、呼吸状態は落ち着き、少し眠っているとのこと。二人が腰かけていた所へ目をやると、看護師が持ってきたブランケットを母親が患者にかけていた。床に膝をつき、顔を覗き込んで
――――
。ダイナミクスを持たない母親、躊躇いなく跪く姿勢。それはかつての父の姿と重なった。返信を、忘れたままだ。
「また会ったな先生」
満遍なく雨粒の乗った傘を上げると、つい二時間ほど前に送り出したばかりの患者と会ってしまった。会釈するだけで頭部が転がり落ちそうなほどくたびれていたローは無言でまた傘を下げた。
念願の退院だからか、白髪は病室で見たより艶があるようだ。あるいは湿度のせいか。火曜の夜、この男のSubドロップを引き起こしたスポーツバー。今は静かに明かりを落とし、雨に窓ガラスを洗われている。薬を増やした土曜、目立った副作用はなく血液検査上も横ばいだったため、本人の希望通り、スモーカーはめでたく今朝退院となっていた。
「開店前だぞ」
自分が出て来たばかりの扉を指した男は、さっき別れた時には嗅ぎなれた施設の清潔な空気をまとっていたというのに、娑婆に出た途端ニコチンを摂取したらしかった。臭い。ローが返事をしないので首をかしげているのがビニールを通してぼやんと見えている。
スクラブと一緒に脱ぎ捨てていた医者の顔を探してきて被る時間が必要だった。嵐の一夜、仮眠は二時間と一時間。急患の第二性にも気圧にも振り回された体は散々で、科長に渋面で帰宅を言い渡されてしまったが、食い下がる気力はなかった。
「先生?」
「忘れ物を取りに来たんだ」
診察とは比べ物にならない小さな声しか出ない。それでも振り絞って答えると傘を閉じた。敵チームのカラーであった白い帽子を、あの騒動で店に忘れてしまっていた。忙しさにかまけてつい後回しにしていたのが、ついに店舗から電話がかかったのだ。
「クマはいねぇんだな」
「クマ?」
「新しくなったと言っていただろ。さっきはいた」
ぼうっと寝入りかけだった頭が急速に覚める。勤務中の胸ポケットを守っているボールペンのことを言っているのだということはすぐに理解した。
「勤務中じゃねぇからな。ポケットもないし」
胸元に目を下げると、視界ににゅっと大きな手が入ってきた。巨人が出てくるパニック映画で、スクリーンの斜め上から突然あらわれて登場人物を捕捉する手に似ていると思った。他人事のような危機は太い指がとん、と胸元を押したことで突然現実味を帯びる。がばと顔を上げると、巨人は「そうか、ポケットがないのか」なんて呑気なものだ。
重く濡れた傘を歩道に向かって振りながら、ローは一歩、距離を取った。何をしたか自覚はないらしく、スモーカーの空気は変わらない。こんな距離感の男だっただろうか。外来でも病室でも、もっと、近寄るDomがみな刺さるような棘を持っていなかったか。それとも、患者の枠からはずれたらこうだというのか。
「退院したばかりなんだ、早く帰って休め」
傘を巻く速度で言って、濡れた手はデニムで拭いた。スモーカーが片手に持っていた紙袋を揺らしてみせる。折り目に沿ってぺちゃんこに畳まれたそこには、看護師に人気の菓子を詰め合わせた箱が入っていたらしきロゴが書かれている。
「明日から出勤だからな、騒がせた詫びに来ていた」
「そうか」
じゃあまた、と暗い店内へ体をすべらせ扉を閉めた。今、正常な判断ができなくなっている。患者と院外で長く言葉を交わしたい気分ではない。用を済ませたら一刻も早く寝床に入りたかった。店の者から帽子を受け取り、先日の騒動の謝罪をする。やはりスタッフは全員Neutralで、救急車を呼ぶような事態だったにも関わらず、またお越しくださいと暖かかった。社交辞令だって安心できる。好物が食べられる店を失わずにすんだのだ。多少持ち直したコンディションで外へ戻ると、軒先で患者の男が吸い終わった煙草を携帯灰皿に押し込んだところだった。早く帰ってほしい、いや、別に待たれていたわけでは。
スモーカーは灰皿を閉じると一緒に握り込んでいたパッケージを潰した。舌を打った音を聞いて思い出す。
「あんたの煙草、預かったままだな」
「ああ、そんなこともあったか」
「火曜の外来で返す」
「吸ってもいいのか?」
「主治医としてすすめはしないが、あんたの持ち物だろ」
雨の具合をはかるようにスモーカーは空をぐるりと眺め、傘立てに入れてあったローの傘を勝手に取った。
「あ、おい」
「取りに行く」
「は?」
「煙草だ。徒歩なんだろ」
何の冗談だろう。たしかに車に乗らないローの自宅は勤務先の病院から徒歩圏内だ。たまの帰りにシャチと訪れるこの店もまた。ボトムのポケットに突っ込んでいた煙草を、洗濯機でまわしてしまわないようにと早々に出したことを覚えている。取りに来る?電子レンジの上に置いた煙草を。
目をまわしそうになったローをスマートフォンの着信音が引き戻した。メッセージではない。電話だ。画面にデリンジャーの文字。ドフラミンゴの差し金だとすぐにわかるが無下に切れない。あの男の養子であり十ほど年下の、ローと同じく交通遺児のデリンジャーにローは少し弱かった。
出ようか出まいか迷っているとスモーカーが片手で「どうぞ」と示し、ローの傘を持ったまま雨の中へ踏み出してしまう。通話ボタンを押しながら慌てて追うと、開かれた傘が差し出された。もう一方の手で、スモーカーは自分の傘を差している。
「
……
なんだ」
「ロー兄?メッセージ返ってきてないって」
やっぱりな。大きくため息をつくとリュックの肩ひもがずれる。端末を濡らさないよう自然と隣の男に体が寄った。
「悪い、忘れてた」
「ちゃんと返事してあげてよね」
「あとで返す。当直明けなんだ、寝て起きたらな」
「すぐしなよ。そうやってまた忘れるんでしょ」
「
……
墓参りはひとりで行ける。そう言っといてくれ」
「自分で言いなよ」
直接連絡してこないあたり、自分の性分を把握されてしまっているなと、わかっていてもわずか苛立つ。これが他の要件なら、秘書のヴェルゴを使ってわざと腹立たしい連絡をよこしてくるのに、これに関してだけはローがどうにも断れないように仕向けてくるのだ。
目の前で傘を握る大きな手が歩みの速さで揺れている。手首の白っぽい産毛に霧を噴いたような細かな水滴が乗っているのが動物のそれを思わせる。二人並んで、隣の男に傘を差しかけてもらいながら歩いている。なぜそんなことになっているんだろう。空いている方の手で傘を受け取ろうとすると、阻止するように電話口から呆れ声が零れた。
「もうすぐ若様の誕生日でしょ。墓参りくらい一緒に行きなよ。ロー兄、大人なんだからさぁ」
我慢できずに舌打ちを返した。別に一緒に行くのが嫌なわけじゃない。積極的に同行したいわけでもないけれど。ただわざわざ忙しい毎日を縫って、時間を合わせて、花と線香を買って、バスの時刻を調べて、それをあの男とくそ真面目にやるのがなんだか、落ち着かないのだ。もっと雑に扱ってくれていい。できるなら放っておいてくれる方が。
デリンジャーがドフラミンゴのことを若様なんて呼ぶのは会社の連中のせいだ。仮にも保護者なのだからそういう風に呼べばいいのに、あの幹部の奴らが口にする「若様」を、幼少期にかっこいいと思ったらしく、いまだに抜けない。そろそろ大人になるのだから直した方がいい、と言ったことがないのは、どうせ聞きやしないから。
「先生」
横断歩道の前だった。青の点滅。前に出そうになった体を握った傘で止められる。思考が散らかっている。どちらの方にもいいようにされている気がしてならない。
「くそ」
「あたしに言わないでよ~。二人ともさ~大人げない」
「そう思うならかけてくるな」
「可哀そうじゃん。ロー兄と若様なら、若様の肩を持つもんね」
頭痛がしてきた。わかっていたことだが、電話に出てしまったのが運のつきなのだが、疲労が倍に増したようだ。肩ひもを直して握ると手が埋まってしまう。何かひとつでも取り戻したい。
「そうだ、大学受かりそうなの。お祝い買ってよね」
見事にくじかれた。握った手ごと肩ひもがずり落ちる。この年下との会話で主導権を握れたためしがない。そんなことは見えていないデリンジャーは、この冬に販売される化粧品のうち欲しいものをつらつらと述べていく。まるで知らない国の言葉のようなそれは当然ローの耳に入るわけもなく、端末の小さな穴からぽろぽろ零れて雨と一緒に足元に落ちた。
「それこそドフラミンゴにねだれ」
「なに言ってんの、それとこれは別よ別」
「もう切っていいか」
「しょーがないなぁ」
「ほしいものは後でメッセージで送れ」
「ほんと!ロー兄だいすき。あいしてる」
一言一言が金属音に変換されていく。出るんじゃなかった。愛してる、だけが余韻を残して痛みとともに頭に居座る。だめな季節だ。デリンジャーとの会話にすっかり気を取られている間に、信号の変わった横断歩道を渡って、自宅へ続く方の道へ体が動いてしまっていた。
電話が切れるとやっと意識が戻る。ふと立ち止まると、隣も止まった。
「こっちじゃねぇのか?」
無意識に道案内してしまったようで血の気が引く。患者に自宅を知られることはどうしたって避けたい。たとえこの男が公務員で、職場の人間にも認められるような人間性を備えていて、強盗とか、そういった類のことをしないように見えてもだ。
「そこ、コンビニあるから。待ってろ。取ってくる」
「悪いな」
まるで何でもないように、スモーカーは傘をローに返しておとなしくコンビニに足を向けた。間違いなくその背中が店舗にたどり着いたのを見届けてから、ローは全速力で自宅へ走った。中に入って後ろ手に扉を閉めると膝が崩れる。耳元で鼓動が太鼓を叩いていた。外はまだ嵐だったかと夜のことを思い出すが、ひゅうと鳴るのは自分の呼吸。疲労、ホルモンの乱れ、院外での再会、読めない思惑、電話、すべてタイミングが悪い。拳を握って穴があくほど頬を抉った。長く待たせるとまずい。リュックを下ろしてわずか軽くなった体で、レンジの上の煙草を掴み、待たせているコンビニへすぐに戻った。
スモーカーはおとなしく店先で待っていた。コンビニの軒は厚みのある体には狭く、傘をさしたまま。端の灰皿の横にいるから一服しているかと思ったが、あいにく煙草はローの手の中だ。
「待たせた」
「構わねぇ。待ってろって言われたからな」
そうなのだが。出された手にパッケージを乗せてやるとさっそく一本取り出した。傘を肩に挟んでポケットからライターを取り出す仕草は慣れたものだ。よく考えれば、別に金に困っているわけでなし、わざわざローが取って来るのを待たなくても、店内でひとつくらい買えばよかったのではないか。バーの前で会った時から違和感が拭えなかった。もっと辿れば、病室での一件からだ。走ったせいでどくどくと巡る血液が米神を絞めつける。クマを見るようコマンドを発したのはケア外来。だがリワードは渡しているし、最初に試したときはまだ「入った」感覚すらなかった。思い違いだといい。
ふーっと大きな音で吐き出された煙が広がる。鼻をつく刺激臭。ローがいるのとは反対側へ吐き出すくらいの配慮はあったらしいが、一段と頭が痛む。思わず手の甲で鼻を塞いだ。服につく前に帰ろう。寝て起きて、頭がはっきりしてから、過去の症例や論文を調べるべきかもしれない。
「じゃあ、また外来で」
口から煙が入らないよう多めに息を吐き出しながらお大事に、と告げたのに、また「先生」という一声で引き留められた。前にもあった、いつも去り際を逃している。前にも。いつ?
「飯でもどうだ、今日じゃなくても」
「は?」
思わずぱかりとそのままの形で口を開けてしまったものだから、すかさず臭いが入り込む。煙草の煙というのは厄介で、口内の粘膜に粒子が貼りついたように思ってしまう。まわりに喫煙者は今いない。遠く、ドフラミンゴの弟が生きていたころは毎日それと過ごしていた。確かに不快だったのに、それはもっと甘いものとして記憶に包まれている。吸っている銘柄によるのだろうけど。
「迷惑もかけたし、世話にもなってるからな」
何を言われているのかよくわからなくなっていた。だが職務経験上、身についた応答マニュアルが自動的に口を動かす。
「そういうのは、受けちゃいけねぇことになってる」
「なんでだ」
「税法上の問題だ。近頃は病院規定にも書いてある。昔は医者に謝礼や菓子折りを渡す習慣があったがな」
「奢りじゃなけりゃいいのか」
そういう問題ではない。断ろうとしているのだと、なぜ伝わらないのか。言い淀む口の中が苦くて忌々しい。
「あんたたちは救助した人間と外で一緒に飯を食うのか」
「食う
……
奴もいるな」
当てが外れて途方に暮れた。頭の痛みはもう頸のあたりまでを覆っている。リュックのない肩に食い込む傘が重い。早く帰りたい。解放されたい。口を、濯ぎたい。
「あんたの調子が上向いているのは喜ばしいことだ。ダイナミクス治療を始めたばかりの患者に時々あることだが、ホルモン値が向上したことと、特定のDomとプレイしたことが結びついて、おそらくおれを見ると快不快でいう快を抱くような現象が起こっている。ヒヨコが最初に見たものを親としてついていくようなもんだと思ってもいい。今は治療の途上で、それは効果があらわれているということだ、勘違いするな。だから礼も謝罪も必要ない。わかるか」
もっとゆっくり話すべきだったというのは、次のスモーカーの言葉で思い知った。
「先生を誘ったのはおれがSubだからだって言いてぇのか」
「
……
今の時点で考えられる可能性だ。リワードを渡したはずなのにあんたはずっとおれの胸ポケットを見ている」
今度は向きなど気にせず男は煙を吐いた。顔の前を手で払いたくなって、さすがに失礼かと我慢する。
「じゃあもう一度リワードをくれ。そうすれば見なくなんだろ」
「だめだ、ここは病院じゃない」
患者と院外ではプレイしない。そもそもプライベートでコマンドを使う相手は今ペンギンだけだ。それすら頻度は低い。ロシナンテとしたのだって子どもの頃の何度かで、彼は珍しいSwitch性だった。兄のドフラミンゴと義弟にあたるローがDomであったために、練習のような、遊びのようなプレイをしていた彼はほとんどSubとしてすごしていたと思う。彼が亡くなってから、大人になって職業柄どうしても安定させる必要がでてくるまで、ローは誰ともしていない。それを可能にしたのは専門知識に基づく薬剤調整とカウンセリングだ。だからスモーカーの違和感も、リワードの追加だけが選択肢ではない。
「じゃあどうすればいい。先生がそんな風に思うってこたぁ、おれはおかしいんだろ」
「おかしくは、ない。時々あると言った。さっき持って帰った薬の中に頓服がある。説明は受けているな?今日はそれを服用することをすすめる。自分で変わったところがないと思えれば火曜まで待って大丈夫だ。むしろおれと顔を合わせない方がいいかもしれない。もし、おかしいと自分で思うようなことがあったら、救急外来はいつでも開いている」
あんなにコマンドを嫌がっていたのはスモーカーの方ではないか。額に脂汗が滲んでいた。乾ききった上顎と舌が引っ付いて、喉がざらつく。患者は酩酊していない。視界が歪んでいるのは自分の方で、一刻も早くこの問答を切り上げた方がいいとわかっているのに。いつの間にか短くなった煙草は消されて、スモーカーの口には新しい一本が咥えられている。火がついてしまえばまた引き延ばされる。
「先生は診察以外でプレイすることはねぇのか」
「ないわけじゃないが」
流れるような動作で先が赤く灯った。どっと脈が上がる。新しい紫煙が雨に溶ける。もう勤務外なのだ、これ以上明かさなくていいはず。
「もし」
残っている冷静さをかき集めた。仕方なくヤニを含んだ湿気ごと吸い込んで、痛みを無視して。言葉は慎重に選びたい。だがもう集中力が続かない。
「ケア外来以外にもプレイを希望するなら、パートナーを探すか、免許を持った鍼灸院で定期的に受けることもできる。東洋医学の観点から自律神経に」
「薬を飲む。それがいいんだろ」
遮ってまで与えられたのは導きたかった答えだったのに悪寒がした。火打石のような音を鳴らしているのは自分の奥歯で、それに一度だけ混ざった、重くエナメルを擦り合わせる音は目の前の男。
「火曜はケア外来も取ってある。そこで調整を試みる」
「あァ、わかった」
医者として間違っていないふるまいをしたはずなのに、苦い顔を向けられている。これまでコマンドを跳ねつけてきたSubは、マトモに入った新鮮な経験に引きずられているのだと思う。ここで転がり落ちるように欲求に飲まれてしまうことは治療方針からはずれる。薬だけで調整のつく生活を望んでいたはずだろう。
ひと際大きく煙を吸い込んだスモーカーの肺が膨れ、すると煙草はまっぷたつに折れてしまった。ばらばらになったフィルターとまだ火のついているものを灰皿に押し込む仕草はさっきより雑になっている。立ち去るタイミングは今だと思うのに、アスファルトをずりずりと靴の裏が後退るだけ。
ポケットでスマートフォンがぽんと鳴った。デリンジャーからメッセージ。狙いの化粧品が買えるアクセス先を送ってきたらしかった。催促が早い。通知だけ見て、ポケットに仕舞おうとして、角がデニムに引っかかる。思う通りに事が運ばない苛立ち。くそ、と目から出なかっただけで、矛先は手のひらに向いていた。
「おい」
あっと思った時には遅く、ぱらぱらと粉になった画面のガラスが落ちる。
先生?と訝しむ顔に押し寄せる後悔。やってしまった。スチール缶を潰した手はローの連絡手段にヒビを入れていた。
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