夜の繁華街は緑色が溢れていた。同じ形の帽子で並び歩くサラリーマン、店先で揺れるチームカラーの幟。ペナントが、貼られていたり、振り回されていたり。
唾が飛ぶほどの勢いでローを怒るのはシャチぐらいだ、と考えてローは思い直す。もう一人いるな。二人の噴火は似ているようで少し違うが、原因はいつもだいたい同じだ。
目的の店から二軒離れた駐車場で指摘されてようやく、被ってきた帽子が周囲から浮いていることを知る。わざわざ一度帰宅してまで、しまっておいた愛用を出したのに。白くてふかふかの、まだら模様のキャスケット。急に冷えるようになった夜のお供のつもりだった。出かけるとき、いちいちローの服装にケチをつけるシャチも、この帽子をダメだと言ったことはなかったが、今夜はどうも様子が違う。
店に入るとすぐにわかった。負けられない試合がスクリーンで展開している。シャチはいつも座るテーブルが埋まっているのを悔しがったが、常連の場所どころか座るところがないほど賑わっていた。
「昨日優勝決められちゃったからね、意地でも二位は死守!」
誘われるのでたまに来るスポーツバーは、今夜、半分の客が左にジョッキ、右に手の形のスポンジを持ち、もう半分は両手で小さなバットを打ち鳴らす。そのどれもが緑で、ローの帽子は相手チームのメインカラーと同じだった。渡された紙袋に帽子を押し込む。仕方ない、厄介ごとはごめんだ。
焼きおにぎりが絶品なのだ。スポーツ観戦に興味のないローが誘いに乗る目的だった。皿に三つ乗った二つをそのまま食べると、最後は出汁に入れてくれる。ネギと刻んだ海苔の乗った三角形が椀の中でつやつやと揺れて、たいそう食欲をそそる一品になる。醤油が染みた香ばしい表面を割る楽しみも、ほどけてゆるんだ米がふやける喜びも、両方味わうことができる。
かろうじて確保したカウンターの一番端で、立ったまま箸をつける。空気が突然沸いたり、割れるように怒ったりするのを眺めて、ペンギンを誘わなかった理由を察した。自分が誘われたのは、単にウニに断られたかららしいが。
逆転されたイニングからは罵声が飛び交った。言葉が乱暴になるのに比例してビールと煙草が消費されていく。大きなスクリーンを陣取る集団がひときわ派手にやっているが、天井から下がる四方を向いたテレビに食いつく小グループも、負けじと声を張り上げる。シャチはローの隣でひとり百面相だ。出汁まで食べたら帰りたい。
「美味いが疲れるな」
「え?ローさんなんか言った?」
わっと店内に力が籠る。チャンスか。一斉に視線を集めた大スクリーンは、立ち上がった大きな影で一瞬遮られた。気を遣ってすぐにかがんだそれは誰かを引きずって席を外す。満塁に夢中で動きを止めた群れをかきわけ、緑色の帽子が落ちた。
午前中の診察で会ったぶりの白髪。四日前に変えた薬は今のところ悪さをしていない。咳はかなりおさまったと言っていたが、店は喫煙可だ。あいつ。
「吸ってねぇだろうな」
ローは細身を活かして近づいた。驚いた顔をしたスモーカーは、姿勢を低く保ったまますぐに扉を開けた。
「酔っ払いだ、外の空気吸わせてくる」
光るサテンの緑色をまとった女が紅潮した顔を半分手で覆っている。後部座席をエスコートするようにローは扉を押さえてやった。入った空気が足元を冷やす。女を観察するが急性でない。
ストライク!と裏返った声が通って、爆ぜた怒声で二人は外へ押し出された。店内に残ったローは悲鳴と掠れた怒号、Glareを浴びる。どちらのせいか、耳がわんわん鳴って、シャチがどこにいるかもわからない。スモーカーは知っていて来てるのか。攻守入れ替えを待つ時間は四番の悪口合戦、次のイニングはブーイングで始まった。
あからさまに、漏れることを気にしない者と、自覚できないほどわずかに漏れ出している者がいる。シャチの数値は分類上ではNeutralとされるところ。あまり問題にはならない。問題なのは――。見ればスモーカーのいたあたりは屈強な男ばかりでむさくるしく、職場の集まりのようにも。ここがバーだという当たり前にふと気づく。今は終業後だ。診察の延長で話しかけてしまった。ローは親指で頬をぐり、とやる。出汁を食べたら帰ろうと思ったはずだ。荒れ狂う人の波を縫ってシャチの隣に戻った。スモーカーだってかかっている医者に外で絡まれるのは嫌だろう。院外でもすぐ仕事するんだから、と幼馴染にもよくたしなめられる。
「ローさんどこ行ってたの?」
「いや、ちょっと」
ちょうど湯気のたつ椀が出された。カイワレの青みが目を引く。薬味がその日によって変わるのも楽しみの一つだ。ローは椀を手に、どっかりと背中を壁に預けて香りを吸い込んだ。せっかく来たのだ、味わって食べるべきだ。仕事のことは置いておいて。引き立つかつおは落ち着きをもたらしてくれる。
人間は集まると空気の動きに加担する。アウトがなかなか取れない。四球にまたGlareが飛ぶ。試合の流れを取り戻すには何かきっかけが必要だが、グランドの誰もがそれを掴めないようだった。隣の数人と一緒になってシャチも大きく落胆の声を出す。できるだけ端にと寄っていても、嘆いて天井を仰ぐ誰かと肩がぶつかった。外に出たSubは戻ってこない。戻るなと教えた方が親切だろうか。
出汁は最後の一滴まで啜った。箸を持ち上げ、置いて、また指で挟んで。イニングの数字と、夢中なシャチの横顔を確認して、ローは焼きおにぎりをもう一皿、ついでに水もくれと頼んだ。
「中の奴らは仕事の人間?」
店のすぐ前のグレーチング、頭を打ち付けそうな女の背をスモーカーはずっとさすっていたらしい。水の入ったグラスを差し出すと、受け取って飲ませた。一通りは吐き終えた様子だ。もう一杯はスモーカーの分。押し付けた。見たところ平気そうだが、中にいたときにGlareを浴びていたなら、少し頭が冷えると思う。余計な世話だ。
「部下ばっかりだ。阿呆が多くて店に迷惑かけたら困るからな、見張りだ。出禁くらってる店がその辺にいくらかある」
堅い職業というイメージなのに、悪ガキを率いる大将みたいな言い草がおかしかった。まったく知らない相手に申し訳ないが、確かに動物園を彷彿とさせる盛り上がり方だったと思う。病院にいる時は叱られる側のこの男が、職場では叱る立場とは。
「その人も職場の?」
「いや、隣のテーブルだ。女ばっかりだったしおれが抱えた方が早かったからな」
陸上でも救助活動するのか。ボランティアで。知らない女を。檻の中から唸るようだった最初の姿とあまりに印象が違った。お人よしか、下心か。後者だとしたらますます、余計な世話を焼いたかもしれない。
「先生は?」
「おれは代打」
返された空のグラスをそれっぽく振った。野球なんかやったことはない。上手く伝わってはいなかったが、スモーカーがかすかに顔を緩めたので説明はしなかった。
女はもう吐かない。水は飲ませたし、大丈夫だろう。じゃあ、と一言、店内に戻った。おかわりの焼きおにぎりがカウンターの上で待っていた。
時間さえあれば、ローはよく食べる方だ。仕事にもDom性のコントロールにもエネルギーがいる。カリカリに焼けた米が歯に挟まるのも気分がよく、大事なことを落としたことに気づいたのは、外の二人が戻ってから。
長かったイニングがようやく終わって、ますますヒートアップした客は応援グッズで画面を叩き出しそうなほどになっていた。
汗ばむ熱狂の中に踏み入ったスモーカーはわずか顔をしかめた。足を引いたように見えたが、酔っぱらいの女に寄りかかられて、すぐに集団の中に戻っていった。隣のグループだと言っていた女はすっかりその気のようだ。吐いて回復したなら何より。サテン生地はカラーこそチームのものだが、ユニホームを模してはいない。短い丈をまとっているのは、応援のためだけに来たわけでなさそうだ。不躾な詮索だと自嘲する。もしかしたら女はSubで、不意に飛び交うGlareから身を守る行動を取っているということだってある。
さっき凡退で下がった四番に代わり打席に立った五番が店内の期待を一身に背負った。「今季一番成績がいいんすよ」とシャチが耳打ちする。おにぎりを頬張って、まわりに倣って画面を見上げてはみるものの、チリチリとあちこちで漏れるGlareが気になって仕方ない。咎める者がいないのは、店員が皆Neutralだからと予測できる。
Dom同士、Sub同士であっても、内服管理ができていればよほどのことがない限り、互いにそうだとわかることは少ない。DomがSubに向かって故意に強いGlareを放てば犯罪にもなりうる。二十四時間以内に血液と尿を調べればGlareを出したことは数値で示せるし、脳波も取ればなお確定づけられる。Subが被害届を出せば立件もありうる。理論上の話だ。
DomとSubの場合、互いに勘づくことはあるが、面と向かってそれを聞くのは失礼なことなので、普通は知らぬふりをする。職場によっては届け出が必要だが、基本的に秘密は守られることになっている。
二つ目の焼きおにぎりは行儀悪く箸で刺して口に運んだ。落ち着かない。閉じられた店内のあちこちで同時に漏れたGlareに引っ張られている。そしてそれはローだけではないと感じていた。祈るように五番を見つめて、箸の背で頬を抉った。食事中なのに、と非難する別の自分を追い払って、スモーカーを見やる。声援と野次の隙間で、ソファ席に座る女が逞しい体にしなだれかかっている。拒否するそぶりは見えないが、右手が胸のあたりをうろついた。
「煙草はたしちゃんがまだダメだって言ってたぜ」
「スモやん、おれの一本吸う?」
「いらねぇ」
「勝手に吸わせたら怒られるぞ」
「煙草のねぇスモやんなんかスモやんじゃねーよー」
まるで上司と思えない呼称でいじられているのは微笑ましいが、診察室で見た仕草は嫌な想像をさせる。勤務外だとしても自分の患者だ。シャチの横を離れる際、さっき肩が当たった隣人に今度はこちらが当ててしまい一言謝罪した。
大丈夫か、と問いかけたのは歓声に消された。安打、ノーアウト二塁。そこら中でバットが乱舞して、ひどい音がする。椅子を確保できていた客も皆、両手を突き上げて飛び上がった。仕方なくスモーカーの肩を叩くとこちらを向いた。話しかけるもやはり届かず、首を傾げられる。
上司の知り合いとみて、部下たちがはしゃいで尻を押し退け合いながらローのために空間を開けてくれた。陽気な職場だ。片手を挙げて断り、スモーカーの耳に顔を寄せる。「調子は」「あ?」「大丈夫か」張り上げても無駄だった。今度は打ち取られた。床が踏み鳴らされ揺れる。勝手に期待された末に罵られるとはスポーツ選手も楽じゃない。耳を覆いたくなるほどの罵詈雑言は画面の向こうに届かないが、きっと球場も同じ惨状に違いない。まったく気にする様子もない女がずっとスモーカーに体重を任せたまま。
店に満ちる感情は乱高下する。死球。呪う言葉と幸運を称える声が混ざる。気分が悪い。ただ顔を見るしかなく、そうしているとスモーカーが女を指さした。診てくれということだろうか。先生、という口の形しか読み取れない。女は酩酊というより、恍惚に近い顔をしている。お子様ランチのそれよりは大きい球団旗を思い出したように振ったり、白い顎髭を眺めたり。スモーカー以外を視界に入れる気がまるでない。
助けを求めてシャチを振り返る。今日一番の叫喚が耳を突き破った。ダブルプレー。怒りが目に見えるとすれば赤色だろうか。一斉に同じ金切り声が上がり、尾を引いてボリュームを上げる。ぎゅっと目を瞑った時には物を投げつけられる予感があって、思わずGlareで防いでいた。
何年ぶりだろう。指先が痺れる。音が止んだのはおそらく体感だけで、立っている場所はなに一つ変わっていない。落胆、苛立ちと嘆きの渦中にいる。吐き出した息の残滓で鼻腔が焼けているのに背中は悪寒がするほど冷えていく。懐かしささえ覚えるこれが最後にあったのは、ドフラミンゴに連れられた傍聴席。
いつの間にかシャチが側まで来ていた。
「キャプテン、鼻血が出てる!」
差し出されたタオルで顔を押さえた。チェンジの間に何人か外に出て、ほんの少し密度が下がったおかげでさっきより動きやすい。強いGlareの出所を探す。自分がいたあたりだったように思ったが、背を預けていた壁紙にはもう人の気配はなく、カウンターに湯気の立つ椀が置き去りになっているだけ。店内はところどころ追加注文があり、手洗いに行く者もあり、人が動いてかき混ぜられた空気にGlareは散らばって薄れた。ざわめきは最後のイニングに向けてまたすぐに熱を帯びるだろう。ローと同じように顔や頭を押さえている者がちらほら見える。
「スモやんの知り合い大丈夫か?」
「のぼせたか?水飲むか?」
背にしていた集団に労し気な声をかけられ、顔を上げたと同時だった。ジャケットの裾を、がばと握ったのは大きな手。
「先生」
見ればさっきまで機嫌よさそうにスモーカーを椅子代わりにしていた女の様子がおかしい。両手で押さえた喉がひくりひくりと上に動いて嘔吐いている。すぐに動いたシャチと二人で女をそこから剥がした。スモーカーの部下の手も借り外に連れ出す。最悪を考えローは女から距離を取った。再びグレーチングに伏した女を支え、店から水をもらって、タオルや羽織るものを持って来て、と手際よく動いたのは緩んだチンピラのようだった男衆だ。ローが自分の第二性を告げるとすぐに意図は伝わり、二人ほどが同じく女から離れた。彼らが救助する人間の中には当然DomもSubもいる。よく訓練されていると感心する。正直なところ、助かった。
二度目の嘔吐と共に女はガタガタとその身を震わせ始めた。出すものがなくなって嘔吐反射を繰り返す。水を含ませても吐き出してしまう。首にかけてやったシャチのタオルは水浸しになった。チームのロゴ部分にはローの鼻血。
緑色にコーティングされた爪が、鉄を引っ掻いては負けて欠けていく。スモーカーの部下がチームカラーの上着を被せる。覗く首筋は鳥肌が収まらない。一人に指示して店内へ走らせた。グループで来ていると聞いたはずだから本人の薬があるかもしれない。ペンギンなら緊急薬を持っていた。だが今夜はいなくてよかった。防御とはいえローもGlareを出してしまった。この女がただの酔っぱらいでないとすれば自分も一因だ。急性アルコール中毒とSubドロップは症状が似ている。直後に比べれば落ち着きを取り戻したものの、ぐるぐる回るだけのコンパスでは相手の第二性を判別できず、これ以上の対応は困難だ。救急車を呼ぶべきだとポケットのスマートフォンを探り、シャチに病院への緊急コールを指示した。
「先生、スモやんが呼んでる」と呼ばれ中に戻る。その部下は店への謝罪と説明を買って出てくれていた。状況の把握が的確なチームだ。試合は最後のイニングが始まっていたが、店内がいくらか冷静さを取り戻していることに安堵する。巨体を反らして座ったままの男は一見すると尊大で、頑丈な奴だとローは笑ってやるつもりでいた。
「あいつぁDomだ……」
スモーカーの声は今度こそ届いた。先ほど女を指さしていたのは、これを伝えようとしていたのだろうか。相手チームのチャンステーマが画面の向こう、聞こえはするが生音でない分、小さい。
「Domだと?」
「Glareが……出てやがる」
右手がまた空の胸ポケットを。待て、煙草じゃない。違和感を抱いた時にはスモーカーは服をぐしゃと掴み、一瞬眼球を上転させた。ぞっと背中に怖気が走る。
「スモやん!」
「スモやん!」
焦る声がいくつもあがる。相手バッターは犠打。救急車のサイレンが。
「心臓に毛が生えてるって言われねぇかよぃ」
回診に同行したマルコは呆れていた。当の患者はといえば、大きな口を開けて朝食の最後の一口を放り込んだところ。夜中の連絡にも関わらず駆け付けた補佐が購入してきたサンドイッチ、ロールパン、コロッケパンをすべて胃におさめたスモーカーはそれでも物足りなさそうな顔で勢いよくペットボトルの水を飲んだ。
マルコより少し下がった位置でその姿を見ていたローは複雑な顔になった。元気そうで何よりだがげんなりする。パンは苦手だ。
「先生、煙草が吸える部屋はねぇのか」
「ねぇよ!」
「ねぇよい!」
医師二人の声が重なった。ホテルじゃないんだ病院は。だが自らが寝かされている場所をホテル扱いできるほどに回復するとは脅威である。数時間前にはあわやという状態だったのに。突然死は年間八万人にのぼるともいわれているが、そのうちの数パーセントにSubドロップが含まれる。救急車で運ばれたスモーカーと泥酔した女はそれぞれ処置を受けた。第二性総合神経科をはじめ当番医総出で事に当たり、どちらも命を失うことはなかった。
「一応聞くが、調子はどうだい?」
顔に疲労の色が残るマルコが問うと、スモーカーは首をすくめて見せた。
「大したもんだよい。トラ先生と同じ科のマルコだ。ドロップ後しばらくは急変の可能性が残ってる。おれはSubだ、何かあったらちゃんとナースコールするんだよい」
「トラ先生?」
「あんたの主治医だよい」
マルコが寄れと手を振るがローはそれ以上ベッドに近づかなかった。近寄ることはできない。そこに見えない線が引かれているような、超えてはならないという恐怖にも似た隔たりがあった。ローはスモーカーに頭を下げた。
「すまなかった。おれがGlareを出したことはドロップにつながる行為だ。あんたの命を危険にさらすことになった。申し訳ない」
「先生もGlareが出てたのか」
「わからなくても無理はない。あの時店にいたDomの何人かが出していた。だが近くにいたのはおれだ。直接作用したといっていいと思う」
布団の上にスモーカーの手が投げ出されていた。その甲には点滴がつながれ、肘から先は病衣に包まれている。似合わないものを着せてしまったという事実が昨夜からずっと、ローの目の前にある。
「Glareってぇのは、目から出るんだろ。じゃあ先生のは関係ねぇな。後ろに目はついてねぇ。おれに当てたのは別の奴だ」
「そんなものは屁理屈だ。悪かった。主治医は変更してくれ」
驚く気配があった。これまでろくに病院にかかったことのない男だ、そんな発想はなかっただろう。患者の意思があれば可能なのだ。特にダイナミクスはデリケートな分野。主治医交代はそう珍しくもない。
死刑宣告を待つような気分でローは白いシューズの先を見ていた。確かにGlareは眼球から発せられるといわれている。近年の研究で、呼気や声にもその時同じ作用が現れるという説が広まりつつあるが、いずれにせよ体の前方に向かって出現する。ただ、だからといって後ろにまったく作用しないとは考えられない。あんなに近くで出されたものに対してSubがまったくの平常通りでいられるわけはない。少しでも患者に恐怖を与えたのなら、主治医を降りるべきだ。騒がしさにかき消されたとはいえ、スモーカーの声を拾えなかったことにも大きな後悔があった。
「……おれぁ、今までどおり、先生がいいんだが」
「そういうわけには」
「患者の意思は、尊重されるんじゃねぇのか」
顔を上げると赤い目とかち合った。診察室で以前ローが告げた言葉をそのまま返した男は、治療を託すと、そこに込めているように見えた。自分に都合のいいものを見ているだけではないか。だがこの強い赤色を疑うことは、患者に対して失礼だとも。混乱が生まれる。どちらに転ぶべきか、判断しかねている。
「食欲がねぇってカルテで見たが、いつもこれだけ食べてんのかい?」
オーバーテーブルに置かれたままになっていた残骸を、マルコが集めてレジ袋に入れた。
「いや、こんなに食ったのは久しぶりだ。腹が減る感覚も忘れてたんだが。今朝は頭痛もほとんどねぇし、ドロップしたってのにおかしな話だ」
それは昨夜緊急で行ったローのコマンドが効いたことを表す。一時的だがスモーカーのバランスを整え、ドロップから引き上げたのだ。男の主治医はお前だと、マルコの顔がそう言っていた。再度手招きされる。ローはおずおずと線を超えた。
「昨日は職場の人間に口頭同意を取るしかできなかったからなァ。あとで本人欄にサインをして看護師に渡してやってくれよい」
マルコが同意書をテーブルに置いた。緊急時のコマンド使用についてが書かれた紙をスモーカーはじっと見て、そしてローの顔に向き直った。薬だけで回復が見込めない時にはコマンドを使うことがあること、医療行為として認められていることをマルコが補足する。
「先生のコマンドは入ったのか」
「入ったから今意識があるんだよい」
大きな手を閉じたり開けたり、右と左とたっぷりその動きを確かめてから、スモーカーは言い切った。
「主治医はトラファルガー先生のままで頼む」
それは、この性を持つ医師であることにこだわってきたローにとって、最上級の言葉だった。
女については被害届を検討することもできる旨をマルコから伝えられたが、スモーカーはしなかった。ただでさえ通院に手間を取られているのに、さらに面倒ごとを増やしたくはないという言い分にマルコは食い下がったが、こればかりは本人の判断だ。
女とは病棟が異なる。カルテに接触禁止と書き加えられ、スタッフ間で申し送りもされる。あちらはあと二日ほどで退院を予定されており、おそらく顔を合わせることはないだろう。マルコと同じく所属科の先輩医師であるロビンの診断だ。彼女はDomで、Glare教育プログラムが患者の入院期間中に設定されていた。
そうなれば、くるだろうと思っていた。
「おれはもう帰ってもいいか?」
スモーカーの今いる場所は救急病棟だ。この様子なら今日の夕方にでも、一般病棟に移れそうではあるが。
病気やケガの治療には、診療計画というものがある。入院期間が何日間あり、その間にどのような検査、治療を行い、退院時にどこまでの回復を目指すか、食事の内容や排泄に関することまで細かく設定される。
「Subドロップの患者は、軽症で五日間、重症で十日間のコースに主に分かれている。あんたは重症だったからな、普通は十日入院だ」
下唇を噛んだ歯の隙間から、スモーカーはふーっと長く息を吐いた。煙草をふかす時の癖だろう。昨日の外来診察より肌が整っているのは点滴のおかげだし、同時に流しているダイナミクスの安定剤を切れば食欲はまた減退する。それを防ぐために、計画の中にはカウンセリングと役割行動療法が通常であれば組み込まれている。ほかにも、服薬指導、栄養指導、併せて定期検査。はたしてこの男の同意が取れるかどうか。さきほどの同意書に重ねて計画書を見せながら、どの患者にも行う一通りの説明をした。
その後ローは呼び出され、救急外来に舞い戻った。水曜は救急当番だ。スモーカーの返事は聞けずじまい。許可は出していたので、一般病棟にうつったという連絡は看護師から受けた。カルテに抜針の指示を入れたので落ち切った点滴も終わったはず。退勤前にもう一度顔を出そうかとも思ったが、考える時間が必要かもしれない。主治医の継続を希望されただけで今日は十分。医局の窓から見る空は黒く、駐車場の植え込みがかすかに揺れていた。急患が続くと時間が過ぎるのが早く、昨夜の続きの夜のようにも思えたが、誰かの机に置かれているスポーツ新聞には昨日の惜敗が踊っている。
当直のレジデントと交代し、結局病棟には上がらずローは職員通用口を出た。消灯時間をまわっていた。どうせ明日の朝、回診する。試合の結果を目にしてから急に全身が重く、それもそのはず、昨夜は帰っていない。夜も昼も興奮状態だっただけで、確実に疲労は積み重なっていた。一日進むごと気温の下がるのを、ジャケットの前とリュックの紐を一緒に握ってごまかしながら、さっき上から見た駐車場の脇を通りすぎようと。そこで足を止めた。
「院内はすべて禁煙だ」
素行の悪い患者が手に持っていた煙草をポケットに仕舞うのを見た。暗闇でも目立つ白髪。ごまかしようのない紫煙。今朝からの感慨は消し飛んだ。
「いいか、駐車場も、中庭も、屋上も、当然病棟内も、すべて禁煙だ。だからといって院外に出ることも許さねぇ。出るなら自主退院だ。廃人になりてぇのか」
体調が悪いと口調もつられがちだ。退勤はさっき打ったしスクラブも脱いだ。これくらいは許してほしい。たとえ仕事ができたとしたって、病衣からはみ出た足首に靴下も履かないこの不良患者は。一気に血の昇った頭で、煙草が体に及ぼす害について教科書に載っていることから最新の肺の症例にわたってまくし立てた。だいたい消灯と同時に各所の出入り口はロックがかかるはずだ。開けられるのはパスコードを知っている職員と警備員。
「なんでパスコード知ってんだ」
「同部屋になった爺さんに聞いた」
入院中の高齢者の中にはなぜかそういうのを嗅ぎつけるのがいる。監獄に入れられたって生き延びるタイプだ。悪びれもせず言う男にはますます腹が立つ。いっぱしのコミュニケーション能力を発揮してんじゃねぇ。診療の時にはしなかったくせに。
「そんなに医者の言うことを聞きたくねぇなら主治医はこっちから断る。ダイナミクスもだが、そも診療は患者と医者の信頼関係で成り立つもんだ。おれはおりるぞ」
おしまいの方は子どもの癇癪のようだった。自分ではそこまでと思っていないのだが、ペンギンにもシャチにも、ドフラミンゴにさえ、「根が真面目だから小出しにしておかないと、キレると面倒」と言われたことがあった。
「わかった、わかった先生。俺が悪かった。ベッドに戻るから、勘弁してくれ」
ふうふう息をつくころにはもう寒さを感じなかった。スモーカーはびっくりした顔で両手を上げて降伏し、煙草をローに投げて寄越した。明日たしぎに連絡をして、上司と部下の管理をしっかりしろと言ってやる。吹き付ける夜風になお肩を上下させると男はきまり悪そうに頭を掻いた。
「悪かった。治療を続けてくれ。仕事に戻りてぇ」
「だったら入院中ぐらい禁煙しろ」
「わかった、わかった」
本当にわかっているのか怪しい。看護師に時々見張るようにと明日の指示出しを忘れてはならない。ローは受け取った煙草を雑にポケットに突っ込み、犬を追い払うようにして、建物に入れと促した。スモーカーはおとなしく背中を見せて歩き出す。ちゃんと中に入るのを見届けるまでそこを動かないローを、大きな体が振り返って。
「先生歩いて帰るのか」
「だったらなんだ」
「医者ってのは外車なんかに乗ってるもんだと思っていた」
「車は嫌いなんだ。免許も持ってねぇ」
そうか、と言った声は低く、さらに、おやすみ先生、と続けた。反省の意を示したつもりなのか、宥めたつもりなのか。ちゃんと寝ろ、と返すものはもう出てくることはなく、ローはリュックを背負い直し、スモーカーの後ろ姿を見送った。
翌朝、病棟を抜け出した患者は病棟師長に怒られ、科長の医師に絞られ、担当薬剤師、担当看護師、警備員にまで小言を言われたらしい。一度心臓が止まるほどだったのだから、これを機に煙草はやめてみたらとも、言いつのられたそうだ。
脱走者に対して行われる儀式が終わってから回診に訪れたローの前には、太い線の字で署名がされた診療計画書が置かれていた。
一度やったのなら二度も三度も同じだと、ベッドに胡坐をかいてローを見上げた男は、変に強張っていたり、汗ばんだりしている様子はなかった。朝は出された病院食を三割ほど。昨日の食べっぷりから比べるとやはり落ちてきている。一度目だと言ったプレイの時、本人の意識はなかったはずだが、それを一度とカウントしたあたり、昨日の朝は調子がいいと自覚できていたのだろう。
昨夜の姿から、禁煙は到底難しいとローは踏んでいた。大部屋での集団生活にはすぐに馴染めたようだが、どうせ帰らせろと言うだろうと。入院継続が難しいなら、外来診療に切り替えることも正直考えていた。カウンセリングをすすめるところからやり直すつもりで。
同意書を受け取って、ローは計画書どおり、役割行動療法の導入を決めた。
入院患者のケアは二階に降りて行う。三つ並んだ相談室のうち、ひとつはケア外来が水曜をのぞく四日間、朝から夕方までほとんどずっと行われている。ホルモンの分泌に関わる臓器に疾患を抱えていたり、薬にアレルギーがあって服用できるものがなかったり、精神疾患から安定をはかることが困難だったりと、薬物療法だけでカバーできない症例のケアを行っている。何年も定期受診する場合もあれば、数か月で卒業できることも。木曜の担当医はマルコだ。
残る二部屋のうち一つがカウンセリング、こちらは月曜から金曜まで毎日。もう一つの相談室が入院患者や、飛び入りで入るケアを行う場所だ。
「よろしく頼む、スモーカーさん」
「ああ、頼む」
診察室にあるものとほぼ同じセットの椅子に案内されたスモーカーはやや緊張していた。壁づけの机にはカルテ用のパソコンが置かれてはいるが、ケア中はあまり触らない。ローは外来と同じように座り、椅子を回して患者と真正面で向かい合った。カーテンの開けられた窓から、午前中の光がやわらかく入って明るい。
「服は着たままでいいのか?」
「なんだって?」
スモーカーはそわそわと部屋のあちこちを見ていた。机の上に並ぶ、いくつかの道具、そして数歩離れた位置にある、ローテーブルとソファ。診察室にはないその存在が、通常診療とは違う場所だと印象付ける。居心地の悪そうな男に、驚きのまま問いを重ねた。
「あんた、たしぎさんとプレイしたことがあるって言ってただろう。服を脱いだのか?」
「いや、業務報告のついでにひとつコマンドを言う、ぐらいしか」
「服は着てただろう」
「そうだが。あれは業務の延長みたいなもんだからな。ちゃんとしたプレイをするときは脱ぐもんかと」
小学校の保健医が泣き出しそうな台詞だ。
「例えば夫婦や恋人といったパートナー同士で、性行為にプレイを持ち込む場合は脱ぐがな。普通は着たままする。救急外来でやった時も、服は着ていた」
机に立ててあるいくつかの本のうち、プレイの基本が書かれたものを開いて見せた。これは子どもの診療時にも使う。基本姿勢やセーフワードについて図も使われていてわかりやすい。スモーカーは真剣に読んだ。まさかここからとは。
「おれたちが持つ、コマンドを使ったコミュニケーションをしたい、という欲求はホルモンの働きからくるものだ。ダイナミクスが強く発現している人間は、これをすることで幸せホルモンと言われるものの分泌が活発になる。まぁ、ここの相互関係については日々新たな研究がなされているところだし、なぜそんな仕組みが人類に備わっているのかもわかっていないが、つまり、お前が思っているようなものじゃない。プレイはセックスじゃねぇ。気を楽にしろ」
ケア外来を渋っていたのはそのせいなのか。さっき本人がサインした同意書にも、緊急時に使用するコマンドは身体的接触を伴わないと書かれていたはずだと苦笑する。スモーカーはプレイを始めるときの基本的なルール、スタートポジションの例のいくつかを眺めた。太い指で慎重にページをめくっている。興味を持つことは自らの第二性を知る一歩だ。
DomとSubのコミュニケーションについての、ああいった反応は、背後に家庭や育ちの問題を抱えている患者にみられる。特に、第二性が現れ始める第二次性徴のあたりから二十代前半までの若い世代において散見される。三十代後半になるまで改める機会のなかった男がコマンドを使った治療を嫌うのも無理はない。やはりカウンセリングも必要だろう。高齢者世代においては誤った認識を持ったままの人間は少なくなく、しばしば世代間で軋轢を生む。
「だが、そういう意味のコマンドもあるじゃねぇか」
何度かページをめくって目的のものが見つからなかったらしく、スモーカーは顔を上げた。初等教育向けの入り口となる本には記載されていないが、“strip”や“present”など、セックスコミュニケーションでよく使われるものは確かにある。
「例えば、外から帰って上着を脱ぐ時に“strip”、新しくなった髪型を見せてほしいときに “present”、といった使い方もできる」
結局どんなものでも、誰が使うか、どう使うかだ。言葉に力を持たせるのは自分たちで、コマンドとはツールなのだから。理解の追いついていない顔が少々おもしろく、「これは教科書には載っていないんだが」とローは丸いフォントとカラフルなイラストの本を閉じた。
「コマンドは、増やせる」
元々“kneel”や“come”など、いくつかしかなかったものたちは、それぞれのコミュニケーションを深める中で新しく生み出されたものが一般化し、現在では多岐にわたるようになった。
「パートナーとの間だけで通用するコマンドを持っていることは珍しくない。互いに信頼があれば、実はどんな言葉だってコマンドになる」
遠い記憶の中にローも持っていた。今はもう、秘密を共有する相手はいない。
スモーカーは反応に困っている様子だった。眉間に皺が寄っている。情報過多にしてしまった感は否めない。ここから先は、実践でひとつずつ、本人の理解に落とし込んでいく作業だ。
「やっていく中で掴めばいい。ひとつコマンドをやってみていいか」
「……構わねぇ」
「まずセーフワードを決める。使ったことのあるものでもいいし、日ごろよく口にする言葉なら何でもいい。言いやすいことが一番だ」
男は「たしぎ」と言った。人の名前を設定することもなくはないが、ではたしぎとのセーフワードは何だったかと聞けば、「一一八番」だと答えたので笑ってしまった。よく貼ってあるものが目につくのでそうしたらしい。決め方として間違ってはいないのだが。
セーフワードが決まれば、はじまりの姿勢を取る。さっきスモーカーに見せた本にあった、向かい合って座るポーズはすでに成り立っている。他にも何種類かあるが、外来では最もよく使うものだ。患者も慣れた雰囲気で始められる。
「使うコマンドは“look”だ。いきなり相手と目を合わせるのはハードルが高いから、見るのはここ」
ローは胸ポケットに差してあるクマのモチーフを人差し指で撫でた。パートナー同士でやるのと違って、探り合うような、ここでの初回のやり取りは、事前にコマンドを提示しておく。目を眇めたスモーカーは、への字の口で頷いた。
「じゃ、始めるぞ。“look”」
元々そこへ目線を促されていたから、男はじっと見つめることを続けた。眉が寄って、間に山ができる。膝の上に置かれた手が、軽く握られる。将棋でも指す老人のように背はゆるやかに丸くなって、少し前のめりに。力むべきか緩むべきか、筋肉は脳の信号を待って、迷っている。初めてによくある反応だ。
「“good” 一度目を離そう」
手でクマを隠すと、患者はぱち、ぱちと二度大きく瞬きをして、ぐっと目を瞑った。右の手の平で顔を擦ったのち、スモーカーが瞼をそろりと開くと、顔を出した赤目は所在なさげだ。特定の場所を見るな、と指示されたとき、何処に目線をやっていいか、やや迷う。プレイ中のSubは正解を探したがる傾向にあるため、なおさら。
「気分はどうだ、おかしなところはないか」
「ねぇ。ねぇが……」
「どうした」
「これがコマンドか?」
「そうだ。コマンドの通り、あんたは示されたところを見て、おれはリワードを言った。知っての通り、これが基本の流れだ」
仏頂面は不満を漂わせている。ケア外来に来る患者はこの初めての一プレイに大きな期待を抱いていることが多い。この男は無意識だろうけれど。そしてはじめのコマンドで狐につままれたような感覚になるらしい。もっとずっと深くまで無遠慮に掴まれるようなやり取りがなされると思っていたと。人間と人間の信頼は一朝一夕には築けない。たった一度のコマンドなどでは。これは決して魔法の言葉では、ない。
「もう一度同じことをやる。今度は呼吸をそろえたい。吸って、吐いて、おれもやるから、これに合わせて」
立ててあった本の隣からメトロノームを出した。ピアノ教室にあるようなのより一回り小さく、木目の刻まれたもので、騒がしくない。ゆっくり左右に振れる針がかち、かち、と心地よい音を鳴らす。この部屋には、こういった小道具が置かれている。
スモーカーは針をじっと見ながら吸って、吐いて、と繰り返した。やりやすそうな程度に速度を落とすと、やはり息が長い。この男が潜水するのかはわからないが、体格や筋肉量からみてそうだろうとは思っていた。ドロップの時の方が息が上がっていて合わせやすかったようだ。
苦しくなったらセーフワードを言うよう伝えて、今度はテンポを少しあげた。律儀な目線がおとなしくメトロノームの針について左右に振れる。初診の時にも思ったが、意外に素直なところがある。ふう、すう、と空気の動く音がする。子どもを眠らせてしまうような、穏やかな呼気。全身に酸素を巡らせるための、生き物の音だ。血管が開いて、頭へ、四肢の末端へ、行き渡る。ローはギリギリ自分の息が続く程度に調節して、胸郭を開いた。しばらくやると慣れてきた男はメトロノームから目を離して、壁や机の天板を眺め始める。集中が眼球から鼓膜へうつる。あたたまってきたであろう指が開いて、膝頭を包んでいる。
「“look”」
スモーカーは目を丸くした。ローは自分の顎髭を指していた。人差し指でとんとん、と強調する。実際は音など立たない。メトロノームが響き続ける。規則正しいそれに割り入って、指が肌を叩くDomの音はSubの鼓膜を揺らす。
「“look”」
広がっていた瞳孔が絞られた。固い毛質の髭を一本一本見分けるほど強く向けられる意識。毛先に火が点けられる。「入った」と小さく言うとスモーカーはゆっくり頷いた。呼吸は一定のまま続けられている。
ローは指を顎からずらし、輪郭にそってのぼらせると頬骨の少し上を叩いてコマンドを重ねた。
「“look”」
それは直射日光を見るのと似ている。目を傷めない程度まで遮光ができるのは自らのダイナミクスだ。ローは閉じかけた瞼を上げ、調節もされぬままにぶつけられた強い光線を捉え直す。スモーカーの赤い虹彩は光に透けて、中央の少し濃い色がびたりとローの瞳に照準を合わせている。最初は眩しく痛みを覚えるようだったそれは、こちらもピントを絞ると直線上で手を繋いだように結ばれた。さっきより遠い、乱れのないテンポと呼吸。悪くない。
「“good” ありがとう、上出来だ」
リワードがその場に落ちると椅子の上の巨体は体を震わせた。お、と思う間もなく、がたんと大きな音をさせて勢いよく立ち上がる。こういう時のため、患者が掛ける椅子は、キャスターのない、足が重いものになっている。
「もう息はそろえなくていい。“good” 休憩しよう、“good”だ」
重ねたコマンドと同じ分リワードを繰り返すと、溜まっていた空気を腹の底からすべて吐き出して、スモーカーはすとんと座面に落ちて収まった。
「調子は悪くないか」
「悪くねェ……たぶん」
回復したての、昨日の朝と同じように、何度か両手の開閉動作をしてスモーカーは首を傾げた。ドロップからの復帰は、半ば力業で引っ張り上げるような働きかけであり、沈んでいた分、瞬間的な回復は大きい。自覚症状に疎いこの男でもその変化がわかるほどに。あくまで一時的なものだ。それに比べれば、このわずかなコマンドで生じるホルモンバランスの変化は顕著に体にあらわれるものではない。違和感を問うと、首を横に振った。
血圧と脈を測るため触っていいかと声をかける。体温や皮膚の表面の情報はプレイの参考になる。許可を得て直に触った二の腕はあたたかく、動脈は勢いよく拍動していた。血圧は高めだが許容範囲。パソコンの方へ向き直って記録する。
「なにかおかしいところがあれば、すぐに看護師に伝えてくれ。明日には、前に出した薬のアレルギーに関する採血結果が出揃うから、結果を見て処方内容を変えておく。ちょうど入院中だからな、何かあっても対応できる」
「やっぱり十日いねぇとだめか」
普通ならそうだが、ケア外来の継続と服薬指導に沿った日々の内服を約束できるなら早めることは可能ではある。スモーカーはせめて短い方のコース、五日で退院させてほしいと言った。救急へ運ばれた日から今日で三日目。残り二日で帰らせろということだ。
「海上勤務はまだ許可できねぇぞ」
「陸でもやるこた山ほどあるんだ」
たった二度のプレイで調子に乗るなと言いたいところだが、三十代といえば働き盛り。職場に穴を空けられない、空けたくないと主張するのは何もこの男だけではない。上司があまり長く不在にすると部下にも影響するだろう。たしぎは困るに違いない。ただ、こちらとしてはせっかくの機会に集中して治療したいとも思う。
しばし悩んだ末、通常診療とケア外来に通うことを条件に、あと三日での退院を提案した。明日届く結果を見て、明後日の朝から薬を変更、その日は様子をみて血液検査とバイタルに問題がなければ、翌日出してもいい。
助かる、と表情を明るくしたスモーカーに通院頻度を示すと再び顔をしかめた。退院二日後の火曜に外来予約、同じ日に臨時でケア外来も。その次が金曜、そこから、数値が安定するまでは毎週だ。
「もう少し減らせねぇか」
「無理だな」
これ以上は譲れない。しかめ面にはしかめ面。先ほど結んだ目線を意識しながら一歩も退かないとねめつけた。何か言いたげだがスモーカーの顔色はいい。次の血液検査が楽しみに思えるくらいには。今、きちんと通えば、後々ここに来る必要はなくなるはず。
「わかった。……サインしたしな」
白髪をかきむしって患者は天井へ視線を逃がした。ローは自分の血管内もあたたかくなるのを感じながら、残る入院中の指示と外来予約を打ち込んだ。
「経過が落ち着けば、ケア外来の回数は徐々に減らせる。最初をとにかく協力してほしい。好きなコマンドはないと言っていたが、絶対にやりたくないものはあるか?」
身体接触を伴うものはケア外来でも使用しないから、それ以外で。病院は風俗じゃない。“roll”も“lick”も普段から使うことはない。
「……“kneel”」
嫌そうに吐き出されたものが予想通りのコマンドで、ローは笑い出しそうになって堪えた。部下を多く率いる立場だからだろうか、それとも元々の性格か。DomとSubのコミュニケーションでなければ発生しない姿勢だ。客観的な見た目はよくて世話係、悪ければ犬といったところ。慣れていないSubは嫌がるし、この男はこれに慣れることなどなさそうだ。非接触コマンドのひとつなので希望があれば使うことはある。
「そんな顔をしなくていい。嫌いでも苦手でも診療のための情報だ。教えてくれて助かる。嫌なものは嫌で構わねぇんだ。虚偽なく教えてくれればそれで問題ない」
「そうか」
「そうだ。“kneel”は使わない。カルテに書いておく。約束だ」
時間だった。ケア外来は三十分と決まっている。あまり長くやったからといって比例して効果が出るわけではないし、人間の集中力は限られている。コマンドが入ることは確認できた。通院の約束も。部屋にあがってすぐの昼食は朝と同じほどかもしれないが、夕食か明日の朝食はおそらく多少進むはずだ。そうすれば通院頻度にこれ以上のケチはつかない。
今日のカウンセリングでこの件はペンギンに報告しようとカルテを閉じた。終了を告げる。スモーカーは拍子抜けだと片眉を上げた。
「これだけか」
「初回なんだ、コマンドはひとつだ。一度にいくつもやると酩酊状態になることもある。万が一それで転倒なんかしたら大変だろ。本人がどれだけ自分の不注意で転んだと主張しても、病棟での転倒はインシデントだ。あんたもスタッフもみんな困る」
だから今日はおしまい。本もメトロノームも元の位置に戻す。陽はそろそろ真上。午後からは直に太陽光が入る向きの室内はもっと暖かくなる。カーテンを閉めておいた方がいい。スモーカーが立ち上がるのをローが待っている間、男はずっと胸ポケットのクマを見ていた。
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