どんなに綺麗ごとを並べても、Dom性は医師をやるうえで自分にとって有用だとローは感じていた。優秀なドクターであるために、使えるものは何でも使う。そう思う一方で、この性の傲慢さに時々嫌気がさすこともある。
「目つきが悪いよい」
おにぎりを選んでいたローの横へ立ったのは、同じ科に所属する先輩医師のマルコだ。
「うるせぇ、元々だ」
「トラ先生、カウンセリング木曜だったよなァ?」
「そうだが。ちょうどよかった、薬出しといてくれ。片方、一段階上げたやつで」
勤務するスタッフには福利厚生のうちにカウンセリングが含まれる。もちろん薬の服用は義務付けられているが、外来診療や患者とのプレイ――ここでは役割行動療法ということもある――において発生する医師やカウンセラーの負担軽減のためだ。定期的に受けることが職務規定に書かれており、ローはケア外来前日の木曜日をその日に決めていた。
「いいのかよい?」
「すぐ戻すから一週間分でいい」
医師は自らの処方はできないことになっている。それは科内で不調の者を早期に発見できることにもつながっているが、処方箋を書いてもらうために他の医者をつかまえなければならないのは面倒だった。仕方のないことだが。
「カンファで挙げてた奴かよい?」
マルコが生姜焼き弁当とパウチのパイナップルを取る。ローが枝豆と昆布を混ぜたご飯のおにぎりを手にするとしかめ面をした。豆は嫌いだと知っている。今日の昼はこれとおかかに決めた。新発売の明太子クリームチーズにも惹かれたが、あいにく気分じゃない。野菜ジュースとコーヒーも一緒に購入して院内のコンビニを出る。窓のない店から出ると中央待合ホールは目が開けられないほどだったが、外は昨日の雨を引きずってひどい湿度だ。気圧の変化は自律神経に影響する。ダイナミクスも乱れやすい。
「カルテ見たけどよい、なかなかだなァ」
「ケア外来に引っ張った方が早いんだがな、理解が得られそうにない」
「ろくなプレイしたことねぇんだろうよい」
「そっちの新患もだろ?」
「ああまぁ……そうだな」
マルコはSubだ。スモーカーと同じく北部総合病院を初診だった女性は家庭内暴力から逃れてシェルターに在住しているSubだそうだ。本当は女性医師がよかったのだろうが、あいにく女性Subのドクターは現在いない。毎回施設スタッフが受診に付き添うし、診察時も女性看護師同室で行うことで成り立っている。
二人そろって大きくため息をついた。患者でごった返すホールでする行動ではない。待合全面のガラスの向こうは灰色の曇り空。降るよりいいが、気分が上がらない。すごすごと医局に引き上げた。
「一日早めてもらった方がよくねぇかい?」
昼食後のゴミをまとめているとマルコが言う。
「カウンセリングを?おれはそんなに出てるか、こう、いろいろ……」
「わかってんならどうにかしろよい。薬は言う通り出してやるからよい」
マルコの心配はもっともだ。昨日の外来は大層疲れた。簡単にドロップしそうにはないのに、Glareかと間違うようなごうごうとしたスモーカーの目にはひやりとする。ローはDomなのでGlareをぶつけられても受けられるが、すすんで浴びたいものではないし、Subを崩しているという感覚は急速にホルモン値を乱す。
だがカウンセリングはスタッフ含め患者のスケジュールが細かく組まれている。専門科を備えた病院は少なく、予約はいつでもパンク状態。よほど緊急の場合をのぞき、変更は気が乗らなかった。
マルコもそれ以上強くは言わなかった。ローのカルテに処方箋を登録してくれる。今日こそは十七時までに取りに行こう。
欠伸をしながらゴミをまとめた袋の口を結ぶと横から攫われた。
「今日当直入りだろうよい。仕事するんじゃねぇ、お前は仮眠だよい」
「でもせっかく当番入ってないならデータまとめたいしな……」
食後の予定は空けてあるが、やろうと思えばやることは山ほどある。
呆れた目を返されたが、みんなお互い様だろう。ゴミ箱へ立つ背中を見届けて、潤んだ視界を擦った。
胸に入れている端末が鳴ったのはスリープしていたパソコンの画面が立ち上がったとき。
「トラファルガーだ」
「先生緊急です、八階外科病棟お願いします!」
電話を切るとすぐに緊急放送が院内に響いた。マルコと共に駆け出す。四人部屋にはすでに六階や七階から応援が集まりごった返していた。ベッドの患者は心電図モニターを取り付けられるところ。心臓は動いているようだが呼吸は促拍しており、マスクを被せられている。患者は女性、胸のあたりを握りしめて球のような脂汗をかき、目は虚ろだった。
めくれたカーテンに追いやられるように、身内とみられる男が腰を抜かして座り込んでいた。看護師のひとりが気づいてそちらは声をかけている。
「ドロップだ先生!」
主治医はローとマルコを認めると片手を挙げた。ドロップと聞いてすぐにマルコがスタッフをかきわける。ローは側の看護師からカルテを借り、緊急時に使う薬剤のオーダーを。
「何があった」
「昨日オペだった方で、さっき食事再開だったんです。ご主人が餌付けしようとしてうまくいかなかったみたいで」
取り付けられたモニターから警告音が上がる。心臓の医師が脈を鎮める薬剤の投与を開始した。カルテにざっと目を通すと開腹はしていない。手術そのものはスムーズに終わっている。術後管理もセオリー通り。並存疾患はない。日常的に飲んでいるダイナミクスの薬も取り立てて変わったものでもない、低用量。
脈が戻ったのを確認して、主治医の声かけで意識の混濁している患者を移動させる。処置室にはローはまだ入らない。呼ばれて到着したカウンセラーのペンギンを連れ、マルコが看護師と共に入った。
「食べさせてほしいって言うからやったんですけど、うまくいかなくて、こぼすし、口が開くタイミングが全然合わなくて、こんなこと初めてで」
扉の外で夫とみられる男は椅子をすすめられ、つっかえながら事情を話した。こちらも顔は青ざめ、膝が震えている。看護師に背中をさすられて呼吸を落ち着けようとしていた。ドロップはパートナーのDomも大きく乱される。
二人はDomとSubの夫婦、数年のパートナー歴があるとの情報はカルテから。遡るとこれまでダイナミクスに大きな問題はない。
「お互い焦ってしまって、コマンド使ったら酷くなって……っ」
「病棟での許可のないプレイは認められていない。入院説明の時に聞いているはずだ」
「すみません!どうにかしないとって思ったら、制御できなくなって」
看護師にこの男への点滴も指示して、ローは横に座った。
「パートナー同士のプレイはプライバシー性の高いものだ、大部屋で許可もなくすることじゃない。餌付けが成功しなかった時点でナースコールすべきだし、餌付けもダメだ」
「だけどっ、俺のSubだ、俺がどうにかしないと!」
「そうだ。最大限どうにかできるのはあんただ。だがここは病院で、それは自宅ですべきだった」
男が拳を二つ握りしめる。Glareを出さないあたり、定期内服はきちんとできている。焦りと不安から落ち着きはないが思考能力は十分にある。そう判断し、ローはペンギンから渡されていた同意書を出した。
「今、中で主治医と、Subのスタッフで処置中だ。だが意識が回復しない場合、Domの医師によるコマンドを使う場合がある。家族の同意なしにはできない」
「パートナー以外とプレイするってことですか?」
言葉にじわりと怒りがこもるのがわかった。当然の反応で、いつものこと。さっきまでの厳しい口調を避け、ローはゆっくりと話す。
「そうだ、専門の免許を持った医師に限り、医療行為の一環として認められている。役割行動療法という。パートナー同士でするような、体の接触を伴うコマンドは使わない。そこに書かれているものの中から患者の様子を見ながら使う。依存性はない」
「依存性はない?」
「ない。疎通が取れた時点で終了する。どうしても同意できないなら、このまま退院して、帰宅後に自分でプレイするということも選択できるが、その場合患者の状態が戻る保証はできない」
こちらがどれだけ経験を積んでいても、患者と家族はその時その時が初めてだ。この同意を取るのは毎回骨が折れる。同意を取って、結局コマンドの出番なく回復する例もある。ローだっていつもそれを願いながら説明をしている。
「わかり、ました」
激昂するDomもいるというのに、この男は震える手でサインをしてくれた。看護師の初期対応がよかったおかげだろう。ローは同意書を受け取り、点滴の準備を整えた看護師に男を引き渡した。終わるころにはこちらも終わっているだろう。重ねて協力への感謝を伝え、ローはようやく処置室へ入った。
ロー、ロー。うっすらと呼ぶ声がしている。ロー、ロー。自分の名前は繰り返して呼ばれると、音が丸まってころんころんと転がっていくような心地がしておもしろい。初めてそれに気がついたのは、月に一度届く本でルーブ・ゴールドバーグ・マシンと出会ったときだ。
朝は毎日、家族の誰かに起こされていた。本を読んで、パズルを広げて、新しい問題を解いて、もう少しもう少しと子どものくせに夜更かししてしまうローは当然起きられない。糊でつけた瞼は声をかけられたくらいでははがれない。起きてる、という声も喉にはりついたまま。そのうち体を揺すられる。肩に置かれる手の大きさ、温度、揺らし方がそれぞれ違って、今日は誰だろう。揺らす前に一度、頭を撫でるのは。
「ローさん!ロー!」
激しく机が鳴ったのは膝が打ったからだった。反射で力のこもった手が痛んで、そこから覚醒していく。「キャプテン、手」と言われて見ると拳の中で潰されたスチールの缶が最後の抵抗とばかりに手の平を刺していた。ペンギンが看護師を呼んでいる。手、と言ったのは薬剤科のウニ。薬袋を持っている。また十七時をすぎてしまったのだと思い至る。
「あんたね、ピッチの電源切るくらいなら帰りなさいよ、当直明けだろ」
「悪い」
「悪いと思ってんなら改善しろってんだよ!薬!あんたが見つからなくてウニが困ってたからな!」
「いやおれは」
「悪い」
ローはそれしか言えなかった。喉の奥が気泡で埋められたよう。医局の冷蔵庫に常備されているコーヒーを潰していたのは右手で、左手はガーグルベースンにひっかかっている。顔色の悪さを見かねた看護師に押し付けられたのだ。横のゼリー飲料とエナジードリンクは、自分で持ってきた兵糧だ。怒ると敬語を崩すペンギンが、鼻を鳴らす。
「吐いた?」
「て、ねぇ」
「キャプテン先週処方があったばかりなのに内容変えたんですね。すぐ飲みます?」
ウニの変な呼び方はシャチのせいだ。薬剤師のウニと、放射線技師のシャチとハクガンはウマが合うらしくよく飲みに行く。
渡された薬袋は二つ。昨日結局取りに行けなかったものと、今朝マルコに頼んでさらに追加で出してもらった頓服だ。ゼリー飲料で喉のつっかえを押し流して空腹を誤魔化し、薬を含むと、ペンギンにペットボトルの水を渡された。用意がいい。
「なんでこんなとこで寝てんですか」
背の高いウニに覗き込まれると圧迫感がすごい。ペンギンは慣れたものだが鼻息が荒い。二人に睨まれて胃が縮こまる。こちらはこちらで、まだ空っぽだと不満を訴えている。
「仮眠室はトイレが遠いんだってさ」
「おじいちゃんじゃないですか」
「うるせぇな、どこで寝ようがおれの勝手だ。それにデータ整理してただけで寝ようと思ったわけじゃねぇし」
「キャプテンそれ気絶です」
どうせ仮眠室で横になっても簡単には眠れない。寝付けない数時間を寝返りで過ごすより、数字を追う方がいい。だが疲れていると医局は落ち着かない。ダイナミクスも乱れている今は神経が過敏になっていて、普段は気にならない話し声や電話の音、冷蔵庫のモーター音までもが耳に触って集中できない。
それに、ここであれば、寝てしまっても、非常時には外来看護師が声をかけてくれる。今も、あらあら、と言いながら処置セットを持って来た。
手は幸い薄皮一枚裂けただけで、出血もしていない。冷やすかと聞かれて断った。痛みが強かったのも痛覚が不具合を起こしているのだろう。ついでに測ってくれた脈はかなり早く打っていると言われたが、こちらは自覚症状なし。
普段のローでは潰せないスチール缶は無残にへしゃげていた。ウニの手によって持ち去られる。暴れるDom性の形。誰かを支配したいなどとは思わないが、心臓が焦げてぐずつき、癇癪を起こしているような、説明しがたい感覚は昨日からずっとある。
退勤時間を迎えた看護師が一言挨拶を残して帰っていく。廊下が薄赤く染まっていた。思ったより寝ていたかもしれない。今日は晴れたんだな、と呟くとペンギンにクマペンで頬を一突きされた。
「歩ける?カウンセリングの時間ですけど」
どうしても負担の大きくなるケア外来を万全で迎えるために、ローはいつも木曜最後の枠で受ける。時間になっても来ないことに付き合いの長いカウンセラーは事情を察してわざわざ迎えに来た。その途中でウニを拾ったというわけだ。
水曜午後の病棟急変がすっかり落ち着くころには夕飯時で、そのままローは当直に入った。夜間の呼び出しは二回あったがいずれの患者も症状は軽く、屯用の安定剤投与で帰宅。朝のカンファレンスに参加し、日勤帯にシャワーを浴びて、レジデントの相談に乗った。いい加減にしろよいとPHSの電源を落としたのはマルコだ。ついでに没収されてしまった。それでも帰る気にはなれなかったのは、交感神経の興奮による。データ整理に取りかかって結局この有り様。水曜の当直に当たると珍しいことではない。どうせカウンセリングのために病院に戻るのだからずっといたっていいと思う。退勤は打ってあるから構わないだろうと溢したら、ペンギンに一時間説教されたことがあるのでもう言わないことにしている。
動きたくないならここでするというから甘えることにした。コマンドを使うケア外来と違い、カウンセリングは話ができればいい。小道具は必要ない。診察室はローのホームでもある。
いつもは患者の座る椅子を引っ張ってペンギンが座った。
「八階の女性ね、昼前には一般病棟に戻れたんですよ。パートナーの方は昨日の点滴でだいぶ戻ったみたいで、落ち着いて待たれてました。覚えてます?」
覚えている。処置室の中で、鎮静剤とダイナミクスの安定剤を投与されながら、彼女は濁った目をうろうろさせていた。意識的ではない、不随意運動。緊急時に使えるコマンドは限られている。セーフワードもない。聞こえていなくとも一言謝罪して目を合わせる。コマンドを発すると、溺れかけの人間にしがみつかれたようになる。重くて苦しい。思うように動けない。鍛えられた泳者でも気を抜けば引きずり込まれて心中だ。向こうはこちらが誰かもわかっていない。患者に合わせた呼吸は忙しく、ところどころ途切れる。水難救助に例えたのはあながち外れではない。
振り返って順に話した。カウンセリングは精神科で行うものを基にプログラムされている。患者はプレイのことや、ダイナミクスに絡んだ日々の困り事を吐き出す。今置かれている状況、困っていること、その時思ったこと、症状などをカウンセラーの支援を受けながら整理して見つめ直す。コマンドは使わないが、Domの患者はSubのカウンセラー、Subの患者はDomのカウンセラーが担当する。薬剤調整と組み合わせることで、高い効果を上げることができる。ペンギンはSubだ。ローのことをよく知っていて相性もいい。患者はワークシートを使うことが多いが、彼を前にして出来事を話すだけでローにとっては十分だった。
「ローは泳ぐの苦手ですもんね。でも泳ぎ方は知ってる」
昨日は溺れる可能性を感じて怖くなったこと、呼吸コントロールに難渋したことを伝えると、代わりに紙に書いてくれる。細かに自分のことを話すのは本来好きではないが、これはプログラムだとわかっているし、患者に勧める以上、自分も真摯に取り組むべきだとローは思っていた。
呼吸を合わせるのにはマルコが手を貸してくれた。パートナー同士のプレイは一対一が基本だが、緊急の場合SubがSubの支援に入ることもある。ケア外来でも時折行われる。ドロップの感覚を知っている医療者の支えは浮き輪のようなもの。このDomのコマンドを受け入れても大丈夫だと患者に伝える役割を果たす。二つのコマンドとリワードを繰り返し、三人の呼吸が揃ったとき、女性は初めて声を出した。パートナーの名前だった。主治医が対光反射が戻ったことを確認した。
火曜、月曜、と一週間を遡って振り返りを行い、全部出し尽くしてまとめる頃、警備員に扉をノックされた。もう鍵を閉めますよ、と言われて廊下が暗くなっていることに気づく。慌てて二人で診察室を出た。
「顔色だいぶ戻りましたね。最後バタバタになりましたけど、ローさん明日のケア外来に向けてやること決めました?」
「脈の頓服を飲んでおく。それから、今日は寝る」
「そうしてください。もう少し上げとくならあとでさらっとプレイしますか?家行きますけど」
院内ではカウンセラーはコマンドを使えないが、プライベートは別だ。お互いパートナーのいないローとペンギンが、ダイナミクス安定のため時々プレイをするようになってもう長い。
「それもいいが、飯食わねぇか」
「賛成です」
体と気持ちが落ち着くと空腹を感じる。あいつも呼びましょう、と言った男の得意料理は鍋で、おろした大根をシャチが白くまの形に盛ってくれると期待している。
「先生、今いいですか?」
午前最後のケアが終わった頃には十三時半をまわっていた。朝一番でおにぎりとゼリー飲料を買い込んでおいて正解だ。緑茶の蓋をパキっとやって、ごそごそと明太子クリームチーズおにぎりを取り出したとき、相談室の扉は叩かれた。
ケア外来の時間は院内端末を外来看護師に預ける。コマンドを使うには患者と互いに集中できる環境でなければならない。患者もスマートフォンなどの端末は切ることになっている。だから担当の日は救急コールや病棟呼び出しはかからない。それでもケアとケアの間を縫って、患者や家族からの問い合わせが次々取り次がれる。
「その薬のせいで症状が出ているわけじゃない。新しいのを試す前から腰痛はあっただろう。そう、そうだ、それは元々かかっている整形外科の先生に聞くといい」
現在流通している薬の開発は100年以上前から多くの研究者の手によって成し遂げられてきたものだ。それでも薬を信用できない患者というのは一定いる。特に新しい種類を試す時、慎重になってしまうのは仕方のないことだろう。確かな治験の元に承認されたというデータを見せられても、頭で理解するのと心で納得するのは別物だ。専門的な知識がなければ読み解けないような、よくわからないものは怖い。何度同じことを聞かれても、言い方を変えながら説明を重ねるしかない。
元々あった腰痛すら、新しい薬のせいだと言い募る老人を宥め、乾く口をお茶で潤しながら目の前で開封を待っているおにぎりを眺める。ケアは体力も気力も使う。昨日ペンギンのおかげでダイナミクスはかなり安定したし、あの後プレイせずとも腹いっぱいまともな夕飯を食べただけで満足だった。満タンになっていたゲージがぐいぐい減っていく。シャチのゲーム画面に出てくるやつだ。
ようやく切ると午後のスタート時間が迫っている。パッケージを破っておにぎりにかぶりつく。粒の立った米とチーズと明太子が頬を膨らませるとブドウ糖が体に行き渡る心地がする。実際にはもう十分くらいかかるはずだが。二つ目のおにぎりを開いてパリパリの海苔を綺麗に着せてやったら、先生、とまた声をかけられた。
「今、よくないかもしれませんけど」
「いや、いい、なんだ」
「患者さんの職場の方という女性から電話がかかっているんですが、薬の副作用について相談したいと……。本人かご家族以外に治療内容はお教えできないんですと伝えたんですが、どうしても先生とお話したいと言われていて……」
こういうケースは増えてきているとローは感じている。独居世帯の増加による、身寄りのない患者の相談やICをどう扱うかは所属科だけの問題ではない。
せっかく海苔を巻いた昆布おにぎりを袋に戻す。今日は明太子と昆布で海の幸シリーズだったのだがこちらは夕飯になるかもしれない。
看護師に聞いた患者番号を打ち込んで開いたカルテの名前はスモーカー。
「おれが出る」
「いいですか」
「家族なしだ。かけてきた人間の名前は?」
「たしぎさんと名乗られました」
「初診時に付き添っていた。職場の人間で間違いない」
電話を受け取った。
「第二性総合神経科のトラファルガーだ」
「スモーカーさんの職場の、たしぎです。先生すみません、あの、変えていただいた薬のことで」
「皮疹が出たのか」
「違います。本当に薬のせいなのかはっきりしないんですが、スモーカーさん、咳が出ていて」
「喉の痛みは?鼻づまり、発熱はあるか?」
「ありません」
煙草の吸いすぎではないか?と一瞬浮かべた疑問を追い払う。
「倦怠感は?筋肉の痛みはあるか?」
「ないと思います」
ちょうど電話の向こう、遠くから、こん、こん、という音と咳払いがした。
「そこに本人がいるのか」
「おられます」
「かわれ。本人と話す」
だそうですよスモーカーさん。たしぎがじっとりとした目をしているだろうことは簡単に想像がつく。本人が話せる状態にあるのなら、症状は自分で話した方が正確に伝わる。何度かの押し問答ののち、受話口に舌打ちが届いた。
「咳はいつからだ」
「……昨日の夕方」
「喉の痛みはないんだな?」
「ない。倉庫の掃除をして埃まみれになったからじゃねぇかと思ってる」
言い終わるなりこん、こん、と咳をしている。
「煙草は?」
「今日は吸ってねぇ」
予想外の返答だったが「私が管理しています!」とたしぎの声。黙ってろ、という不機嫌な声と、重ねられる舌打ち。まるで子どもだ。仏頂面はますます歪んでいることだろう。ヘビースモーカーは煙草のことも薬か何かだと勘違いしている者が多い。埃だろうが風邪だろうが、これを吸わないと自分の体調は整わないんだという自負があるらしい。そこは正さなければならないが、小さなことでも連絡をしてほしいという依頼は聞き届けられた。
昨日の充填が効いている。ローはほとんど愉快な気分になった。
「咳の原因が埃かどうかを判断するのはこちらだ。今日、診察する」
「……今日じゃねぇとだめか」
「だめだ。土曜はやってないからな。できればたしぎさんも一緒にだ。夕方でいい」
「夕方なら……」
「一番最後に診察する。週末にかかる前に電話をかけてくれてよかった」
「……よかったか」
「もちろんだ。副作用なら薬を止めるのは早い方がいい」
「……そうか」
「度々で悪いが採血が必要だ。結果が出るまでの待ち時間があるつもりで来てくれ」
また刺すのか、という苦々しいつぶやきで通話は終えられた。もしかしたら、穿刺が苦手なのかもしれない。
スタッフの多くが退勤してがらんとする待合でスモーカーはたしぎと座っていた。外来はところどころ警備員が関係者以外立ち入り禁止のロープをかけ始め、デパートであれば『蛍の光』でも流れ出すところ。暮れの光に照らされた顔はわずかに疲れが滲んでいる。付き添う眼鏡のレンズが時々反射して、忌々しそうに目を細めていた。ケア外来が行われる二階の相談室から階段を駆け下りて一階の診療科に戻ったローは直接二人に声をかけ、診察室へ通した。
「今日の検査も一週間ほどはかかる。念のため、これとこれの系統薬は避けることにする。返ってきた結果が良好なら、系統が同じでも違う種類を試すことはできる」
塗り薬の用法は守られていた。腹部の発疹は赤みがなくなり、小さく枯れてきている。掻いた跡もない。火曜に出した皮膚科の血液検査は結果が出るまでに時間を要するもので、まだあがってきていない。
「それもダメだったらどうなる」
「また他を試す。地道だが繰り返しだ。根気がいる。これまで常用していた薬がたまたま大丈夫だっただけで、もしかしたら合う薬が少ないのかもしれない。ダイナミクスの薬に限らず、そういう体質の患者は時々いる」
前回出した薬は空咳の出る患者が一定の割合で存在する。だが他の薬との組み合わせが容易で汎用性の高いことから、よく使われている。
聴診では心臓に雑音はなし、肺の写真も肺炎像などなくこれといって問題はない。不思議なほどに。
「煙草は一日何本吸ってる?」
「……」
「写真で見ると肺は奇跡的に問題ない。正直に答えろ、何本だ」
「四十本ぐらいじゃねぇか」
目をそらした男を訝しんでいるとたしぎが横から「そのくらいだと思います」と教えてくれた。熱心にメモを取っているがなぜか眼鏡を額の上に上げている。
「酒は?」
「先生、全部ダメってことはあんのか」
「症例としては極まれだが、ないことはない」
「ダメだったらおれぁ一生このままか」
「内服が合わなければ、注射薬もある。まだ諦めるような段階じゃない」
スモーカーが肩を落として大きな息をつくと煙草臭が強くなる。今日は吸っていないと言っていたはず。禁煙外来も紹介したいところだ。
「わかった、薬を変えてくれ。今日も診断書はダメか」
「そうだ。心電図も変わらず乱れたままだしな。動悸や息苦しさはあるか?」
「動悸ってなんだ?」
たしぎがええっと声を上げた。驚きは最もだが、脈に敏感な者とそうでない者はいる。たった一回飛んだだけでも感じる人間もいれば、あと一歩で危ない脈という波形でも何も感じない者もいて、スモーカーは後者だ。皮疹を指摘されるまで痒みにも無頓着だったあたり、自覚症状が出にくいと考えていいだろう。
「スモーカーさんドキドキすることないんですか?」
「ねぇな」
「大事な仕事を控えているときに緊張することがあるだろう。そういう時に感じるドキドキと似たようなものだ。走った後にもあるやつだ。そういう症状はないか?」
「ねぇな」
ダイナミクスの影響もあるだろうが、元来鈍いのだろう。もしかしたら、ドロップしない理由の一端かもしれない。自覚症状の出やすい患者の中にはそれが恐怖と結びついてドロップを繰り返す者もいる。ローは何度か取った血液データを見比べた。痛みや熱さはちゃんとわかるんだろうか。仕事柄、麻痺してしまった可能性もあるが、穿刺に対して不満そうな反応をしたから、痛みはある程度感じるのかもしれない。
あちこち思考を広げるローを、スモーカーはじっと見ていた。何か合図されるのを待っている犬のような、次の動きを注意深く観察しているような。
「元々飲んでいた薬はいつから飲んでいる?」
「十四の頃だ。学校の健診でSubだと分かって近所の病院で出された」
「あんたそれずっと変えていないのか」
「ねぇな」
その近所の医者というのはおそらくダイナミクスに明るくない。医学は昔に比べて細分化が進んだことで、専攻以外の分野に興味を持たない医師もいる。本来なら判明したての未発達な時期に慎重な調整が必要なものだ。それを教える大人がまわりにいなかったということかもしれない。
「家族、血のつながった家族だ、ダイナミクスが出ている者はいるか」
「……父親はDomだった、もう死んでる。施設の母親はSubだ」
家族歴+とカルテに打ち込んだ。ダイナミクスの遺伝性についてはまだ明確にはそうとは言われていない。参考程度だ。ローも母親はDomだったが父親はダイナミクスの発露がなかった。妹は診断がつく年ごろになるより前に、両親と共に他界している。
夫婦でDomとSubでないことも今では普通だ。ダイナミクスがあるからこそ惹かれ合うといったロマンスは、研究が進み、ホルモンの安定をはかる方法が増えたことで過去の話になりつつある。
「両親が飲んでいた薬は知っているか?」
「知らねぇな」
「なら、この薬が合っていたのは本当に偶々だ。引き続き、低用量で試してみる。なにかあれば今日のように、また連絡してほしい。土日の場合は救急につながる」
「次は何が起こるんだ」
「薬の副作用ってのは、説明書を読んだら山ほど書いてあるんだが、服用した人から少しでも訴えがあったものはほとんど書いてある。つまり、何が起こるかわからねぇってことだ」
「そりゃあとんだ博打だな」
「あてずっぽうに打ってるわけじゃない。受けた検査の数字と、これまでの研究で積み重ねられてきた臨床データとを照らし合わせ、選び取っているものだ」
もうこれ以上落ちないのではというほど、スモーカーの肩は脱力していた。たしぎがしきりに、がんばりましょうと宥めてはいるものの、立て続けだ、無理もない。
「残念だと思うが、きちんと検査を受けて、そして異常を連絡してくれたから次の作戦が立てられるんだ」
細部まで観察を怠ってはならないことは学習済みだ。言葉選びも気を遣う。診察室で行われることは医師の所作を含めてすべてが診療だ。ローは自分も意識して肩の力を抜いた。大丈夫だ、こちらはまだ昨日のアドバンテージが残っている。
「さっきの続きを聞いてもいいか。酒は飲むか?」
「多少はな」
「あれから食事は取れているか?」
「そこそこだ」
「先生、食事はあまり取れていません。ゼリーとか、プロテインといったものばかりです」
「吐き気があるなら吐き気止めを出すが」
「必要ねぇ」
この筋肉量を維持するのは大変そうだ。二メートルを超える身長に、一般人より幅のある体格。このままだと落ちていく。
「今の段階では、栄養バランスより摂取カロリーを優先していい。食べられるものを食べろ。水分もだ。体力が落ちると薬の効きも悪くなる。薬が体に合えば、食欲は出てくる」
「気の長ぇ話だな」
「てっとり早く回復を望むなら」
こちらの話はちゃんと入るようになっている。ローは一度言葉を切った。目を合わせて、息を吸う。
「ケア外来の併用を勧める」
スモーカーの息が止まった。一緒になって強張らないよう、静かに息をする。あくまでリラックスして。前に渡した、ダイナミクスのいろはが載ったパンフレットと同じ引き出しから、今度は『ケア外来を受けられる方へ』と題されたものを出す。スモーカーがほんの少し手を伸ばせば届くところへ、そっと置いた。
「コマンドをやれってことか」
「選択肢のひとつというだけだ。どの治療方法を選ぶかは患者の自由だ。どこまでの回復を目標とするか、どのくらいの期間で、何を優先に進めるか、こちらは総合的に選択肢を用意できる。どの患者に対しても同じことをやっている。海上勤務復帰までの最短を望むなら、ケア外来は効果が高いという、ひとつの提案だ」
受け入れるだろうとは思っていない。強く勧めるつもりもない。案の定、スモーカーは口を曲げた。嫌がる患者をケア外来に入れることは誰にとってもプラスにならない。だが、一時的に来院日数を増やしてでも、それを取り入れることで回復の速度がぐんと上がることは確実だ。欠片でも検討の余地があるのなら、提案するし、本意は別のところにある。
「スモーカーさん、わたしがこちらの病院をとすすめたのは、ケア外来があるからです。コマンドを使った治療ができる病院はそうありません。やはりコマンドを使った方が早く安定できるんじゃないかと思うんです」
職場の人間が親身になってくれるのは、本人の徳もあってのことだろうと二人を見ていて思う。医者から見れば病識のない、どちらかというと最悪寄りの患者だが、視点が変われば人間性はがらりと違って見える。海の上では頼りになる上司だ、少なくともたしぎにとっては。
まとう雰囲気が剣呑としたものになってはいるが、二回の診察は功を奏している。迷っているのだ、得意なコマンドも楽になるプレイもひとつもないと言い切った男が。右から左へ往復する目線が黄色の文字で印刷されたタイトルを捉えている。笑顔の人間のイラストがずらずら並ぶ表紙は宗教のようで、デザインを変えた方がいいと常々思う。ローはパンフレットをスモーカーから遠ざけた。
「無理に受ける必要はない。選択肢のひとつだ。コマンドを使いたくないという患者の意思は尊重される。やりたくないことをやるのは、かえってダイナミクスを乱すからな。コマンドなしで、薬と合わせて行う治療にカウンセリングもある。そちらは専門のカウンセラーが担当する。プレイはない。あんたは症状を話すだけでいい」
「カウンセリングってのはそういうもんなのか」
「そうだ。最後に受けたのはいつだ?」
「その十四の時に一回きりだ。Subの注意事項みたいなのを聞かされた」
「ずいぶん昔だからな。現在のカウンセリングは、患者の話を聞くことが基本姿勢だ。あんたは聞く側じゃなく話す側。設問はマニュアルに則ったものだ。ケア外来より気軽に受けられて、内服だけで過ごすより症状の改善が見込める。安定している患者でも、定期的に通うことは良いとされている」
徐々に目線は戻ってきていた。ゆっくり息もできている。気づいていないのだろうが、スモーカーの胸部の動きは、ローの呼吸のタイミングと一致している。
「こちらも無理はしなくていいが、一度試してみる価値はあると思っている。カウンセラーと合わなければすぐに止めることもできる。考えてみてほしい」
長く息を吐いた。スモーカーはついてきている。吸って、もう一度長く、苦しくない程度に吐ききって、互いに息を吸う。
「……わかった、先生が、そう言うなら」
「返事は急がない。次の診察でもいいし、何か月か先でもいい。受けたいと思った時に電話してくるのでも。もちろん、気が進まないなら受けなくていい。毎日薬を飲むようになっただけでも、進歩だ」
「進歩か」
「十分だ」
Subの診察がうまく運ぶと満たされる。どうしようもない性質だ。そのことに複雑な思いを抱くのはとうの昔にやめた。患者が治療に前向きになることは素直に嬉しいと思う。
すっかり暗くなった会計へ向かう二人の足取りは軽かった。たしぎもDomだ、スモーカーの軟化を正しく嗅ぎ取り、会釈をして出て行った。通常外来は薬剤調整だけが役割ではない。次の治療段階へ患者を向かわせるきっかけを与える。
警備員に残業の謝罪をしてからローは医局に戻った。袋に戻したままの昆布おにぎりは、海苔がしけって米にぴたりと添っていた。
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