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ひろか
2024-07-15 20:17:12
24110文字
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観劇録
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*観劇録*『それしか、知らない』感想と考察。
m sel.プロデュースさん『それしか、知らない』感想と考察です。⚠︎内容に関するネタバレと深読みを含みます。
⚠︎内容に関するネタバレと深読みを含みます。
はじめましてのm sel.プロデュースさん。
『それしか、知らない』というタイトルがもう好きだった。
それしか、知らない。
その言葉に含まれるさみしさに、なんだかとてつもなく惹かれるものがあって。あらすじ、そして続々公開されたティザーやビジュアルなど、どれをとっても好きな予感がして劇場に伺うのがとっても楽しみだった。
m sel.プロデュースさん『それしか、知らない』、感想と考察です。
作品に関するネタバレと深読みを含みますので、苦手な方はご注意ください。
ひと言で表すなら、苦しかった。
それは主人公のゆらと藤を取り巻く環境や彼らの心について、そしてふたりを演じた伊藤桃香さんと髙畑岬さんの鬼気迫るお芝居について、そして日頃漠然と、慢性的に抱えている「生きづらいなぁ」という気持ちをひとつのかたちとして表現されたことについて。
こんなにも観ていて胸が苦しくなる作品があるのかと、観劇後もずっと胸を締め付けられているような気分だった。
だけど同時に、すごく好きな作品になった。
物語を始め、脚本の言葉選びや演出の妙、照明や音響、舞台セットや小道具、そしてもちろん役者さんたちひとりひとりのお芝居が、まるであつらえたかのように私の心の隙間にぴったりとはまったような心地だった。あるいは乾いた土に雨が染み込むような。
決して明るい話ではなかったし、希望が持てる終わり方かと聞かれれば安易にそうともいえない。だけどどういうわけか、“私”という存在をこの作品にまるっと受け入れてもらえたような、それでいいんだよと言われたような気がして。
とにかく、『それしか、知らない』という作品との出逢いを、やさしく、大切にしたいなと思ったのだ。
大前提として、この作品で描かれている“世の中”というものの解釈がとても好きだった。
現代を舞台とした作品って、この世の中を“悪いもんじゃない”と捉えてあたたかく描くか、“生きづらくて苦しい”と捉えてつめたく描くかで大きく2つに分けられると思っていて。どちらの作品もそれぞれの良さがあるんだけど、私の個人的な解釈は後者に近い。
『それしか、知らない』は圧倒的に後者。そんな生きづらい世の中の表現、つまり作品の中で描かれる雑踏の演出が自分の中の世の中の解釈にぴたりとはまったのだ。
「会いたい人
…
会いたい人はいますか?」
伊藤桃香さん演じる主人公のひとり・ゆらが、雑踏の中で呟く。
様々な人々が行き交う雑踏はどこまでも無関心で、何かを探して歩くゆらのことなど見えていないかのようだった。そこに歩いている人たちだって何かしらの気持ちや想いを抱いているはずなのに、世の中の雑踏の中では等しく無個性に無感動に、ひとりひとりの心なんて顧みられることはない。その光景の色彩のなさはいままさに雨が降り出しそうな空を彷彿とさせた。世の中の無関心というつめたさと分厚い雲のような息苦しさを、個人と雑踏を組み合わせることでこんなにもしっくりくる表現に昇華させられるんだ、と単純に感動した。
この世の中に、生きづらさを抱えていない人なんているのだろうか。
大きさや感覚は違えど、きっとすべての人が世の中に何かしらの閉塞感を抱えて、それでもなんとか心に折り合いをつけて今日を生きている。そういう意味では、この作品の登場人物たちというのは観客の心の写し鏡でもあった。だから観る人によって感情移入しやすい役、しにくい役、いろいろあったと思うし、誰の目線で見るかによって物語の見え方が大きく変わったんじゃないかなと思う。
そういう意味では、私自身はゆらに共感できる部分がとても多かった。
特に「居ていい場所がわからない」という彼女の言葉を聞いた時、心の底から「わかる」と思って。他人を理解するということについても考えさせられたこの作品で、登場人物の気持ちについて「わかる」と思うことが正しいのかどうかはわからない。だけどあの時、表情だけはいつでも笑顔を貫いてきたゆらから堰を切ったように溢れ出す言葉の波の中に「居ていい場所がわからない」という言葉を見つけた時、どうしようもなく「わかる」と思ったのだ。人の波に、世の中に、適応しているように見えて常に自分が透明人間であるかのように錯覚するその孤独感を私は知っている。
私は最初、ゆらはもっと弱い子なんだと思っていた。
職場である美容室ではアシスタントという立場ゆえに先輩たちの言動に振り回されている様子が目立ったし、家に帰ってもお母さんに自分の気持ちを伝えられない。一方でお母さんの「笑っていればいいことがある」という教えを忠実に守った結果、どんな時でも笑顔を作ることが当たり前になってしまったのだと。
だけど、ゆらにとってある種ターニングポイントとなる藤との出会いの場面で、彼女は“伝えられない”んじゃなくて“伝えるのを諦めてしまった”んだということがわかった。行き場のない思いを抱えていて、それを言葉として持っているのにゆらが言わないのは、自分の心を聞き流されたりわかってもらえなかったりする苦しさを知っているからだ。自分の心を言葉にして奇異の目で見られる悲しみを知っているからだ。自分の心を誰かに晒して傷つくくらいなら、その心をなかったことにして押し殺してしまう方がまだマシだから、ゆらは自分が感じたことを「笑顔」という呪いに隠すように押し殺し続けてきたんだろう。それでも抱えきれなくなった結果が、藤と出会った時の溢れ出すような言葉なんだと思った。初対面の藤に対してじゃないと吐き出すことのできなかったゆら自身の気持ちを聞いていると、とても心が痛くて。
「たまたまダメな日が重なるとたまたまじゃなくて、私がダメなんだってわかるんです」。ああその感覚、わかるなって。思うにゆらはこの時励ましてほしかったわけじゃなくて、ただ自分の気持ちを吐き出したかっただけなんだと思う。本当ならそれを受け止める役目はお母さんがするべきだったけど、ゆらはお母さんが自分の心を見てくれないことを嫌というほど知っているんだよね。一見ちょっと過保護なだけで温和なゆらのお母さんは、その実"理想の娘"像を無意識にゆらに押し付け、ゆらに依存し、同時に無自覚に娘を傷つけているお母さんなので。親でさえそうなんだから、ゆらが自分の心なんて誰にも尊重されないと無意識に思っていてもある意味しかたないと思う。
そこに思いがけず、藤からの返答があった。自分で口にしておいて「そういうのいいです」と迷惑そうなゆらだけど、藤はゆらの気持ちを否定せず、あまつさえゆらがふと呟いた「雨の音って責められてる気がする」という共感を得づらい感覚にも「わかる」と言ってくれた。そこである意味ゆらの心の壁が取れたというか、この人は私の心を否定しないんだなって思えたんじゃないかな。だからゆらもまた、それ以上藤からの共感を否定することはなかった。
それで言うと、藤のことはもっと冷たい人だと思っていた。
けれどゆらに対して示す共感があまりにも心からの共感で、「行くとこあるの」とゆらの腕を掴む表情がどこか必死で。そこに冷たさなんて感じなくて、「居ていい場所、あるよ。あるから」とゆらに必死に訴えるような声音と表情に、高山藤という人間がなにをゆらに伝えようとしているのかを知りたくなった。
たぶん、ゆらもそう。藤からもらった共感や言葉に、行き場のない心と同時にゆら自身として藤に惹かれたんじゃないかな。一目惚れとかじゃなくて、ただ純粋に、この人は何者なんだろうというか。実際にそれが明かされるのはもっとずっと後のことになるのだけど、彼の抱えたものを知ったいまふたりの出会いを思い返すと、この時ふたりはお互いの心が雨に濡れないようにお互いに傘を差しかけていたんだと思う。この話はまた後述。
「会いたい人はいますか?その人はどんな人ですか?」
冒頭のセリフがここで繰り返された時、あの日のこの出会いの記憶を、ゆらはあの雑踏の中で探していたんだと思った。
長台詞が続くオープニングは、この作品屈指の印象的な場面だと思う。
台詞の言葉選びも舞台上の人の動きや照明の効果も、すべてが相まってこの世の中を生きるひとりひとりの複雑な心模様にスポットが当たっているように感じた。雑踏の無関心からひとりひとりの心が切り出されていく。そして同時に、"ままならなさ"や"やるせなさ"、"孤独感"や"後悔"、人によってそれが何かは違うけれど、それぞれの心を取り巻くものを周りの人の動きで表現しているように見えてとても好きだった。人の心が目で見えたなら、きっと本心を核にして様々な忖度や状況による諸々が人によって違うかたちでまとわりついているんだろう。
かつての出会いに思いを馳せながら穏やかに話し始めたゆらの言葉が、どんどん畳み掛けるように激しいものになっていくところに彼女の想いの強さがあらわれていた。彼女のまわりを蠢く人たちはやっぱり世の中の雑踏で色がないけれど、そこに藤が現れた瞬間ぱっと彼だけが色をもち、その瞳にゆらを映す演出がとてもきれいで。「名前しか知らないあの人も、いまどこで何をしているかな」という言葉から察するにゆらと藤はもう一緒にはいないんだけれど、ゆらにとっての藤との出会いは雨の合間の夕焼けのように心に焼きついているんだと思った。たとえその関係に名前なんてなかったとしても。
ゆらに続けて、浅ちゃん、智樹先輩、サクハルちゃんが心のうちを語る。
この場面は特に言葉が詩的できれいだったんだけど、ここのセリフも物語の顛末を知ってから思い返すと“この子がこのセリフを口にする意味”みたいなものがくっきりと浮かび上がってくるような気がした。これだけの長い台詞に、その役が生きる中で口には出さないけれど心に閉じ込めている想いが込められている。ゆらが言った通り、この世の中はたくさんの人と、たくさんの想いで溢れている。
それぞれがそれぞれの想いを抱え、その想いを言葉として吐き出してはまた雑踏に飲み込まれていく。
そして藤。
震える声といまにも泣き出しそうな表情。ついさっきゆらと話をしていた時には感じなかった不安定さに動揺した。藤の言葉からはどれだけ手を伸ばしても届かない焦りのようなものを感じて、彼もまた、何かを抱えているのだと思った。そしてそれはきっと彼がゆらにかけた言葉となにか関係があるんじゃないかと思った瞬間、ゆらが言葉を紡いでいた時とは反対に今度は雑踏の中のゆらにスポットが当たる。けれど藤を見つめ続けて見失ったゆらとは違って、藤はゆらから目を逸らしてしまう。
「ゴミ収集が今日も時間通りにやってくる」。
その言葉を彼はどんな想いで口にしたんだろうかと今なら思う。けれどこの時、ゆらはおろか観客である私も藤のことを何も知らないのだ。観客というその作品の中に生を受けていたら知り得ない情報を知り得る立場にあって、藤が何者なのか、私たちはゆらが知っている情報以上のことを知ることはできない。物語の前半部分の“視点”を敢えてゆらに固定することで、“それしか、知らない”というタイトルが持つ、おそらくゆらが感じていたであろう不確かさを追体験していたのだと思う。藤との関係に不確かさを感じながらも、この時のゆらは藤がただそこにいてくれるという場所に心地よさを感じていた。それはきっと藤も一緒で、そこにある関係に名前などなく、ふたりがそこにいることで生まれる空間にそっと安堵していたんだと思う。
"関係の不確かさ"にお互い心の安寧を感じていたゆらと藤とは対照的なのが、浅ちゃんとウドウの関係。隣人で、お互いの家に頻繁に行き来して、恋人のようで恋人ではない。
ゆらと浅ちゃんの違いは本人の性格由来であるのと同時に、恋愛が絡むかどうかも大きかったんじゃないだろうか。恋愛の先には当然、結婚やら出産やら、自分の生き方を左右するライフイベントが予想される。これは居酒屋のシーンでマネージャーの井口さんが力説しているけれど、女性にとってはその辺りのライフステージの変化は大事件だ。出来事そのものに加えて、女性の場合は年齢が大きく付き纏ってくる。明確な年齢が描かれているわけではないけれど、浅ちゃんだってそろそろ自分の将来を考え始める歳だったと思うし、ウドウのことが本気で好きだからこそ名前のつかない関係を不安に思う気持ちはなんとなくわかる。
その気持ちをウドウも薄々感じているんだよね。わかっているのに"必要としている""特別な人だ"という言葉で浅ちゃんを縛るのは本当にずるいと思う。浅ちゃんがそこで「はっきりしたいの」と踏み込める子であればまだしも、典型的な"尽くすタイプ"の浅ちゃんも物分かりのいいふりをして言葉を曖昧に濁すから、ウドウはそこに甘えている。その結果浅ちゃんはもやもやするし、ウドウも次いつ切り出されるかとびくびくするような仮初の関係がだらだらと続いてしまっている。
そこでどちらかがビシッと決めなよ!と思えたら、観客として楽だったのだけれど。ウドウはウドウで浅ちゃんの気持ちに応えられない切実な理由がある。それは彼の"売れたい"という強い気持ちであり、現状に対する強い焦りだ。芸人として売れるためには浅ちゃんの存在は欠かせなくて、だけどそこに恋愛という明確な気持ちは持ち込めない。ウドウの諸々の態度を考えると薄い可能性かなと思うけれど、もしかしたらいまの状態で浅ちゃんとそういう仲になったとしても、稼ぎや仕事の面で浅ちゃんに大変な思いをさせてしまうという気持ちもあったのかもしれない。だから浅ちゃんから「私たちってなんなのかな」と尋ねられた時、それまではネタのことを話して笑っていたのに急に後ろ指をさされたみたいなバツの悪そうな顔になるんだよね。ウドウを演じた細村隆志さん、このあたりの表情が本当にお上手。浅ちゃんが何を言いたいかはわかっているけれど、自分はその話題には触れたくなくて浅ちゃんに向き合うふりをしながら核心に触れないように誤魔化している姿にとても人間らしい弱さを持った人だなぁと思った。そんな本音があらわれるのが、飲み会の後の「それだけだって言ってくれ」。浅ちゃんからしたらある意味ウドウからの拒絶のような残酷な言葉。だけど、そこに人がいるのに誰にも見てもらえない、悪意のない言葉の矢で常に心を射られている彼の苦しみが凝縮されていて苦しかった。私は女性だからどうしても浅ちゃんの立場に肩入れしてしまいそうになるけれど、ウドウはウドウでたくさん傷ついている。
ただし、これだけの情状酌量をしたとしてもウドウの「椎茸だけ」は許せない。曖昧な関係で縛って浅ちゃんに甘えてご飯まで作ってもらっておいて本当に何様。
そんな状況下にあって浅ちゃんはゆらのママをとても頼りにしていた。とはいっても占いというこれまた不確かなものに縋っているので根本的な解決にはなっていないのだけど、ゆらママの占いが当たるかどうかはさておき、話を聞いてもらえるだけでも浅ちゃんはだいぶ心が楽になったんじゃないかなと思う。こういうところもとても女の子らしくて、浅ちゃんという役のかわいらしさや庇護欲をかき立てる感じが出ていた。飯田らうらさん、かわいい。
ただ、これがゆらを追い詰める一因になっているとは、浅ちゃんはもちろんゆらママも気づいていなかった。というかゆらママには気付けるタイミングはたくさんあったはずなのに、ゆらの心を見ていないから気づけないんだよね。
ゆらママにとって、浅ちゃんはきっと理想の娘だった。自分に対して隠し事をせず、明るく朗らかで。自分に対して理想を抱き、その理想像を盲信している母親が自分の友達を褒めちぎる。ゆらにとっては地獄のような時間だったんじゃないだろうか。
娘に期待をすることが悪いとは言わない。だけど娘に理想を押し付けて娘の心を見ないのは違う。
スタイリストの道を歩み始めたことは、きっとゆら自身の意志なのだと思う。自分が諦めたその夢を娘が追ってくれる、そこに喜びを感じる気持ちは間違ってなんかいない。それでも「あなたを妊娠して諦めた」という言葉を本人に伝えるのはさすがに軽率で無神経すぎる。ことあるごとに浅ちゃんを褒めることといい、発言の軽率さといい、ゆらママがゆらに対して口を開くたびにもうやめてくれという気持ちになった。
思うにゆらママは、現実を直視しないことで心の平穏を保っている人だったんだと思う。夫が不倫しているのも、娘がスタイリスト検定に落ちたのも、見ないふりをして自分を納得させようとしていた。だから自分の想定外のことや知らないことが起こるのが怖かったんじゃないだろうか。「ゆららしくない」という言葉で自分に言っていないことがあるのを咎めたのはそのあらわれだったと思うし、「ゆらまでお母さんひとりにするの」なんて完全に彼女の心の不安定が露呈したセリフだった。「ゆらのために言ってるのよ」ときっと彼女は本気で口にしていたのだろうけど、実際は不安定な自分の心を安定させるために“理想の娘”であるゆらに依存していただけなんだと思う。
「あなたのため」。
それはゆらを追い詰めた言葉のひとつでもあった。
誰かのために何かしようって気持ち自体は決して悪いことではないんだけど、それが本当に相手のためかどうかってわからない。それどころか特に相手のためを思っていなくても「あなたのため」という大義名分を使うことで自分の行動を正当化することだってできてしまう。玲美先輩がゆらをクラブに誘うのは、もしかしたら本当にゆらのためを思っていたのかもしれないけれど、たぶん「ゆらのため」を大義名分に使っていただけだ。智樹先輩の「ゆらのため」は、"後輩のことを理解して適切なアドバイスができるやさしい先輩"という自分に酔っている感じがあった。言っていることはそれなりに正しいしゆらのためにもなり得るものだったけれど、若干の自己陶酔があるからそれを受け止められないゆらの気持ちにまで気が回っておらず、そんな自分に気づけていない。そしてその言動が遠因になってスタイリストたちの空気を悪化させていたわけで、ひまり先輩の指摘はもっともだった。とはいえそこでゆらに対して主張を変えるのも、ゆらが何を重要視していいかわからなくなってしまう原因だったのだけど。
そういう意味では、「あなたのため」に一番説得力があったのはやはりカオルさん。彼女の信念と立場を考えれば、彼女がゆらにかける言葉は理にかなっているし、厳しいことを言ったのは彼女の言葉通りゆらに目をかけていたからだろう。
カオルさんってスタイリストになって独立して、お店をトップインフルエンサーがおすすめするほどの人気店にするためにとんでもない努力を重ねてきた人だと思っていて。それは生半可な覚悟では成し遂げられなかったと思う。それを成し遂げたという時点で彼女はそこら辺の人とは一線を画した強さがある女性なんだよね。理想は高いけれどそれを実現する努力を積む力がある。たしかに彼女はものすごく厳しくて、必要以上に嫌味っぽい言い方をするところがあった。それでもゆらのまわりにあった「あなたのため」の中で、結局ゆらのことを一番思っていたのはカオルさんなんじゃないかと思う。カオルさん悪い人じゃないよ・・・。
とはいえ、カオルさんに限らず一方的に押し付けられた言葉たちにゆらが苦しんでいたのは事実だ。どれだけ苦しかろうがつらかろうが「あなたのため」と言われてしまえば、ゆらにできる返答は「ありがとうございます」のひと言のみ。たとえその「あなたのため」がどれだけひとりよがりであったとしても、押し付けられたそれを受け取らざるを得ないのだ。しかもそれぞれがそれぞれの考えで言葉にしたり行動にしたりする「あなたのため」は、同じ状況下で導き出される答えが違う。あちらを立てればこちらが立たずなこの状況で、ゆらの心は疲れ切ってしまうんだよね。
思うに、ゆらは“つらい”とか“苦しい”と感じることについて後ろめたい気持ちがあったんだと思う。育ててくれた母親がいて、仲のいい友人がいて、追いかけたい夢がある。「あなたのため」と言ってくれる人がいる。その事実だけを見れば客観的にはゆらは恵まれていて、それをゆら自身が誰よりも自覚していた。たとえ自分の心が悲鳴を上げていたとしても、きっとそれは世の中の多くの人が抱えている苦しみで、筆舌に尽くしがたいつらさや苦しみなんてごまんとある。それに比べたら、“恵まれている”自分が悲しいとか苦しいとか感じるのは烏滸がましくて贅沢なことだと、心のどこかで思っていたんじゃないだろうか。その気持ちと「笑っていなさい」というお母さんの教えが絡みあって、ゆらは自分の感情、特に負の感情に蓋をすることが当たり前になってしまっていた。
そんなゆらに対して藤は言うのだ。
「ゆらはゆらとして、悲しい、苦しいって感じる権利がある」と。
私は藤がゆらに対して置くみたいな話し方をするのがとても好きで。
誰かに言葉をかける時、人はきっと相手がその言葉を受け取ることを無意識に期待している。言葉に軌跡があるのなら、それは相手に向かって放物線を描くんじゃないだろうか。自分の手から離れた言葉は、相手の状況などお構いなしに相手に向かって飛んでいく。それを受け取りたくないと思ったとしても、話す人の手を離れた以上受け取るしかないのが言葉というものなのだと思う。
だから言葉って難しくて。こちらが意図していない解釈で相手に伝わってしまうことがたくさんあるし、相手がどう受け取ったかを知ることはできない。ゆらにとっての「あなたのため」なんてまさにその典型例だった。
だけど藤はゆらに対して言葉を押し付けることはせず、受け取るかどうかをゆらに委ねてくれるんだよね。
藤は藤として、感じたことや考えたことを言葉として話している。それは藤が持つ権利だからだ。けれど同時にその言葉をゆらが受け取るかどうか、その判断はゆらに委ねてくれる。もちろんゆらと対峙している以上自分の言葉がゆらに届いて欲しいという気持ちは感じるんだけれど、あくまで決定権はゆらにあるんだよね。だから藤の言葉はゆらに向かって放物線を描かない。丁寧に吟味して紡いだ言葉たちを、ぎりぎりまで手放すことなく、自分とゆらの中間点に置く。そうすることでゆらがその言葉を受け取るかどうかを考える時間を作ってくれているようにも感じられた。それはちょうど、ココアの入ったマグカップの取手をゆらに向けて置くような感じ。
「ゆらはゆらなんだから」とさも当然のように、ゆらが抱える苦しさもつらさもそのまま認めてくれる藤との時間は、ゆらが自分の心を大切にするために必要なものだったと思う。つらい時はつらいと言っていいし、笑いたくなければ笑わなくていいと、その権利があると言ってくれる。「藤は言わないの?笑いなさいって」というセリフはある意味ゆらから藤へのためしでもあったのかもしれないけど、それに対して藤が「言って欲しいの?」とあくまでゆらの気持ちを尊重してくれたことがとても嬉しかったんだと思う。自分の心が感じたことを認めてもらえるというのは、そこにいることを許されたのと同義だから、ゆらは藤のいるところに自分の"居ていい場所"を見た。藤との時間はゆらにとって“自分が感じたことを大切にしてもいい場所”だったんだよね。そこに共感はなくてもよくて、自分の感じたことを自分の感じたこととして、ただそれでいいと、その気持ちを許されることが、ゆらにとってどれほど居心地がよく安心できるものだっただだろう。「なんか落ち着くの、ここ」と呟くゆらは、家や職場にいる時とは違ってとてものびのびとしていた。ごろんと寝そべるのもそのあらわれだったと思うけど、何よりも話し方や表情がすごく自然で、無理をしていなくて。ああゆらは藤といると呼吸がしやすいんだろうなって思った。
そんなゆらの感覚を裏付けるような「藤といるとなんか喋ってる。藤に自分の選んだ言葉を喋ってる。私だけのために」という言葉を聞いたとき、よかったねと思って。藤に出会えてよかったねって、心の底からそう思った。
ゆら自身は気が弱く流されやすいように見えて、実は自分の気持ちも、それをあらわす言葉も持っている。けれど周囲の環境やこれまでの経験から、それを表現することを諦めてしまっているというのは冒頭でも書いた。実際作中でゆらが藤以外に自分の気持ちを自分の言葉で話している場面が何ヶ所かあるけれど、それらは結局相手に受け入れられることなく終わっている。拒絶されたり、奇異の目で見られたり、相手の反応は様々でも好意的な反応ってほぼなくて。「私普段は自分の気持ち言わないの。誰も聞いてないから」というセリフからも、ゆらがそれを自覚していることがわかる。ここでの“聞いてない”って物理的な話じゃないと私は思っていて、なんだろう、その言葉が伝えようとしている心の声を聞こうとするというか、そういうことだと思って。ゆらのその言葉にも「わかる」と思ったからこそ、藤と出会ってゆらが自分で感じたことを自分で選んだ言葉を喋っていると思えていることが、涙が出るほど「よかったね」と思えたのだ。
藤と出会えたことは、ゆらにとって自分の気持ちや自分の言葉を大切にする勇気にもなったんじゃないだろうか。さっきちょっと触れた“作中でゆらが藤以外に自分の気持ちを自分の言葉で話している場面”は全部藤との出会いより後なんだけど、もしも藤と出会っていなかったらあの場面ってそもそもあり得ないものだったんじゃないかと思う。
スタイリスト検定に落ちた日の夜、「ダメだわ私」とお母さんに吐露するのも。
美容院を飛び出し、智樹先輩に「私も間違ってない」と主張するのも。
サクハルちゃんに「藤は馬鹿みたいに甘いココアをくれた人です」と話すのも。
藤と出会って、自分の気持ちや言葉を大切にする勇気を得たゆらだからこそ言葉にできたんだと思う。たとえ受け入れてもらえなくても、理解されなくても、笑われたとしたって、自分の感じたことを言葉にする。それは本当にとてつもなく勇気がいることだし、ゆらにとってその勇気は藤と一緒に過ごした時間そのものなんだと思う。
そこに名前がないのが不思議なくらい、けれどしっくりくる言葉も見つからないようなゆらと藤の関係。
私は2人のただ空間を分け合う関係がとてもいいなと思った。ゆらに感情移入していたのもあって、彼女にとっての藤がどれほど心の支えでほっと息がつける場所だったかは手に取るようにわかる気がして。だから2人の時間が続いてくれたらいいなと思っていたんだけど、きっとそうじゃないんだろうなということは現代軸のセリフや藤がゆっくりと確実に揺らぎ始める様子からなんとなく察していて。
だけどそれはもっと先の話というか、明日訪れるはずもないだろうと思っていた。
「ゆらとの全部が勘違いだった」。
震えた、弱々しい声。
床に座り込んで項垂れる藤の姿に、言い知れない動揺と不安に襲われた。
たぶんそれはゆらも同じだったんじゃないだろうか。ここまで客席の視点がゆらに固定されていたのは、この状態の藤を目の当たりにした時の、心全部を覆ってくる不安を、観客とゆらが同時に感じるための演出だったんじゃないかと思う。
2人が出会った日、藤がゆらの腕を掴んだから始まった関係。今度は逆にゆらが藤の腕を掴みに行くのに、藤はそれを振り払う。「やめてくれ!」とこれまでの藤の穏やかさからは想像もできない声のあげ方にゆらは驚いて手を離すけれど、本当は藤に手を伸ばしたくて、苦しむ藤になにかしてあげたくてたまらなかったはず。一人取り残されたゆらがこの日のことを回想して「今なら何て言うだろう、藤の話に」と呟くことからも、ゆらが藤に対してずっと後悔を抱えているのがわかる。けれど何にも届かないその手のじれったさが、梅雨のまとわりつくような湿度の高さを思わせた。ここから物語は藤の視点に移っていく。
藤はその瞳でなにを見つめているんだろう。
それはビジュアル解禁時からずっと気になっていることだった。その答えがようやくここから明かされていくわけだけど、正直なところ明かされれば明かされるほど苦しくて。「学年1位を逃した俺の成績表を見て、“失敗作”と母は言った」というそのひと言を聞いて、藤がゆらと出会ったときにかけた「“失敗”って、そんなことないんじゃないかな」という言葉を思い出して頭を殴られたようなショックを受けた。藤はどんな気持ちでゆらを見ていたんだろうか。どんな想いでゆらと対峙し、あの言葉を紡いでいたんだろうか。“完璧”という言葉にとらわれ、“失敗作”であることに怯える。逃れられない呪縛の中で必死に足掻き続け、藤の心はどんどん壊れていった。
「僕の話」と題され語られる“高山藤の過去”。
それは藤の幼少期にまで遡る。
大人の、特に親の考え方や方針は子どもに絶大な影響を及ぼす。
ゆらがお母さんの「笑いなさい」という言葉に呪われていたように、藤に「完璧でありなさい」と呪いをかけたのもまた藤のお母さんだった。
藤のお母さんは絵に描いたような完璧主義者で、自分自身に関わるものすべてに完璧を求めている人だ。その考え方は自分の伴侶である夫や息子である藤に対しても適用されている。こと夫に関しては事業に失敗したことが語られていて、それを藤のお母さんは呆気なく捨てたのだという。その分の期待が藤に向くのは当然のことだ。「完璧でありなさい」「失敗作は捨てるもの」というお母さんの言葉は藤の心の深くにこびりついて離れない価値観として巣食うことになった。たぶんこのお母さんの息子である藤自身、生来ちょっと完璧主義な面というか、期待に応えようとする気持ちが強い傾向はあったのだと思う。そこにお母さんの言葉によって植え込まれた価値観と、お母さんが失敗したお父さんを呆気なく捨てた事実が重なって、完璧じゃない=失敗作、失敗作=捨てられる、という方程式が綺麗に成り立ってしまったんだよね。子どもにとって親に捨てられること以上の恐怖はない。藤自身はあまり自覚がなかったかもしれないけれど、この方程式が成立してしまったことでお母さんに捨てられる恐怖をすぐ隣に感じていたのだろう。一瞬たりとも気を抜けなかったと思うし、無意識に、でも必死になってしがみついていたからこそ、完璧であり母の理想に応え続けることに自分の存在意義を見出してしまった。だから大学生という親の手を離れて自分軸で生きてもいい年頃になってさえ、そこにしがみついてしまっていたんだと思う。
ゆらのお母さんと藤のお母さんは、タイプは違えど自分の理想を子に押し付けているという点でよく似ていた。ゆらのお母さんのように無意識に子どもに依存して「我が子のため」と盲信しているのもなかなかたちが悪いけれど、藤のお母さんの高圧的で子どもの心を恐怖で支配する様なやり方はもはや精神的虐待と表現してもいいくらいなんじゃないだろうか。どちらのお母さんもそこに悪意はなくて、むしろそれさえもある種の愛であるというところがなんとも歪んでいる。
ちなみに藤のお母さんはゆらのお母さん演じた吉野めぐみさんが兼役で演じていらっしゃったのだけど、このタイプの違うお母さんを見事に演じ分けていらっしゃって鳥肌がたった。ゆらのお母さんの時は不安定にまとわりつくような、藤のお母さんの時は冷淡に突き放して見下すような。終演後のポストでめぐみさんが「彼女たちなりの“正しい育て方”」と書いていらっしゃって本当にその通りだなと思った。正しいと信じる気持ちを否定はできないけど、"正しい"と信じることは諸刃の剣で、実際だからこそ2人のお母さんはそのかたちが歪んでいることに気づいていない。彼女たちは彼女たちなりに我が子に愛を注いでいるつもりなのだ。それを理屈で認識できているからこそ、ゆらも藤もお母さんを嫌いになれないんだよね。
藤が絵の道に進んだのもお母さんのひと言きっかけだ。
ここもゆらと対比になっているなと思って。ゆらのスタイリストという夢はたしかに彼女のお母さんが諦めたものだ。けれどゆらのセリフから感じられるスタイリストという仕事への憧れや姿勢からは、お母さんの影響はあるにせよ自分自身でその道を選んだんだろうと思わせる熱がある。一方で藤が絵の道に進んだ理由については、お母さんの「あなたは絵の道で成功できる」という言葉以外には語られない。藤が絵を描くのが好きだったかどうかにさえ言及されず、藤の口からこぼれ出るのも絵そのものではなく“そう望んだ”母の期待に応えようとする言葉ばかりだ。幼い頃からかけられてきた言葉の積み重ねが心の奥底にこびりついていた藤にとって、母の完璧な息子であることが他の何をおいても最優先だったのだと思う。そこに藤の心はあったのだろうか。思うにあのお母さんに褒められたという経験がひとつ藤のモチベーションだったんじゃないかという気はするけれど、だとしたらあまりにも悲しい。失敗作として捨てられないようにとひたすらにお母さんの期待に応え続けてきた結果、藤は自分の気持ちを顧みて大切にする機会を失ったまま生きてきたんだなと思った。
「あなたは絵の道で成功できる」って親ばかっぽく聞こえるんだけど、そこはさすが完璧にこだわるお母さんと言うべきか、その見立ては正しいものだった。美大に進んだ藤は着実に周囲からの評価を得て、いつしか“天才”と呼ばれるようになる。それはお母さんにとっては誇らしく自慢であっただろうけれど、藤にとっては自分を縛る重い枷が増えたのと同じだった。
"天才"という言葉はとても乱暴だと思う。"天才"という言葉ひとつで、どれほどの努力をして掴み取った結果や地位であったとしても生まれ持った才能由来のものになってしまうからだ。もちろん才能というものは存在するけれど、才能だけで成し遂げられるものってほとんどなくて、多かれ少なかれそこには必ず努力が生じる。だから人から称賛されるような大きな結果が生まれるわけで、"天才"という言葉ですべてを生まれ持った才能に帰結させてしまうのはその努力を見ていないのと同じだ。さらに言えば"天才"という言葉に含まれる「私たちとあなたは決定的に違う」というニュアンスが、孤独や妬みなどの負の印象を伝えかねない。その一方で、人々は無責任に天才に期待をする。本人が望むかどうかに関わらず身勝手に期待を押し付けて、その結果如何では勝手に失望して袋叩きにする。“天才は孤独だ”とよく言うけれど、それは天才という言葉がその人を孤独に追いやっているだけなんだと思う。
実際藤も母親や周囲からの期待に応えようとひとりきりで戦わなければならなかった。“〜しなければ”という思考って何事においても焦燥感を生むと思っていて、藤の場合も「期待に応えなければ」という思いが強くなればなるほど納得のいく絵が描けなくなっていく。たとえ完成した絵のクオリティがそれ以前に描いたものと遜色なかったとしても、「期待に応えなければ」という気持ちがその絵を見る目を厳しいものにさせる。描けば描くほど自尊心に傷がつき、焦燥感が募り、焦燥感のままに描いた絵は自分史上最低の出来を記録し続ける。それを人はスランプと呼ぶのだろうけど、周囲の期待に応えられる自分でなければならなかった藤の場合、自分の作品を評価するたびにそれは自分への評価になってしまった。一枚描きあげるたびに背後に崖が迫ってくるような、そんな恐怖に駆られながら日々を過ごしていたのかと思うと心が抉られそうになるほど苦しくて。「失敗」と口々に自分を責め立てる幻聴に苛まれながらもキャンバスに向かう藤の心は、このときすでに満身創痍だったのだと思う。
それでも回想序盤の藤はある程度普通に日常を過ごせていた。彼が“孤高の天才”に成り果てなかったのはやはり眞島先生や伊吹の存在が大きくて、ちょっとめんどくさがりつつも眞島先生に文句をつけたり、一見正反対で気の合わなそうな伊吹と話していたりする姿は年相応の大学生に見えた。藤が来る者拒まず去る者追わずだったのは影響していそうだけど、そんななかでも藤は藤なりに伊吹を気に入っていたのだと思う。
そしてそれは藤の過去におけるキーパーソン、サクハルちゃんのこともそう。かわいらしく人懐こいサクハルちゃんに気に入られて満更でもなさそうな藤は、「彼女って言いたかっただけだから。藤の彼女」とサクハルちゃんが言った時には「ああ」と噛み締めるように返している。本当にどこにでもいる大学生の姿がそこにはあった。
だからこそ誰も藤が抱えた異変には気づくことができなかったんだろう。いや、わかるはずもないのだ。それくらい藤が抱えた心の闇は深く、そして藤自身を飲み込もうとしていた。
どんどん様子がおかしくなっていく藤のお芝居が本当につらくて。日に日に幻聴や幻覚に悩まされるタイミングが増え、自分の中にだけ収まっていたそれがとうとう現実世界でまで藤を苦しめ始めた時、藤が一体なにをしたんだと心の中で叫んでいた。藤はただ一生懸命だれかの期待に応えようとしていただけなのに、どうして藤がこんなに苦しい思いをしなければならないのかと。もうこれ以上誰も藤を苦しめないでくれと叫び出したくなった。なのに恐怖し、絶望し、苦しみもがいている藤に対して周囲の反応はどこまでも残酷で、彼にかけられる言葉の全てが藤を追い詰めていく。
「描かなきゃ何も生まれない」。
眞島先生はそう言って藤を励ます。
その言葉は教育者として正しい導き方だったんじゃないかと思う。この先芸術家として生きていくならスランプとの向き合い方だって知らなくちゃならない。だけど生み出すことで自分を追い詰め続けてとうとう手が止まってしまった藤には、それは突き落とすような言葉に聞こえたんじゃないだろうか。あの時藤はまったく手が動いていなかった。失敗作ばかりが出来上がったと語るほどがむしゃらに描いていた彼の手が動かない、それはもはやアイデア云々の問題ではなく手を動かすだけの力もなかったということだ。けれど眞島先生が手を動かすように言ったことで、藤はまたひとつ、手を動かせない自分に“失敗作”のレッテルを貼ってしまった。
「好きで描いてるくせに一丁前に苦しんでんじゃねぇよ」。
恐怖のあまり暴力事件を起こした藤を、伊吹はそう言って責める。
藤の変化を一番肌で感じ取っていたのはたぶん伊吹だ。もしかしたら藤の異変に一番最初に気づけたかもしれない人。変わっていく藤に戸惑いながら、その変化を受け止め受け入れ、踏み込むだけの覚悟が彼にはないんだよね。それは伊吹の至極真っ当な、現代の若者らしい感覚だと思う。できれば面倒ごとに足を突っ込みたくはないし、できれば毎日を楽しくハッピーに過ごしたい。だけどこの時ばかりは我慢ならなかったのだろう。
この場面の伊吹の言葉はどれも凶器に近しいものだった。彼自身が藤に抱いてきた期待は周囲が藤を評する時の“天才”とはちょっと違って、「こいつならなにか大きなことをしでかしてくれるんじゃないか」という友だちへの期待だったと思う。苦しむ藤に対して「スランプなんかに負けるなよ、だってお前は高山藤だろ?」という叱咤激励の気持ちと、苦しみからくる負のオーラを周りに隠しもしない藤の身勝手(正確には藤自身にもどうすることもできなかったのだけど)に対する苛立ちが混ざり、言葉の威力が上がってしまったんだよね。果ては「絵なんか辞めちまえ」と思ってもないことが口をついて出てしまう。そんな伊吹の言葉ひとつひとつが藤にとってはどれだけ痛かったか。言葉そのものの威力に加えて友だちにここまで言わせた自分への不甲斐なさや情けなさ、そして自分の苦しみは誰にも伝わらないんだという絶望、とにかく伊吹の言葉がきっかけで感じたことのすべてが痛くて痛くてたまらなかったんじゃないだろうか。この時伊吹に言われた「お前だけじゃねぇよ。みんな大変なんだよ」という言葉がのちのちゆらに言う「傷つく言葉や苦しみやつらさはゆらだけのものだ」に繋がったのかと思うと・・・なんかもう・・・。
「ごめんなさい母さん、まだ失敗じゃない、」
錯乱し、そう言って自分に取り縋る藤をサクハルちゃんは腫れ物に触るような目で見下ろした。
サクハルちゃんは結構気の強い女の子で、好き嫌いもはっきりしているし物言いもはっきりしている。藤は絵の好みで母さんに似ていると感じていたけれど、それ以外にも彼女の気の強さにも母親を重ねていた節はあったんじゃないだろうか。自ら夫を捨て女手ひとつで息子を育て上げるのも、インフルエンサーとしてトップに上り詰めるのも、ちょっとやそっとじゃ揺らがない強さは必要だと思う。それはとても素敵なことだけど、藤の前では凶と出てしまった。そのことに動揺したのはむしろサクハルちゃんの方で、本当にここは彼女がかわいそうだったのだけど、動揺を隠しきれない瞳がお母さんの「失敗作は捨てるものでしょう」と言い捨てた眼差しと重なってしまう。錯乱状態に陥って正常な判断さえできなくなった藤は、彼女と母親を重ねるあまり彼女の存在に追い詰められてしまった。
病気の診断が降りた藤の部屋はゴミだらけになっていた。私は最初、藤が自活をする余裕がないほどに心を病んでしまったのだと思った。けれど藤は「捨ててあります」とあっさり口にする。「母さんは父さんをどうやって捨てたのでしょうか、それがわからなくて」という言葉を聞いて藤の思惑が理解できた時には、「ゴミを捨てたらここがゴミ箱で、そしたらそこにいる俺は捨てられたことになりますよねあってますか」と何もあっていない藤の言葉が続いていた。
藤は自分で自分を捨てたのだ。“失敗作は捨てるもの”という母親の教えを忠実に守って、失敗作である自分を捨てようとしたのだ。藤がぼろぼろの心でその結論を出したのかと思うと胸が張り裂けそうだった。
余談だが、観劇前に物販で髙畑さんのランダムソロチェキを買ったら彼はゴミ箱に入っていた。またなんかよくわからんかわいいことしてるな〜とか思って観劇したらこれです。茶目っけというには心が痛くなる仕掛けだった。
そうして語られる藤の過去を、ゆらは現在から見つめている。まるで映画を観るような面持ちで、自分のいない藤の過去を見つめている。伊吹やサクハルちゃんと和気藹々と過ごしている時は微笑ましそうに眺めていた彼女が、藤が追い詰められるにしたがって苦しそうな、なにか言いたそうな表情になるのがとても印象的だった。
ゆらは苦しむ藤に何かしてあげたかったはず、と先に書いたけれど、この時も多分そういう気持ちでいるんだと思う。けれどこの時、ゆらと藤は同じ舞台上にいるのにいる時間軸が違うから、どれだけ強く願ったとしてもゆらには介入することができないんだよね。ただただ藤が追い詰められていくのを見せつけられるだけで、割って入ることも藤の背中を摩ってあげることもできない。まだ失敗じゃないと必死に縋る藤に対して「そんなこと思わないで」と伝えることも、何も知らずに藤を追い詰める人たちに「そんなこと言わないで」と言うこともゆらにはできないのだ。自分がそこにいたら何かができると思うほどゆらは傲慢ではないんだけど、それでも藤に何かしてあげたくて、彼の心を守ってあげたくて、でもどうすることもできないジレンマが全部表情に出ていた。そのジレンマは客席にいる私が感じているのと少し似ていた。時間の隔たりと、舞台上と客席の距離はどう頑張っても飛び越えることができない。それなのにどうにかして飛び越えたいと願ってしまうほどに、足元から崩れ落ちていく藤を見ているのはつらかった。
でもねぇ・・・伊吹もサクハルちゃんも悪くないよ。
この物語はあくまで藤が主人公で、藤が置かれている状況をまったく関係ない第三者として見ているから二人が悪者みたいに見えてしまう。だけど伊吹もサクハルちゃんも、友人や彼女という立場からごくごく当たり前に藤を見て、自分の人生を生きていただけなのだ。そこには何の罪もない。藤の病気のことなど一切知らなければ、あの態度を取られた伊吹が苛立ち怒るのも当然。何の脈絡もなく母親と同一視されたサクハルちゃんが藤をマザコンと疑って当然。二人や眞島先生は結果として藤を追い詰めることになってしまうんだけど、それでもそこに悪意はないし、それどころか落ち度であると確信を持って指摘できるものもない。伊吹のセリフに関してはちょっとグレーな部分もあるけどそれだって伊吹の心理状態を考えれば責められないし、サクハルちゃんなんて藤が勝手に母親と重ねてしまっただけで何もしてないからね・・・。彼氏に母親と混同されるって女性として一番されたくないことでは。
藤は大学を中退し、サクハルちゃんとも別れてしまう。けれど伊吹とは連絡をとっていたようだし、彼の誘いでサクハルちゃんとも再会を果たす。
私はこの場面、伊吹がとてつもなくつらいなと思って。彼は「絵なんか辞めちまえ」と言ったことをずっとずっと後悔しているんだよね。そんなこと本気で思っていたわけじゃなかった。彼自身は元々世渡りも人付き合いも上手い方だったと思うし、広告代理店に就職して順風満帆に人生を送っているけれど、藤に言い放ったこの言葉はいつも心のどこかにあって悔い続けている。それは自分がそう言ったことが天才とまで呼ばれた友の将来を閉ざしてしまったかもしれない罪の意識があるのと同時に、藤の絵が、そして藤やみんなと過ごすあの時間が大好きだったからだ。伊吹にとって藤はどこまでも大切な“ダチ”なんだよね。だから藤が「暴力事件を起こした天才画家」という簡単な言葉で語られることが我慢ならなかった。ウドウやマネージャーの井口さんとの飲みは言ってみれば付き合いや商談の場で、険悪な雰囲気にしていい場じゃなかったと思う。普段の伊吹なら藤の話題を頑なに引っ張ることはしなかっただろう。だけどそうしてでも藤が悪く語られるのが許せなかった。その後酔っ払って藤のところに押しかけ、そこでの言葉はまたしても藤を追い詰めてしまうんだけど、でも酔いに任せてじゃないと言えなかった伊吹の心中を慮るとあまりにもつらくて。明るく振る舞う裏でずっとその思いを抱えていたかと思うとやるせなかった。「なんで何も知らない奴に藤が馬鹿にされなきゃならねーんだ」という言葉に伊吹はずっと泣いていたんだなと思ったし、「俺のせいか」と切り込まれた藤が目を見開いて「やめてくれそうじゃない、」と否定する姿やりとりにお互いのすれ違いがあらわれていて苦しかった。友だちなのになぁ。こんなにお互いのこと、きっと彼らなりに大事なのになぁ。なんで伝わらないんだろう。状況が違えばきっといい友だちだっただろうに。お互いに追い詰め、自分を責めさせるようなことにはならなかったかもしれないのに。
サクハルちゃんの場合は男女関係が入る分伊吹と藤の関係よりも複雑だ。藤がまた描けるようになるかもしれないと信じてインフルエンサーのトップにまで上り詰めたサクハルちゃん。「どんな男とも3回は遊ぶ」と言っていたわりにものすごく一途で、なのにそれをひけらかさないところが切なくて切なくて。「そういう思いを支えにして生きてちゃダメ?信じて頑張るのはおかしなこと?」と藤に問いかける姿に、だめじゃないよ素敵なことだよって言いたくなった。信じるという気持ちは一方的なもので、それを押し付けるのはよくないけれど、サクハルちゃんはそれをしていない。あそこで伊吹が言わなければ、彼女がそんな思いで自分を待っていたことを藤は一生知らないままだったかもしれない。ただ藤がまた描けるかもしれない、そうなったら役に立ちたいと、その思いがあるから頑張ってこれたことを誰にも否定されてほしくなかった。いや、もしかしたら、その思いが叶わないことはサクハルちゃんにとっては否定されるよりもつらかったのかな。藤が「陽菜は母さんに似てたから」と言い出した時はこの期に及んでまだ言うかと思ったし、サクハルちゃんもきっとそうだった。はっきしした性格なのと言いつつも基本的に冷静に、自分の気持ちを抑えて対処してきたサクハルちゃんが藤に向かってゴミ袋を投げつけるシーン、彼女のこれまでが全部凝縮されているような気がした。ずっと耐えていたんだよね。耐えて、待って、努力して、その結果がこれじゃああんまりだ。サクハルちゃんが自分の行動に見返りを求める人間らしい勝手さを糾弾するのは簡単だけれど、彼女があまりに報われなくて。だから藤に面と向かって「親からの愛情を受けられなかった」と吐き捨てるのも、なんだかしかたないような気持ちになってしまった。あの瞬間、“サクハル”ではなく“佐倉陽菜”であった彼女。パンフレットの座談会で彼女を演じた山本真夢さんが「藤はサクハルにココアを入れてくれたことはないと思う」とおっしゃっていて、その小さな行動の有無が埋めることのできないふたりの心の距離だなぁと思って悲しかった。
藤の話におけるもうひとつのキーワードが「理解する」という言葉だ。
伊吹をはじめ、サクハルちゃんも眞島先生もお母さんも、藤に「理解した」という言葉をかける。けれど藤にとってその言葉は虚像でしかなく、もっと言えば失望された時の決まり文句でもあった。
個人的に、人の心を理解できると思うのは傲慢だと思っていて。その人にはその人の背景や考え方や感じ方があるから、その人のことを完全に理解できるなんてありえない。理解できないという前提のもとで“それでも理解したい”と理解しようとし続けることが大事なことで、人のことを理解できると思った瞬間理解しようという気持ちは薄れてしまうんだよね。これは常日頃私が意識していることでもあったから、それが作品のひとつの鍵になっていることに気がついて心臓が変な音を立てた。
藤に言わせれば、人はみな自分を通してなにか別のものを見ているのだという。そしてそれが自分ではないと知った時、必ず「理解した」と言うのだと。その考え方の発端はやはりお母さんで、薬が効いて病状が収まってきた藤にお母さんは「あなたがはじめから失敗作だと理解した」と冷たい言葉を突きつける。強張った表情で、でも懸命にもう大丈夫なんだと伝えようと笑顔を見せる藤に「笑わないで」と。藤になんてこと言うんだ・・・期待に応えようと死に物狂いで頑張ってきた息子に対する仕打ちがそれか・・・。結局藤のお母さんは、息子にどこまでも完璧だけを求めていた。完璧なアクセサリーで自分を着飾りたかっただけだった。
要するに「理解した」というのは「(あなたが私の理想でないことを)理解した」と藤に伝えているのと同じであるということだ。つまり藤の考え方の奥底には、自分の抱えた苦しみやつらさは誰にもわかってもらえないという前提がある。
そんな藤のことを本当に理解していたのであれば、「理解した」とは言えないはずなんだよ。だって「理解した」と伝えたところで藤には伝わらないのだから。藤のお母さんを藤の前で責めるのも、「それは考えなくていい」と遮るのも、「理解できるの」と言葉にすることも。なにもかも、藤には自分の気持ちは誰にもわからないんだという確信を深めていく言葉でしかない。「理解した」と発言した瞬間、その人物は藤のことを理解できていないことが露呈してしまう構造がなんとも皮肉だった。
そんな中で、ゆらだけは「わからないよ」と言う。それって藤にとってはものすごく大きいひと言だったんじゃないだろうか。ゆらの姿は過去の自分と重なって見えただろうし、そんなゆらに対して藤がかけてきた言葉はきっと藤があの時欲しかった言葉だ。だけどそれが押しつけにならないように、藤はいつも注意深く言葉を置いていた。自分の言葉を手に取って、ココアを飲むように心に受け入れたゆらが、「わからないよ」と口にする。その上で、藤が失敗作と評した絵を「失敗じゃない、だけどそれは私の感想だ」と笑顔で評する。藤の気持ちも自分の気持ちも尊重してゆらがそう言うのは、藤に言われた「感じる権利がある」という言葉を大切にしているからだ。
藤がお母さんの話をした時も、ゆらだけは「嫌いになれないでしょ」と藤の心に寄り添ってくれる。藤がゆらに向けた言葉がココアのマグカップを置くようなものなら、ゆらが藤に向けた言葉はそっと隣に座るような言葉だった。
自分の言葉がゆらに届き、ゆらにとっての居場所になれているという感覚は、藤の心を少なからず前向きにさせていたと思う。そして同時に、藤自身がゆらに救われていた。お母さんのために描いていることも、失敗作のことも、ゆらは否定せずただ寄り添ってくれる。ややこしささえ認めて、「藤は藤なんだから」と言ってもらえた時、もう一度立ち上がれるかもしれないと藤は思ったんだよね。そこに見えたのはたしかに希望だった。聞こえかけた幻聴さえ振り切って、藤はキャンバスに向かう。そんの藤に触発されるように「私も練習しなきゃ、カットの」と笑顔を見せるゆら。お互いがお互いを心の支えにして頑張る姿に、私だって希望を見たのだ。
そうして藤は絵を描き上げる。
“失敗作”でも、“完璧な世界”でもない。
タイトルのない、新しい絵を。
同時に藤を襲ったのは果てのない絶望だった。新しい絵を描き上げることができた、それなのに頭の中からまた声が聞こえてくる。一度希望が見えていたからこそ、この声から逃れることができないと思い知らされる結果になってしまった。失敗作はいましがた描きあげた新しい絵ではない。他でもない、自分なのだと。
これまでに描いてきた絵たちを床に投げ飛ばし、床に項垂れる藤。
自分を引き留めようとしたゆらの腕を振り払い、藤はまた耳を塞ぐ。「繰り返すんだ・・・こうやってずっと。どこまでいっても俺はだめなんだよ」。あまりに弱々しくて悲しい言葉だった。ゆらはその言葉を否定したくて、そうじゃないんだと藤に伝えたいんだけど、何も言葉が出てこない。ただ床に散らばった絵を拾い集める。
ああ、心だ、と思った。
床に散らばった絵を拾う、たったそれだけの行動だけど、ふたりにとっては大きな意味を持つ行動だった。ゆらは藤との会話の中で、藤の絵を「藤の気持ちが映し出されている」と表現した。つまりこの行動は、藤自身が投げ捨てて“もうだめなんだ”と諦めた彼の気持ちを、ゆらが大切にしてくれたってことなんだなと思った。藤がゆらに自分の気持ちを信じていい、大切にしていいと伝えたように、今度はゆらが藤の気持ちを大切に拾い上げてくれた。ゆらにはきっとそうすることしかできなかったんだと思う。藤は「いいって!」と言うけれど、ゆらにとってはそうじゃないんだよね。藤がどれだけ自分を失敗作だと思っていても、そうじゃない。だけどそれをどうやったら藤に伝えられるだろう、と絞り出すように「違うよ」と繰り返すゆらも苦しくて。
何も言葉が見つからないふたりの間に雨が降ってくる。
耳を強く塞いで縮こまり、怯える藤をゆらは抱きしめる。
「雨うるさいね、うるっさいねぇ藤。雨だよ、ただの・・・」
このセリフを聞いて、ゆらは強い子だなって思った。
ゆらと藤、最初のきっかけは「雨の音って責められている気がする」「わかる」という共感だった。ということはこの瞬間に降り注いでいる雨はゆらにとっても藤にとっての雨と同様自分を責め立てるものなのだ。けれど藤をいま責め立てているものは、雨というよりも藤の内側にあるたくさんの言葉や思いであって、雨はそれを象徴するものでしかない。だからゆらはそれを全部雨のせいにしたんだよね。藤の内側の声を全部“ただの雨”にしてしまう。雨うるさいねぇと藤に必死に寄り添いながら、実質的に藤を責め立てているものを、本当は自分を責めているわけではない雨にして、藤の心をなんとかして守ろうとした。ゆら自身にとっても自分を責め立ててくるものであるはずの雨を「ただの雨」だと言えるのは、紛れもなくゆらの強さだ。
そして藤が自分にしてくれたようにココアを入れる。
飲んで、と促して、優しく藤に語りかける。
「藤、切ろっか。」
ゆらはこの時、はじめて人の髪を切ったのかもしれないなと思って。
はじめてというか、はじめて自分の意思で切りたいと思ったんじゃないかなって。
藤の髪を切りながら、「彩るんだって。ヘアスタイルひとつでその人の人生を」と話すそれは、ゆらがスタイリストを目指し、カオルさんに憧れた理由だった。ヘアスタイルで誰かの人生を彩りたくて進んだスタイリストの道は、叶う一歩手前で引き戻されてしまった。それでもゆらはこの時、藤の人生を彩りたいと、そう思ったんじゃないだろうか。それが自分が藤にできる唯一のことだと、藤に自分の想いを伝えるにはそれが一番だと思ったからハサミを取り出した。
そしてそれは同時に、心が折れかけたゆらの決意表明にもなった。
諦めないことで、ゆらはきっと藤に伝えたかった。
“藤は私を救ってくれたんだよ”と。
だから藤はぎこちなく、でも精一杯の笑顔で応えるのだ。
「よかった。俺もよかった」と。
それは決して藤が苦しみから解放されることとイコールではなくて、雨はまだ上がらない。けれど最後にゆらの言葉が無事に届き、ぎこちなくでも笑顔を向けようとして口角を上げられたことが、きっと藤の心の鎖をひとつ砕いたんじゃないだろうか。そうであって欲しいと願わずにはいられない。
たとえふたりの人生がこの先交わることがなかったとしても、ゆらが藤の面影を心に宿して歩いているように、藤にとってもゆらが思い出すと少し背中を押されるような面影として残っていて欲しいなと思った。
あの時、ふたりが一緒に過ごしたほんの一瞬。
ふたりはお互いの傘だった。
責め立ててくる雨の音をかき消すことはできなくても、雨に打たれる冷たさや痛さからたしかに相手を守っていた。
ふたりだけが、あの雨の下で過ごした時間を知っている。
きっとそれだけで充分なんだと思う。
たとえそれしか知らなくても。
〈『それしか、知らない』公演情報〉※敬称略
制作:m selプロデュース
公演期間:2024年6月13日〜6月16日
会場:王子小劇場
脚本:舘内美穂
演出:平竜
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