ゆい
2024-07-15 12:38:57
4005文字
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【宗みか】脆くて甘いのろいごと

フォロワーさんと「夏の夜」をテーマに小説と漫画を書き、タイトルまで付けてもらいました。
ミルキーウェイ後の湿っぽいふたりです。

「夜でも汗がひかんなぁ。やっぱり、お師さんも一口食べへん?」
「結構。余所見をしていると垂れてくるよ」  

 先程買い与えた氷菓を未練がましく差し出してくる影片へ、掌まで見せてもう三度回目の断りを入れる。毎回新鮮に萎れる笑顔を愚かだと横目に思いつつ、結局どれも口には出せず黙っていた。
 二人並んで泳ぐ生温い闇には風一つ吹かず、夜の切れ間を掻き分けて進む度に呼吸は浅くなっていく。ライブ終わりの制服はいくら着替えても既に皺と汗に塗れ、衣装や小道具が詰まった鞄を握る手も己の体温で泥濘るんでいた。相手側の不手際で帰りのタクシーが手配出来なかったと頭を下げられた時点で、少しはごねておくべきだっただろうか。もう少しで満ちる月の光と頼りない間隔で並んだ街頭に照らされながら、今更の気付きに眉根が寄る。全て後の祭りとホテルまで徒歩十分だと教えられた一本道をせめて無心で進む僕の傍らで、微かに氷が削れる音が鳴る。溶けるから早く食べろと言い付けたのに、影片は鼠のような一口で苺味を食べ進めていた。あのペースで舐めていては、この暑さに醜く崩れ出すのも時間の問題だろう。やっぱり、いくら暑いからと言って、慣れないご褒美なんて買ってやるもんじゃなかった。思わず漏れた溜め息は、まだ半分は残った氷菓こ溶ける音に紛れて線香花火より儚く散った。
 再三請われ、殆ど押し切られるように参加した今夜のライブは、予算も音響も舞台装置すら学院のレベルには遠く及ばなかった。何度首を振っても手を変え品を変え諦めないような主催の情熱だけが頼りの舞台など、去年の僕なら話も聞かずに断っていたことだろう。実際、日程表も殆ど機能しない綱渡りのスケジュールは、病み上がりを差し引いても随分と骨身に堪えた。勿論、全体的に本調子とは言い難い僕達にとっては、これ位の稚拙さが丁度良い救いでもあった。だけど、満足にステップを踏みこなせない脚も、暗幕まで伸び切らない指先も、掠れが混ざり濁る歌声も、自業自得と分かってはいてもやっぱり全て悔しくて。本当はもっと上手に出来るのに。甘ったるい言い訳が終始喉につかえて逃げ出したくなったけれど、寸でのところで踏み止まったのは隣の影片のせいだった。歯噛みするばかりの僕を庇うように、影片は冬の頃より比べてずっとましになった歌と踊りを絶えず観衆へ振り撒いていた。見方によっては滑稽にすら映る真摯さで舞台を統べる姿は、きっといつかの僕の背中を真似たものなのだろう。影片の基準は何時も僕ばかりで、清濁も善悪も僕が選べば迷わず信じて模してしまう。やっと罪の上に出来た瘡蓋を無邪気に剥がしてくるような有り様が疎ましくないと言えば多分、嘘だ。まだ生々しく膿む傷も癒えぬ内から、過去の栄華を懐かしむような趣味は無い。だけど、誰もが目を背けたあの季節に、それでも確かにあった正解を守りたいと躍起になる気持ちも、本当は何となく、分かる。きっと影片は僕以上に僕を信じて決めつけている。お師さんは完璧や、とまるで揺らがない声と瞳が唱える譫言がいつか再び世界の当たり前になることを。信頼と呼ぶには些か荷が重い献身が煩わしい時もあれば、本当に不本意ながら背中を押される時もある。今日の結末はたまたま後者だった、それだけ。そうでなければ、立ち寄ったコンビニで目を奪われていただけのアイスキャンディーを、懇願されるより先にカゴへ入れたりはしない。励まされたつもりも慰められた気も毛頭無いけれど、兎にも角にも水分補給は大事だ。その形が液体か固体かなんて、きっと瑣末なことに違いない。
 俄かに隣が騒がしくなり、亀のようだった咀嚼音は一気にスピードを増す。最早、目を遣るのも億劫だが、このまま知らん顔をして無闇に道路と手を汚すのを放置する訳にもいかない。誰一人として僕達に目を向けていなくとも、それが理想に反する生き方をしても良い理由にはならない。徐ろに足を止めた僕を気にも止めず、赤く汚れた手を持て余しながら薄い背中が数歩よろけるように進みを進める。不格好に膨らんだ鞄を嫌々ながら肩に掛けると、思った以上の重みに少しだけ身体の真ん中が傾く。影片。踏ん張り直してからすっかり呼び慣れてしまった四文字を意識して吸った酸素で一息に呼べば、やっと僕の不在に気付いたらしい影が顔だけて後ろを向く。予想通り下がりきった眉に今度は溜め息を飲み込んで、開いた距離を大股で一気に詰めていく。芸術は美しい魂と崇高な行動にこそ宿る。手元を庇いながらみっともなく慌てる姿にたとえ舌打ちが漏れたとしても、歩み寄ってハンカチ一つ差し出せないような者に芸術家を名乗る資格は無い。

「‥だから言ったのだよ。食べ切れないなら無理せず残したまえ」
「でも、せっかくお師さんが買ってくれたアイスやし‥あっ、」

 どぉん、息詰まるような空気が腹の底に響く音と共に揺れる。瞬間の光を浴びて、弾かれたように空を見上げる影片の顔が闇に切り取られて網膜を焼いた。会場を後にして以降、漸く後ろめたさ無く正面から見た影片は、この蒸し暑さの中でも殆ど汗を纏わずに青白い頬をしていた。やけに潤った唇は半開きで弧を描き、色違いの瞳の中で火の粉がいくつもきらきらと散る。ハンカチで包んだ両手から力が抜けるのを察して、熱は重ねたまま僕もゆっくりと背後を仰いだ。どぉん。ぱらら。どぉん。雷鳴に似た音は殆ど暴力となって耳を震わせるのに、肝心の花火はどれも歪に欠けていた。視界の真ん中にはマンションが高く聳え立ち、角や側面から火花の一部が花の名残として覗いている。こんな虫食いじみた光でこれ程無垢に笑えるのは、いっそ才能だと思う。一過性の不完全な美に然程興味は無いから、さっさと向き直してべたつく手をまた拭いてやる。何とか裸になった木の棒と指を汚す氷の残骸が、純白の刺繍を安っぽい赤で染めていた。今度からウェットティッシュでも持ち歩くべきだろうか。影片と居ると兎に角荷物が増えて困る。いくら拭いても一向に美しくならない指先とまだ惚けたままの本体に苛立ちが募らせれば、不意にすぐ近くでさっき聞いたような歓声が上がる。咄嗟に声のした方へ顔を向けると、少し進んだ角の向こうから再度甲高い喜びが上がる。どうやらそこまで行けば花火がまともに見えるらしく、何人か立ち止まって空を見上げているようだ。品の無い無邪気な談笑を聞きながら、薄暗い道の隅で僕に唯一残された指へと目を伏せる。熱が幾分引いた声で目と鼻の先にある筈の整った横顔を呼べば、ちょうど上がった花火からあっさり目を離して二つの星が真っ直ぐに僕へと向く気配がした。

「あそこの角を曲がれば花火が全て見えるみたいだね」
「お師さん見たいん?ええよ、早よ行こ」
「僕じゃ無くて君が見たいんだろう。少しだけだったら付き合ってあげるよ」
「おれは充分見たで。お師さんも見ぃひんやったら、もうホテル帰ろか」

 予想外の答えに思わず顔を上げてしまえば、想像通りの距離で奇妙に微笑む影片があった。こんな熱帯夜には似合わない涼しさを湛えた瞳の奥にはきっと目を丸くした僕が居て、瞬きの度にまた大袈裟に欠けるのだろう。無様に狼狽える僕へ影片は温もりの抜けた唇を再度持ち上げ、きつく包んだ筈の熱からするりと手を抜く。全て抜け落ちる間際、右の中指をべとつく五本の指で僅かに掴まれる。何事かと問う前に影片はくるりと後ろを向き、指だけを引いて夜空を背にあっさりと歩き出した。

「おれ鳥目やからどこで見ても大して綺麗さは変わらんもん。大きさと色は分かったし、これ以上は何も分からんよ」

 真昼のような陽気さで影片は続けて、曲がるように諭した道に脇目も振らず過ぎていく。背後でまた派手に花火が上がり、二人溶け合いながら伸びる影を色濃く映して敢え無く消える。無理に引かれる指が少しだけ熱い。君一人なら、まだ間に合う。きっと僕は浮かれる君をそう窘めて、今すぐ全てを振り払うべきなのだ。こんな陰気な夏の夜に、溶け果てた安い氷菓と欠片ばかりの花火しか差し出せない僕は、誰がどう見ても最低な神様だから。そんなことは生身の僕が一番よく分かっている。僕はたった一度の敗北に呆気無く膝を折り、二度と訪れやしない青の季節も丸ごと一つ溝に捨てるような大馬鹿者だ。君が捧げた恩義や信仰は全て的外れで、願いも祈りも最初から最後まで意味は無かった。壊れて落ちぶれた僕を最初から最後まで見守り切った君だけは、自嘲でも誇張でも無い事実として確かにそれを理解しているべきだった。突き放す為の台詞はいくらでも胸を占めるのに、夜に焼かれて乾いた舌は単語一つ拾えず震えるばかり。潤いを求めて唾を集めても喉の奥が鈍く痛むだけで、光から意気揚々と遠ざかっていく足音に着いて行くだけで精一杯だ。

「今年の夏はアイスにライブに花火まであって大満足やわ。しかも全部お師さんと経験出来るやなんて、おれはこの夏一番の幸せ者やねぇ」

 嬉しくて堪らないとばかりに蕩けた声が星の無い夜に凛と輝く。まるで呪いのようだと咄嗟に思い、すぐにその下らない妄執を打ち消した。ようだ、じゃなくて彼は僕の呪いそのもの。あの日、あの忌まわしいステージで、取るに足りないただの人間として倒れることを望まれた僕に、アンコールを叫んだのは君だけだった。死なないで。一番になって。神様のままでいて。愛と見紛う信仰の裏にささやかで大それた我儘達を秘めながら、影片は何度だって僕を地獄に連れ戻す。命果てるその日まで、星すら平伏すアイドルであれと夢見てくる声に、僕は今日も呪われている。

「‥本当に暑苦しい子だね」

 どこにも曲がれず愚直に明日へ進むだけの足取りに合わせて、僕の声も少し揺れる。ぱっと上がった笑い声は置き捨てて来た花火よりも何故か鮮明に耳まで届いた。