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たかさき
2024-07-15 00:24:41
19319文字
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最後のなつやすみ
FF7/ヴィンクラ/現パロ/R-18
1947年くらい
注意)クラ10代、ヴィが20代での性的描写があります
幼馴染がうちに暫くの間滞在することになったと母から告げられたとき、クラウドは微妙な表情しか示さなかった。
母はそれに全く気付かなかったのか、久しぶりだし嬉しいでしょう、と一人嬉しそうにはしゃいでいた。そのはしゃぎ方は母というより年頃の少女のようで、しかし母が時折そんな風に見せる幼い表情がクラウドは嫌いではなかった。母がそういう表情を見せるのはたった一人の家族である自分だけだったし、本当に嬉しいときにだけ見せるものと知っていたからだ。母のこんな晴れやかな表情はそれこそ久しぶりだったというのに、それでもクラウドは複雑な気分のままだった。
「ねえ、ヴィンセントくん、何歳になったんだったかねえ。あんたが今年十六だから
……
」
「
……
7歳、上」
「お父さんと一緒の大学に行ったのだって、それももう何年前だったかね。ここであんたと遊んでたときなんかまだ子どもだっていうのに表情はえらく大人びてて
……
」
母はもはやクラウドの言葉を聞いてはおらず、古い写真に写る思い出の姿に向かって話しかけていた。
そうそう、来週くらいには着くそうだよ。
何でもないことのようにそんなことを言われたってクラウドの気分は晴れないままだったし、それ以来、来週くらいには着くという曖昧な情報だけが頭にずっと引っ掛かったままでいた。
いつもどおり過ごしていても、もしかしたら今日なのか、それとも明日なのかも、と気にしないではいられなくて、嫌なもやもやが胸やら頭やら、全身の皮膚にうっすらまとわりついて離れない。
学校は今日で終わりで、明日から夏休みだ。多くの生徒が重荷から解放されたような顔をして、田舎の親戚の家に行くのなんかうんざりだと笑っていた。ここだって十分に田舎なのに何を言ってる、と思うが口にはしない。口にするような相手はいない。
一人教室を出て、もやもやを振り払うように足早に帰路につく。
とりあえず家に着いたら、中途半端に投げ出している倉庫の片付けでもしようか。そして地図を広げて、シドから譲り受けたバイクの点検をして
……
。
無理やりよしなしごとを考えながら足を動かしていれば、家にはいつの間にか帰り着く。倉庫の片付けの前に冷たいレモネードでも飲もう。抱えていた鞄を行儀悪くリビングのソファに放り投げようとして(後で母から怒られるだろうけど)、窓際に物影が動くのが見えた。
クラウドの手が宙で止まり、鞄は力なく床にぼとりと落ちる。
カーテンがふわりと舞い上がって、影を白く隠してしまっても
――
あれから幾数年が経っていようとも、それが何なのか、誰なのかがはっきりと分かってしまった。
窓際にしどけなく寄り掛かった、長身の立ち姿がこちらを振り向く。腰まで伸びる長い黒髪がさらりと揺れて、その隙間に見える目がゆっくりと瞬いた。
二人の目が合った時に何と言えば良かったのか、クラウドにはやっぱりよく分からなかった。
だから暫くしてこちらに歩いて来ようとする姿を見ても、その場にぼうっと突っ立ったまま、近づいて来る長い足をただ眺めることしかできなかった。
*
ヴァレンタイン一家は元々ロンドン郊外に住んでいたのが、妻の療養のためにクラウドの住む田舎へと越してきた。クラウドの母であるクラウディアはすぐその家族と打ち解けて、週末には互いの家でお茶を飲みながらお喋りに花を咲かせていた。ここは空気がきれいでいいわね、空気がきれいなだけで他には何もないつまらないところだよ、それがいいじゃないロンドンは塵と雨が降るので街中どこもかしこも灰色なのよ
――
。
クラウドの父はクラウドが小さい頃に顔を覚える間もなく他界していた。遠い南の国にある大きな運河で働いていた技師の一人だったらしい。家に帰ってくることは少なく、向こうで流行り病にやられたのだと聞いた。
だからヴァレンタイン一家に父親がいなかったのを、当時十歳にも満たないクラウドは自分と同じ境遇なのだと思い込んでいた。自分より七つ年上のヴィンセントという少年に対してあまり警戒心を抱かなかったのは、相手に多少の同情心を持っていたからなのかもしれない。同じ年頃の少年たちとはうまく付き合えた試しのないクラウドだったが、ヴィンセントとは何故か衝突を起こさなかった。二人で畑の中をどこまでも歩いて川でボートを漕いだり丘の上に登ったり雨の日はお互いの部屋で本を読んだりしているのを、母はまあ珍しいこともあるもんだわと嬉しそうに二人のための菓子を焼いてくれた。
そうして過ごした時間は、長くはなかった。
ある日、ヴィンセントから、親父が来るんだ、と告げられた。その顔は嬉しそうでもなく悲しそうでもなく、今日は一つ向こうの楡の林まで行こう、といつも言うのと同じような口調だったので、クラウドは暫し何も言えなかった。意味が分からなかったからだ。父親が来るとは、どういうことだろう。天国から? それとも新しい父親が? それはヴィンセントにとって良いことなの? それとも嫌なこと?
いつものように手を繋いで歩きながら黙り込んだクラウドに、ヴィンセントはああ、と気付いたように言った。
親父がね、ロンドンの研究所からオックスフォードに戻る目途がついたんだって、連絡があったんだ。向こうで一緒に暮らす準備もできたからって、来週迎えに来るらしい。
言い終わらないうちからクラウドが不意に立ち止まってしまったのを、ヴィンセントは不思議そうに振り向いた。
ヴィンセントが何かを言う前に、クラウドは繋いでいた手をばっと振りほどいて、そのまま背を向けて走り出した。ヴィンセントの声が聞こえた気がしたが、初めて無視した。家に駆け込んできたクラウドを母は不思議そうに見て、外で遊んでたんじゃなかったのと言われても何も答えず部屋に閉じこもって頭から枕を被った。その後、ドアを叩く音がして、ごめんねえせっかく来てくれたのに、という声が聞こえても聞こえないふりをした。
裏切られた、と思った。
ヴィンセントも淋しいのだと思っていたのに、そうじゃなかった。そう思っていたのは、自分一人だった。
だから来週と言っていた日がやってきても、クラウドはいつも二人で行く川に一人で行った。畑の中を歩いている途中で、遠くを列車が走っている音が聞こえた。
堪らず、走り出した。どこに向かえばいいんだろう。分からずに走っていた。追いつけなどしないことは分かっていたけれども、走らずにはいられなかった。
「ほら遠慮しないで沢山食べてここにいる間は家族なんだと思ってね、お父さんはまだ大学なのかい? お元気だといいけどお一人じゃあ大変だわねえこっちに一緒に帰ってこられたら良かったのにねえ」
「親父はああいう人ですから、一人でも心配ありません。仕事がなくなったら却ってそのほうが参ってしまうんじゃないかな」
「ああそうねえそうしてたほうがお父さんにとっても良いのかもねえ、それにしても本当に大きくなったのねえすっかり大人になっちゃって、その長い髪とても素敵よかっこいいわあ」
母がにこにこと矢継ぎ早に喋りながらミートパイとマッシュドポテトの皿を回すのをヴィンセントは器用に受け取って自分の皿に取り分けながらついでにクラウドの皿にも取り分けて余計なことをと一瞬思ったものの何故かこれくらい食べたいなという丁度良い分量を取り分けられたものだから文句を言うこともできずにそのまま皿が母に返っていくのを宙ぶらりんの手を持て余しながら眺めている間、ヴィンセントは更に母の質問にも卒なく答えるという器用の三乗のようなことを成し遂げていてクラウドはただ黙って空気のような存在でいるしかなかった。
この感じ、すごく、苦手だ。
クラウドは顔を顰めながらポテトを口に入れるが味など欠片も感じない。母もヴィンセントも機嫌良く喋っているけど、その中に自分が加われるとは到底思えない。さっさと食べて自分の部屋に逃げ込もう。そう思っていたのに。
「クラウド、美味しい? あらそんだけしか食べてないのいつもはもっと食べるじゃないのあんたの好物でしょお母さん張り切って作ったんだからねほらほらお皿寄こしなさい」
「い、いいって、そんないらない
……
」
「あら。この子緊張してるわ。どうしたんだろうね。なに、もしかして生焼け? 火通ってない? 変なの入ってた?」
大丈夫だからもう、放っておいて。お願いだから。
完全に俯いて小声で言って皿を全力で奪おうとする母に取られまいとこちらも皿を全力で握りしめて攻防戦を繰り広げていたところ、
「クラウディアさん」
記憶より低い声がすっと割って入って、母だけじゃなくクラウドも顔を上げてしまった。
「今日はずっと列車を乗り継いで来たから、疲れてしまって。早めに休ませてもらっていいですか」
「あら、お茶もいらない? でもそうね一人で長旅疲れたでしょうゆっくり休むといいわ、クラウドほらお部屋に案内してあげて、お父さんの部屋よ」
「え
……
おれ? 何で、」
「枕持って行ってあげてねあんたの部屋に仕舞ってあるから、じゃあヴィンセントおやすみなさい、あとでお部屋にお茶を持って行ってあげるわね」
さっと立ち上がった母に、ヴィンセントも頭を軽く下げてから立ち上がる。
そんな中で一人立ち上がらないわけにもいかなくて、クラウドも渋々といった感じで立ち上がった。
階段を上がるのに、少しずれて後ろからついてくる足音が歩調のリズムを狂わせる。
振り切るように足早に上って、部屋はそっち、と目も合わせずぶっきらぼうに言い放ち、クラウドは自分の部屋へと向かう。何で枕をおれの部屋に置いたままにしてるんだよ。母さんは時々そういう訳の分からないことをするんだから。胸中ぼやきながらクローゼットを開けたところ、控えめなノックの音がした。
「
……
入っていい?」
ヴィンセントがドアのところに立って、こちらを見ていた。
記憶より大人びた顔、とても高くなった背、あり得ないほど長く伸びた髪。なのに、声のかけ方はあの頃と変わらない。
クラウドはイエスともノーとも言わず、クローゼットを閉めてそこに背を付けた。枕を掴む手の平がやけに汗ばんでいるように感じて、背の後ろに組んで隠す。
ヴィンセントは躊躇いなく、部屋へと足を踏み入れた。片手をポケットに入れたままゆっくりと歩く姿は、やっぱり昔と変わらないように見えた。
部屋をくるりと一瞥して、変わらないな、と小さく呟く。机に広げている地図を目にして、確かめるように数か所を指でなぞりながら、じっと読み解くように図面を見ていた。
たったそれだけで、クラウドは耐え難くなってきた。この部屋にヴィンセントがいて、自分の生活の痕跡のようなものを隅々まで見られているということに。
段々息苦しさまで感じ始めてきて、さっさと枕を渡して部屋から出て行ってもらえばいいんだと至極単純なことに気が付いて、それでも何故か手も足も口も動かず、どうしよう、と思い始めたとき。
目の前に、ヴィンセントが立っていた。立って、じっとクラウドを見下ろしている。
「あ
……
枕、あの、」
「どうして、見送りに来てくれなかったんだ?」
「
……
え?」
目を忙しなく瞬く。いきなり何のことを言われたのか分からなかった。しかもヴィンセントは一言発したっきりそれ以上何も言おうともしない。それでも、怒っているということだけははっきりと分かった。多分、ヴィンセントのこの表情を見て、怒っていると気付く者はいない。そういうところも昔と変わらないんだなと、妙に感心さえしたほどだ。
クラウドが何も言おうとしないのを諦めたのか何なのか、ヴィンセントは一つ息を吐くと、指でクラウドの頬にそっと触れた。ゆっくりと撫ぜて、親指で唇に触れる。
「
……
おやすみ、クラウド」
かがむようにしてこめかみに軽く触れる程度のキスをして、クラウドが後ろ手に持っていた枕をするりと抜き取ると、静かな足取りで去っていった。
ドアがぱたんと閉じる音がして、足からずるずると力が抜けて、ぺたりとその場にへたりこむ。指で触れられた部分を手の甲に押し付けて、目をぎゅっと閉じる。
冗談じゃない、と思う。
怒ってるのはこっちだ。勝手にどこかに行ってしまったくせに、勝手にまた戻ってきて。こっちがどう思ってるかなんて、知らないはずないくせに。
廊下の向こうはしんと静まり返っていた。
待っていれば閉じたドアがもう一度開くんじゃないかと、どこかで期待している自分がとてつもなく嫌だった。
*
見渡す限り草原が続く道を、どう見てもボロくて古い一台の車ががたがたと走っている。
運転しているのはヴィンセントで、助手席に乗っているのはクラウドだ。
クラウドの顔面には大きく不機嫌と書かれてあって、視線は窓の外の特段面白くない風景にのみ投げかけられている。
何故こんなことになっているかというと、クラウドはあの後眠れぬ夜を過ごして、何度も寝返りを打ってようやく空が白んでくると早々にベッドを抜け出し、身支度もそこそこに倉庫に閉じこもって遠出の計画を立てていたのである。技師であった父の友人である、同じく技師(別の畑ではあるが)のシドという男が小さい頃から何くれとなく世話をしてくれているのだが、クラウドに一台の古いバイクを貸してくれていた。メンテナンスもきっちりしといたからなとお墨付きをもらっていたので、クラウドは夏の間これを乗り回して行きたい場所を巡ろうと考えていたのだ。
なのに、そこにヴィンセントがふらりとやってきた。疲れたと言っていたからてっきり昼過ぎまで寝ているだろうと思っていたのに、何でこんなに早く起きてくるんだ。
まるで尻尾を踏まれた猫のように目を見開いたクラウドに対し、ヴィンセントは平然として俺も一緒に行っていいかと尋ねてきた。断られるとは思ってもいなさそうな口ぶりがまたちょっとむかついて、しかしクラウドが何も言わないうちからこれは使えないのか?とヴィンセントが視線で示してきたのが、今二人が乗っている車である。
俺運転できないし、と言ったら、じゃあ俺が運転しよう、とまた平然と言われてしまって、何も返せなくなった。
確かに、これなら本当は行ってみたいけどちょっと遠いし無理かなと諦めていた場所にも行けるなと思った、けど。
流れていく木々をぼんやりと見ながら考える。
けど、と思考がある一点で中断されてしまう。
それ以上は考えたくないという本音がそこにある。それ以上考えるとどこに行きつくのか、何で昨日の夜はあんなに眠れなかったのか、眠れないときに自分の手がどこに触れて、そのとき何を考えていたのか、思い出したくもなかった、のに。
「
――
いつまで、そうやって不機嫌な顔をしているつもりだ?」
不意に話しかけられて、またも体をびくりとさせる。ヴィンセントの口調は穏やかなもので、驚くようなものでは全くなかったのだが。
困ったような溜息が漏れるのが聞こえてくる。
「そんなに警戒しないでくれないか
……
初めて会ったときだって、そんな態度じゃなかっただろう」
「
……
そんなの、覚えてない」
「そうか? 俺は覚えているが」
さらっと言われて、クラウドはますます体を固くさせる。言われたくないことを言われたからじゃなくて、言って欲しいことを言われたからだ。そして、そう言って欲しかったんだと気付かされて、余計に嫌気がさしたからだ。更には、以前もそうだったと思い出してしまう。ヴィンセントの言葉はいつも少なくて、それなのにクラウドの望む言葉を最初から分かっているかのように何気なく与えてくれていた。そういう言葉をもらったとき、秘密の宝物をこっそりもらったような気持ちになったことをこんなときに思い出すなど、あまりの歯痒さに胸をかきむしりたくなる。
むすっとしたまま口を開こうとしないクラウドに、ヴィンセントも再び溜息を吐く。
「楽しそうにしろとは言わないから、せめて機嫌を直してくれないか。行きたかった場所なんだろう?」
「
……
、」
「ん?」
「何、話せばいいのか、分からない
……
」
それは、物凄く小さな声だった。そしてクラウドの本心だった。
ヴィンセントはもう自分の居場所にはいないし、ヴィンセントの居場所に自分はいない。ヴィンセントのいない自分の居場所の話をしたって仕方がないし、自分のいないヴィンセントの居場所の話なんか聞きたくない。それが本心だったものだから、昨日から何も言うべき言葉が見つからなかったのだ。
唇を結んだまま、ただただ風景が後ろに流れていく。内心はざらついているのに、窓の外ではおかしいくらい初夏の美しい緑が陽光にきらめいている。
「
――
俺は、ずっと会いたかった」
ややあって聞こえてきた言葉は、やはりクラウドの欲しかった言葉に違いなかった。
「お前は?
……
クラウド」
ヴィンセントは前を向いたまま喋っていて、それは運転に集中してもらうためにも勿論必要なことなんだけれども。
その横顔をちらりと盗み見たクラウドの視線に、ヴィンセントはどうせ気付いているだろうと思ったので。
クラウドは無言のまま、小さく頷いた。ヴィンセントの表情を確かめることはしなかった。でも、隣から伝わる気配が少し柔らかくなったのを感じて、喉にはりついていた苦々しいものが少し取れたように思い、そのせいでまた胸が少し痛くなった。
*
だだっ広い草原が果てなく続く中、小高い丘の上に、古い石造りの朽ちた城跡のようなものが見えてきた。
人の記憶からすっかり忘れ去られたようなこの場所に寄りつく人影は他になく、ただ吹き抜ける風だけが一面のヒースの群れを揺らしてざわざわと音を立てている。
車から降りると、ヴィンセントが左手を差し出してきた。え、と思っていると右手をひょいと取られて、そのままぎゅ、と握られる。
「えっ
……
え?」
「前はこうして歩いてただろう」
「いや、前って
……
何歳のときの話だよ
……
」
「いいだろう別に、何歳でも」
困惑を隠せないクラウドに、ヴィンセントは構うことなくゆったりと歩き始めてしまう。一歩がクラウドより大きいのだが、クラウドが無理なく歩ける程度の速さの歩調で、そういうところも昔と変わっていない。誰もいないな、と言い訳のように呟く。誰かがいたら、クラウドはヴィンセントが何と言おうと手をすぐさま離しただろう。
なだらかな斜面をさくさくと歩く。夏といっても吹く風は冷たく、眩しい日差しに滲んだ汗を冷やりと撫でていく。手が前より大きいな、と思う。手の平に直に伝わってくる熱に、痛くならない程度の力が込められている。風が吹く方向に目を向けると、ヴィンセントの長い髪が揺れて、首筋に一筋の汗が流れていくのが見えて、ふいと目を逸らした。
「採掘場かな」
ぽつりと、ヴィンセントが呟いた。知らない、とクラウドも呟く。見てみたかっただけで、この朽ちた石たちが一体何なのかはよく知らない。
「じゃあ、要塞かもしれないな」
ヴィンセントがまた呟いて、その話し方が奇妙に真面目というかおかしいというか、やっぱり昔とそっくりだったので、クラウドの口からも自然と言葉が続いた。
「ここでローマ人と戦ったのかも」
「ゲルマン人とも」
「剣で戦うとかグロそう、絶対無理」
「じゃあ、ガスと鉄条網のほうがいいのか?」
「何ていう王様が住んでたのかな」
「大体ヘンリーかエドワードかリチャードかその辺だ」
「アーサー王の時代にそんな名前のやついないよ」
なだらかだった斜面が急勾配へと変わり、更に地面にごつごつとした石ころが混じって、途端に足が辛くなってくる。が、ヴィンセントの歩調は変わらない。引っ張られるように登っていって、やがて丘の頂上へと辿り着く。崩れた石の壁の間を進むと、さっと視界が開けて、眼下に緑一面の何もない草原が広がっていた。朽ちた石たちは遥か昔の面影を何一つ映すこともなく、物を言うこともなく、ただひっそりとその場に埋もれていた。
見晴らしのよい場所に腰を下ろして、ふう、と一息ついてからクラウドは手に持っていた紙袋を開ける。母が軽食を詰めてくれたものだ。ハムのサンドイッチに干し葡萄の入ったパウンドケーキ、それからりんごが入っている。サンドイッチをヴィンセントに手渡すと、ありがとう、と律義な答えが返ってきた。
二人とも暫く無言でむしゃむしゃとサンドイッチを食べた。そういえば起きてからシリアル以外口にしていなかったし、昨日の夜も殆ど何も食べていないも同然だったから、物凄く空腹だったんだと気が付いた。二つあったサンドイッチを瞬く間に胃の中へと放り込んで、半分に切ったりんごに齧りつく。空の高いところで鳥が鳴いていた。
目でその鳥を追いかけながら、そのままふっと力を抜いて、草原にぺたりと寝転ぶ。視界が全部空になって、白い雲がゆっくりと滑るように流れていく。それをぼうっと見ていると体が空中にふわりと浮かんだみたいだった。吹き抜ける風の音以外、何も聞こえない。
「クラスの皆は、ドイツの爆撃機がまた来るんだって言ってる」
寝転んだままクラウドが呟いたので、ヴィンセントはゆっくりとクラウドの横に寝そべって、柔らかい金髪をそうっと梳いた。
「来ないよ。
……
もう、終わったことだ」
「でも奴らはまだ地下に潜んで生き残ってて、大量の爆弾とか金塊とか隠してるんだって」
「でたらめだ。大衆紙のゴシップ記事を真に受けるな」
「ロンドンは全部燃えちゃって、塔も橋も落ちたんだって」
「
……
」
くす、とクラウドが笑っても、ヴィンセントは笑っていなかった。だからクラウドも笑うのをやめて、ヴィンセントを見上げた。
「
……
家も、燃えたの?」
「うちは、無事だった。でも、
……
」
そこで初めて、ヴィンセントは迷いのある表情を見せた。昔も今も、彼のそんな表情を見たことがなかったから、クラウドは不安になってヴィンセントのほうへと体をすり寄せる。
見上げたヴィンセントの落ちてくる長い前髪へ手を伸ばし、耳へと梳いてかき上げると、彼の黒い目がすっきりとよく見えた。陽光の下だとよく分からないが、影に入ると彼の目は赤みを帯びて美しく光るのを、クラウドはよく知っていた。
ヴィンセントの指が白金の髪を撫ぜ、頬を撫でて、昨日の夜みたいに親指が唇に触れた。下へと引っ張られて、口が僅かに開く。繰り返し唇を撫ぜていた親指が開いた口に少しだけ差し込まれて、クラウドは何だかふわふわと気持ち良くなってきて、瞼がとろんと重たくなってきた。昨日寝られなかったせいだ。だからこれはヴィンセントのせいだ。そんなことを思いながら、意識はまどろみの中へと落ちていった。
*
二人が目を覚まして身体を起こしたときには、陽は少し傾いていた。
目をぱちぱちと瞬きながら立ち上がり、全身についた枯草をお互いに叩き落しながら、急な斜面を下っていく。登りもきつかったが、下りはもっときつい。時々膝がおかしくなってがくんとよろけるのを、右手を掴んだヴィンセントの手がぐいっと引っ張り上げた。引っ張り上げ方が若干容赦なく、痛い、とクラウドはその度に呻いた。ちゃんと歩け、とヴィンセントは何でもないことのように言った。
そうこうするうちに停めてある車へと辿り着いて、乗り込む前にもう一度全身を叩き合って汚れを落とし、やれやれと助手席へと乗り込む。
寝てもいいぞ、とヴィンセントは言ったけど、クラウドは却って目がすっきりと覚めていたから、行きとは違う気分で窓の外の風景を眺めていた。
突然、車がぼふん、と奇妙な音を立てて上下に弾んで揺れる。
ん? とヴィンセントが首を傾げてブレーキを踏み、エンジンを切って外へ出た。クラウドも何事かと一緒に外へ出て、車体をくるりと見て回る。ヴィンセントが前輪のところで何かを見つけたようにしゃがみこんだ。
「
……
パンクだな」
「シドのやつ
……
メンテナンスは俺様に任せとけば完璧だっていつも偉そうに言ってるくせに
……
」
二人してしゃがみこんでパンクしたタイヤを眺めつつ、クラウドがぼやくのを隣でヴィンセントが何か思い出したように宙を見上げる。
「シド
……
隣町の工場の?」
「そう。ハンドルの曲がった自転車くれた人。覚えてる?」
「ああ、いつもオイルで服も顔も真っ黒だった人」
「声が大きくて」
「今でも?」
「前より大きい」
「それは
……
凄いな」
ふっと吹き出して、くつくつと笑う。
「後ろにタイヤ、積んでるだろ」
「うん、工具箱も」
立ち上がって、ううん、と一つ伸びをした。やらなきゃいけないことは分かっているはずなんだけれども、何故か二人ともパンクしたタイヤを眺めてじっと立ち尽くしたまま、動かなかった。
ヴィンセントが何か言ったなら、クラウドは動くつもりでいたのだ。
後ろからタイヤを出そう、とか。交換の仕方は知っているか、とか。何でこんなところでパンクなんかするんだろうな、とか。
でも何故かヴィンセントは動くこともなく、喋ることもなく、何かを考え込むようにじっとパンクしたタイヤを見下ろしているだけだった。
「
……
帰りたく、ないな」
ぽつりと、クラウドが呟く。
ヴィンセントが、何も言わないから。
ヴィンセントはそれを聞いて、小さく頷いてから、ようやくクラウドの右手を掴んだ。
「歩くの?」
「少し戻ったところに村があっただろう。そこまでなら、歩けない距離じゃない」
「車、置いてて大丈夫かな」
「こんなところ、誰も通らない」
ヴィンセントと一緒に歩き出そうとして、クラウドはあっと叫んで車のほうに戻った。助手席に置いたままだった紙袋を取り出して、また足早に戻る。
そしてまた当然のように手を繋いで、二人はそのまま歩き始めた。
草原しか見えないようなところでもちゃんと道は通っていて、その道に沿って長くどこまでも歩く。この世界はもう文明なんか滅んでしまったのかというくらい何もない道を二人でただひたすら歩く。こうしていると本当に昔に戻ったみたいだ、なんてことを考えたりもする。村なんか辿り着かなければいいのに、とか。だからか、歩き続けた先に店や家の連なる通りが見えてきたとき、クラウドは心底でほっとしていながらも、そうじゃない気持ちもどこかにあった。
今まで静かで薄暗かった世界に人のざわめく音や人工の光がちらほらと戻ってくる。人とすれ違いざまに、二人は繋いでいた手を何となく離した。それでも何となく腕が触れ合う程度の距離で二人は歩いた。
一つの簡素な小屋のような建物の手前で、足を止める。ベッドと朝食のみを提供する、いわゆる安宿だ。
ヴィンセントがクラウドのほうを確かめるように見て、クラウドは訳もなく、頷く。
中に入ると、タペストリーのかかった壁の奥に老婆が一人座っていて、いかにも胡散臭げに二人を見やった。その老婆とのやり取りをヴィンセントが全部うまくやってくれたおかげで、クラウドは後ろでぼうっと突っ立っているだけで済んだ。男二人なのかと問われたときに多分、ヴィンセントはチップを多めに渡していたので事なきを得たんだと思う。ただ、やり取りが終わった後、老婆の声が妙にねちゃっとした猫なで声に変わっていたのは何なんだろう。多少のチップごときであんなことになるだろうか。
「クラウド、電話をするから先に行っておいてくれ」
「電話?」
「クラウディアさんに連絡しておかないと」
「あ
……
」
ほら、と鍵を渡されて、ヴィンセントは受付の奥にある電話を借りに行ってしまったから、クラウドは一人階段のほうへと向かう。
廊下を進み、部屋の番号を確かめて、鍵を開けて入る。家の自分の部屋と比べてもどうか、というほどの狭い部屋に、自分のよりもしかしたら小さいかもしれないくらいのベッドがこじんまりと並んでいる。なのに小さい木の机が窓際に置いてあって、よく入ったな、と思う。歩くたびに床がぎしぎしとひずんで、大丈夫かな、と心配になる。
窓のカーテンを開ける。もうすぐ夜が来るはずなのにまだ外はじんわりと明るくて、見下ろすと人々も短い夏を満喫するように楽し気に歩いていた。
ここ、どこなんだっけ。一瞬分からなくなる。今日はただ遺跡を見に来ただけなのに、何でこんなところにいるんだろう。
車、あんなところに置いてきてしまって大丈夫だっただろうか。古いしガタがきてるしタイヤはパンクするし、そろそろ買い替えたほうがいいんじゃないかって話を毎年してるような気がするけど、もう一回くらい母に言ったほうがいいかもしれない。でも、お金ないからなあ。どうせシドに相談するってことになって、結局シドが修理は俺様にどーんと任しとけって言って、結局また同じことになるんだろうな。
ドアがぎい、と古い音を立てて開いた。またぎい、と音を立てて閉じて、部屋に入って来たヴィンセントが凄く狭いな、と言った。確かにヴィンセントの高い背丈には部屋もベッドも狭すぎるし小さすぎるように思える。
ヴィンセントがそばに近寄ってきたので、何かと思ったら伸びた手がカーテンをすっと閉めた。そして窓から遠いほうのベッドに寝そべるように座って、靴を履いたままの足をベッドの上で組んだ。
クラウドも窓に近いほうのベッドに座った。横にはならずに、ヴィンセントの組まれた足を見ている。何だこれ。嫌味なほど長い。自分もあと七年したら同じ長さになるんだろうか。なるわけない。
「
……
クラウド」
こちらを向いたヴィンセントが、自分の寝ているベッドを人差し指でとんとん、と小さく叩いた。
クラウドは暫く座ったままだったが、立ち上がってヴィンセントの指が差すところに靴を脱いで乗り上げ、ヴィンセントと向かい合うようにして体を横たわらせた。
「
……
もうちょっと、奥に行って」
ヴィンセントは言われたとおりに無言で体を奥の壁の方へずらしたので、クラウドももうちょっと前のほうに体を進ませることができた。何せ、ベッドがとても狭い。これで落ちるかもという心配はなくなったが、代わりにヴィンセントの顔がすぐ目の前にあって、うわ、と声が出そうになる。長い腕が背中に回って更にぐいと引き寄せられて、余計近くなったので思わず肩を掴んで距離を空けようとするけど、頭の後ろを大きな手でがっつり掴まれていたので無駄だった。額を触れ合わせて、目を覗き込まれる。その目を見ていると、昼間の丘でそうなったみたいに、目が勝手に閉じそうになったので、わざとぱちぱちと瞬かせる。
「あ
……
母さんと、電話できた?」
「
……
ああ。心配そうだったが、せっかくだから楽しんでこいと」
「後で俺だけ怒られるやつだ、それ」
「クラウド」
「何でヴィンセントは怒られないのにいつも俺だけ
……
え?」
「余計なことを、言わない」
「いっ」
きゅ、と鼻を摘ままれて変な声が出た。やめろ、と肩を叩くと、笑っていないヴィンセントと目が合った。だからクラウドも笑うこともできず、叩いた肩の服をそのままきゅっと握りしめる。
「何をするか、分かるだろう
……
?」
ヴィンセントの顔が少し傾いて、目がさっきまでと同じようでいて、同じではなくて、昔に見た表情のどれとも、違っていて。
そんなことくらい分かってる、と反射的に口から出そうになった。そうじゃなきゃこんな狭いベッドにわざわざ二人で寝たりしないし、そもそもヴィンセントがこの宿の前で立ち止まったときだって、クラウドは頷いて見せたんだし。
腹立たしさと共にそんなことを思ったとしても口に出すべきでもないことくらいクラウドは分かっていたから、何も言い返したりすることもなく、いかにも不慣れでたどたどしいといった感じで、目を閉じた。
近づく気配がして、温い息がかかり、耐えられずにぴく、と顔を動かしてしまう。が、大きい手が頬に添えられて逃げることができなくなって、温かい唇が重なった。ちゅ、と優しく啄まれ、また重なって、頬を撫ぜられて。これくらいのキスなんか昔にもたくさんしたのに、何でこんな緊張するんだろうと思う。でも、昔は一回か二回で終わったキスが三回してもまだ終わらなくて、しかもそれは段々と深くなっていった。触れ合わせた唇の隙間から生温い舌がぬるりと入り込み、口の奥の柔らかいところまで舐められて、喉がひくひくと痙攣する。吐く息が震えてきて、思わず掴んだ服を引っ張ったのに、ヴィンセントはやめてくれなかった。それどころか、熱い手の平が下へと辿っていきなり服の下へ滑り込んできたので、足がびくりと跳ねてヴィンセントの長い足を蹴った。
「ヴィ、セ
……
っ、ヴィンセント、」
「クラウド
……
」
ヴィンセントから耳元で名前を呼ばれて、熱い息が耳にかかって、何かを言いたかったはずなのに忘れてしまった。多分、押しのけようとした肩に、逆にしがみつく。だって、本当はそうしたかったからだ。今も、昔も、一人でいたときも、ずっと。
服の下、胸から脇腹をゆっくりと撫でられて、耳や首筋を唇が辿って、熱と重みが上からのしかかってきて、足だけじゃなく、全身がぞわぞわとする。呼吸が苦しくなって、草原を歩いていたときよりも切羽詰まった息を繰り返して、変な声が今にも出そうになるのを必死に抑えていたのに、ズボンの中に手を入れられたらもう駄目だった。ひぁ、と変な声がとうとう漏れて、慌てて両手で口を塞ぐ。
ごそ、とヴィンセントが身動きをした。クラウドの首筋に埋めていた顔を上げて、口を手で塞いでいるクラウドをじっと見下ろす。クラウド、と呼びかける声が耳に甘く響いて、もっと呼んで欲しいと切なく思う。
「
……
嫌か?」
ふるふると、首を横に振る。まともに喋られる状態じゃなかった。目尻に涙が浮かんでいるのが分かったのか、目元に何度も唇が優しく落とされて、なのにズボンの中に入り込んだ手は容赦なく敏感な場所を握り込んでくる。
「クラウド
……
自分でやるときは、どうしてるんだ?」
「どう、って
……
」
「どんなふうに、何を考えて
……
?」
「や
……
なん、で、そんな、こと
……
っ」
ひく、と喉が詰まって、涙が零れ落ちる。クラウドはむずがるように首を振って枕に顔を隠そうとしたのに、ヴィンセントはそれを許さなかった。クラウド、と何度も耳元で呼びかけられて、涙は止まらずにぼろぼろと頬を伝っていった。
「で、きなくて、
……
きのう、も」
「
……
昨日?」
ヴィンセントが部屋から出て行ったあと、床にへたりこんだまま、クラウドは自分の手をどこに触れさせたか。
でもそれはうまくいかなくて、発散できない熱を抱えたままベッドに潜り込む羽目になって、だから眠れなかったんだと、クラウドは寧ろ目の前の相手にぶつけてやりたい気分だった。勿論、そんなことを喋る余裕は全くなかったから、言葉は何一つ出てこなかったけれども。
そんなクラウドを見下ろして、ヴィンセントは、一つ瞬きをする。
クラウドは目を閉じたままだったから、そのときのヴィンセントの表情を見ていない。
もし、全く見も知らぬ赤の他人がそれを見たならば、一種の恐怖を覚えたかもしれないほどの目つきでヴィンセントはクラウドを見つめていた。
「誰を思い浮かべた
……
?」
低い囁きに、クラウドは目を開ける。何とかして枕に埋めていた顔を少しだけ上げて、睨むような目をヴィンセントに向ける。それでも何も言うことはなく、代わりに長い黒髪を手で掴むと、思いっきり引っ張った。そのまま歯をぶつける勢いで唇に噛みついて、しかしそれ以上の勢いでヴィンセントが唇に噛みつき返してきたのを必死で受け止めるしかなかった。
「ん、ン
――
ッ
……
ぁ、やぁ、っ」
キスだけで必死だったのに、手が動いて、抑えきれず声が出た。触れられる前からとっくに勃ち上がっていたものを、熱い手の平で握り込まれて、何故か弱いところまで知り尽くしているような動きで扱かれて、我慢できるはずがなかった。反射的に逃げようとするが、全身を抑え込まれているのでそれもできない。息苦しさに白い喉を反らすと、喉の形をなぞるようにべろりと舐められて、腹がひくひくと痙攣する。昨日、何度自分の手で慰めてもやってこなかった射精感がいとも簡単にやってきて、瞬く間に絶頂まで追い詰められてしまう。
「ぁ、あ、だめ、ヴィンス、だめぇっ」
息苦しさに喘ぎながら、何とか目の前の体を押しのけようとしても、手に力が入らなかった。ヴィンセントは離れるどころか追い上げるように動きを早めてきた。先端の濡れた部分からぐちゅぐちゅと嫌な音が響く。クラウド、と名前を耳元で何度も呼ばれて、また涙が溢れてぽろぽろと流れ落ちていった。
「もぉ、離し
……
っ、出ちゃ、ぅ
……
――
!」
びくん、と大きく背が跳ねて、足が勝手にぶるぶると震える。クラウドは息を詰めて太い腕にしがみついた。ヴィンセントの手に全部吐き出したあとも、腹の痙攣は暫く治まらなかった。
力の抜け切った体でぼんやりしていると、ヴィンセントが白く濡れた手をまじまじと見ているのが目に入って、あまりの羞恥に飛び起きる。
「なっ
……
見るなよ、そんなの、」
「? いいだろう、別に」
ヴィンセントは何を怒られたのか全く分かっていないようだった。その余裕が気に食わなくて、クラウドはヴィンセントのズボンのジッパーに手を伸ばす。こっちだってやってやろうと思って。そうしたらヴィンセントだって焦るのではないかと思って。
……
だが。
「何をしてる」
呆気なくその手を取られて動けなくなる。
それでもクラウドは諦めなかった。こっちだって何も知らないわけじゃないし、と妙な反発心が湧いていた。手を掴まれたまま、体をずり下げ、クラウドは口をそこに近づけようとして、
「
……
こら」
ぐい、と凄まじい力で首根っこを引っ張られた。
「どこで覚えた、そんなこと」
「何だよ、俺だって
……
」
やったっていいじゃないか別に。と言おうとしたのだけども、ヴィンセントの表情が本気の苛立ちを見せていたので、それ以上何も言えなくなる。それでも不機嫌が治まるわけではないので唇を尖らせていると、ヴィンセントが諦めたように深い溜息を吐いた。
「
……
手だけでいい」
ベッドに深く座り直して、ヴィンセントが片膝を開くように立てる。汚れていないほうの手で自身のズボンの前を寛げる姿はどこか淡々としていて、それなのにクラウドのもので濡れた手を躊躇いもなく自身へと絡めて、クラウドは言いようもなくどきどきしてしまって、さっきまでの不機嫌を一瞬で忘れ去ってしまった。キスされたときと同じくらいに顔が熱くなるのが分かる。ヴィンセントのそんな姿なんて、初めて見るものだったから。
どうしたらいいか分からず、ただぼうっとその様子に見惚れていると、ヴィンセントは何も言わずにクラウドの手を取って、そこへと触れさせた。クラウドは思わず、ひく、と喉を鳴らす。生々しい熱を持ったそれが、あまりに、自分のものとは桁違いの大きさだったので。
「でっ
……
か」
つい、声に出た。ヴィンセントの指がぴくりと反応する。
「
……
クラウド」
さっきまで淡々としていたはずのヴィンセントが、熱のこもった視線でクラウドを凝視している。
「もう一回、言ってくれ」
「もう一回
……
は?」
まさかそんなことをヴィンセントが本気で言うわけがないだろうと思って目の前の顔を見ると、さっき怒ってたのと同じくらい本気の顔だったので。
「馬鹿じゃないの
……
」
再び本心がつい出てしまったが、ヴィンセントはそれで不機嫌になるどころか、にやりと笑って見せた。
「お前が絡むと馬鹿になるんだ。
……
昔からだ、知っているだろう」
クラウドもくすりと笑う。こんなに馬鹿馬鹿しいことでも、ヴィンセントの言葉はやっぱりクラウドを嬉しくさせるものだったからだ。
だからクラウドは、まるでポルノ女優が安っぽいポルノグラフィで言うような台詞をヴィンセントの耳元で囁いてあげた。
ヴィンセントは堪らずといった風に吹き出して、肩を震わせて笑ったあと、息もできないようなキスを何回もしてクラウドを完全に黙らせてしまった。
*
夜がきても、どこか白んだ空が部屋を薄ぼんやりと照らし出している。
灯りをつけないまま、二人は一つのベッドの上で枕を背に座りながら、昼に食べなかったパウンドケーキをむしゃむしゃと食べている(勿論手はちゃんと洗いました)。甘酸っぱくて、どれだけ小麦粉を入れたんだってくらいどっしりした、食べ応えのあるケーキ。二人で遊ぶときはいつも、母が作って持たせてくれた。
「クラウディアさんの料理は、どれも美味いな」
食べながらぽつりとヴィンセントが呟いて、クラウドも頷く。クラウドは母の作る料理はどれも好きだった。
先に食べ終わったヴィンセントが、指で口を拭い、軽く手を叩いてから、クラウドの腰を抱き寄せる。クラウドは抱かれるままに肩に凭れながら、残り少なくなったケーキをまだ食べている。目の端に、ヴィンセントの緩んだ首元が映る。いつもはシャツを首まできっちり留めているけど、今はボタンが数個外れて、首筋が顕わになっていた。きれいだな、と見惚れる。白い肌に銀の細いチェーンのネックレスが似合っていた。ネックレスの先に小さな星が揺れている。幾何学の授業で習った形だ。ペンタグラム
……
じゃない、ヘキサグラムって言うんだっけ。ぼんやりと遠い授業の風景を思い浮かべる。どこかではダビデの星とも呼ばれると誰かが言っていた。
「
……
ここには、いつまでいるの」
視線の先にある壁をぼうっと眺めながら、クラウドは言った。壁に何があるわけでもない。花瓶に飾られた花が描かれている絵が数枚飾られている。ありふれた、どこにでもあるもの。
「この夏は、ずっといる」
ヴィンセントの答える声は、クラウドと同じく平淡なものだった。
「
……
夏が終わったら?」
「リヴァプールへ行く」
ケーキをようやく食べ終わり、クラウドは口を拭って、持っていた紙袋をくしゃくしゃと丸めてごみ箱にぽいと投げた。ごみ箱にちゃんと入ったかどうかは見ていない。
リヴァプールから出る船は、アメリカへと向かう。クラウドはそのことを知っていた。
母は、嫌なニュースをクラウドには聞かせまいとする人だから。父が亡くなったときも、ヴィンセントの母親が亡くなったときも、ロンドンがひどい空襲にやられたときも、一人倉庫の裏に行って手紙を読む人だったから。
ヴィンセントがこの夏に久しぶりに訪ねてくると、母があまりに楽しそうに語るから、そんなときは別の嫌な何かがあるのではないかと思って、クラウドは母がいないときにこっそり手紙を取り出して、一人で読んだ。手紙はヴィンセントの父親からで、アメリカ渡航の準備の間、暫く息子を預かってほしいということだった。アメリカは、クラウドにとっては月ほどに遠い、まるで別の世界だった。
二人とも子どもであった頃に、戻れたらいいのに。叶わないと知りつつも思う。今日みたいに、手を繋いでだだっ広い草原を歩いて、古い石の遺跡を見て、ただの空想話をして、サンドイッチとケーキを食べて、空を眺めて、ただそれだけで一日が過ぎていくような日々はもう、遠い過去になってしまった。そんな日はもう戻らないと知っている。まだ小さかったあの頃に、走り去る列車に向かって行くな、行かないでと叫んでも列車は止まってくれなかった。あの時に思い知ったはずなのに、今も同じことをあの日のように思っている。もう子どもではいられないのに、ヴィンセントはその場所にもうとっくにいないのに、自分だけが子どものままでいることが、どうしようもなく歯痒く、やるせない。
「
……
クラウド、俺と一緒に行かないか」
腰を抱くヴィンセントの手に、僅かに力が込められる。その言葉だって、クラウドの待ち望んでいたもののはずだった。
「母さん一人残して、行けないよ」
そうか、と答えるヴィンセントの声は、さっきと同じもののように聞こえた。でも、腰を抱く手は固く、力強いものだったので、クラウドはもう不安を感じることはなかった。
それに、と思う。きっと自分は小さな母を一人置いてでも、いつか海を渡ってヴィンセントのもとに行くだろう。クラウドの中でそれは確信になりつつあった。だから、ヴィンセントのほうへと向き直って、クラウドは言った。
「見送りにも、行かない」
「
……
ああ」
「でも、いつか、会いに行くから
……
それまでは手紙を書いて、送って」
恥ずかしくて、顔は上げられなかったから、ヴィンセントがどんな顔をして聞いていたのかは分からない。両手で頬を挟まれ、優しく撫ぜられて、息を感じる距離で顔を覗き込まれても、クラウドは目を合わせなかった。クラウド、と何度も名前を呼ばれて、ただ頷くことしかできなかった。恥ずかしいんだから、それくらい分かれよ、と腹立たしささえ感じてきたので、目の前の長い髪の毛をぐいと強く引っ張ってやる。
「
……
この髪、」
「ん?」
「切らないで。そうしたら、見つけやすいと思う
……
から」
クラウドの記憶にあるヴィンセントの髪は短くて、最初見たときは何故こんなに長く伸ばしたのかと正直、驚いたのだけれども。
でも、長い黒髪がヴィンセントにとても良く似合っていて、その美しさに今日一日だけでもどれほど見惚れたか分からない。もし次会えたときにこの髪が切られてしまっていたら、少し残念だとふと思ったのだ。
ヴィンセントの頬を撫ぜる手がぴたりと止まる。
不思議に思ったクラウドは、ようやく顔を上げてヴィンセントの顔を見た。
もう夜の気配も深くなり、真っ暗な部屋にカーテンの隙間から差し込む月の光だけがじわりと影を浮かび上がらせている。
ヴィンセントの目は、こんなにも赤く光るものだっただろうか。
まるで人のものではないかのように美しく光る目に、クラウドは言葉も忘れて見入っていた。
ヴィンセントがゆっくりと口を開く。
「お前が最初に言ったのだ、クラウド。髪を切るなと
――
そうしたら私を見つけられるから、と」
クラウドは奇妙に思いながらも、じっとヴィンセントの言葉を聞いていた。
知らない人の知らない話のようで、でもクラウドはそれを知っている気がしたのだ。いや、そうだといいなと思った。小さい頃何度もした、二人だけの空想話の続きのようだ、と。
「お前が最初に私を見つけた。だから、私も必ずお前を見つけ出すと約束した。クラウド
――
お前がこの世界のどこにいようと、必ず」
もの言わぬ石たちが、ヒースの一面に咲くあの丘でざわめいている。遥か昔に葬られた記憶が、眠りの彼方で息づき始める。
もし、などと考えてみる。もしあの場所でも、ここではないどこかでも、異邦の侵略者を前にして、剣を手に戦う自分がいたとしたら、そしてその横にヴィンセントがいたならば、それは一体どんな二人でいたのだろうか、と。
「
……
でも、ヴィンセントは剣って柄じゃないよな」
首を傾げて、胸中で一人思う
――
だけだった、はずなのに。
「さあ
――
何だと思う?」
ヴィンセントはにこりと微笑み、人差し指でクラウドの胸をとん、と突いた。
終
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