ジョンは明かりのない通路に立っていた。リノリウムの床、両側にはずらりと見慣れたドアが並んでいる。ドアの隙間からは、所々、明かりが漏れていた。
またか。小さく息をつく。
仕方ないので随分と小さい手足を動かして通路を進んでいく。進む意味もあまりないのだが。
もう何度も何度も、あの日から何度も、みている夢だ。
夢を抜けるには、このドアの中からひとつ選んで、その中を見なくてはならない。そういう夢なのだ。
えい、とひところがりして、止まったドアに決めた。
カリカリと扉を引っ掻いてヌー、と呼べば、人の気配が近づいてドアが開いた。見上げれば、屈託のない笑顔。
「ジョンおかえり!」
笑顔の主は、銀の髪に青い瞳、赤と白のジャージを羽織った人間の青年。ジョンの、大事な大事な大きい弟分、ロナルド。驚かない。夢はいつもこの部屋で、登場人物もほとんど同じだから。
フットサルだとか今日のテレビだとか、そんな話をしてくるロナルドの後をちまい手足で追う。もう一つドアをくぐれば、
「随分遅かったね。おかえり、ジョン」
キッチンには大好きな主人、ドラルクの姿があった。
ロナルドがジョンを抱き上げて、耳打ちしてくる。
「今日はドーナツだってさ。楽しみだな」
ドーナツ。甘くてふわふわの、まあるい菓子だという。
ヌー!とやはりこれしか出ない声で返す。無邪気で、かわいらしい小動物にみえるのだろうか。
ロナルドは、そのままキッチンのカウンターにジョンを下ろした。主人が、すぐそこにいる。
「もう少しだから五歳児と待っていたまえ」
「未就学児じゃねぇわ!」
「じゃあドーナツでウホウホするゴリラだったか。いやゴリラに失礼か?」
「ウホッ!」
ズドンすなぁ、と主が崩れて塵になる。
勝手に涙が零れてヌーー!と鳴けば、一瞬で元に戻ったドラルクが安心しなさいとでもいうように撫でてくれた。記憶通りの、ほんのりとした温度の手。
その手を追うように、もっと熱くて力強い手もジョンを撫でていく。人を守る手だ。主人を殺すのはいただけないけれど、優しいのだ、ジョンの弟分は。
ふたりは、そのまま死んだことも殺したこともいつもの事とでもいうように、きゃんきゃんと口論しだした。別に、お互い本気で険悪な訳ではないのはすぐにわかる。楽しそうで、幸せそうで、踊るような
――なんて悪夢。
見ているのが辛くて、ころりとカウンターからテーブルへ。
「ジョン?」
眠いの、と返してテーブルから椅子へ。えい、と椅子から床へ。
「出来たら起こすな、揚げたて半分こしようぜ」
うん。うん、きっとだよ、ロナルドくん。
懐かしい黒い棺の横、ふかふかのタオルが詰まった籠がある。これが、自分のための寝床だと何度もみてきた悪夢の中で知っている。
清潔な匂いのタオルに潜り込み、目を閉じれば、ジョンのために声量を抑えた声がふたりぶん聞こえる。その中に、さっきまでとは違うくすぐったいような甘さが漂うのは気のせいではきっとない。
ドーナツとやらは、もっと甘いのだろうか。一度くらい食べてみたいものだ。
ぼんやりと目を開けた。
「ジョン。起きてるか? 夜明けだ」
夜明けなんて単語が、ただ時刻を示すようになって久しい。ずっと夜なのだから。
じっとしていればそっと頭を撫でられる。そのリズムは、主人のもの。しかし温度は人間のもの。
仕方がないので是と返す。身を起こせば鎧がガチャリと鳴った。
視界の中では、赤いカソックが揺れる。その横にはいつも通り、広域殲滅兵器が寄り添っていた。
「今日も進める所まで進みたいんだ。――いこう」
見返した瞳は、紫。もとは夢の中で見たように鮮やかで澄んだ青だった。つまりあの色は、人ではなくなった証の色。
声は夢の中より幾分、細くて落ち着いているだろうか。その身を取り巻く塵は、一種の超感覚器官となり果てた主の身体だ。
夢の中の青年は、救世の願いを掛けられた哀れな英雄などではなく、ただ正直に生きていた。主人は、その隣で一族からも人からも愛されて、同じように愛して笑っていた。
そして自分は守る盾もオリハルコンの鎧もない、小さなアルマジロ。
絶対に有り得ない、望んではならない、耽溺したくなければ目をそらすしかない、悪夢だ。
今、先を歩くのは混じり合って人でも吸血鬼でも、ロナルドでもドラルクでもなくなった赤い外套の退治人。今のジョン・O・ガーディアンが守るモノ。
ロナルドくんは、
大事な大事な弟。
――ジョンから主人を奪った憎い相手。
愛する主人がその身で救った人の子。
――主人の命で生き長らえる不届き者。
「ジョン?」
振り返る表情は、いっそいとけない。
主人が心臓を預けたあの日から。存在を掛けてこの人の子を喚び戻したあの日から。ガーディアンはこの赤い影と共に夜を歩いてきた。主人の最後の約束を果たすために。決着がついたなら、きっとまたこの人の子を大切だとだけ思えるから。
甘い菓子の香りはもう遠く、それでも夜ごとに扉の向こうからジョンを呼ぶのだろう。
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