雪貴
2024-07-12 00:29:18
9227文字
Public RotR
 

春告げるはな

本編終了後の高杉と弊刀の高主♂

 ひさしぶりに外でゆっくりしよう、と誘われたのは四日前のことだった。
 僅かに積もった雪も解け始め、梅の花もそろそろ見頃かという時期。たまたま近くに用事が有ったため、これ幸いとばかりに顔を出した長州藩下屋敷に隠し刀は居た。
 勝手知ったる足取りで顔見知り達へと軽く声を掛け、目当ての部屋へと向かう。襖を軽く開け放したそこには、たくさんの書物や紙束に囲まれた高杉が真剣な面持ちで忙しなく筆を走らせていた。
「あんたか。見ての通り手が離せなくてな……すまんが少し待てるか?」
 来訪者が誰であるかを確認することなく、高杉は座卓の紙面を睨み付けていた。
 気配に聡い男であるし、隠し刀の方もあえて来訪を知らせるように足音を立てて廊下を歩いて来たので、お互い特に驚いた様子はない。
 それにしても、思っていた以上に根を詰めている。
 筆を持つ所作は軽やかに見えるが、鼻根に寄った皺が如実に繁劇なるを表している。
「忙しいようだし、なんなら出直すが……
「駄目だ」
 芯のある強い声が、立ち去ろうかと視線をさ迷わせた隠し刀をその場に押し止める。
 荒っぽい仕事なら手を貸せるものの、残念ながら今の彼に必要なのはそんなものではない。未だ新政府に悪感情を抱く者らをどう宥めどう動かすか。高杉は関係各所へあれこれと書面を送らねばならないのだった。
 ただ文字を書き留めるだけではなんら意味が無い。角を立てないよう相手を持ち上げ、それでいて自身の主張を流麗な文字へと落とし込むその手際は、残念ながら高杉にしか出来ないことだった。
 里で読み書きはひと通り習ったものの、文才があるわけでもなく、字が殊更美しいなどということもない。こういう時に、隠し刀は自身の力不足を実感してしまう。
 そもそも、高杉が忙しいであろうことは分かっていた。ただ、どうせ近くまで来たのなら顔だけでも見たいと、そうした軽い気持ちでやって来ただけであったので、長居するつもりはそもそもなかったのだが。
「もう少しで終わる。だから……そばにいてくれ」
……そういうことなら」
 少し拗ねた口調でそんな風に請われてしまえば、隠し刀に否やとは言えず。
 散らばった書物を少しだけ片付け、高杉の邪魔にならず、それでいて彼の流れるような筆遣いを窺えるような位置へと腰を下ろす。
 おとなしく腰を落ち着けた様子の隠し刀に、高杉の口角が少しだけ持ち上がったのが見えた。


「あんたから顔を出してくれるとはな。珍しいもんだ」
 もう少しで終わると宣言した通り、ものの四半刻足らずで書面を書き終えた高杉は、肩首をこきこきと鳴らしながら斜め後ろで静かに佇む隠し刀へと体を向けた。
 少し疲れた顔をしているが、目元は和やかに笑んでいる。その様子に、隠し刀は無意識に入れていた肩の力がふっと抜けるのを感じた。
「近くに用があってな。忙しいことは分かっていたのだが、そのまま帰るのも、不義理かと……思って……
 本当は高杉に会いたくなって立ち寄ったのだと、そう答えたかったのだが、多忙な高杉に向かってそんな甘ったれたことを言えるはずもなく、自然と尻窄みになってしまう。
 しかし高杉にはそんな隠し刀の胸の内など丸分かりだったようで、気付けば顔にはにまにまとした悪童のような笑みが浮かんでいた。
「なるほどなあ……確かに、近くまで来ておいてそのまま素通りしたなんてことを後から知ったら、なんて薄情な奴よと罵りかねん」
「そう……か」
「ああそうだ」
 高杉の表情に、隠し刀は内心まずいと感じていた。こういう顔をする時の高杉は、大概隠し刀の心臓に悪いことを平気で宣う。これまで何度も見てきたし、その度にあれこれとやり込められてきた。
 座布団一枚半ほど空いていた距離が、じりじりと縮まってくる。微かに漂う梅の香りは、高杉の愛用する匂い袋からだろうか。こちらへにじり寄ってくる高杉の衣擦れの音が、なんだかやけに耳に響く心地がした。
「なあ……会いたいと思っていたのは、俺だけか?」
「っ、」
「あんたを夢にまで見ちまうほど焦がれてるってのに、つれないもんだな」
 ────甘えられるのに弱いと、そう自覚したのはいつの頃だったか。
 主命に逆らわぬよう育てられ、人に頼られるのに慣れきっていた。そういうものであると……それが当然のことだと思って生きてきた。
 それは違うということに気付かされたのも、果たしていつだったろうか。いつしか刀は『ヒト』を取り戻し、今では気乗りしなければ断る術もきちんと身に付けた。
 だと言うのに、請われれば叶えたい、応えたいと思ってしまうのは生来のお人好しのせいか。しかもそれが憎からず思っている相手であれば尚のこと。
 膝と膝が触れ合うほどの距離。少しだけ下から覗き込むように見つめられ、まるで詠うように低く甘えた声を囁かれれば。無意識に強く握っていた手の甲を、そっと優しく撫でられれば。
……お、俺も……その……会いたかった……
 ────そう素直に頷くことしか出来なかった。
 ようやく隠し刀の本音を聞けた高杉は、悪戯を成功させた童のように無邪気な、それでいて甘さを滲ませた男の顔をしていた。

 高杉は翌日も朝からやることがあれこれ有るということで、隠し刀は夕暮れに差し掛かった頃に屋敷を後にした。
 互いの手指を絡め合い、軽く口を合わせるだけの逢瀬ではあったものの、少しの触れ合いでも満たされるものがあった。
 今の高杉は為政者の一端を担っており、多忙を極めている。桂ほどではないものの、やることは山積みなのだ。それでももう数日頑張ればまとまった休みをもぎ取れる。いや、もぎ取ってみせる。そう意気込んで、互いの体温を分け合った手を名残惜しそうに離した。
「五日……いや、四日後だな。ここに居たんじゃ仕事を振られちまう。外で飯でも食べて、あとはあんたと気ままにゆっくり過ごしたい」
 三味を弾く暇も無いな、と大仰に溜め息を吐くその姿に苦笑しつつ、隠し刀は重い腰を上げた。
「あまり無理はするなよ。過労で倒れられたら困る」
「そうだな。また布団と懇ろになるのはさすがに勘弁だ」
 目の下に薄らと隈を作った高杉が心配だが、そうと決めたら頑としてやり遂げる男だ。休めと言っても素直には聞くまい。それならばと。
「四日後を楽しみにしている」
 柔らかみの少ない高杉の頬へと指先を伸ばし、腰を屈める。おとなしく隠し刀の行動を目で追っていた高杉の額に、そっと唇を押し当てた。
 滅多に仕掛けてこない隠し刀からの触れ合いに、高杉は一瞬瞠目し……途端に眉間に深々とした皺を刻んだ。
「俺も四日後が俄然楽しみになってきた。……首を洗って待っときな」
 まるで宣戦布告のような言葉を残してまた座卓へと向かい合った高杉に、隠し刀はきょとんと首を傾げた。根を詰めるなよ、という気持ちでしたことだったが、先程よりも近寄り難い気配を放つ高杉の様子を見るに、どうやら逆効果だったらしい。
 それでも、多忙な時間を割いてまで自分に心を向けてくれる高杉の優しさが申し訳ないと思うと同時に……とてつもなく嬉しい。
 真剣な表情で筆を握る高杉を視界に収め、隠し刀は静かに部屋を辞した。

 それから四日後。
 長屋で猫達に餌を与え、こんぴら狗を送り出して後、隠し刀は出かける支度を始めた。昼近くに赤坂の辺りで落ち合う約束を事前に取りつけている。
 普段通りの格好で出ようかと思ったものの、なんとなく行李をあさってみる。中には、以前高杉が労咳を完治して後、薬の礼にと贈ってくれた着物の一式が入っていた。粋な竪縞がいかにも高杉好みだなと、手にした時に思ったのを覚えている。
 勿体なくてあまり袖を通したことはなかったが、どうせならと取り出してみた。任務に支障が無く動きやすければ着る物には尽く無頓着な隠し刀だったが、せっかく高杉と外を出歩くのであれば、たまには彼が選んだ物を着てみるのも一興だろうか。
 帯を締め、羽織に腕を通そうとしたところで、外から二人分の足音が聞こえてきた。軽い足取りと僅かに漏れる笑い声から女であろうと当たりをつけたところで、
「お邪魔します」
「失礼するわよ」
 文とお龍が長屋の引き戸を開けて入ってきた。
「あっ、お着替え中でしたか? 確認もしないですみません」
「いや、ちょうど着終わったところだ。この後出て行くからゆっくりしていくといい」
「なあんだ。珍しく居るなと思ったのに出かけるところだったのね」
 文やお龍は猫を撫でたり、こじんまりした長閑な長屋でゆっくり女同士語らいたい時によく遊びに来る。どうやら今日もそんな日だったようだ。
 ちなみに、家主が居なくとも友人知人が頻繁に訪れ、各々自由気ままに過ごしては勝手に満足して帰っていく。長屋の使い方とはそういうものなのだなと、隠し刀は少し間違った認識を持っているが、残念ながらそれを訂正出来る者はいなかった。
 閑話休題。
「というか、その着物って……ははーん、そういうことだったのね」
「ああ、道理で……
 隠し刀が纏う衣服を見て、勝手に納得している文とお龍だったが、それを着ている本人には何が道理で、という反応なのか検討が付かない。
「よく分からないのだが、この着物がどうした?」
「それって高杉さんの見立てでしょ? あんたが自分で買ったわけではなさそうだけど」
「見立てというか……そうだな、以前に礼として贈られたものだ」
 この着物が高杉のくれたものだということは、高杉本人と受け取った自分しか知らないはずなのに。どこでどう判じたのか、目敏い女性達にはしっかりと把握されていたようだ。
「屋敷を出る時に高杉さんが上機嫌にしてたので、どうしたのかなと思ってたのですが、貴方と会う予定だったんですね。……まあなんとなく予想はしてましたけど」
「そうね。自分が贈った着物を着た恋人と逢い引きだなんて、そりゃあ喜ばしいでしょうよ」
……
 別に、そういうつもりで着物を選んだわけではないのだが。
 そう言い訳をしても無駄なのだろうなと、経験則的に隠し刀は悟っていた。それに、そんなことで高杉が喜んでくれるのであればまあいいかと、そうも思ったのでぐっと言葉を飲み込むことにした。
 沈黙を肯定と受け取ったのか、二人は隠し刀へ生温かい眼差しを向けてくる。それがなんともむず痒い。
「ねえねえ、どうせならもっと粧し込みましょうよ。いつもと同じなんてつまらないでしょ。結い直してあげる」
「え? あ、いや……別に……
「遠慮しないでください。まだ時間があるのでしょう?」
「あるにはあるが……
「じゃあ決まりね。あんたどうせ貰ったり拾ったりした簪とか髪飾りなんてそのままにしてるでしょ。ちょっと見せてもらうわよ」
 後で換金したり誰かにあげようかと思って溜め込んでいる物があるのは確かだが、まさか置き場所までしっかり把握されているとは。
 信頼している相手であるし、むしろ気に入った物があれば持って行ってくれても構わないとすら思っているので、まあ、それは構わないのだが。
 きゃっきゃと楽しそうに小物を選ぶ姿は大変微笑ましいが、今二人が選んでいるのは隠し刀を飾るための品である。わざわざそんなことをせずとも……そう思う隠し刀だったが、二人の好意を無碍にすることも出来ず、手持ち無沙汰にその様子を眺めることしか出来なかった。

 お龍達が見繕った簪の感触を後頭部に受けながら、隠し刀は気持ち早足で待ち合わせ場所へと向かっていた。
 ああでもないこうでもないと、あれこれ溜め込まれた装飾品をじっくり吟味していた二人だったが、とある簪を目にした途端、
「これこれ! これが良いんじゃない?」
「わあ、素敵ですね」
 と、盛り上がっていた。
 はて、そんなに良い物があっただろうか。気になって彼女らの手元を覗き込もうとしたが、「あんたはおとなしく座ってて」と有無を言わせぬ勢いで茣蓙の上に座らせられてしまった。
 その後も二人の独壇場である。
 普段通り後ろで一括りに結んでいた髪は解かれ、これまた隠し刀がどこかから手に入れていたであろう櫛で丁寧に梳られる。首筋に毛先が当たる感触がして、少々こそばゆい。
 しばらくあれこれと隠し刀の髪をいじっていたお龍だったが、ようやく納得のいく髪型に出来たようで、得意満面の笑みで櫛を置いた。
「我ながら良い出来じゃないかしら? 文さんどう?」
「とても良いと思いますよ。よくお似合いです」
 お似合いですと言われても、自分からは見れないのでどういう反応をしたらいいのかが分からない。せめてどんな簪を選んだのかを教えてくれればと思うのだが、あまり触ると崩れてしまうからと強く言われ、手で触れて確かめることも出来なかった。
 そうこうしている内に約束の刻限が迫り、隠し刀は満足そうに微笑む二人を残し、慌ただしく長屋を出てきたのだった。

 幸いなことに、目的地までは特に何事もなく辿り着くことが出来た。
 道道すれ違った人々から幾らか視線を感じたりもしたが、おそらくすでに待たせているだろう高杉のことを考えていたため、隠し刀はそれが悪感情や殺気のようなものでないと気付いてからは早々に無視を決め込んだ。その甲斐あってか、ちらちらと見てくる者がいても声をかけられることはなかった。
 昼時より早い時刻のせいか、普段は賑わっている煮売茶屋も人が疎らである。
 この辺にいるはずだが、さてどこだろうか。
 さっと首を巡らすと、団子屋の床几に悠々と腰掛ける見慣れた背中が見えた。日焼けした毛氈の緋と渋みのある虫襖の羽織の対比が良いなと思ったが、生憎と写真機は長屋に置いてきてしまった。今度撮らせて貰えないだろうかと思いつつ、隠し刀は待合人である高杉へと声をかける。
「すまない、待たせた」
「ようやく来たな。また道中あれこれと声をかけられでも……
 振り向いた高杉の言葉が不自然に途切れた。
 はて、どうしたのだろう。
 とりあえず隣の空いた席へ腰掛け、黙ったままの高杉と目線を合わせる。
 座ったのを見計らい、愛想のいいふくよかな男が温かな茶の入った湯呑みを渡してきたので、ありがたく受け取った。
「あんた、その格好……
「これか? 以前お前がくれた物を着てみたんだが」
「ちなみに髪もあんたが……?」
「いや、これはお龍さんがやってくれた。出る前にお龍さんと文さんが来てな、粧し込んでいけと……
「ああ、なるほど……
 髪のみならず、帯紐の結び方や襟の抜き方もあれこれと指導されたのだが、あまり余計なことを言うものではないと思い、あえて言わなかった。まあそれも高杉には分かられている気がするのだが。
「その……もしかして、似合わないのだろうか……
 隠密の癖で普段から地味で目立たない色合いの衣服ばかり選んでいたせいか、袖を通した際だいぶ派手な柄だなとは思った。やはり普段通りの方が良かっただろうか。
 言葉少なな高杉の様子に、いささか不安になった隠し刀だったが、
「俺があんたに贈った品だ。似合わないわけなかろう。それにお龍さん達もかなりいい仕事をしてくれたな」
 後で何か手土産でも持って行くか、と満足気に呟く高杉の言葉に、ひとまず安心した。
「そういえば、俺はどんな簪を挿しているんだ?」
 見ることも叶わず、触れることも出来ずにいたため、一体己がどう飾られているのかを全く把握していない。
 そう伝えると、高杉は寸の間考える素振りを見せたものの、にやりと笑むに留まった。
「教えるのは吝かじゃないが……そうだな、ちょっとばかしまだ早い」
「早い……とは?」
 はて、教えるのに早いも遅いもあるのだろうか。
 高杉の意図が分からず首を傾げる隠し刀の首筋へ、筋張った腕がぬっと伸びる。
 早足で来て少しだけ汗をかいた首に、下ろした髪が張り付いていたらしい。三味を弾くために程よく手入れされている指先が、隠し刀の後ろ髪をさらさらと撫でた。
 ただの戯れと思い黙って受け入れていた隠し刀だったが、後ろ髪からうなじを辿り、耳垂に柔く触れ、あごにかけて撫でさする指の動きがどうにも不穏で落ち着かない。
 これが長屋であったなら、このまま高杉の好きにさせていただろう。しかしここは往来で、しかも店先である。昼時に近くなってきたせいで、隠し刀が到着した頃よりも人足が増えてきた。
「おい、高杉……
 そろそろ止めろと声を掛けようとしたところで、高杉は内緒話をするかのように顔を寄せてきた。今度はなんだろうか。
「どんな簪かは後でのお楽しみだ。こんな往来で情人の結髪を解くなんざ無粋なこと、出来るわけがないだろう。お龍さん達は、まあ、仕方ないが……あんたの髪は俺の手で解きたい」
 囁かれた言葉にじっとりとした熱を感じ、隠し刀は思わず腰を浮かせそうになる。
 高杉の、形の良い眉尻をくっと持ち上げて笑むその眼差しは妙に熱っぽく、じわりじわりと顔に熱が集まってくるのを感じた。
「その……あまりこっちを見るな……
「ん? なぜ?」
……穴があきそうだ」
「そりゃ困ったな。あんたを損ねるようなことはしたくないんだが」
 言葉とは裏腹に実に愉しげに微笑む高杉を一瞥し、すぐに視線を手元の湯呑みへと移す。湯気が立たなくなった茶には、ほとほと困ったように眉尻を下げた隠し刀の顔が映し出されていた。
 戦場では相対する者からは決して目を逸らすことの無い隠し刀も、高杉の憚らない視線に耐えかねて、苦し紛れに茶を一気に飲み干した。幾許か体温が上がった体に、ぬるい茶はむしろ心地良いくらいだった。
 そうこうしていると、団子も頼まず店先を陣取る男二人を見かねたのか、店うちから店主のものと思われる咳払いが聞こえてきた。
 それを機に二人は床几から腰を上げ、僅かばかりの詫びも兼ねて団子を何本か買い上げて店を後にした。


 団子の入った包みを持ち、高杉は隠し刀を先導して歩いて行く。
 先程までとは打って変わって和やかな雰囲気を漂わせながら、顔を合わせていなかった間の近況を互いに話し合う。
 とは言え、隠し刀は相も変わらずあちこちから声をかけられては依頼をこなし、猫と戯れ狗を撫で、各地の道場で鍛練をする日々である。政務に忙殺されている高杉にはなんだか申し訳ないばかりだ。
 しかしそんな隠し刀の様子に、高杉は「あんたはそれでいいんだよ」といかにも面白げに笑っていた。
 そうこうしている内に飯屋の連なる道を抜け、人通りの疎らな細い路地へと踏み込んで行く。
 はて、この先には確か……
 隠し刀が道筋を思い出すより先に、半歩先を歩いていた高杉が振り返る。
「なんだか不思議そうな顔だな」
……飯屋へ向かっているんだよな……?」
「飯屋と言えば、まあそうだ」
 またぞろ歩き始めた高杉の背中を追いながら、視界に入ってきた見覚えのある景観に、隠し刀は「やはりそう来たか……」と観念した様子で息を吐いた。
 高杉が向かっているのは、確かに飯も出はするが……宿である。幾度か使ったことがあるので、さすがに間違いようがない。
 隠し刀の胡乱気な視線も何処吹く風で、高杉は歩みを進める。
「なぁに、花より団子とは言うが、ここに団子より美味そうな花があるならそちらを食わずにはおれまい。……それに言っただろう? 首を洗って待ってろって、な」
 宣戦布告かと思った隠し刀の予感は、果たして間違っていなかった。
 あまり変わらない位置にある黒曜の眼差しが、隠し刀を然と見据える。口元は笑んでいるが、瞳の奥にちりちりと光る石火の幻影が見える。
「あんたが喰いたくて喰いたくて、もう限界だ」
…………あけすけな奴」
 隠し刀はそれだけ言うと、負け戦になると分かっていながら、おとなしく高杉の後ろに着いて行った。

 ◇

 気怠い体を緩く起こし、隠し刀は半日ぶりにしてようやく回答を得た。
「梅の枝、か……
 銀細工で出来た梅の枝を模した簪が、武骨な掌の上でころりと転がる。
 梅は高杉の好きな花であった。脱ぎ捨てた着物からも、仄かに梅の香りがする。なるほど、だから文やお龍がこれに決めたわけだ。
 高杉からしたら、焦がれて待ち侘びていた情人が、自分が贈った着物を纏い、自分の好きな花で飾り立て、それでいて無警戒にのこのことやって来たわけで。
「花より団子というよりも、鴨葱では……
 まんまと喰い散らされ、もはや他人事のような感覚である。
「あんたは知らなかったようだが、男が服を贈る理由なんて、それをこの手で脱がしたいと思ってのことだからな。当然あんたは脱がされるのを承知だと思ってたんだが」
 一般常識や暗黙の了解に疎い隠し刀には、それが真実なのか高杉の口から出任せなのかが判然としない。ただ文やお龍の態度を思い返すに、戯言とは言い切れなかった。
 しかしその口ぶりからすると、隠し刀に着物を贈った時点で高杉にはそうした下心があったわけで。
……俺が告白をする前に貰ったと記憶しているが」
 隠し刀の視線の先には、してやったりとほくそ笑む高杉の小憎たらしい顔がある。
「俺としては外堀を埋めてあんたを囲い込んでから、と思ってたんだ。あの時はまさかあんたから言ってくれるとは全く予想してなかった。ま、そんな予想を裏切るあんただから惚れたんだが」
 いけしゃあしゃあと言葉を連ねる高杉に、隠し刀はもう何も言うまいと、布団を手繰り寄せる。悔しいが、このよく回る口には勝てないととうの昔に悟っている。
「そう拗ねるなよ。ほら、あんたの分の団子も食っちまうぞ」
 羽織すら纏わず、高杉は団子の包みを開け始めた。閉め切った室内にみたらしの甘い匂いが漂う。
 昼飯を食いっぱぐれた隠し刀には大層魅力的な香りだったが、思いのほか空腹感は無い。
「もう少し後ででいい」
……具合でも悪いか」
 無理をさせたかと僅かばかり心配の色を覗かせた高杉だったが、
「いや、あまり腹が減った感じがしないだけだ。まだお前のが腹に残ってる感覚があるせいだろうか……
 と、真顔で呟く隠し刀に、思わず手で顔を覆い、深い深い溜め息を吐いた。
……あんたは本当に……本っ当にたちが悪いな」
「藪から棒になんだ。……おい、団子は食べないのか?」
「俺も後ででいい」
 そう言うなり隠し刀の布団を剥ぎ取った高杉の様子に、一体何がこいつの琴線に触れたのかと困惑し通しの隠し刀だった。

 ────部屋の外では梅の蕾がそんな二人を嗤うように綻んでいた。


 終