八神が神室町に来て二年ほど経ったある夜、ホテル街近くの路地裏で八神は見知らぬ中年男に見下ろされていた。年齢の割にタッパがある八神よりもさらに背が高い男はガタイもよく、八神は掴まれた腕を上手く振り払えずにいる。
ふっ、と力を抜いて目を伏せた八神を見て男はゆっくりと顔を寄せた、その時。
ヒュッ、と何かが風を切る音がして八神が目を開けると、男は少し離れた地面に伸びていた。そして、視線を動かすと八神の兄貴分である海藤が右拳を握りしめて立っていた。
海藤さんに殴られて吹っ飛んだのか、と八神の考えが及ぶ頃には海藤は八神の手を取り歩き出していた。先程まで中年男が掴んでいたよりも強い力が込められ、半ば引きずるようにズンズン歩いていく背中に、「痛いよ海藤さん」と声をかけるも呆気なく無視される。
側から見ればヤクザが未成年を拉致しようとしているように見えないだろうか、それとも自分も何かやらかした下っ端ヤクザだと思われているだろうか。そんなことを取り留めなく考えている間にたどり着いたのは、海藤が住むアパートだった。
無言のまま部屋に連れ込まれ、ドンと背中を押された八神は踏ん張れずに床に転がる。痛む腕を摩りながら体を起こして見上げると、海藤のひどく冷たく見下ろす目があった。
何か言わねばと思うが何も言葉が出てこない。言わなければいけないのはお礼か、言い訳か。
「何してたんだ」
「何も、歩いてただけ」
「あの男はなんだ」
「知らないよ、急に引っ張られて……」
「のこのこついていったってか?」
「力強かったんだよ、あいつ」
すべて本当のことだ。喧嘩をふっかけられただけなら自分よりガタイのいい男相手だろうがなかなか負けることはないが、ただ掴んで引っ張っていくのに抵抗するのが難しかった。
男の目的は喧嘩ではない。そう気付いた八神は、抵抗を続けるより隙を見せて油断させたところで逃げた方がいいと判断した。そこにちょうど海藤が現れたのだ。
八神は海藤が好きで、海藤はそれに応えた。だから、浮気現場を目撃されたようなシチュエーションになってしまっていたが、もちろん八神にそんな気はなく被害者でしかなかった。
そんなことは海藤も理解していた。決して治安の良くないこの神室町で、綺麗な顔の青年が夜に一人で歩いていれば良からぬことを考える人間も出てくる。理解はしていたが、怒りが抑えられなかった。愛しい子がどこの誰とも知らない男に身を委ねようとしている瞬間を目撃してしまったのだから。当然、本気で委ねようとしていたわけではないと分かっていても、だ。
「……もういい。風呂入ってこい。……汚ぇ」
「…………」
「俺は煙草を買いにいってくる。ここにいろよ」
それだけ言うと海藤は返事も待たずに外に出、大きな音を立て玄関の戸を閉めた。収まらない感情をそのままに、十分ほど歩くコンビニまで速度を緩めることなく向かう。
よほど眉間に皺が寄っていたのか、レジに立っていた女性スタッフのお釣りを出す手がわずかに震えていた。
店を出てすぐに買ったばかりの煙草を一本取り出した海藤は、深呼吸のようにそれを吸ってため息と共に吐き出した。
わかっている。八神は悪くない。何を考えて抵抗しなかったかもだいたい見当がつく。自分があの場に居合わせなくとも八神は無事に帰ってきただろう。
はあ、ともう一度ため息をつき、煙草を吸い終えた海藤は来た道を戻る。怒りは収まったが、もやもやとした気分が晴れるわけではない。もっと八神を鍛えてどんな相手でもボコボコにできるように、あるいはすり抜けられるような技術を身につけさせるしかないか、と対策をいくつか頭に並べながら帰宅する。
帰りの方が足取りが重かったこともあり、海藤が出てから三十分ほど経っていた。さほど広くない部屋に、見渡すまでもなく八神はいない。まさか帰ったのかと思ったが、すぐに風呂場からシャワーの音が聞こえることに気付く。
長風呂をしているのか、あるいは海藤が出てしばらくしてから入ったのか。なんにせよ出てきたら謝ろうと海藤は思った。八神にとっては理不尽な怒りをぶつけてしまったのだ。
八神がしょっちゅう泊まりにきて、もう一緒に住んでいると言っても過言ではなくなってきていたので、着替えも何着かある。さっきまで着ていた服は今のうちに洗濯機に放り込んで、あの男の痕跡など綺麗さっぱりなかったことにしてしまおうと思い立った海藤は脱衣所に向かう。
しかし、そこに八神の服はなかった。首を傾げながら海藤は部屋を見渡すが、やはり先程まで八神が着ていたはずの服は見当たらない。ならば自分で洗濯機に放り込んだかと確認するが、無い。
まさか本当はもうここにはおらず、嫌がらせに電気もつけっぱなし、水も出しっぱなしで帰ったんじゃあるまいなと浴室の戸に手をかける。
「ター坊? いるのか? 開けるぞ」
ざあ、とシャワーの音が鮮明になる。そこには、着衣のまま膝を抱えるように座り込んで冷水を浴びている八神がいた。
「ばっ、おま、何……!」
焦りながらも海藤は腕を伸ばしシャワーの水を止める。八神の服は水を吸ってすっかり変色し、ここにいた時間が短くはないことを告げていた。
とにかく濡れたままでは良くないと服を脱がせるために立ち上がらせようとするが、八神は動かない。ター坊、と声をかけても返事はなく、膝に埋めているせいで顔も見えなかった。
「ター坊、おい」
「…………」
「風邪ひくから服脱げって」
「……海藤さん」
聞き逃しそうなほど小さく震えた声のあと、ゆっくりと八神が顔を上げる。海藤が覗き込むと、噛み締めすぎたらしい唇に血が滲み、目からぽろぽろと溢れるものがあった。それはシャワーの水なんかじゃなく、涙だとすぐにわかる。
張り付いた髪をかき分け、その涙を拭おうと頬に触れると、真冬の寒空の下に何時間もいたのかと思うような冷たさだった。もしかしたら海藤が家を出てすぐからここにいたのかもしれないと海藤は息を呑む。
乾かすだけでは足りなさそうだと浴槽の栓を閉め、湯を溜め始めてから八神を引きずり脱衣所に移す。大判のバスタオルを頭にかけて拭いながら「大丈夫か」と問うが返事はない。
代わりに、服を脱がすことに抵抗もされなかった。ぐっしょりと重たいそれを洗濯機に投げ入れ、ある程度体の水気を取ってバスタオルの上から八神を抱きしめる。
「……悪かった、ター坊。お前は何も悪くねぇのに、八つ当たりした」
「……」
「怖い思いしたのに、味方になってやれなかった。すまん」
「……海藤、さん」
嫌いになった?
その言葉に弾かれたように体を離して八神を見ると、ひどく不安そうに揺れた目で海藤を見つめていた。
まるで子供みたいだ、と海藤は思ってから気付く。いくら体が大きくたって、まだ十七歳の子供なのだ。自分とそう年は離れていないが、頼れるはずの大人を急に失い、どうにか自分の足で踏ん張って立っているだけの子供。
本当に信用できる人間なんて片手で足りるほどしかいない中、一番親しくしている人に見捨てられたら。
まだ止まらない涙が頬を伝って床に落ちる。その姿に海藤は胸が締め付けられた。こんなに不安定な子に心無い言葉を投げかけてしまったこと、そして何より、いつ捨てられてもおかしくないと思ってしまっている八神に。
「本当にあの男とはなんにもない、逃げようとした」
「ああ」
「でも、逃げられ、なくて」
「そうだな」
「殴られた方がマシだ、あんなの、気持ち悪くて、怖、くて」
「……ター坊」
「海藤さん、ごめんなさい、やだ、嫌いにならないで、おねがい、ごめん、汚くてごめんなさい、海藤さん……」
己の言動を悔やみながら、海藤は再び八神を抱きしめる。離さないし離れさせやしないと強く念じながら。
「嫌いになんかならねぇ。大丈夫、大丈夫だター坊。汚くねぇよ、俺が言ったことは忘れろ。ただの八つ当たりだ」
「海藤さんが、海藤さんさえいてくれたら、俺は、いいから……っ」
「わかってる、疑ってねぇよ」
小さな浴槽にお湯が溜まった。海藤は自身の着ていた服を脱ぎ捨て、八神と共に浴室に入る。いきなり湯船に浸からせるには冷えすぎた八神の体に、シャワーの水をぬるま湯にしてかけてから肩まで浸からせる。ほう、と息をついた八神の頭を撫で、海藤は自分の髪と体を洗った。
華奢な人間ならどうにかなったかもしれないが、海藤と八神が二人で浴槽に入るのは物理的に無理だったので、八神の体がしっかり温まったのを確認してから交代した。
シャンプーを洗い流す八神を見て「やっぱりター坊は綺麗だな」と海藤が言うと、「ばかじゃないの」と即座に返ってくる。だいぶ調子が戻ったようだと海藤は安心した。
風呂から出た二人は寝巻きを着て髪を乾かして同じ布団に転がった。
「ター坊がいなきゃドライヤーを買うこともなかったろうな」
「人間の道具って便利でしょ」
「誰がゴリラだって?」
あはは、と笑った八神が海藤の腕に抱きつく。肩にぐりぐりと額を押し付け、ありがと海藤さん、と呟いた。
返事の代わりに抱きしめてやれば、八神の体から力が抜け、やがて寝息が聞こえてきた。
黙って守られているような人間でないことはわかっているが、この強くて弱い少年が自分の隣では安心して過ごせるようにしてやりたい。そうなればいい、と海藤は思いながら眠りについた。
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