事件のあれこれが少し落ち着いた頃、俺はようやく八神さんに会えた。海藤のおっさんの相棒っていうくらいだから、いかにもヤクザのゴツいおっさんが出てくるもんだと思っていたのに予想を大幅に裏切られた。強くて弁護士で探偵で顔もスタイルもいいなんてどうなってるんだ。
おっさんと呼ぶのはなんだか違和感があって八神の兄ちゃんって呼んでたら、東のおっさんに「なんで俺はおっさんで八神は兄ちゃんなんだ」って文句言われた。
母ちゃんは昔会ったことあるらしくて、立派になったわねぇなんて親戚のおばさんみたいになってた。八神の兄ちゃんは、むず痒そうな? 居心地悪そうな? そんな顔をして会釈してた。
それからまたしばらくして、海藤のおっさんは無職になった。突然、八神の兄ちゃんが事務所を閉めると言い出したらしい。弁護士に戻るんだとよ、と少し寂しそうに海藤のおっさんは言った。給料が出たり出なかったりしてたみたいだし、母ちゃんと暮らすことになったのを機に安定した職業とやらに就くのもありだと俺は思う。
ただ、八神の兄ちゃんと走り回ってるのが好きだったみたいで、転職活動は難航してるようだった。父ちゃんが遺したものがあるからしばらく暮らすのに困らないんじゃないかって俺は思ってるけど。
探偵事務所をそのまま法律事務所に変えればいいのに、八神の兄ちゃんは別の場所に移るらしい。もともと世話になってた源田法律事務所に戻るわけでもなく、でもどこで始めるかはまだ決めていないと言う。
ずいぶん見切り発車だなと思ったけど、働き詰めだったから少しの間旅行でもして休むよと八神の兄ちゃんが言うと、みんな嬉しそうにしてた。ワーカーホリックだったんだろう。
事務所を閉める日、俺も海藤のおっさんについていった。ガランとしたそこを見渡して、二人はしばらく黙っていた。俺が生まれるより前から付き合いがある二人だから、たくさん思うことがあるんだろう。
海藤のおっさんが、最後にここで乾杯でもするか、とコンビニに酒を買いにいって、俺は八神の兄ちゃんと残った。
「本当に次の事務所どこにするか決めてないのか?」
「うん」
「神室町にはするんだろ?」
「どうかな」
「……ここにいるの、嫌になったのか?」
「いや、ここは好きだよ」
ずっとどこかを見つめていて、全然目が合わない。なんだか落ち着かない、ざわざわと嫌な感じがする。
「やっぱ探偵は大変だった? 死にそうになったこともあるっておっさんが言ってた」
「俺より海藤さんの方が危ないことが多かったかな」
少し間を置いて、八神の兄ちゃんは俺を見た。その目はビー玉みたいで、背筋をぞわりと悪寒が走る。なんでそう感じたのか自分でもわからないけど。
「俺が死ぬ時が来たら、きっとそれは海藤さんのせいだよ」
ほんの少し口角を上げて言うその言葉の意味がわからなくて聞き返したかったけど、なんて聞けばいいか思いつかない。
沈黙を破るように海藤のおっさんがコンビニの袋を掲げて帰ってきた。ビールと俺用のジュースを、ソファもテーブルもなくなった床に広げて乾杯する。
ぽつりぽつり語られる、あんなこともあった、こんなこともあった、を聞きながら、俺がここにいるのは場違いだったんじゃないかと今更思った。
空の缶ビールが転がって、もうお開きだなって空気になってゴミを掻き集める。事務所の鍵を閉め、大家さんに返すと「寂しくなるわねぇ」と眉を下げて言った。会おうと思えばいつでも会えるだろうに。
「さようなら、海藤さん」
「おう、またなター坊」
短い言葉で別れた。
八神の兄ちゃんはどこに行くか誰にも言わなかったみたいで、もしかして海外まで旅行に行ってるんじゃないかって言われてた。電話にも出なくて、数日経った頃にはスマホを解約したっぽいとわかった。
母ちゃんと海藤のおっさんと一緒に過ごすのは楽しくて俺は幸せだったけど、おっさんは日に日に眉間の皺を深くしていった。八神の兄ちゃんに何かあったんじゃないかって心配らしい。
いい大人が数日連絡取れないくらいで大袈裟じゃないかって思ったけど、何度も命を狙われたことがあるみたいだから仕方ないのかもしれない。星野先生と九十九課の人たちと探してるって東のおっさんから聞いた。
そして。
海藤のおっさんに電話がかかってきた。相手は星野先生。少しのやりとりのあと、海藤のおっさんが「馬鹿な冗談言うんじゃねぇ!」って怒鳴るから文字通り飛び上がってしまった。
母ちゃんと目を見合わせて電話が終わるのを待つ。怒鳴ったのは一度だけで、そのあとはほとんど黙ったまま星野先生の話を聞いていて、最後に小さく「わかった」と言って電話を切った。
「八神くんのこと、何かわかったの?」
母ちゃんが聞く。海藤のおっさんは拳を握りしめて歯をギリッと鳴らし、大きく息を吐いてから口を開いた。
「ター坊が……死んだ」
「……は?」
信じられなかった。だって、そんなまさか。
馬鹿な冗談を言うなと俺も言いたくなったけど、冗談じゃないことは海藤のおっさんの顔を見ればわかる。
「八神くんが……? 事故? 病気……?」
「……」
「まさか誰かに殺されたのか!?」
よく命を狙われていた、だから海藤のおっさんだって心配してたんだ。だけどおっさんは答えずに首を振るだけだった。
「……通夜と葬式には俺一人で行く」
「え、でも」
「悪い美希子。お前は連れていけない。准、お前もだ」
「はあっ!? なんでだよ!」
「准」
噛みつこうとする俺を母ちゃんが制す。何かを察したのか俺をじっと見つめて無言で止める。でも納得いかない。
ここでどれだけ暴れたって連れてってくれないだろうから、俺は引き下がったフリをしてこっそりついていくことにした。
制服を着て、喪服姿の海藤のおっさんを尾行する。八神の兄ちゃんみたいに上手くできてたわけじゃないだろうけど、おっさんが周りに気を回す余裕がないから見つかることなくあっさり葬式場についた。
一度八神の兄ちゃんに紹介してもらった杉浦の兄ちゃんが東のおっさんと一緒に入り口まで来て、海藤のおっさんと何か話している。物陰からそれを見てると、不意に杉浦の兄ちゃんがこっちを見て目が合ってしまった。
途端、目尻を吊り上げてこちらに早足で近寄ってくる。杉浦の兄ちゃんに逃げ足で敵うとは思えないから俺は大人しく向き直った。それで海藤のおっさんも俺に気づいて驚いた目を向ける。
「准、お前、ついてきて……」
「なんでいるの!?」
杉浦の兄ちゃんが怒りを含ませた大声で言う。向けられる感情が理解できなくて狼狽えていると、杉浦の兄ちゃんの目にみるみる涙が溜まって溢れ出した。
「誰のせいで八神さんが死んだと思ってるんだよッ!!」
「よせ、杉浦」
悲痛な声を咎めるように東のおっさんが杉浦の兄ちゃんの肩を掴んだ。──誰のせいで?
「どうして、なんで八神さんが、死ななきゃならなかったの……っ」
崩れ落ちた兄ちゃんを見下ろして俺は立ち尽くした。八神の兄ちゃんは、誰のせいで?
東のおっさんが杉浦の兄ちゃんの隣にしゃがみ、背中に手を添えた。
「海藤の兄貴、ここはいいんで准と中に入っててください」
「悪いな、東……」
杉浦の兄ちゃんは「八神さんは僕を助けてくれたのに」とか、「きっと苦しかったよね、ごめん、ごめんね八神さん」とか、後悔の言葉を溢し続けている。
だけど俺にはかける言葉なんてなくて、海藤のおっさんについていくしかなかった。
室内で最初に目に入ったのは、地べたに座り込んで顔を覆って泣いてるショートカットの女の人だった。「嫌、八神くん、どうして」と取り乱した声で言う。それに寄り添っているのは城崎先生、近くに立っている強面の坊主頭の男は知らない人だけど、棺桶を睨みつけるように見ている。
そのそばの椅子では源田先生が項垂れていて、隣の星野先生は何か声をかけようとしてまた口をつぐんだ。
端の壁際で、右手で左腕を握りしめて俯いてるのは、会ったことはなかったけど杉浦の兄ちゃんの相棒だとスマホで見せてもらったことがある人だ。
他にもどこかの店員であろう見たことのある顔がいくつか、ホストクラブの看板にいた人だとかキャッチのおじさんだとか、とにかく老若男女問わずたくさんの人がいた。
海藤のおっさんの斜め後ろを歩いて棺桶の手前で立ち止まる。この中に、八神の兄ちゃんが、いる。
おっさんは手を伸ばして兄ちゃんに触れかけて、やめた。その手を握りしめて俯く。
「ター坊……」
後悔、悲しみ、怒り、そんなのが全部混ざったみたいな声だった。
俺は心臓がバクバクと嫌な音を立てるのを感じていた。記憶にある限り、葬式に来たのは初めてで、死体を見るのも初めてだ。
一歩、踏み出す。
花に囲まれた八神の兄ちゃんが横たわっていた。顔の側にはよく吸っていた煙草の箱と弁護士バッジが置いてあった。
死んだように眠る、なんて言うけど、本当に死んでいる人間は眠っているようには見えない。そこだけ切り取られて、時間が止まっている。
八神の兄ちゃんの首には、覆い隠すように花が添えられている。何を隠す必要があるというのか。
「あ……」
俺は、気づいてしまった。花の下に何が隠されているのか。
殺されたんだったらもっと犯人に対して怒ってる人がいてもよさそうなもんなのに、そこにあるのは後悔だ。みんな、どうにか止められなかったかって、なんで気づけなかったんだって悔やんでる。
杉浦の兄ちゃんは、誰のせいで死んだと思ってるんだって俺に言った。
八神の兄ちゃんは、自分が死ぬ時は海藤のおっさんのせいだって言ってた。
俺と、海藤のおっさんのせいで、八神の兄ちゃんが死んだ?
八神の兄ちゃんが海藤のおっさんを見る目を、母ちゃんと会った時の曖昧な表情を、思い出す。こんなに大勢に愛されているのに、それでも留まっていられないくらいに。
──八神の兄ちゃんは海藤のおっさんが好きだったんだ。
俺が、母ちゃんとまた引き合わせてしまったから。八神の兄ちゃんの世界を壊してしまったから。だから、俺も母ちゃんも来るな、って……
「俺の、せいで」
小さく溢れた声は誰にも届くことなく、空気に溶けていった。
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