hai__ro
2024-07-10 22:44:24
3356文字
Public ミハギャラ
 

海は夢を見るあなた

老人と犬が海を散歩するだけの話。
ver2.3までのネタバレと捏造。
含まれるもの:ミハギャラ

 色褪せた記憶のひとつ。あの人が安楽椅子から立ち上がり、身支度を始める気配。コートを羽織り、古い帽子を被った彼に、俺は問いかける。
「じいさん、こんな夜更けにどこへ行くんだ?」
 永遠に時計の止まった表の美しい夢とは違い、ドリームリーフには朝と晩があった。生活と休息が表裏として同じ場所にある。人々が眠りについた夜は深く、空気は無慈悲で、観葉植物さえその影をざわめかせ不穏さを吐き出しているだろう。そんなさみしくおそろしいばかりの時間に用事はないはずだ。
 ミハイルは俺の言葉に手を止め、しゃがんで俺の目を覗き込み、リネンの手触りのようにやさしい微笑を浮かべて言った。
「すこし、散歩に行こうと思うんだ」
 続けて、「君も一緒に行くかい?」と彼は尋ねる。外はもうしんとした夜の底だが、「こんな時間に出かけるのはよしてくれ」と言ったところで聞くような人ではないから、俺は首肯の代わりに短く吠えた。せめて一人にしたくはなかったのだ。

 ドリームリーフでは星の代わりに黄金の刻の灯りが天上にばらまかれ、ビルとビルの隙間から狂ったように眩く光り輝いている。
 広場と路地を繋ぐエレベーターを降りて、それからずいぶん歩いた。寂れた路地裏は壊れた夢の様相を呈して、霊安室のように沈みきっている。切れかけた青白い電灯、棄てられたテレビの砂嵐がミハイルの乾いた皮膚を陰鬱に照らし、切り傷のように細い皺さえも認識のもとに晒した。
「じいさん、」
 俺はなんだか焦りに似た衝動にかられて、ついミハイルを呼び止めた。電灯の影やホワイトノイズに突き動かされるようにして。
……
 しかし、衝動と舌はまたたく間に冷え固まり、言葉は本来の続きを結ぶことなく沈黙になった。
……どこまで行くんだ?」
 俺はなんとか、なくなってしまった続きの代わりになんでもない質問を取ってつけて、気まずい時間の訪れを覆い隠した。
「海を見たいんだ」
「海か……
「他の子供達には秘密にしていてくれるね?」
 そこで会話はひとつの終わりを迎え、ミハイルと俺はまた歩き出した。憶泡がただよう路地を通り抜ける。足元から広がる影は青黒く、巨大ななにものかがこちらを覗き込むように深い。並ぶ建物の窓に灯りが点くことはなく、すれ違う通行人すらいない。街の低いところは、もはやいつ憶質に呑み込まれるかわからないからだ。ミハイルが「海に行った」なんて言うと、彼の子供達が心配したり怒ったりする理由でもある。なにせ『海』はここより更に低いところにあるのだから。
 ミハイルの歩調に合わせ揺れるコートについて歩く。下へ進むにつれて、建築物は憶質へと分解され、影は凹凸を失っていく。崩れた建物の光景はやがてコンクリートの欠片に移り変わり、先の地面も崩れているのが見える。
 崩れ落ちた地面の先では、終着地のように憶質が波打っていた。情報の衝突によって自然発生した夢の泡が波に潰され、新たに生まれ、また潰える。憶質でできた波が崩れた地面を侵食するように打ち付ける。憶質のうねりが歌声のように耳の奥で鳴り響いていた。ここが夢境と記憶域の境界線であり、原初の荒々しさを残した、ピノコニーの『海』だ。
 灰色の海辺に佇むミハイルは、古い木のようだった。埋めるもののない墓標しか残らなかった友人たちを思うために、ミハイルはしばしばここを訪れた。彼は航海士のこどもだから、もう帰ってこない仲間を海の向こうに見るのだ。
 波の間を揺蕩うように黙りこんでいると、ミハイルの足元に、幸運にも波に潰されなかったまっさらな夢の泡が運ばれてきていた。おおむねビー玉程度の大きさをしたそれをミハイルは不用心に拾い上げ、少しの間穏やかに見つめていた。
「あっ」
 しかし、ミハイルが驚いたように声をあげた途端、突如水の中に潜るような閉塞感が俺を襲った。不意に訪れた驚きを潜り抜けて、これは夢の泡による共有幻覚に陥る瞬間である、と気がつく。だがその時には既に、目の前の世界は作り替えられていた。

 広く深く青く、目の奥が刺されるような眩しさだった。
 さざざ、と砂浜を這いずる潮騒はまるで皮膚を削るような音をしている。水面はその透明な身体と、海底に沈んだ街並みを自慢するかのように輝いていた。海だ。
「驚かせてすまない、ギャラガー」
 海鳴と眩輝する視界の向こうでミハイルが話しかけてきている。
「いや、このくらい構わない。……それに、あんたに驚かされるのには慣れてる」
 おおかた、夢の泡がミハイルの思念を読み取り、小規模な共感覚夢境として機能してしまったのだろう。乱暴に言えば、俺はミハイルの空想を見ている。
 眩しさに目が慣れだしたから、海へと視線を移す。海面が高く陸地が少ないのか、水平線は限りなく平坦だ。小さな岩場ひとつ見つからない水面はまるで空を裏返したようで、天地の境目を時々見失う。目に見えるほとんどを水に包まれた光景は、ミハイルがたびたび語っていた海洋惑星ルサカの特徴と合致していた。
「ここが、あんたの故郷の海なのか?」
 ミハイルは「ああ」と頷いた。沖では、波が立っていた。ぎざぎざとした太陽の光を乗せて遠くへ運んでいくそれの眩しさのせいかミハイルが目を細めながら、航海士ミハイルを小さな声で呼んだ。それから、旅の最中に別れていった者たちの名を。視線は遠く、まるで遠ざかる船を見送るように。もう戻らない波を見るように。
「ギャラガー」
 ミハイルが、もうずいぶんと枯れた声で俺を呼ぶ。古い楽器を吹いたような頼りなさに、俺は老い以外のなにかを感じ取った。
「君も、海の向こうに去っていくのか?」
 そう言ったミハイルの声色と言葉はあまりに弱々しく、視線を閉ざした睫毛が哀惜の念を瞼の内側に閉じ込めていた。
 そんなむごいことを言うな、と責めるのは簡単だっただろう。しかし彼は数琥珀紀に渡るピノコニーの数多の動乱であまりに多くのものを失い、最後に残された夢の地の真実を今日まで守りつづけてきたのだ。夜中にふと、飼い犬に弱音をこぼすくらいのことを、誰が責められるだろう。
……すまない、ギャラガー」
 はっと夢から覚めたような、自責の念が滲んだ声だった。俺は返事の代わりに鼻を鳴らして、俺よりすこし冷たい身体へとぴったり寄り添った。そうして訪れた静謐の背骨になるかのように、波が何度も打ち付けていた。
 ややあって、ミハイルがもう一度口を開いた。
「僕は傲慢だな。全て、彼ら自身が決断することだというのに」
「ふん、まあ、そりゃあんたの言う通りだな」
 俺の言葉にミハイルは困ったように眉を下げたまま、静かに口の端を上げた。まるでそれが合図であったかのように、夢の中の夢の海は水滴が潰れるように消え、風景は原初の『海』に戻った。
「でも、じいさん」
「なんだい、」
 ミハイルがやや俯きがちだった頭を上げる。灰色の海の灰色の影が、歳月を刻んだ顔に落ちていた。
「俺は必ず、最期まであんたの側にいてやる」
 ミハイルが『海の向こう』と形容する死に至る決断は、俺には選択する意味がない。なにしろ、俺が『神秘』の切片と触れたのは彼の意志をここで守るためなのだから。その過程で、過去に押し流された事実とやらがいかに無意味で、この宇宙が虚構で成り立っていると思い知るとしても。そもそも、人間の決断が運命に対して無力であると理解しても。最初に誓った通りに在りつづける。
……それに。あんたみたいに無鉄砲な奴を置いていくなんて、想像もしたくない」
 俺が俺という虚像に設定した役割は明白で、ゆえに俺にとっての真実も明確だ。あの青い海も、俺にとってはミハイルの抒情から引き剥がされて認識の表面に張り付いただけの風景に過ぎない。
「ありがとう、ギャラガー」
 ミハイルは目を細めて淡く微笑み、俺の頭を撫でた。そして、波打つ憶質を一瞥したあと、「そろそろ帰ろうか」と踵を返した。ミハイルは『海』に背を向けて歩きだし、俺はその背中を追いかける。海には目もくれずに追いかける。
 ミハイルがもう二度と戻らない故郷をのぞむ視線。夜明け前のように静かな輝きをたたえた瞳の中にだけ、ほんとうの海がある。