溶けかけ。
2024-07-10 00:14:21
2163文字
Public ほぼ日刊
 

扉の向こう

ドアがたくさんある空間に迷い込んだフリーナのお話。
元ネタはギャグですが、こちらはシリアスになります。

「ああ、もうこんな時間だ。眠らないと……

 まだ夜の九時。
 フリーナは大人の女性である。今どき、子どもですらこんなに早くは眠らないだろう。
 それなのに彼女がこんなに早く眠るのには理由があった。

 それは秘密の楽しみのためである。

「ふふっ……今日はどんな舞台が見られるのかな」

 枕元に置いてあった銀色に青い石の嵌った鍵を握りしめると興奮で頬を赤く染めながら眠りについた。





「やったぁ!今日もここに来られたぞ!」

 フリーナはぴょんぴょんと飛び跳ねた。真っ暗で上も下も分からない空間には無数のドアだけが浮かんでいる。

「今日はどれにしようかなぁ」

 鼻歌混じりで近くにあったドアを開ける。黄色地でバラの彫刻が彫られたドアはフリーナのよく知る誰かに似ていた。

「これはナヴィアのドアかなぁ」

 ドアノブを回して、そっと中へと入る。ドアの向こうには常と変わらないように見えるポワソン町が広がっていた。フリーナは物陰に隠れるとそっとその様子を見守る。

「あ!フォカロルス様だ!」

 幼子がフリーナによく似た少女を指差す。幼子の親が「こらっ!」と怒るのを彼女――フォカロルスは慈愛に満ちた目で見守っていた。

「すみません……!フォカロルス様……言って聞かせますので……!」

「ああ、その必要はないよ。子どもは元気なのが一番だからね」

 フォカロルスが幼子に視線を合わせるようにしゃがみこんだ。どこで付けてきたのか、親ですら気づいていなかった小さな擦り傷を治すとフォカロルスは「じゃあ、僕はこれで」と小さく手を振ってその場を後にした。

「ここは『予言が起こらなかった世界』なのかな?」

 だからこそ、フォカロルスが正しく神として君臨しているのだろうか?

「うーん……これだけじゃ情報が少なすぎるな。他の人を探そう」

 誰かに見つからないように身を隠しながらポワソン町の中を進む。フォカロルスがいる以上、無駄な混乱は避けたほうが無難だろうと判断したフリーナは放置されていたボロボロの布を被って細心の注意を払いながら目的の人物を探していた。

「ママ!」

 金色の髪が風にそよいだ。ナヴィアは彼女と似た女性の隣に並ぶと持っていた荷物を取り上げた。

「もう。買い物なら私に任せてっていつも言ってるでしょ」

「そうだったわね。でもあなたがあんまりにも気持ちよさそうに寝ているから起こし難くって」

 女性の言葉に頬を赤らめるナヴィア。そんな二人を見覚えのある男性が温かく出迎える――――フリーナはしばし、その光景に魅入っていた。

「あら?」

 ナヴィアの母、クレメンタインがこちらを見て小首を傾げた。慌ててフリーナは物陰に身を隠す。

「どうかした?」

 ナヴィアの問いかけにクレメンタインは首を振る。

「ううん。気のせいだったみたい」






 勢いよくドアを閉める。走ったせいで上がった息を整えつつ、ドアの前に座り込む。――あり得なかった世界。この無数の扉の向こうにはフリーナが選べなかった世界が存在している。

 深呼吸をする。
 長きに渡る公演に幕を下ろしているフリーナではあの結末には至れない。「あそこに居たいよ」という内からの叫びを抑えつける。なにより、あの結末を望むことをフリーナ自身が良しとしない。

 救えなかったものから目を逸らすことは許されない。これは僕の罪なのだから――




 「次は……

 息を整えて、感覚的には下へと向かう。下へと向かう内にドアが少しずつ少なくなり、最後には真っ黒なドアだけがある場所へと下りる。

「入ってみよう」

 ドアを僅かに開けた、その時――大量の水が流れ込んだ。
 真っ暗で大きさすら曖昧だった空間が一気に水で満たされる。夢だからなのか、息は出来た。
 大きく開け放たれたドアの向こうにはマシナリーを抱きしめた――

「ここは本来、君のような者が来るべき場所ではない」

 僕の目を誰かが塞いだ。耳元で聞こえる声はよく知る彼のもので。

……ヌヴィレット?」

「鍵は恐らく、君を選んだのだろう。だが、ここは君のいるべき場所から遠く離れた世界だ。戻れなくなる前に帰りたまえ」

 ヌヴィレットが異国の言語を口ずさむのと同時に意識が遠のく。夢の中の眠りは現実世界の覚醒だと聞いたことがある。

「忘れるのだ、フリーナ殿。……全ての夢がそうであるように」

 寝物語を読み聞かせるような抑揚が耳を打つ。ゆっくりゆっくりとフリーナは意識を手放した。


「?」

 目が覚めたフリーナは小首をかしげる。なんだか、いい夢を見ていた気分でも悪い夢を見ていた気分でもあった。

「って、もうこんな時間!?」

 時計を確認して、慌ててベッドから飛び起きる。自己最高記録を叩き出したのではないかと思える速さで準備を終えると家を飛び出した。

「あれ?これだっけ?」

 取り出した鍵に違和感を覚えて、まじまじと観察する。少し使い古された真鍮の鍵は確かにフリーナの部屋のものだ。

「変なの……って急がなくちゃ!」

 フリーナが走り去る。
 落ちていた銀の鍵がぶくぶくと泡を出しながら空へと溶けていった。