compound_dashi
2023-07-20 21:36:32
2548文字
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DEEPER, IN THE BOTTOM

典ソハ 小説家典と大学生ソ(兄弟) とある夏の夜の話
BOOTH初出、web再録本「光、重ねて 2021-2022」に収録済み 本にする時に加筆修正したバージョンです
https://ecs.toranoana.jp/joshi/ec/item/040031022974

 きらきらと光る。ゆらゆらと揺れる。
 周りは随分と暗く、色を感じ取れるのは真上の煌めく揺らぎだけだった。……あれは、水面か。
 暗い方へ手を伸ばす。まだ届かない。ぱちぱちと瞬きをする。そこでようやく息ができていることに気が付いた。息苦しさも冷たさも水の重さもない。……ここは、どこなのだろう。
 ──手を伸ばさなければならない。何も分からないのに、何故かそんな焦燥があった。
 深く深く深く。底へ底へ底へ。抵抗のない水をかき分けて進む。潜るにつれ少しずつ息が苦しくなっていく。……水のせいではなかった。焦燥が、恐怖が、胸をだんだんと締め付けていく。
(いやだ)
 このままでは、いけないのだ。
 うしなわれてしまう。なにが。だれが。
 歯を食いしばり、震え始めた手に必死に力を入れて、さらに深くまで沈む。ごぼりと泡が立ち昇り、それが見えた。
 紅い眼が一つ、こちらを視ている。


 よく見知った姿の人魚が、縋るように手を伸ばした──



……兄弟、起きろ。せめてベッドで寝ろ」
 浮上するように、だんだん意識がはっきりとしてくる。聞こえるようになった声は一緒に暮らす兄のものだ。うっかり机で寝落ちしたせいで体が固まって痛い。見上げてぱちぱちと瞬きをすれば、ぼんやりしていた兄弟の姿もよく見えるようになる。いつ見ても悔しいほどに整った顔だ。
「あ~、おはよ……大丈夫だ、もう起きた」
「そうか。……十一時だが、大丈夫か。色々」
 言われて時計を見ればもう夜の十一時を過ぎていて、思った以上に寝てしまっていたのに気づく。優に四時間は経っていた。
「うわマジか、すげー寝ちまった……まあでも提出は全部終わったから。やっと夏休みだ」
 そう、夏休み。やっとこの年中在宅の兄弟と長く過ごせる期間がやってきた。作家をしている兄弟も締め切りにはしばらく追われないらしい。つまり好きなだけ遊び尽くせるということだ。
「せっかくだし海とか行きてえな、……もうちょっと涼しくなってくれてもいいと思うんだが」
 なんだ三六度って。殺す気か。兄弟が先に死にそうだ。
「そういえば久しく行っていないな。行くなら九月か」
「だな、……つっても八月ずっと引きこもってるのもなあ、行けそうな所は……
 言いかけた俺の言葉は、背後から感じた体温で途切れた。自分よりも大きな体に包み込まれ、逃げ場がなくなっていく。
「家で過ごすのもいいだろう、お前も疲れてるんじゃないのか」
 声がさっきよりも格段に近くなる。耳元に直接吹き込まれて心臓が跳ねた。
「ちょ、兄弟……ずるいぞそういうの」
……? 何がだ」
「何がって……あぁ分かったよ、しばらくはのんびり過ごすとしますかね」
 満足げに小さく笑う気配を感じた。甘える素振りを見せれば言うことを聞くと思ってやがる。その通りなのでどうしようもない。そのまましばらく暖かさに身を委ねて──
 ……いつまで経っても離れる気配がない。
「兄弟そろそろ暑い」
「冷房が寒くなってきたんじゃないかと思ってな」
「そんなこと一言も言ってねえんだけど?」
「意地悪だな、俺の弟は」
 ……嫌じゃないのを完全に分かられている。しっかりと喜んでしまうのがそこはかとなく悔しい。これが大人の余裕って奴か。四歳しか違わないのに。
くしゃりと俺の頭を撫で、ようやく離れた兄弟は部屋のソファに腰かけて口を開いた。
……兄弟、どんな夢を見ていたんだ」
「夢?」
言われてみれば見ていたような気もするが。
「どうにもうなされているようだったからな」
……どんなのだったっけな」
 思い出そうと記憶を手繰ってみる。海か何かの中にいたような。明るい方から暗い方へ、底へ底へと潜っていって、
 ──怖い、なくしたくないと、そればかり考えていた気がする。
……ヤな夢だった気するな」
「そうか」
 兄弟はそれ以上何も言わない。何となく収まりが悪いような心地になって、気が付けば吐き出していた。
……兄弟は、俺と付き合ってよかったと思ってるか?」
「よかったに決まっている。それがどうした」
 清々しいほどの即答だった。……それが何故か、泣きたいくらいに嬉しかった。
……じゃあ……俺の前から消えたりも、しねえよな」
「勿論だ。……お前は大事な兄弟で、恋人だ。そんな人間を置いてどこか行くなどありえん」
…………安心した」
 兄弟の隣に座ると肩を抱かれた。鬱陶しくはない。そんな訳なかった。恐怖も不安も溶けて消えてしまうようだった。
「兄弟の肩書が邪魔になったかと思ったよ」
「最初はそうだったけどな、今は……なんていうか、うん。それも含めていい」
「含めて、か。……確かにそれを持ち出すといい反応をする」
…………
 何か今セクハラじみたことを言われた気がするんだが。
……すまなかった、あまり睨むな」
「分かってるなら言うな!」
 とはいえ、今のでなんだか気が抜けてしまった。しまい込んでいたことも言えたし、あんな夢はもう見ないで済むだろう。
……あー、何か変に疲れちまった。何か食おうかな」
「作ってやろうか」
「お、ほんとか? じゃあ頼む」
 もう一度俺の頭を撫でて、兄弟はキッチンに向かった。

(あの夢の兄弟、……綺麗だったな)
 もうその姿は朧気になっていたが、その感情だけははっきり残っていた。儚くも失われる、人魚の姿をしていた。
 二人でならどこまでも行けるような気がした。深く冷たい海の底へだって。

 人魚には魂がないのだという。叶わない愛に殉じて、ようやく魂を得るスタートラインに立てたのが人魚姫だと聞いたことがある。
 付き合う前のどこか虚ろな兄弟のことを思い出した。積極的に外と触れ合うことはなく、それでいてどこかへふらりと消えてしまいそうな、不安定な男。
 兄弟同士で付き合うことへの引け目が完全に消えた訳ではない。でも、兄弟を人間にできるのなら、その程度の禁忌なんかどうだっていい。
 今この瞬間兄弟を愛していられるのなら、他がどうなっても構わない。

(……我ながら重いな)
 ぐるぐると巡らせた思考の重さに一人苦笑しながら、ソファに凭れて兄弟を待った。