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千代里
2024-07-08 12:59:40
18557文字
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リーブラ13話
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リーブラの針は問う・13話・その25
警鐘が鳴らされる、その少し前。ヤルマルとルーシャンは、明日の出立に向けた買い物のために街へと繰り出していた。
六人が移動するとなると、食料だけでもそれなりの量が必要だ。幸い、クルザス一帯は気温が低いために食べ物が簡単に傷むようなことこそないものの、同じような食事では飽きが出てしまう。少しでも品を変えられないかと、ヤルマルは手当たり次第に保存食を扱う店を覗き込んでいた。
普段はヤルマルに影のように寄り添っているオランローは、今は姿を見せていない。竜に似た姿をした自分は人々を威圧してしまうからと、サルヒ共々宿としてる施設で荷造りをしている。
「なんだか、最初に来たときよりも街で見かける騎士の数が増えてるな」
何気ないルーシャンの呟きに、ヤルマルは香辛料を並べている陳列棚から顔をあげた。
ここは、調味料を扱う店だ。店内に入ってきたルーシャンは、木戸を閉めながらも、向こう側にいる人影ーー恐らくは本人が口にしている騎士を見遣っていた。
「言われてみれば、武装した騎士をよく見かけるね。外から援軍でも来たのかな」
「あれは、領主様お抱えの騎士ですよ、お客さん。本来なら、お屋敷に詰めていなきゃいけないところを、こうしてあっしらのために貸してくださってるんでさあ」
ヤルマルの疑問に対して答えたのは、店員のヒューラン族の男だ。
彼の説明を聞いて、ヤルマルは「へえ」と呟くだけだったが、ルーシャンは領主の私兵と聞いて驚いたようで、小さく息を飲んでいた。
「異端者がどこにいるかわからないってなると、あっしらも不安で仕方ありませんからねえ。そんなもんだから、領主様が来た時にあっしらが直談判したんでさあ」
「でも、誰が異端者なのかなんて、領主でも分からないだろう?」
「そりゃそうさ。だから、領主様は、あっしらのために見張りを増やすって仰ってくれたわけでさぁ。そうすりゃ、何かあったときにすぐに対応してもらえるってんで、あっしらもとりあえず安心はできますでしょう?」
そういうことか、とヤルマルは長い耳を微かに震わせる。彼女の耳は、壁の向こうを歩いている騎士の甲冑の音を聞き取っていた。
世間話はそこまでにしておいて、ヤルマルは香辛料の詰まった瓶をいくつか選び、店主へと渡す。支払いのために貨幣をカウンターに置き、品物を手近な鞄の中に入れていると、
「あんたさんらは、この街の人じゃなさそうさね。外から来た人ですかい?」
「まあね。でも、明日には旅立つつもりだよ」
「そうかい。まあ、今はどこかギスギスしてまさぁね。あっしも、長居はお勧めできんでさぁ」
店主は肩を落とし、やるせなさそうに首を横に振る。
「少し前までは、そうでもなかったんですがねえ。やっぱり、町に魔物が出るなんてことになれば、皆落ち着かなくなっちまいまさぁね」
「安心しなよ、おじさん。ボクたちは、魔物が出てくる前に、この街に来ていたんだ。君たちが、難民たちも引き受けてた心優しい人たちだとは、ちゃんとわかってるさ」
にっと笑いかけて見せてから、ヤルマルは店主に踵を返して、すたすたと外へと向かう。その後を、先ほどからずっと黙りこくっているルーシャンが追いかけてきた。
「お店のおじさんにはああ言ったけれど、どこかギスギスしてるのは確かなんだよね。緊急事態ってなると、人はどうしても冷静でいられなくなるものらしい」
「異端者がどこにいるかわからないってなると、気持ちが落ち着かなくなるのは仕方ないだろ。普段は意識しないようにしていても、直接的な危害が出れば嫌でも考えなくちゃいけなくなる」
ヤルマルに追従して、ルーシャンはしみじみと噛み締めるように呟く。その口ぶりは、まるでその問題に何十年も関わってきたかのような含みがあった。
「オデットが言ってたよね。どうして敵であるはずの竜に与して、異端者になってしまうんだろうかって」
「ああ、あれか。そんなの、人それぞれの理由があるんだろうが
……
」
話しながらも、ルーシャンは周囲にいる人々を見やる。
夕焼けの日差しに照らされた通りには、思い思いの姿で一日の終わりを過ごしている人々がいた。
雪かきに勤しむ若者たち。踏み締めた雪道をいく親子。どこか項垂れた様子の草臥れた上着の二人連れは、外からやってきた難民だろうか。
そして、人の数だけ、そこに感情がある。その中には、異端者になることを受け入れる気持ちを抱いた者もいるのだろう。誰もが、竜を恨み続けられるほど、人は強くない。まして、その竜がほとんどの人にとっては命を奪う脅威であるとなれば、尚更だ。
「この国の人間は、多かれ少なかれ、辛い思いを飲み込みながら生きている。イシュガルドの外なら、ただ諦めて膝を抱えてじっとしているって選択肢しかなかったんだろう。だが、この国にはどんな因果か、竜の味方になって自分も竜になるって選択肢が存在しちまっている」
「竜になったら、力を得ることだけはできる。自分の中にあった難局も、竜になった己なら乗り越えられるかもしれない。そういうことかい?」
「簡単に言えばな。ただ、異端者にも異端者の社会があるだろう。それに、竜血を飲んだってバレれば、異端審問官の尋問を受けたうえで、最後には奈落に突き落とされる運命にある。そのリスクを背負ってまで竜になるかって言われりゃ
……
それこそ、人それぞれだ」
けれども、それらのリスクを背負っても竜になろうと望むものもいる。そちらの方が、現状よりもよほどいいと感じる人が一定数存在するのが、この国の現状だ。
彼らが竜になった原因を完全に理解することはできないと、ルーシャンもヤルマルもわかっている。そもそも、完全に他者の気持ちを理解することなど、不可能なのだから。
「
……
人の道を踏み外してでも、竜になりたいと望む、ねえ」
そんな道を選ぶ日は、自分にはないだろう。ヤルマルは、そう思う。ルーシャンも、言葉にこそしないものの、彼女と同じ気持ちだった。
できるならこの街の人にも、そんな日が来ないことを望むーーそう思った時だった。
ーーカンカンカンと、凶報を告げる警鐘が鳴らされたのは。
「ヤルマル」
「うん。ボクらは、一度宿に戻ろう」
ルーシャンの硬い声の呼びかけに、ヤルマルはすぐに応じる。
サルヒたちの様子を見るためにも、一旦帰還しようとルーシャンが持ちかけたのだろうーーヤルマルがそう思って返答したのに対し、
「違う、あれだ!」
珍しく切羽詰まった彼の声に、何事かと振り返ったヤルマルは瞠目する。
通りの少し先にある、この街ではよく見かける日用雑貨を取り扱う店。その店先に、本来あってはならないものがあった。
一足早く訪れた夜を吸い取ったような、黒々とした鱗。中途半端にのびた翼の隙間から見える、獰猛そうな横顔を形容する言葉を、ヤルマルは一つしか知らない。
「なんで、ドラゴン族がこんなところに!?」
「いや、あれはただ外からやってきた竜じゃない。人が竜に変じた姿だ!」
二人が言葉を交わし合っている間にも、日常に突如現れた竜は店先にいた人へと牙を剥いた。
その翼が一振りされるだけで、展示されていた品々が吹き飛び、木っ葉を払うように周囲の人々が倒れる。あとは、その強靭な足を振り下ろせば、間違いなく人型のシミが地面に広がっていただろう。
しかし、振り下ろそうとした竜の足は、不意に虚空から現れた炎によって妨げられる。振り返ろうとした竜の目に向けて、今度は数本の矢が降り注いだ。
「一応聞いておくけど、あれって元は人間で間違いないんだよね」
「ああ、残念ながらその可能性が高い。じゃないと、警鐘が鳴って狙い定めたように現れた理由にならないだろう。竜が宙から生まれるって話は、ついぞ聞いたことがないんでね」
「そうか。
……
だけど、彼か彼女か知らないが、あれは人を殺そうとした」
「ああ。少なくとも、手を取り合うために姿を変えたわけではないのは確からしい」
軽口を叩き合っている間に、竜はぐるりと振り返る。
標的と定められた二人に向けられた視線は、お世辞にも友好的とは言い難い。だが、獣のような単純な破壊衝動も、そこにはない。
その瞳にあるのは、自分に害なすものを退けようとする本能的な敵意ではなく。
もっと計算され尽くしたうえで、自分の障害を取り除かなければならないと決断した、理性ある者だけが持ちうる殺意だった。
「
……
ヤルマル、悪いが飯を持って帰るのは後にする必要がありそうだ」
「心配ご無用。荷物を庇いながら戦うのも、一流の冒険者の技さ」
念のために持ち歩いていた弓を構え直し、ヤルマルは口角を釣り上げる。一方、ルーシャンも、すでに抜き放っていたレイピアの先端を、かつて人だった竜に向けていた。
「この旅が終わる頃には、ボクはドラゴンスレイヤーとしての称号も得られそうだね」
「ああ、そうだな。その時は存分におじさんが語り継いでやるよ。勇敢なるヴィエラの射手の活躍を」
「君の手を煩わせなくても、ボク自ら、自分の活躍を謳ってみせるよ!」
言葉と共に、動き出した竜へと数条の矢が星の如く空を駆ける。開戦の火蓋が切って落とされる様を目の当たりにしながらも、ルーシャンはあることが気になっていた。
(
……
砲の音がこの前より多い。まさか、この竜の襲撃は)
考えるよりも先に、竜の鉤爪がルーシャン目掛けて振り下ろされる。咄嗟に足元で風の魔力を爆発させ、宙返りするようにして距離を置き、
(いや、今は考えるよりも先にこいつを倒すのが先だ。それからのことは、その後に考えればいい)
己の思索を断ち切って、ルーシャンは目の前の竜を討つために体内のエーテルの流れを加速させた。
***
ノエの鼓膜を劈く轟音。それは、突如現れた竜の巨体により、建物の一部が壊されたからだと察した瞬間、
「オデット、障壁を!」
ノエの指示を待つまでもなく、オデットの立っていた場所から椀を伏せたような半球上の光の壁が生まれた。
悲鳴をあげ、頭を抱えてうずくまるばかりの人たちは、揃って壁のうちに取り込まれr。おかげで、食堂にいた客たちが揃って瓦礫に押しつぶされるという最悪の事態は避けられた。
けれども、瓦礫による圧死は免れたとしても、脅威が退けられたわけではない。二階との間を隔てるためにあった天井は、今や非常に風通しのいい姿へと変わり果てている。そして、無慈悲かつ大胆な変化をもたらした存在は、変わり果てた家屋に佇んでいた。
大きく広げられた翼が打ち下ろされれば、巻き起こされた風により机や椅子を吹き飛んでいく。まるで、子供がおもちゃの家を壊していくかのように、つい先ほどまで人々が束の間の酔いを楽しんでいた空間は、見るも無惨な瓦礫の山となっていた。石造りである基礎部分だけが、辛うじて店がそこにあったことを教えてくれていた。
「兄さん、あれは
……
」
「異端者だ! 異端者が、客のふりをして、店に隠れていやがったんだ!」
オデットの問いかけに答えたのは、ノエではなく、オデットの足元で頭を抱えて震えていた客の一人だった。酔いはすっかり覚めたのか、真っ青な顔で彼は今まさに身を起こそうとしている竜を指差している。
「僕も、この目で見たよ。
……
酒場にいた人が、竜となる姿を」
「じゃあ、あの人は
……
元々は人間だったんですね」
「そうみたいだ。でも、今は僕らと敵対するつもりらしい」
話しながらも、ノエは腰の鞘におさめていた剣を抜く。
彼の目の前にいるもの。それは、どこからどう見ても一体の竜にしか見えない。
体高は二階建ての家屋には劣るものの、その全長は店の半分を埋めるほどもある。全身は硬そうな黒い鱗で覆われていて、その周囲には微かに魔力が走っていた。
一人で仕留められる相手かどうか。それを問われれば、ノエは「できる」と言いきれない。故に、ノエは背後にいる客たちへと視線のみをやり、
「皆さん、僕たちが竜を引き留めている間に、騎士の方を呼んできてもらえませんか」
「でも、あんたたちは
……
」
「戦いの心得はあります。ですが、竜を確実に仕留められるとは言えません。だから、援軍をお願いしたいんです」
ノエが剣を抜き、オデットが天球儀を片手に浮かせて構えている姿を見て、腰を抜かしていた客たちも今の状況を捉えなおせたらしい。彼らには戦う力はないが、竜がここにいる伝えるための足と声ならある。
「そ、そうだ! 領主様が商業区内に私兵を配備してくださっている。巡回の兵士を呼んできて、こいつを仕留めてもらおう!」
「悪いが、あんたたち! それまでこいつの相手は頼む!」
客たちは自分たちのするべきことを見つけ、ほうぼうに散っていく。残されたのは、瓦礫の崩落の際に負傷した数名の客と、この食堂を切り盛りしていた女主人だけだ。
彼女らはノエたちの戦いに邪魔にならないように、怪我人同士体を労るようにしながら、少しずつ竜から距離を置いている。
「オデット、彼らの治療を頼む。それまでは、僕がこいつを惹きつけておく!」
「は、はい。でも
……
兄さん、無理はしないでくださいね」
「ああ、わかってる!」
オデットの背を片手で押すようにしつつ、ノエは肉薄してきた竜の爪の一振りを盾で受け止める。盾の表面に這わせた防御の魔力が不可視の壁となり、薄紙一枚の隙間を挟んで爪を受け止めてくれた。しかし、耳障りな金属音が、ノエの防御が長く続かないと教えている。
「
……
どうして、あなたはこんなことをしたんですか」
かつて人だったものなら、問いかけに答えがあるかもしれない。どこかでそんな淡い期待を抱いていたのか、ノエは思わず竜へと問いかけてしまう。
しかし、竜は獣じみた呻き声をあげるのみで、返事はしてくれなかった。
やむなく、爪を盾で押し切るようにして打ち払う。間髪入れずに、竜の鋭い牙と、それらを並べた口がノエに齧り付かんと迫る。今度は剣を振るい、押し寄せる牙の群れを受け流した。ガチン、と口が閉じられるが、そこにすでにノエの体はない。
大柄な体躯の者が、ノエのような体に対して小さな敵を仕留めるのは簡単ではない。一撃さえ当てれば致命傷になるかもしれないものの、その分大ぶりになってしまう攻撃の命中率は下がっているからだ。
竜は苛立たしげにノエを見やると、竜の見た目に相応しい、人の体では決して発せないうめき声が響く。
グルル、と呻く声は警戒か、威嚇か。それともーー。
「まさか、何か話しかけようとしているのか
……
?」
竜に変じてしまったとしても、異端者の意識が完全に獣のそれに変じるわけではないのだろう。もしそうなら、異端者の統制のとれた行動に異端審問官や騎士団が苦戦する必要はない。
だったら、人の姿を捨てたとしても、目の前の竜は何かを語ろうとしているのではないか。先ほどのノエの問いかけに、竜は応じようとしてくれているのではないか。
もし、それが怨嗟の声であったとしても、竜に変じた人の叫びをーーその心を、無視していいのか。そう思った瞬間、ノエは一瞬無防備になる。
空を見上げるようにして、竜が人の言葉ではない呼びかけをしている。グオオ、と呟くそれは、まるで目に見えぬ神に祈りを捧げているようなーー。
「兄さん、それは詠唱です!!」
オデットの声が聞こえた瞬間、ノエはハッとした。刹那、竜とノエの視線がかち合う。
勝利を確信したかのように細められた瞳にあったのは、和解でも交友でもなくーー嘲笑だけだった。
「星々よ、わたしの一番大事な人を守ってーー!!」
後方から響く詠唱と共に、ノエの周囲を光のベールが取り囲む。同時に、竜の口にノエを丸ごと包めるほどの大きな雷球が生まれ、地面へと落下した。
「!!」
地に落ち、爆ぜた雷。それが雷の形をした波となってノエへと押し寄せ、ノエを飲み込まんとする。
オデットが生み出した光のベールが、雷の津波を押し留めてくれている。しかし、それももって数秒。ベールは剥がれ落ち、雷がノエに届くーーそう思ったときには、すでに準備は整っていた。
「
……
ごめん、オデット。僕はまだ、迷っていたみたいだ」
剣を地面に突き立て、盾を前面に突き出す。そこから生じたのは、光の翼。ノエの盾を中心として広がった光の両翼は、竜が放った雷波を完全に受け止め、相殺してみせた。ノエの後ろにいるオデットも、彼女が治療を施している人々も無事だ。
(僕は、かつて人であったものを斬っていいか、まだ答えが出ないままでいる)
目の前にいるのは、竜だ。しかし、それはほんの数分前までは人の姿をしていた。異端者とは、そういうものだ。
ならば、ノエがこの竜を殺すことは、間違いなく『人』を殺すことになる。それは、ノエにとって最も忌避すべきことだった。
「でも
……
今、この状況で、そうもいってはいられないらしい」
自分の代わりに手を汚してくれる人は、ここにいない。
かつて、ノエの命を守るために人殺しを受け持ってくれたウヴィルトータはいない。彼女は、すでに冷たい大地に還っていった。
少し前の依頼で、盗賊からノエの命を守るために敵の首を切り落としてくれた妖異も、この場にはいない。呼べば、彼はノエを守るためにその身を血で染めてくれるだろう。だが、そのような形で彼に頼ってはならないと、ノエは彼と契約を交わし直したときに決めていた。
故に、ノエは今一人だ。
ノエのそばにいるのは、ノエに守られなければ竜に食われるのを待つばかりである少女と、怪我人たちだけだ。
「
……
それが、正しいことなのか。僕には、まだわからないままだ」
とっておきとして放った雷の魔法を完全に受け流され、竜は苛立ったように足を踏み鳴らす。そのたびに瓦礫が跳ね、つい数分前は人々の疲れを癒す場を彩っていた机が、椅子が砕かれ、意味のないガラクタになっていく。
「でも、この街には今を懸命に生きている人たちがいるんだ」
振り下ろされる竜の顎(あぎと)を、剣の一振りで払う。続けて振り下ろされた爪は、盾で受け止めようとしたが、後一歩のところで間に合わなかった。攻撃を受け止め損なったせいで、ノエのコートに傷が走る。微かに走る熱が、ノエの思考から余分を払い落とし、ゆっくりと研いでいく。
(母親を失って言葉すらも失ってしまったとしても、僕を信じて心を託してくれた子も、ここにはいるんだ)
微かに笑いかけてくれた少年の姿を思い出し、ノエは剣の柄を握り直す。血が、盾を持つ腕から流れ落ちていく。
(それに、何よりーーあいつが、まだここに立っている)
先ほど目にした父親の姿は、まだノエの眼に焼き付いている。
悪意や敵意を向けられて、逃げ出したくてたまらなかったはずだ。あの男が、皆が言うほど完璧で立派な存在ではないことを、ノエは既に知ってしまっている。
自分の一番大事なものを、自分の手で死に追いやって、何もかもが嫌になったこともあった日もあっただろう。自分ではなく兄の方がその立場に相応しいと、己自身を責めた日も数限りなくあったに違いない。
それでも、ベルナールはそこに立っていた。自らを守る盾や剣である兵士すら民のために捧げて、己のなすべきはここにあると踏ん張っている。
だったら、彼に連なるものとして、自分がすべきことは何なのか。
「父さんが戦っているのに、僕だけが逃げてたまるかーーーー!!」
ノエが怪我をしたのを好機と見てか、竜は翼そのものでノエを打ち据えた。
盾を構えるも、傷のせいで盾に魔力を通すには及ばず、ノエの体は翼の殴打に吹き飛ばされる。
地面に体が何度もぶつかり、全身が痛みを訴えている。
だが、己が打ち据えられた地面すらも、先ほどまで当たり前のように日常を楽しんでいた憩いの場だと思うと、沸々と戦意が湧き上がってくる。
「あなたを殺すことが、僕は正しいとは思わない」
拳を握り、ノエは体に力を込める。
「あなたが皆を傷つけたから死んでもいい、なんて僕には言えない」
それならば、自分とて結局は同じだ。誰かを傷つけて、ノエは今日まで生き延びてきたのだから。
「かつて、僕の友人はこう言っていた。誰かを殺したなら、その分、奪った命を背負い、生き続ける。それが、自分なりの人の命を奪うということに対する答えだと」
ノエの体の奥、人ならざるものと化してしまった友が頷くのが感じられた。
「それは、まだ僕の答えにはなっていない。だけど」
地面に手をつき、体を引き起こす。
いっそ、戦わずにこのまま何もかもから逃げ出せたら、どれだけ楽だろう。
「あなたという存在が人だったことを、僕は生涯忘れない」
ーーけれども、今は戦わなければならないときだ。
「僕は、この場から逃げない。そんなことをしたら、僕はもう二度と、僕自身を認められなくなるだろうから」
父がいるこの街で、逃げの一手を討つことなど、ノエにできるわけがない。
体を起こしても、傷が癒えたわけではない。竜に打ち据えられたせいで、全身がずきずきと痛みを訴え続けている。頭を打ったせいか、少し視界もぐらいついていた。
だが、その程度なら何とかなる。何とかしてくれる仲間なら、今までもずっとノエのそばにいてくれた。
「ーーオデット。僕の証明に、付き合ってくれるか」
言葉はない。だが、降り注いだ光が、ノエの体を柔らかく覆う。
そっと、彼の背中を押すように。
*
オデットがノエに施した治癒魔法は、体の傷を完全に塞ぐほどのものではない。せいぜいは出血を緩やかにして、痛みを一時的に鈍化しているだけだ。目の前の敵を前にして念入りに回復魔法をかけている余裕などない。故に、オデットは応急手当を施すことしかできなかった。
それでも、ノエは立ち上がり、竜へと変じた者と戦い続けている。
山向こうに日が没したため、辺りは急激に暗くなってきた。だというのに、夜の静寂とは程遠い光景がオデットの前で繰り広げられている。
竜の翼がノエを打ち据えんと振りかぶられる。しかし、二度は喰らわないとノエの影が竜の懐に迫る。
ならばと、竜は鉤爪のついた足で彼を蹴り上げようとする。だが、足元に潜り込んだ小さな存在を蹴るのは、竜の体の構造上、簡単なことではないようだ。
苛立ちながらも一歩後ろに引こうとする竜の前に、ノエの剣尖が迫る。竜の腹を切り上げ、瞬きの間すら与えずに続く一撃が竜の胴体を貫く。
「
……
兄さん」
頑張って、とはオデットの口からは言えなかった。
それは、自分が戦闘から離れた安全地帯で、怪我人の治療をしているからーーではない。
ノエにとって竜と戦い勝利することはーー異端者だった者を殺すことは、誉などではないとわかってしまっていたからだ。彼が歯を食いしばって向かっていく様を見て、まるで自分自身を傷つけるかのような顔で剣を振るう姿を見て、「頑張れ」などと無責任な言葉はかけられなかった。
「兄さん。
……
死なないで」
オデットの祈りを嘲笑うように、竜の尾が振り抜かれる。
竜尾の一撃は、ノエにとってはまるで巨大な丸太が向かってくるようなものだ。
盾で受け止めては敵わないのはわかっていても、攻撃のスピードに応じるだけの力がもうノエにはない。故に、ノエは即席の防御魔法ーーシェルトロンにより、薄い光の壁を作ってそれを迎え撃った。
バン、と固いもの同士がぶつかり合う激しい音が、オデットの耳に届く。
「兄さんが傷つくところなんて、わたしは、見たくないのに」
ノエの盾が宙を舞う。竜尾の一撃に耐えかねて、ついに破壊された盾の残骸が、オデットのすぐ近くに飛んできた。見慣れた金細工は、今となっては見るも無惨な姿で、オデットの眼前に転がっている。
盾が壊されても、ノエは逃げるような真似はしなかった。それどころか、尾を振り抜くための一回転の反動で足元がふらついている竜に迫り、中段から剣を大きく振るう。
一撃は竜の胸に、二撃目は竜の腹に。防御を捨て、渾身の魔力を纏わせた二つの軌跡から、赤が爆ぜる。竜の流した血が、今日最後の日を投げかける太陽に反射して、かすかに光った。
「でも
……
兄さんが、そう決めたなら。わたしは
……
あなたが決めた道を行けるように、その背中を守りたい」
攻撃魔法をオデットが使えば、竜の注意はオデットに向く。そうなると、ノエはオデットを意識して立ち回らねばならず、結果的に彼の足を引っ張ってしまう。
故に、オデットが放つのは竜を刺激する魔法ではない。
「
……
どうか、兄さんの道行きに良き未来が訪れますように」
天球儀に手を添えて、怪我人に向けていた治癒魔法をオデットは一時中断する。ささやかではあるけれど、彼の背中を押す魔法を一つ、紡ぐために。
喰らわされた斬撃でたじろいだ竜へと、ノエが更に迫る。竜が一瞬降り仰ぐ形となった長い首ーーその根本。竜であろうと人であろうと急所となるそこに、地を蹴ったノエが急接近する。
ノエが突き出した細身の剣が喉元に突き刺さり、血が流れ落ちる。痛みからのたうち回る竜に、ノエが振るい落とされそうになったーーその時。
「あなたの運命に、無数の幸いが在らんことをーーディヴィネーション」
瞬間、オデットを中心に星座盤のような幾何学的な光の陣が浮かび上がる。それはすぐに解け、光の粒となり、今まさに竜の喉笛に食らいついていたノエへと降り注ぐ。
暴れ回る竜に喰らいつくだけでも必死な彼は、もはや体力の限界に達していた。あと一歩のところで、とどめを刺すには至らないかーーそう思った時、彼の体の奥から沸々と力が湧き上がっていく。
それが、オデットからの援護だと気づく前に、ノエは体中のエーテルをかき集めて、剣先の一点に全ての力を集中させーー吼える。
「これで、とどめだーーーーっ!!」
剣先から溢れる、巨大な光の切先。
コンフィテオルと名付けられたその魔法が、質量すら持った魔法の刃として、確かに竜の喉を貫いた。
***
竜の首元から溢れ出る血を浴びて、一瞬ノエは虚脱状態になりかけた。
だが、竜の血を飲むのは異端者の証だという幼い頃の教えがふと蘇り、彼はすぐさま自分が対峙していた相手から、剣を抜きつつ飛び退いた。
革手袋に包まれた手で顔に飛び散った血を拭い取り、改めて目の前に横たわる竜ーー人であった者の亡骸を見つめる。
ノエの感慨をよそに、目の前の脅威が去って僅かなれど人々の間に安堵が戻ってきた。
「あんた、すごいじゃないか! 異端者をやっつけちまったのかい!?」
「まさか、騎士様が来る前に倒しちまうとは
……
」
「生きてないよな。本当に、死んでるんだよな
……
?」
彼らの喜びの声が耳に入ってくると同時に、ノエにとって、眼前の竜の死骸が別のものと重なる。
今も記憶のどこかに深く刻まれた、十五年前の出来事。今のように、自分の前に倒れ伏す竜の亡骸。それは、かつて一人の女性の姿をしていたモノだったとノエは知っていた。
周りにいた人々は、無事に竜を仕留められたことに喜び、安堵の息を吐いた。ちょうど、今のように、脅威が取り除かれたことに歓喜の声をあげるものもいた。
だが。
ーー人殺し!!
「
……
っ」
幼い少女の声が、食堂の客らの声に混ざって響いたーー気がした。
それは十五年前の幻聴だ。今ここに、ノエの妹たちはいない。幻が聴かせた弾劾であると分かっていても、それはどんな喜びの声よりもはっきりとノエの耳の奥に突き刺さる。
(僕が、殺した)
自覚と同時に、視界が揺れる。揺れた視界の向こうで、竜の亡骸が横たわっている。
その姿が、今度は先ほど目にしたカウンターに座っていた男の姿と重なった。ごく普通のありふれた人生を、今日も粛々と過ごしている。そんな横顔をした男は、やはりどこからどう見ても『ヒト』だぅた。
むせ返りそうになるほどの血の臭いと、暗く沈んだ夜の空気。それら全てを同時に吸い込んだ刹那、ノエの喉の奥が震えた。
「う、ぐ」
昼に食べた食事が、何気なく露店で買った砂糖菓子が、胃の奥から逆流してくる。咄嗟に口を塞いで、突如湧き上がった吐き気を抑えこんだ。
自分という存在が他ならぬ自分自身が拒絶している。これは、その末に生まれた拒否反応だと本能が理解した。
体が高熱に襲われたかのように震えていて、剣を握るのにも全神経を集中させねばならなかった。さもなくば、この危機的な状況下で武器を取り落とすような無様を晒してしまっていただろう。
(ーー僕が、殺したんだ)
今度は、己の拒否反応をねじ伏せるために、自身に刻み込むように繰り返すり
竜と化したあの男にも、帰るべき場所があっただろう。彼を愛する家族もいただろうし、彼の帰りを待つ友だっていたかもしれない。
けれども、それらすべての目に見えない繋がりを、自分はこの手で壊したのだ。
ーー人を殺すとは、そういうことだ。
「僕が
……
殺したんだ」
今度は声にして、自分が招いた結果を繰り返す。
「僕の手で、殺した」
全ての言い訳を踏み潰して、もう一度。
狂乱に逃げるのではなく、事実を以て己の認識を刻み直す。
そうしなければ、殺さなければ殺されていたのはこちらの方だとか、周りの人が犠牲になっていたとか、どんどん耳障りのいい言葉で心を埋め尽くしてしまいそうだった。
(これは、正しいことだったのか
……
?)
自問する。答えはない。
人殺しは良くないことだ。そう主張する幼い自分は、依然としてノエの胸の内にいる。人殺し、とノエを糾弾する少女の声は、まだ耳の奥に響いている。
殺さなかったら、こっちがやられていた。オデットや周りの人も傷ついていたかもしれない。訳知り顔で首を振る大人ぶった自分が、子供の自分を嗜めている。
(何が正しいかなんて、僕にはまだ結論を出せない。でも、少なくとも
……
僕は目の前の敵を無視して逃げる自分を、僕自身が認められなかった)
かつて、己が定めた行動の指針を改めて見つめ直す。
何が正しいか分からなかったとしても、そうしなければ自分で自分を許せなくなる、というギリギリの境界線。それだけは、守り抜くと決めた。
そして、今ここにあったものが、まさにその境界線だった。
「
……
これが、僕の選択だ」
そして、選んだ結果から、目を逸らすことも、やはり自分は許せない。
故に、改めて己の双眸で、息たえた異端者の亡骸を見つめる。動かない巨体を見つめ続けているうちに、震えは自然とおさまっていった。
「兄さん」
駆け寄ってきた少女の気遣わしげな視線に、ノエは笑みを返す。誤魔化して無理をしているわけではないが、今はオデットの優しさに甘えている場合ではない。
「オデット、それに皆さんも。怪我はしていませんか」
「おかげさまでピンピンしてるよ! それよりも、あんたの方こそ大丈夫なのかい? あちこち傷だらけじゃないか」
食堂の女主人に、平気だと笑いかけようとしたものの、流石に痛み自体はごまかせない。僅かに笑顔が引き攣ってしまったのを見て、すぐさまオデットがノエの体へと癒しの魔法を施してくれる。
「それよりも、他の被害はどうですか。警鐘が鳴っていましたよね。ならば、やっぱり竜が近づいてきているのでしょうか。他にも同じように、急に竜に変化した人がいたという話は聞いていませんか?」
「いや、あたしたちはここにずっといたから
……
騎士様を呼んでいった連中なら何か知っているかもしれないね」
その瞬間、空気を割る重々しい音に、ノエも他の面々も一斉に口を噤んだ。
ドウ、と腹に響く音は、ノエとオデットには聞き馴染みがないものだ。しかし、街の人々や女主人にはすぐに分かったらしい。
「今のは、大砲が発射された音じゃないか
……
?」
「ってことは、近くまで竜が来ているのか!?」
「いや、たしか、あの大砲は
……
」
「ーーおい、上を見ろ!!」
その言葉に、声を潜ませて話し合っていた一行が一斉に上空を見やった。
おそらく、ノエが危惧していたように、他でも竜へと変化した者がいたのだろう。あちこちからあがっている火の手によって、夜が迫り来る空は下から赤く照らされていた。
その中をぼんやりと浮かび上がる、異形の影。空を悠々と飛ぶ大きな翼に、蝙蝠や鳥ではあり得ない大きな体躯。燃え上がった家屋のそばを通りがかった際、その存在の姿が明らかになった。
「
……
飛竜(ワイバーン)だ」
誰かの呟きが、影の正体を端的にかつ的確に示していた。
空を自在に舞えるように、翼が大きく発達した竜の一種。この地域ではあまり見かけられないと話されていた飛竜が、赤く染められた黄昏時の空にいくつもの影を浮かべている。
しかし、街の守護を受け持つ騎士たちも、飛竜に好きにさせているわけではない。
城壁に上がった騎士による弓や魔法が、少なくない数の飛竜を迎え撃っているのが地上からも見えた。砲兵が放った大砲の一射が、街に入り込もうとする竜を撃ち落とす姿も確認できる。
だが、迎え打つ手段はあれど、攻撃の手数が足りていない。一匹二匹では済まない数の飛竜が大挙して押し寄せれば、騎士の迎撃の手を掻い潜る個体も生じてしまう。
「なあ、あの飛竜を見ろよ! こっちに近づいてきていやしないか!?」
「まずい
……
!」
男の悲鳴が示す通り、一際大きなシルエットがノエたちへと迫ってくる。
ノエは、己のエーテルを使って再び皆を守れる障壁を放とうとした。
だが、前へと踏み出したはずの足元がふらついてしまう。先の戦闘で受けた傷も回復しきれていない上に、全力を出して戦ったせいで、体力の回復が追いついていないのだ。
遠くに見えていた飛竜が、こちらへと急降下してきたと思いきや、その寸前で急制動をかける。その口には、あふれんばかりの炎が満ちていた。
「わたしの魔法で防ぎます!」
「オデット、無茶だ!」
ノエが姿勢を戻すより先に、オデットがノエの前に立つ。一行めがけて、飛竜から放たれた炎の吐息は、オデットが間一髪展開した魔法の壁にぶつかった。
「兄さん、今のうちに皆さんを連れて逃げてください! このままじゃ、皆さんも巻き添えになってしまいます!」
「
……
! そんなこと、できるわけがーー」
「兄さん!!」
オデットが何を言いたいのか、ノエにもすぐわかった。
命の数を数えれば、オデットの選択が正しいと分かっている。
背後に控えている怪我人たちを連れて、ノエがこの場を離脱する。そうすれば、この場にいる何人もの命を救うことはできる。そして、代償としてこの場に残された一人の少女は竜の炎により命を落とす。
失う数と守れる数を比較すれば、一目瞭然。しかし、ノエはそのような選択をよしとしたくなかった。
(でも、どうすればいいんだ
……
!)
この場で、飛竜を一撃で仕留められるほどの技があればいい。それだけのことだ。しかし、今のノエには戦う余力がない。
そこまで思いかけて、ノエは気がつく。
(
……
いや、そうじゃない。まだ僕には、こうやって立って考える力も残っている。だったら、その力も全部、あいつを倒すために使えばいい。体の中のエーテルを全部使い切るくらいのつもりで、あいつを倒す覚悟を決めればいいんだ)
既に壊れた盾の代わりに、ノエは剣を地面に突き立てた。
剣に嵌め込まれた宝石すらも触媒として、己の命すらも、今この時の危難を逃れるために使いきるーーそんな覚悟を決めようとした瞬間、
「この場を凌ぐためなら、死んでも構わない。なーんて、思ってないだろうね」
声が響いた。軽妙で、普段から飄々とした振る舞いをしていながらも、戦いにおいてはいつでも真剣な『彼女』の声が。
「そういうカッコつけは、お嬢ちゃん一人のためだけに取っておけよ。そんな形で死なれたんじゃ、周りの連中の目覚めに悪いだろ?」
声が引き止める。お調子者の発言と、時に皆の笑いを誘うムードメーカーでありながらも、常日頃から周囲をよく観察している『男』の声が。
二つの声が、ノエの覚悟に「待った」をかけた。
パン、と何かが割れたような甲高い音が響く。オデットの魔法障壁が炎のブレスに押し負けた音だと思う間もなく、一向へと降り注ぐ炎は再び妨げられた。新たな魔法の壁は、ギリギリの所で一行を覆っている。
「ヤルマル、早く決めろ! あまり長くはもたないぞ!」
「了解、ヤルマルさんに任せなさい!!」
威勢のいい応答と共に、窮地に姿を見せた仲間の一人ーーヤルマルは弓をつがえた。
パッと放たれた矢は、まるで楽器を爪弾くような軽やかな音と共に、光の螺旋を纏って飛竜へと向かう。
一つの矢が飛竜の気を逸らし、炎のブレスを中断させる。そして次いで放たれた二つが、上空へと逃げようとする飛竜の逃げ道を断ち、地面へと進路を切り替えさせた。
「ノエ!」
ヤルマルの掛け声を聞くまでもなく、地面へと落下するように着地した飛竜へと、ノエは肉薄していた。
「おおぉおおおおーーーーっ!!」
己自身を鼓舞するための掛け声と共に、剣が勢いよく振り抜かれる。一条の光をまとった軌跡は、細身の飛竜の体を真横に横断する。
「まだだ、ノエ!!」
最期に一矢報いようと、ノエを睥睨する飛竜。そのヒトあらざる瞳とノエのそれがぶつかり合い、
「さっさとくたばれ、トカゲ野郎!!」
荒々しい言葉と共に、真紅を纏った光の花が飛竜の顔面に咲いた。
それがルーシャンの得意とする魔法の一つだと理解する間もなく、飛竜の顔から血の花びらが後を追って飛び散る。
ダメ押しとなった魔法のおかげで、ついに飛竜は空へと逃げる機会を得られずに地に倒れ伏した。後に残ったのは、この場を凌いだ者たちの荒々しい息遣いだけだ。
「
…………
もう、動かないよな」
肩で息をして、ノエは目の前の竜を見下ろす。飛竜独特の細身の体には、ノエによってつけられた深い傷が残り、今も血を流し続けている。しかし、その目は虚ろに空を見据えたまま、ぴくりとも動かなかった。
「兄さん、無事ですか!」
「ノエ、危ないところだったな」
オデットとルーシャンの声を聞き、ノエはハッとする。振り返った先には、見慣れた仲間たちの顔と、飛龍に焼かれることなく無事な様子の人々がいた。
周囲からは、今も変わらずに砲の音や飛竜の羽ばたく音が聞こえる。しかし、少なくとも、今この付近だけは一時的に安全を取り戻せたようだ。
「ヤルマルさん、ルーシャンさん。危ないところを、ありがとうございました」
「全くだよ。そんなからっからの体で無茶をしようとするなんて、どうかしてる」
「それ、ヤルマルさんにだけは言われたくないと思いますよ」
オデットに釘を刺されて、ヤルマルはうぐっと言葉に詰まる。
黒衣森の墓所で、ダイアマイトの群れから皆を守るために、一人でエーテルを使い切るような攻撃を放って死にかけたことは、そこまで昔の話ではない。
ヤルマルからエーテル回復用の薬を渡され、ノエは礼を言うのもそこそこに、蓋を開けて中身を飲み干した。からからに渇いた体に水を注いだかのように、少しずつ活力が戻ってくる。
「ヤルマルさんたちは、無事だったんですね」
「いいや、そうでもないよ。街を歩いてたら警鐘と同時に、竜に変化した人が現れてね。そいつの相手をしていたんだ」
「もっとも、巡回にあてていた兵士の人員を増やしてくれていたおかげで、すぐに兵士と合流できたんだ。そいつらと協力したおかげで、俺たちはそこまで苦労せずに討ち取ることができたんだ」
さらりと人だったものを討ち取ったと言うルーシャンに、ノエは一瞬言葉に迷う。
自分の胸の底にある答えの出ないごちゃごちゃと絡まった思いは、彼らの中にはないだろう。そう思うと、改めて己の未熟さを突きつけられたようだった。
同時に、今まで仲間として慕っていた相手が、急に遠くの存在に感じられてしまい、まるでいきなり一人で雪原に放り出されたような寂しさに似た感情を覚えていた。
だが、そんなノエの戸惑いを許してくれるほど状況は優しくない。それは、ノエ自身もわかっている。
「しかし、ここにきて飛竜の大攻勢ってどういうことだよ。アラン司祭の話じゃ、この辺に飛竜はそこまで住み着いてないってことじゃないか。あれは嘘か?」
「い、いや、それは本当だ。俺の息子は街の警備にあたってる騎士なんだが、この辺の竜は空を逃げ回らない分、剣や槍の修練が欠かせないって前に話してたのを聞いた」
ルーシャンの指摘に、客の中の一人が声をあげて説明した。だが、彼の言葉やアランの説明に間違いがないのなら、ますます状況は不可解である。
「それに、さっきの竜は人が変化したもの
……
ですよね」
オデットの震えた声での確認に、人々は一斉に顔を見合わせる。その事実については、今更裏を取る必要もないほどに明確だ。
「ルーシャンさんのそばでも、異端者の人が竜に変じたのですよね。それじゃあまるでーー」
「飛竜が来るのとタイミングを合わせて、異端者たちが一気に攻勢に出ている。これは、何か意図があっての行動だ」
ヤルマルの断言に、ノエも頷いた。
異端者がやぶれかぶれになって一斉に変化したにしては、状況が整いすぎている。飛竜の来襲に合わせて、異端者に一斉に竜へと姿を変え、街を混乱に陥れろと命じたものがいたはずだ。
では、なぜそんなことをしたのか。竜や異端者はただ混乱をもたらし、街を破壊するためだけに攻撃しているのか。
(本当に、それだけか? それだけなのか?)
ルーシャンの話によると、異端者が変じた竜は街を巡回している兵たちに迎え撃たれている。おかげで、致命的な壊滅の道を食い止められた。
仮に、飛竜が異端者と手を組んでいるのなら、街の外部にいる何者かと異端者は情報のやり取りができていることになる。
街の巡回に兵士が割かれているとわかっている現状で、せっかく街に潜入させた異端者を使ってまで混乱を招いたのはなぜか。街にとっての弱点でもある、空からの攻撃の一手という切り札を切ってきた理由は何なのか。
「おーい、お前たち! 助けを呼んできたぞ!」
ノエの思索を断ち切ったのは、援軍を呼びに行っていた客たちの声だった。とはいえ、すでに倒すべき竜は討ち取られている。倒れ伏している二体の竜の亡骸を見て、連れてこられた騎士たちの方が驚いたようだった。
騎士たちは、揃ってノエの指輪にあしらわれたものと同じ紋を刻んだ盾と鎧を身につけている。装備を見る限り、彼らは本来ラペイレットの家そのものに仕えている騎士なのだろう。今は、ベルナールの指示に従って街の見回りに出ていたのだろうかーー。
「
……
待てよ」
思わず、ノエの口から声が出た。
自分の中に一瞬よぎった閃き。それを逃さじと必死に掴んだ瞬間、ノエは騎士へと一足飛びで迫った。
「すみません! 今、あいつは
……
ベルナール様はどこにいますか!」
「えっ!?」
全身を竜の血で濡らした青年に突然詰め寄られ、騎士が動転の声をあげる。だが、お構いなしにノエは詰問を続けた。
「ベルナール様はどこにいるのかって聞いてるんです! 今、あの人の周りには手勢が少ないんでしょう! もし、この混乱の隙に彼が討ち取られたら、誰がこの街をーーこの領地を守るための指揮を取れるんですか!」
ノエの質問を聞いた瞬間、周りにいた者も彼の危惧を悟った。
街そのものを攻め落とすには、この攻勢は中途半端だ。飛竜をもっと大量にけしかければ、あるいはランドンと名付けられた、かの有名な竜ごと一緒に攻め込めば、街そのものを完璧に落とすことはできずとも、大きなダメージは与えられる。
だが、たとえどれだけ竜が街に損害を与えられても、復興は可能だ。領地全体の管理をしている存在がーー領主が生きていれば、他領から支援を受けることも、領土の他の場所から資源をかき集めることも、教皇に嘆願して騎士団を派遣してもらうこともできる。
けれども、その技術と裁量と責任を背負える立場の人物が命を落としたら、どうだろうか。
「べ、ベルナール様なら、この時間帯なら街の視察を終えて、屋敷に戻られる頃かと
……
」
「おい、ノエ! どこに行く気だ!」
騎士の言葉が終わるより先に、ノエは屋敷の方角へと駆け出そうとした。
自分を呼び止めるルーシャンの声に、足を止めるのももどかしいと言わんばかりの様子で一瞬だけ振り返り、
「あいつの所に行きます! すみません、二人とも! この場とオデットを任せます!」
彼らの返事を聞かずに、ノエは駆け出す。あっという間に見えなくなる彼の背中を見送ってから、ルーシャンは肩をすくめ、傍にいる少女へと視線をやる。
「ったく、こっちの意見も聞かずに任せてくるんだからよ」
「だけど、戦力は一人でも多い方がいい。そうだろう?」
ヤルマルのごもっともな指摘を受けながらも、ルーシャンは細剣を構える。見上げた先、砲に撃たれたのか、片翼に炎を灯した飛竜がこちらへとやってきていた。敵は、どうやらすぐ引き上げるつもりはないらしい。
「お嬢ちゃん、文句があるならあいつに存分に聞かせてやれ。とりあえず、この場を生き残ってからな」
「
……
はい。そのつもりです」
言いつつも、オデットは思い出す。
異端者が変じた竜を仕留めたときの、ノエに浮かんだ苦渋の表情。あれは今も、ノエの中にある。彼が表に出していないのは、単に今が緊急事態で自分の悩みに頭を抱えている場合ではないと判断したからだ。
ならば、竜との激闘が終えた後のノエは、どのようにして己の決断を迎えるのだろう。
オデットは、そんなノエに何が言えるのだろう。
「わたしは
……
兄さんを一人にするつもりはありません」
今のオデットが確かに言えること。それは、ノエの行く道の傍らに居続けるという、彼と出会ったときから定めた決意だけだった。
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