三人掛けのソファなのでそれなりに余裕はあるはずなのだけれど、兄さんたちはいつも、僕が少し身を寄せるだけで触れ合えるくらい近くに座ってくれるから、嬉しい。物理的に同時には寄りかかれない、つまり、どちらか一方しか選べなくなるのは残念だけれど。
論理的に考えるなら、二人が僕に密着してくれればそれですべて解決する。そうしてほしい、と言えば、優しい二人はきっと僕の願い通りにしてくれるだろうから。けど、それじゃお茶が飲めないし、お菓子もきっと、食べにくい。
せっかく二人が僕のためにお菓子を買ってきてくれて、その上、お茶の用意までしてくれたのだから、やむを得ない事情があるわけでもないのに出されたものに手をつけないのは、あまりにも礼義がない。
二人にくっつきたい気持ちはあるけれど。
目の前の、初めて見る形状のお菓子に興味を引かれているのも間違いなく、本当だから。
「それじゃあ、いただきます」
一言前置いて気持ちを切り替えて。紅茶にお砂糖を少し入れて飲んでから、木の幹を輪切りにして中心に穴を開けたような見た目をしているそれを手に取る。お菓子なので当然木の匂いはしなくて、甘い匂いに誘われるまま一口かじって、びっくりした。
「美味しい……!」
「でしょでしょ? 僕のお気に入りのお店が新しくバウムクーヘンを売り出してですね、まぁ信頼しかなかったんですけど、これが予想以上の大当たりだったんすよ! だから、弟さんにもぜひ食べてほしくって」
「ばうむくーへん?」
「ドイツ語で、『木のお菓子』って意味のお菓子っすよ」
僕が思っていた通りのことを言って、椎名さんがにこにこ笑う。きっと、木のお菓子が僕の舌に合っていたことを喜んでくれているのだろう。
椎名さんのこういう、いつも誰かを喜ばせようとしてくれているところが、僕は大好きだ。
だから余計に、このお菓子の美味しさを椎名さんに伝えるだけの語彙を持ち合わせていないことが、申し訳なくなる。
だからこそ、少しでも椎名さんに喜んでもらえたらいい、と思いながら二口目にかじりついて心のままに微笑むと、椎名さんも柔らかく微笑んで、僕の口元に手を伸ばした。
「なはは〜。かけらがついちゃってますよ」
そう言って、僕の唇をふにっと撫でる。
少し、どきっとした。
そのわずかな熱と感触だけで、思い出してしまったからだ。僕の身体が。
どうしよう。
「くすぐったかったっすか? ごめんなさい」
「う、ううん! ありがとう」
かけらを食べながら笑う椎名さんの目は、その軽い口調とは裏腹に吸い込まれそうなほど深い色をしていて、ずっと見ていたら本当に吸い込まれてしまいそうな気がしてしまう。
実際には吸い込まれるなんて非論理的なことはあり得ないのだけれど、それでも僕にとっては、椎名さんから意識を少しずらす理由としては充分すぎる。失礼にならないよう、お礼を言ってやり過ごそうとした瞬間。
「弟くん♪」
「わ」
腰に回った手に引き寄せられて、僕はそのまま、抱え込まれる。兄さんに。
「言っとくけどそれ買ったの、お兄ちゃんだかンな」
「そうなの?」
言われるまで、誰が買ったのかを具体的には考えていなかった。まあ、それを差し引いても、二人が買ったのだとなんとなく思っていたくらいだけれど。
「ありがとう、兄さん」
「おうよ」
僕がお礼を言うと、満足げに笑った兄さんの手が僕のお腹をゆっくり撫でて、それでまた、僕の身体の奥が思い出してしまう。
あまり、今この状況には相応しくないことを。
どうしよう。
「どうかしたのか? 一彩」
「え?」
「なァんか、ボーッとしてるように見えたからよ」
「そ、そんなことはないよ」
嘘をついたつもりはないけれど。
でも、別のことに気を取られた、という意味では兄さんの言い分に間違いはない。
だって、兄さんの手が、僕をぐずぐずに溶かそうとするから。
「……俺っちの気のせいか」
そう言って兄さんが笑う。
反対側で椎名さんが、あっ、と声を上げるとそれでもう兄さんの意識は完全に僕から逸れたから、ほっとした。これでもう、溶けずに済む。
「僕も半分出すって言ったのに珍しく聞き入れてくれなかったのって、こういうことっすか」
「おめェの仕入れてきた情報に相応の対価を支払ったンだ。正当な取引っしょ」
「つまり、僕のために二人で協力した、ということだね。ありがとう」
いつもは楽しいから黙って聞いているのに。今はそんな気分になれなくて椎名さんと兄さんの会話にあえて乗っかると、二人は顔を見合わせて、曖昧に笑う。僕の言い分にあまり同意はできていないんだろう。同意も何も、そういうことでしかないと思うのだけれど。
僕も、多分笑っていたとは思う。意味合いに関しては二人とは異なっているだろうけど。
さっきはあんなに、くっついてほしいと思っていたのに、今は少し、困ってしまう。
嬉しいに違いはないのだけれど。
せっかくのお茶の時間にこんなことを考えてしまうのは、良くない。正しくない。
……うん。バウムクーヘンを食べて、忘れよう。
と、僕がそれを口元に運んだ時だった。
手首をがっしりと……と言っても全然痛くはなかったけれど、掴まれた。
「お兄ちゃんにもひと口、わけてほしいなァ〜」
振り返った先では兄さんが、僕の返事を待たずに口を開けている。つまり状況から察するに、兄さんにとってそれはもう、決定事項なんだろう。
幼い頃、一彩にあげるよ、と兄さんが自分の分の食べ物をよく僕にわけてくれていたことを思い出す。兄さんの分を臣下の僕がもらうわけにはいかない、と何度か断ったこともあるけれど、兄さんはもうお腹がいっぱいとか苦手だから食べてほしいとか、あからさまな嘘をついては結局僕の口に放り込んでしまうので、次第に素直にもらうようになって気づいた。兄さんがわけてくれるものが全部、僕の好物ばかりだということに。
兄さんの優しさに。
だから今こうして、かつて兄さんからたくさんもらった優しさに報いる機会が得られたのは、嬉しい。
「ウム。僕が口をつけてしまったものでは悪いし、新しいものに変えようか?」
「弟くんの食いかけがいいンだよ」
「そうなの?」
「そーなの」
にこりと笑った兄さんがまた、口を開ける。まるで、親からの餌を待っている雛鳥みたいに。
その様子がなんだかかわいくて、あったかいようなくすぐったいような心地になりながら、ひと口分を割って、兄さんの口へ運んだ。
「はい、どうぞ」
「……うん。確かに美味ェな」
「ふふ」
兄さんが幸せそうに笑うと、僕まで幸せな気持ちになる。
「もうひと口、食べる?」
「おうよ」
「ウム、ちょっと待ってね」
「ちょっと待ってくださいよ!」
「わ」
もうひと口分を割ろうとしたところで肩をぐいと引き寄せられて……と言っても乱暴なところは全然なかったけれど、びっくりした僕の身体が、椎名さんに寄りかかる。
「燐音くんばっかりずるいっす!」
「ずるい?」
「そうっす。だから、僕にもわけてください、弟さん♪」
「おいおい、ニキきゅんはさっき、弟くんから恵んでもらってたろ」
「何のことっすか?」
「口元についてたやつ、食ってたじゃねェか」
「あれはノーカンっす!」
ノーカン、というのは、ノーカウント、つまり数には入らない、という意味だったろうか。そんなことをぼんやり考えながら椎名さんと兄さんのリズミカルな会話を聞いていると、兄さんに向けられていた椎名さんの尖った唇が、僕を見てふわっと溶けた。
「ってことで、お願いするっす」
「ふふ。椎名さんは甘え上手だね」
こんなにかわいらしく微笑まれたら、とてもじゃないけれど断れない。
辞退はしたとしても、拒否するつもりは最初からなかったけれど。
「はい、どうぞ」
ひと口サイズに割ったバウムクーヘンを椎名さんの口元に運ぶと。
「ん〜! 美味しいっす!」
椎名さんがとても幸せそうに笑って、僕まで幸せな気持ちになる。
「もうひと口、食べる?」
「お兄ちゃんは?」
くいっと軽く腰を引き寄せられながら、一瞬、自分が何を訊かれているのかわからなかったのだけれど。
「……ああ、そうだね。兄さんにも同じことを訊いていたよね。でも、僕は一人しかいないから、同時に食べさせるのは不可能だよ。どうしよう」
「違いますよ、弟さん。この人、甘え上手って言われた僕と張り合いたいだけっす。なんで、放っといていいっすよ」
「なるほど、そういうことだったんだ」
兄さんの考えていることが瞬時にわかるなんて、さすが兄さんと椎名さんは仲が良いだけのことはある。
つまり、僕が椎名さんにしたような評価が、兄さんもほしい、そういう意味なんだろうか。
張り合う必要なんてないように思うけれど。
「兄さんはおねだり上手だね」
思ったことをあまり深く考えずに言っただけの僕に兄さんは嬉しそうに笑ってくれたから、間違ってはいなかったようでよかった。
「どーよ、ニキくん」
「なんすかそのドヤ顔」
「……それで、僕はどうしたらいいのかな」
「何がだよ」
「何がっすか?」
二人の声が、綺麗に揃う。
「さっきも言ったけど、二人に同時に食べさせてあげることはできないよ? じゃんけんで決める?」
「同時、ねェ……簡単っしょ。なァ?」
「うんうん。簡単っすよ」
「え?」
「まァ、あれだ。弟くんもしてほしいこと、あンだろ」
「え?」
「うんうん。言ってくれればしてあげますよ」
「……何を言われてるのか、よくわからないのだけれど」
さっきまで二人で二人にしかわからない話をしていたのに、どうして急に僕の話になるんだろう。
それに、僕にはしてほしいことなんて……あ。
思い出した途端に顔が赤くなっていくのを自覚して、抑えようと思ったけれど。羞恥というものは僕の意思でどうにかなるものでもないし、隠そうにも二人に挟まれてしまっているこの状況では、僕にできることなんていくらもない。
僕にくっついた兄さんと椎名さんが、二人がかりで僕の髪やら頬やら首やらにキスするから、余計に。
「まァ、二人同時に食べさせるのは無理でもよォ」
「二人同時に食べることはできる、ってことっすよ」
「ん? 考え方によっちゃ、食べさせる、でもいいのか」
「確かにそうっすね」
「っあ」
兄さんの手がお腹を撫でて、椎名さんの指が唇を撫でる。
せっかく消えかかっていた火が、一気に燃え上がる。
恥ずかしい。
僕のはしたない感情を、二人にはとっくに見透かされていたなんて。
恥ずかしい。
恥ずかしい、けど。
こんなに燃え広がってしまったらもう、これ以上隠し通すことなんて。
我慢なんて、できそうもない。
「……あのね、兄さん。椎名さん」
「うん」
「はい」
「せっかく二人がお茶に誘ってくれたのに、こんなことを言うのは礼儀に反するし、とてもはしたないのはわかってるけど」
「うん」
「はい」
促すように頷いてくれる二人の顔を同時に見ることはできないから……と言うよりは。
「その、バウムクーヘンじゃなくて、僕を、食べてほしいよ……」
ただ恥ずかしくて居た堪れなくて、俯いたまま僕が言うと。
「上手におねだりできてえらいなァ、一彩は」
「上手に甘えられていい子っすね、一彩くん」
二人の声が同時に、僕を食べた。
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