異国の奇譚によると、小指の赤い糸と呼ばれるものは、元々足首に結ばれた赤い縄であったらしい。なんでも、現世の人々の婚姻を司る月下老人なる神が、冥界での婚姻が決まった二人の足に、絶対に切れることのない不可視のその縄を結びつけるのだという。縄で繋がれた二人は、距離や境遇を超え、必ず結ばれるのだとか、なんとか。
カルナがそんな話を聞いたのは、拉致した(特別意訳:迎えに行った)、運命の相手と信じて疑っていない恋人であるアルジュナと共に、自身の生活拠点のあるマンションへ戻ってすぐのことだった。
「恋多き、というとちょっと間違いもありそうな気はしますが、その友人曰く、いつからか小指の赤い糸に転じたものは、そういうものなのだそうです」
革張りのソファの隅に大人しく座り、きゅっと握った手を見ているアルジュナは、そう言って話を締めくくった。カルナは横目でちらりとその様子を伺ってから、「そうか」といつも通りに短く答え、続けた。
「それがどうした?」
月下老人だの、赤い糸だの。アルジュナは、そうした一種のおとぎ話的な話を頭から信じてしまうような人間ではないが、気になったことがあれば、心の隅っこに留め置くところがある。だから、友人から聞いたというその話に、何かしら思うところがあったのだ。
そう推察したカルナは、思考の過程を全て省いて尋ねてみた。聞く者が聞けば、この後に我が身に降りかかる現実を悟り、震え上がる短い問いだ。この言葉で血の気を失う者を、カルナは天青色の目で何人も見送ってきた。
けれども、アルジュナはそうではなかった。少しも怯えた様子を見せなかった彼は、ふっとカルナの方を振り向いて、猫を思わせる愛らしく大きな黒瑪瑙を瞬かせた。
「……あなたは以前、私の事を『赤縄で結ばれた相手と確信している』と言いましたね」
アルジュナはカルナに目を向けたまま、ポツリとそう言った。カルナは、そうだな、と頷いた。
「確かにそう言った。オレの運命はお前以外に考えられんからな」
続けざまに、熱っぽい声でそう答えてから、「それで」と続けた。
「それがどうした? なぜ今更、分かりきったことを訊く」
「……」
なんとなく続く言葉が分かるような気はするが、確証はない。みなまで語らせ、答え合わせをせねばならない。
尋ねてから、追い打ちをかけるように「当然の事実だろう」、そう付け加えてみる。すると、少しの間を置いてから、
「……世界には数十億と人がいるのに、よくそんなに自信満々に言えたものだな、と」
と、ほぅ……っと、ため息混じりにアルジュナが言った。どことなく呆れを含んだような、その発言がどうにも気に入らない。
カルナはじろりと鋭い視線をアルジュナに向けた。
「不服か」
言いながら、末端の部下からは短い悲鳴が上がり、ごく近しい一部の部下からは「凄むな」と指摘されるのと同じものを向けたはずだった。それでもアルジュナは、またしても震え上がることも、萎縮することもせず、これまでと変わらない様子で「そうですね」と答えた。
「不服とは言いませんが……不思議だな、とは思います」
「何故だ?」
「何故もなにも……私は未成年の学生で、あなたは裏社会の長だ。出会うことがまず有り得ないほど、住む世界が違いすぎている」
「ふむ。住む世界が違う、か……そうだな。それは違いない」
言い募るアルジュナの言葉をほんの数秒考えて、確かに否定しきれないと思い首肯する。すると、この言い分も一蹴されると思っていたのかもしれない。予想外と思われる反応に、アルジュナはぽかんと呆けたような顔をして、カルナを見つめた。
「……本当にそう思っているのなら、こう言うのも野暮かもしれませんが……互いの生きている世界に、そういう相手がいると考えるのが自然でしょう。……あなたは、この社会の裏側に生きているのですから、本来そうした世界の誰かと縁があるはずだ。あの発言を思い出すに、どうしてもそう思われてならない」
アルジュナはしばし目を丸くしていたものの、思考回路が正常に働き出すようになった後に、はっきりとした口調で、静かにそう言った。
聞いたカルナは、ふん、と一つ鼻を鳴らした。
明るい日向にいる分には、まず関わることのない人間と運命が絡んでいるなど思いたくないのか。それとも、単純にそうなった理由が分からないのか。ひょっとして、気のある者がいたが故か。
不服はないと言いながら、こんなことを言い出した理由は定かではないが、ともかく、赤縄で結ばれた関係を疑っていることだけは間違いない……となれば、自身の運命が、一体誰のものであるのか。それを分からせる必要があるだろう。
カルナはもう一度、小さく鼻を鳴らしてから、「アルジュナ、」と呼びかけた。
「どうしてお前が赤縄で結ばれた相手なのかなど、愚問もいいところだ。オレがそうと定めたから。それ以外に何がある」
じっと見つめてくるアルジュナを見返し、そう告げる。途端に、隣から感じる空気に呆れた雰囲気が混ざった。現世で生きる人間がそうと決めても無意味だ。きちんと話を聞いていたか。そう言いたい様子であることも伝わってくる。
けれどもカルナは、感じたそれらをすべて無視すると、
「オレがそうと定めた以上、絶対だ。お前を他人に譲るなどあり得ん。仮に、お前に別に定まった相手がいたというのなら、その相手を叩き潰してでもお前を手に入れるのみだ」
と、低い声で、膨大な熱量とともに言葉を吐き出した。
そうだ。他の人間など一切関係ない。何人たりとも、アルジュナの横に立つことは許されていないのだ。そうした不届き者がいるかもしれないと、気にかけるだけ無駄だ。
もしも仮に、隣を奪われる可能性の芽が出てこようものならば、必ずや引き抜き、枯れ果てさせるつもりでいる。夜闇の世界を統べるカルナが目をつけた相手に手を出そうとしているのだから、そのような目に遭ったとて、文句は言えまい。
「……そんなことで一般人にまで手を上げるんですか、あなたは」
とんでもない暴論を振りかざし、灼熱のこもった言葉を受け止めたアルジュナは、うっと顔をしかめた。カルナは「ああ」と頷いた。
「組織の掟を犯すのと同じレベルの大罪だからな。相手が誰であれ、きっちりと格の違いは知らしめておかねばならん」
カルナはきっぱりと言いきってから、アルジュナの肩に腕を回すと、思い出したように「それと、」と続けた。
「お前は先程、この赤縄は、繋がっている者の間にある距離も境遇も越える結びつきだと、自分でそう言ったな。だとしたら、オレたちの足に赤縄が結わえられていたとしても、なんら不思議はないはずだ。月下老人とやらの思し召し通り、住む世界の違いを越えて出会っただけだからな」
言いながら、ぐっと顔を近づけて、物申したげな黒瑪瑙を覗き込む。大きな黒目いっぱいに、自身の顔が映り込んだ。それ以外には映るものは何もない。そのことに、静かに気持ちが高揚する。
そう。これでいいのだ。この黒瑪瑙の中に、他の誰が入り込む余地もなく、カルナだけを見ている、これでいい。
「お前が何を思ってそんなことを言ったのか。その真意は問わんが、オレから逃げられるとは思わんことだ……まあ、逃げたところで、最後にはオレの手元に落ち着くことにはなるがな」
昂った気持ちのまま、口の端をつり上げてそう言ったカルナは、何事か反論しようとして薄く開いたアルジュナの唇に食らいついた。
おしまい
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