丹羽燐
2024-07-07 18:09:15
4172文字
Public lim(n→∞)1/n
 

留守番電話2

lim(n→∞)1/n内,留守番電話の小話
七夕に寄せて

「梓ちゃん、お会計」
「はーい」
 カウンターからの声に慌てて濡れた手を拭いた。生温い水道水がタオルに移っていく。何より吸水性が良く速乾の物、とマスターが揃えたタオルは今日も元気に水を吸っている。
「あー外暑そう」
 オーダーシート通りにレジを打っていると、レジ前の人はガラス越しの外を眺めてため息をついた。最近、といってもここ三か月ぐらい通ってくれているお客さん。美味しいミートボールのトマト煮があると聞いて、とか言っていた。安室さんが辞めてからは提供していないと告げたら残念がっていたのを覚えている。ちゃんと普段からレシピを聞いておけばよかった。
 手元のオーダーシートと齟齬がないことを確認してから、口を開く。
「コーヒーとハムサンドのセットで――円です。もう、溶けちゃいそうですよね」
「サボってポアロにいようかしら」
 憂鬱そうな声の割に楽しげに笑っている。仕事が順調だと一昨日言っていたのは本当らしい。忙しい人たちの休憩場所、それはこのお客さんにとっても同じ。こうは言いつつも、きっと元気にポアロを出ていく。
 受け取った金額をレジに打ち、釣銭を取り出す。
――さんに怒られちゃいますよ。お釣りの五十円です」
「しょうがない、もうひと頑張りするとしますか」
「午後も頑張ってください。いってらっしゃい」
「はーい、いってきます」
 灼熱の外へ出ていく人に手を振る。ありがとうございました、と普段と同じように言うのは少し違うような気がした。
 テーブルを片付けて、夕方以降のためにソースの計量をしておこう。調味料の在庫チェックもしないといけない。安室さんがいなくなり、一時の過熱さを失ったとはいえポアロなりに日々繁盛している。することがたくさんあるのは救いだ。
「やっほー、梓さん」
「こんにちは、梓さん」
「いらっしゃいませ、蘭ちゃんと園子ちゃん」
 さて、と取り掛かろうとしたところで熱気と共に聞き慣れた声がした。そういえば今週は面談で早帰りだとか言っていたっけ。夏休み前の三者面談、懐かしいけど戻りたくはない。あの何とも言えない空気が苦手だった。二人ずつだったら話しやすいのに。
「あー暑かった」
 ポアロの空調で徐々に形を取り戻す二人に、外の暑さを察した。ずっと屋外に居たら熱中症になってしまいそうな、殺人的な暑さ。梅昆布茶は熱中症対策にもいいんですよ、とか余計なことを思い出す。
 おぼんのグラスに水を、もう片方の手にメニューを。きっと今の二人に必要なのは冷たい水分と糖分と、塩分。
「はい、お冷とメニュー。アイスコーヒーもあるからね」
「はあい」
 カウンターと少しの距離からは賑やかな声が、暑いからアイスフロートとか色々聞こえてくる。たしか今日のバニラアイスは安室さんレシピのうち、さっぱりめのほうだ。まだ七月だというのに夏真っ盛りの暑さでは甘いレシピは口の中でべたついてスプーンが止まってしまうから。もちろん、ブラックコーヒーに浮かべ溶かすならそっちでもいいのだけど。
 もう少しのど越しのいい、コーヒーゼリーでも始めようかな。上に少しバニラアイスをのせて、少し溶かして食べたらきっとおいしい。
「注文いーい?」
「はーい。今行きます」
 レジ横に置いたままのオーダーシートとポケットに刺さったままのボールペン。生温いそれらを片手に三人しかいないポアロの中を早足で歩く。
 窓から差し込む日差しが肌に刺さった。後で遮光カーテンだけでも閉めておこう。
「アイスカフェオレと」
「アイスティーで」
「あら、フロートはいいの? 今日は特製バニラアイスだけど」
 仲良く続いた言葉に思わず疑問がこぼれた。さっきまで話題に上がっていたのに、と。
「あーっ、せっかく未練断ち切ったのに」
「せっかくだし、私は追加で」
 夏だからダイエットが、真さんと海に行くのに、でものせたら絶対おいしい、とか園子ちゃんの苦悩する声が続く。
 安室さんレシピだから美味しいわよ、とは言えなかった。あの味を完全に再現しているわけじゃない、そっくりの別物だから。それに、きっと言わなくても食べればわかってくれるような気がした。
……追加で」
「アイスティーアイスカフェオレが一つずつ……と、二人ともアイスクリームフロート」
 少し待っていてねの一言でテーブルから離れた。さっき帰ったお客さんのグラスを回収し、遮光カーテンだけを閉めてキッチンに戻る。平日の今日はオーダーを取った後に伝える相手はいない。すべて一人で、そう思うと少し寂しい。
 感傷を振り切るように、今朝淹れたアイスティーと水出しのアイスコーヒー、それから牛乳を冷蔵庫から取り出す。氷を数個入れたグラスが見慣れた色が染まる。尖った茶色が白に混ざって柔らかい色に。冷蔵庫と冷凍庫を順番に開け閉めしてバニラアイスを取り出した。
 ところどころにバニラビーンズの浮かぶ、それ以外はクリーム色のアイス。ディッシャーで綺麗な球を作り、二つのグラスに浮かべた。溶けないうちにと慌ててバニラアイスをしまい、グラスを運ぶ。
「お待たせしました」
「わあ、美味しそう」
 待ちきれないと言わんばかりに刺さったストローがほほえましい。暑さでくたくたになった体にきっと染みる。生き返る、なんてビールを飲むサラリーマンみたいなセリフは聞こえなかったフリをした。
「よかったら短冊にお願い事書いていってね。マスターが張り切って笹買ってきちゃったから」
 ドア横の笹を指しながら言うと、元気な返事の後に園子ちゃんのからかう声が聞こえた。園子ちゃんの頻度が高いとはいえ、お互いに言い合いながら楽し気に話す二人は見ていて飽きない。時折呆れたようなコナンくんの表情がスパイスになっていたのもあるけど。
 すっかり溶けた氷だったものを流し、グラスを食器用洗剤の泡で包む。きっと二人が飲み終わるまでに夕方の帰宅ラッシュにつかれた人たちがやって来る。それまでに片づけぐらいは済ませておきたかった。
「そういえばさ」
 椅子の動く音の後に、園子ちゃんがこちらを向いて続けた。
「梓さんって安室さんと連絡とってるの?」
……え?」
 突然向けられた矛先に驚く。二人は安室さん目当てにやってきていた他のお客さんたちよりも少し詳しい。だからわざとその話題に触れないよう距離を取っているように感じていた。なのにそう聞いてくるということは、と考えてやめた。きっと二人からすれば、聞いてもよさそうなぐらい時間が経っている。
「仲良かったし、梓さんとは連絡してそうだなーって」
「うーん。とっているような……とっていないような……
 同じ状況のマスターとはなんてことないように話せるのに、それをほかの人に話すには少し勇気がいる。返事がないのに連絡を送り続けるのは傍から見たらきっと異常だ。
 それでもきっとこの二人なら、特に蘭ちゃんならわかってくれる。
「え?」
「マスターにも私にも留守電の返事来ないから。もう、安室さんったら相変わらずなんだから」
……そっか」
 早退に長期欠勤の挙句、音信不通だったあの人は今も変わらず連絡がつかない。全く気にしていないふりが見抜かれているような返事。いたたまれずに、それが良いことか悪いことか判断する前に口を開いた。
「ね、かけてみようっか。ポアロの近況連絡もかねて」
 ボールペンとは反対側のポケットからスマホを取り出した。少し気まずそうな二人を無視するように通話履歴を開き、少し下へスクロール。あった、安室さん。
 聞き慣れてしまったコール音が十五秒流れた後に、これまた変わらない機械音声が流れる。今日はどうしよう、何も考えずにかけてしまった。近況というにも大きなイベントもない。マスターが買ってきた七夕の笹、それぐらい。
 きっと蘭ちゃんと園子ちゃんが何かを言ってすぐ時間になる、そんな気がした。
「こんにちは、梓です。今年の七夕はドアの横に笹を飾り」
 すっかり定型文になってしまった名乗りの後に、ポアロの近況を続ける。そっと置いたはずのスマホがテーブルにぶつかって音をたて、蘭ちゃんの小さな声を聞き逃した。予感、何の?
「え? 蘭ちゃん何?」
「ラブの予感」
 園子ちゃんをからかう時のような表情でようやく意味を察した。違うってば。
……違うって、安室さんとはそういう関係じゃないんだってば」
 私の必死の否定も素知らぬ顔で、二人はスマホを覗き込んでいた。真っ黒な画面に光る六つのアイコンと通話時間、それから安室透の文字。何の変哲もない画面んで見ても楽しいものは写っていない。
「恋人に電話してる時、まるで私が新一にかけているときみたい――ってことよ」
 園子ちゃんのからかうような言葉に、慌ててスマホのマイクを指で覆った。突然例えに出された蘭ちゃんが抗議していて、なんだか少し懐かしい。あの頃とは顔ぶれも大分変ってしまった。からかう園子ちゃんと顔を赤くする蘭ちゃんにコナンくん、それから安室さん。
 私がからかわれているのを安室さんに聞かれでもしたら、楽し気に何やら言ってくるのは想像に難くない。炎上するから控えてと何度言っても聞かない人だった。変なところで頑固というか、小学生みたいだというか。
「恋人って、園子ちゃんまでもう……安室さんいないのに炎上しちゃう。そもそも、マスターも時々かけてるって言ってたし」
 本当に? と疑いつつも楽し気な声は聞こえなかったフリをした。
 マスターが時々連絡しているのは本当。雇用契約とかなんとか、事務的な連絡だと言っていた。だから、本当は私から連絡を取る必要はない。
 一介の従業員で、元同僚。それ以上でもそれ以下でもない。ただ何も言わずに立ち去った人へ抗議するように、少しでも思い出してくれるようにと留守電を残している。既読すらつかないチャットアプリと一緒で何も返ってこない。自己満足にすぎないとしても、辞められなかった。
「今どこで何してるのかさっぱりわかんないけど、ポアロのこと思い出して寂しがってないかなーって。……ね、恋しくなって、私だったら走って来ちゃうかも! あれ、なんでかけたんだっけ。まあいっか、またね、安室さん」


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