桑名が東京へ行って、3ヶ月が過ぎた。桑名と離れて暫くは寂しさに押し潰されてしまうんじゃないかと思ったりもしたが、案外普通に過ごしている。慣れって怖ぇよな。もう桑名がいない日常が当たり前になった。
ひとりで登校し、クラスのやつらと駄弁って、怠い授業を受けて、部活して、帰ってきたらひとりで飯を食う。まあ、部活も1か月前に3年は引退になったけどな。
「たでーま」
なんて言っても返事はないが。働きづくめの両親はどちらも出世して、帰りはさらに遅くなった。出張で家を開ける日も多い。今日もいない。でも昔から慣れてるし、大体もう親の不在を寂しがる年齢でもない。気楽な時間を過ごせるのは、ありがたさすら感じるくらいだ。
よく考えてもみたら、親の不在を寂しいと思う時期も寂しくなかったのは……。脳裏を掠める笑顔に、思わず目を細める。込み上げそうになる感情を抑えるため思わず握りしめたビニール袋がカサリと音を立て、家へ上がるよう催促した。
「いー天気だなぁ」
勉強机から見える外の景色。クソ暑いのは分かっているが、それでも家の中で参考書とにらめっこするよりは外で走り回る方がいくらかマシな気がした。
「どっか行きてぇなぁ……」
どこかと言いながら思い浮かべるのは、高いビルに囲まれた眩しい街。そこに行けば……。
「……勉強しなきゃな」
俺は机に向き直すと、また問題を解き始めた。
参考書と向き合うこと数時間。日が高いとはいえ、もう夕方と言うにも遅い時刻なっていた。俺の腹がぐぅと鳴って飯時を知らせる。
「自分で作るのめんどくせえなぁ……」
本音をポロリと零しながら、キッチンへと足を運んだ。そこでストックされていたパスタを茹で、帰り道のコンビニで買ったミートソースを温めてかける。
「いただきます」
手を合わせて口へと運ぶ。美味いけど、もうちっと肉が入ってたらなぁ……。モヤモヤした感情に対して、脳内で声が響く。
『お野菜も食べないと栄養が偏っちゃうよ』
「いーんだよ、別に。明日食うよ」
湧き上がる感情を押し込むように、パスタを頬張った。そして横目でスマホを見る。
「小言で……かまわねえのになぁ……」
はぁ……。溜め息をひとつ吐くと、そのまま無言で夕飯を完食した。
「……勉強すっか」
胸のつかえを見て見ぬふりをするため、俺は再度勉強机に向かった。
桑名が東京へ行って暫くはマメに連絡が来た。と言っても、ちゃんと食ってるかとか、朝起きれてるかとかそんなのばっかりだったけど。
『お前は俺のカーチャンか』
なんてメッセージを何通送ったか分からない。むしろ心配なのは桑名の方だろう。慣れない生活で大変だろうに、相も変わらず俺の世話ばっかり焼きやがって。
『そんなに俺のことが心配なのかよ』と送れば、即『心配だよ!』と返ってくる。
『そんな毎日心配になるくらい愛されてて嬉しいよ』なんてキザったらしいことを送れば、スマホは電子音を響かせる。
「もしもし。どした?」
『豊前が……あんなこと言うから……』
おずおずとした声が聞こえる。その声音で、照れてるんだって手に取るように分かっちまうんだよな。ニヤける顔のまま、俺は電話を続ける。
「あんなことって?」
『言わせるの?』
「桑名の口から聞きてえの」
ええぇ……と困惑の声が聞こえたが、俺はひたすらに待った。桑名の言葉を。
『……愛されてて嬉しいって……』
好きなやつの声で聞く「愛」って言葉の破壊力ってすげえな。俺が送った文章を読み上げているだけなのにさ。俺は、弾む気持ちを隠して会話を続ける。
「本当のことだろ?」
『当たり前でしょ!』
やけくそ気味な声が耳を劈く。きっと桑名は電話の向こうで顔を真っ赤にしているんだろうなぁ。そう思うとクツクツと笑う声が止まらない。電話の向こうでは、なんなんもう……、と照れ隠しなのか呆れているのかわからない声が聴こえる。
ああ、顔が見てえなぁ……。ふと湧き上がる感情に、寂しさが襲った。
顔が見れない、触れない、匂いも感じない。声だけ聞こえる現実に、簡単には会えない距離にいるんだと実感してしまう。でも絶対に言えない。「寂しい」なんて。言ってはいけない。だから俺は代わりに伝えるんだ。
「桑名」
『なぁに?』
「愛してんよ!」
冗談っぽく、でも本気だって伝わるように。俺の複雑な感情を受け取った桑名が、それに応える。
『……僕も。愛してるよ』
愛って言葉はすげえな。嬉しいも幸せも寂しいも全部ひっくるめて相手に伝えてくれるんだからさ。だから、今はこれでいい。こうして言葉だけでも繋がれるのなら。
こうやってスマホ越しの声や文字で励まし合いながら、俺たちは距離の壁を克服しようと必死だった。
けれどそんな甘ったるい時間も、今では途切れがちになった。
慣れない履修登録に始まり、大学1年はびっしり授業が詰まり、その合間でバイト。
『一般的な大学生の生活が、こんなに大変だと思わなかった』
なんて、桑名が珍しく弱音を吐いていたりもした。それでも無理して連絡を寄越すものだから、無理しなくてもいいことを伝えた。ついでに連絡出来ないことに桑名が引け目を感じないよう「俺も受験勉強があるしな!」って理由も付け加えて。
その翌日から、桑名からの連絡は目に見えて減ってしまった。
俺はガキの頃から暮らした家で寝起きし、同じ道を通って高校へ通い、変わらぬ仲間と喋って、誰かに守られた世界で暮らしている。
でも桑名は違うんだ。見知らぬ土地で寝起きし、自らの生活のアレコレをこなし、バイトも始め、興味のある勉強をして、新しい人間関係の中で暮らしている。刺激がいっぱいの日常を精一杯過ごしているんだろう。俺への連絡が二の次になるくらいに。
そんなことが分かっていなかった俺は殊勝なことを言っておきながらも、桑名の連絡がここまで途切れがちになるとは想像していなかった。
スマホは何日も連続で、好きな人の声も言葉も伝えない。通知音が聞こえる度に期待して、名前を見て落胆して。その繰り返しの日々が悲しかった。
パキッと小さな音を立て、シャープペンシルの芯が折れた。
「あー! クソ……」
俺は参考書にそれを放り投げる。夕飯後から1ページとして進んではいない。
全然集中できねえ。桑名のことばっかり考えちまう。何が、桑名のいない生活に慣れた、だ。全然慣れねえよ。
俺は窓から隣家を見る。十数年間灯りが点いていた部屋は真っ暗で、主人の不在を知らせている。
「なんでいねえんだよ……」
手を伸ばしたスマホが、今日の日付を表示する。それだけで乾いた笑いが零れた。
7月7日。七夕だ。
「今日はさ、遠く離れて会えないふたりが、年に1回会える日だろうが」
短冊に書いた願いは、あの高い空へ届いているんだろうか。『志望校合格』の言葉に込めた想い。それは――。
「桑名に……会いてえなぁ……」
生活の何もかもが変わった桑名と違い、俺の日常の中で唯一変わったのは、桑名がいなくなったことだ。その事実はあまりにでかい。東京行きの後押しをしたあの日を恨みたくなる瞬間も山ほどある。
会いたい、会いたい、会いたい。
桑名に会って、温かい体温に触れたい。キスして、いっぱい好きだって伝えたい。
でも出来ない。こんなに会いたいのに、会いに行く術すらない自らの幼さが悔しい。会いたくなったら「ちっと行ってくる」って言うだけで会いに行ける大人に今すぐなりたかった。
同級生に生まれていたら、こんな思いしなかったのか? 置いていかれるだけの寂しさは感じずに、ただただ純粋に桑名を好きなだけでいられたのか? ガキの時も、今も。たった1歳しか離れていないのに、その差が果てしなく大きい。いくら手を伸ばしても届かない気がする。夜空に輝く星みたいに、桑名が手が届かないほど遥か遠くにいるように感じた。
パタパタと参考書が小さな音を立てて濡れる。でも桑名と想いが通じあったあの日みたいに泣いても、抱きしめてくれるアイツはいない。ゴシゴシと乱暴に目を擦って、はぁ、と大きく息を吐き出した。
ガラリと音を立てて窓を開けると夜空を見上げる。この時期にしては珍しく晴れた夜空。織姫と彦星はカササギの橋を渡って会えたのだろうか。
遠く離れていても見上げたら見える夏の大三角。桑名も見上げていたらいい。会えないのなら、せめて同じものを見るくらいは許してくれてもいいいだろ。
そんな淡い期待を込めて、夜空を流れる星の河を見つめた。
「……勉強すっか」
気持ちが落ち着いたので、また参考書と向き合う。泣き言を言っていても仕方ない。少しでも桑名のいる場所へ近づけるよう、やれることはやるしかない。そう思ってシャープペンシルを持った瞬間だった。
スマホが電子音を響かせる。誰だろ。持ち上げた端末に表示された名前に、俺は慌ててロックを解除した。
「もしもし!?」
『わっ! ……び、びっくりしたぁ』
のんびりした声は、会いたいと願った人のもので。
「びっくりしたのはコッチだっつーの! いきなり連絡よこして……」
込み上げる感情が、言葉を塞ぐ。声が聞けた。それだけで心が満たされていく。離れたばかりの頃は物足りないと思っていたのに、今では声すら貴重だ。
桑名が、あのさ……と切り出すので、電話口に耳を澄ます。
『今夜は家にいる?』
「いるけど……何で?」
家にいるからって、何なんだろう? 話が見えなくて俺は首を傾げた。
『10時くらいかな。駅に着くから』
「駅?」
『うん。今そっちに向かってる』
「は?」
唐突な話に言葉の意味をつかめずにいると、桑名の柔らかな声が耳に届く。
『今日は年に一度。離れ離れの恋人が会える日でしょう? そう思って星空を見ていたら、どうしても豊前に会いたくなって。気がついたら電車に乗ってた』
――桑名に会いたい。
そう願っていた俺と同じように、桑名も俺に会いたいと思っていた。それだけでも胸がいっぱいなのに、桑名に会える? 夢でも見てんのか? 思わず言葉を失う。
心配そうに俺を呼ぶ声が聞こえるけど、頭ん中が追いつかなくて声が出ない。
『あ、勉強が忙しい……かな。無理だったら適当に実家寄って帰るから……』
「家で……待ってりゃいーの?」
やっと言葉を発したら、桑名が安心したように息を吐いた。
『うん。時間も遅いし、お家で待ってて』
「待ってたら来んの?」
『うん。会いに行くよ』
「マジで?」
最近は言葉のやり取りすら少なかったのに、いきなり会えることが信じられなくて、何度も確認してしまう。
『なんでそんな信用ないの』
「だって、最近まともに連絡よこさねーし……!」
躊躇いがちに笑う桑名にそう返せば、桑名はあっけらかんと言葉を返した。
『え、だって豊前の受験勉強の邪魔するわけにいかないでしょ?』
「は?」
『豊前言ってたでしょ? 受験勉強もあるから、頻繁に連絡しなくていいって』
なんだよ。俺のためかよ。お前に気を使わせねーようにと思って付け足した建前を本気にしやがって。
「それは、お前が忙しそうだったから。俺も忙しいっつーことにしたら、疲れてる日に無理しなくて済むかと思って言っただけだよ」
『僕の……ためだったの?』
「そーだよ」
俺の返事に、桑名はあの柔らかい声で、なぁんだ、と答えた。
『そんなの気にしなくてよかったのに。僕は疲れている日ほど豊前と連絡を取り合いたいんだから。心の栄養補給だよ。とりあえず、今まだ電車だから。また後でね』
「え……ちょ、待っ……!」
プツリ。電話は一方的に切れてしまった。
「マジかよ……」
俺は液晶画面に表示された時刻を見る。あと2時間くれえか。
「よーっしゃ。ちっと勉強頑張るか!」
さっきまでが嘘のように、参考書の上をシャープペンシルがすらすらと走る。俺は自分の単純さに呆れつつ、桑名が来るまでの時間を勉強に費やした。
10時を少し回った頃、家のインターホンが鳴る。ガチャリと玄関を開けると、桑名が立っていた。
「本物……?」
「僕の影武者がいてもメリットなくない?」
あははと笑いながら、玄関をくぐった桑名の背に手を回す。その瞬間、パタリとドアが閉まり、ここは俺たちだけの空間になった。
少し高めの体温、鼻をくすぐる匂い、心臓の音。いつでも俺を落ち着けてきたそれらが、今日は俺の涙腺を緩める。
「おけーり」
涙声で伝えると、桑名の腕が俺を抱き締め返した。
「ただいま」
そう返す桑名の声も震えていた。
暫くの間、俺らは言葉も交わさず互いの体温を感じ続けた。
互いの感情が落ち着いたら、俺の部屋へ通す。ローテーブルに着くと桑名が部屋の中を見回した。
「わぁ。豊前の部屋、久しぶりだぁ」
「何もねえけどな」
桑名は勉強机の上に広げられた参考書を見つける。
「勉強中だった?」
「もう終わった」
見ろよ! とやったページをパラパラと捲って見せる。
「電話の後、ずっと頑張ってたからな!」
「頑張ったねぇ。でもココとココ、間違ってる」
「マジか」
俺が慌てて解き直し始めると、桑名が解き方を教えてくれた。
「すげえ……。簡単に解けた」
「でしょ」
すっげーを連呼しながら、教えてもらった問題を眺めていると桑名の視線を感じる。そちらを向くと、桑名が覗き込むようにして尋ねてきた。
「受験、どうするの? 志望校決めた?」
頭をよぎる、D判定の模試。でもそこ以外行く気もない。俺は正直に話し始めた。
「あー……桑名と同じとこ行く……」
「は!?」
秒で返ってきた驚きの声に、耳と胸が痛い。学力的に厳しいのは桑名も理解しているっぽい。
「大学はいっぱいあるよ。豊前の学力に合った大学でも……」
「いや、一緒がいい。それは譲れねえ」
高校が違っただけでも、いくらかの後悔があったんだ。俺の目指す学部なら桑名と同じキャンパスだし、一緒に昼飯食うくらい出来るかも。そんな淡い希望くらい叶えたい。
俺の真っ直ぐな意思に、桑名は覚悟を感じ取ってくれたようだ。
「わかった。で、模試の判定は?」
「……D」
桑名の大きな溜め息が聞こえる。恋人同士の甘い時間は、一気に重苦しい空気に変わった。
「猛勉強するしかないよ……」
「わーってる……」
「今日は会ってる場合じゃなかったね……」
そう言うと、桑名は頭を抱えてしまった。ヤバいほどに気まずい……。でも一言だけ言わせて欲しい。
「今日さ、桑名のことを考えてたら全然集中出来なかったんだよ。でも桑名に会えるって分かった後は、すっげえ捗った。だったらこうして会えた方が全然いい。連絡だってくれた方が頑張れっから……だから……」
そこまで言うと感情が込み上げてしまい、言葉に詰まる。
だめだな、俺。桑名のことになるとすっげえ泣き虫だわ。だっせえなぁ。
そんな俺を桑名が心配そうに覗き込む。ああ、そうか。伝えなくちゃな。つまり、俺が言いたいことは……。
「もっといっぱい会いてえ……」
「豊前……」
桑名の手が伸びてきて、ふっと体温に包まれる。後頭部に当てられた手が、俺の顔を桑名の肩に埋めさせた。
「ごめんね、寂しい思いをさせてばかりで」
俺が首を横に振ると、桑名の手が後頭部を撫でる。
「僕ね、本音を言うと、ちょっと自信がなくなってたんだ。豊前は格好いいし、誰にでも好かれるから。受験勉強があるって言葉に嘘はないって信じてはいたけど、でも心のどこかでほんの少し疑ってて。僕からの連絡がうざったくなっちゃったかな、とか、他にいい人を見つけちゃったりしたのかな、とか。だったら僕は、君の人生の邪魔にならないようにしたほうがいいなって思ったりなんかして」
桑名は大きく息を吸うと、もう一度抱きしめ直した。
「自分で決めたことなのに、距離が離れるだけでこんなに不安になるなんて分かってなかった。そんな身勝手な不安に振り回されて、豊前へ更に寂しい思いをさせてごめん。夏休みもバイトがあるけど、何とかお休みをたくさん取って帰ってくるよ。だから待ってて」
桑名が優しい声で伝える提案。俺はその案に対して、首を横に振った。
「ダメ……なの?」
「んな不安そうな顔すんなよ。会わねーって意味じゃねえから」
「え?」
「待ってるのは性に合わねえんだよ。だから夏休みは俺がお前ん家に泊まる。ダメか?」
実はずっと考えてたんだよな。夏休みくらいなら桑名のところに行けんじゃねーかって。でも連絡来ねえし言い出せなかった。でももう泣いてばかりはいやだ。
「い、いいけど……。でも講義やバイトで家にいない時間もいっぱいあるよ?」
「それでもいい。その時間はお前ん家で勉強して待ってるわ」
俺の返事に桑名は顎に手を当てて、うーんと考える仕草を見せた。やっぱりダメとでも言われるんだろうか。心の奥でジクジクと不安が疼く。
「じゃあ、こうするのは? 僕の家から無理なく通える場所で夏期講習をしてるところ、見つけておくよ。で、僕は豊前が夏期講習へ通ってる時間にバイトする。そしたらいっぱい一緒にいられるよ」
あまりの機転に思わず笑う。あの一瞬の間にそこまで考えつくとは。
「よく瞬時にそんなところまで思いつくな」
「我ながらそう思うよ。でも親に言い訳もたつし、成績上がるし、一石二鳥でいいよね」
「いや、一石三鳥だな。だって、桑名に毎日会えるだろ?」
「そうだねぇ」
夏休みの間、ずっと会えるかもしれない。今日まで抱えてきた重苦しい感情は消え去り、心の中は今夜の星空のようにキラキラと輝き始めた。
勉強中に開けた窓から涼しい風が入り込む。俺と桑名がそちらを見れば、一等星が3つ、天の川に輝いていた。
「織姫と彦星は、一年に一度しか会えなくて寂しくないのかな」
「どうだろうな」
「僕は、豊前のいない毎日が寂しいよ」
星空を見上げていた桑名が、こちらに向き直る。
「ちゃんと来てよ、東京に」
「おう。夏休みずっといられるように、まずは親の説得すっから……」
「そっちじゃなくて、進学のこと」
進学すれば少なくとも3年は一緒にいられる時間が作れる。夏休みの比じゃない長い時間だ。桑名も俺といる時間が欲しいなら、必死にならない理由はないよな。
「ん。合格するために頑張るわ」
「うん。応援してる。……豊前が東京で暮らしてもいいように、無駄に広い部屋を借りたんだから」
ポソリと呟いた言葉に思わず反応する。俺が東京で暮らす? 広い部屋?
「今何つった?」
「ん? 豊前のこと、信じて待ってるねって言った」
桑名は小首を傾げて笑みを浮かべた。それは桑名が誤魔化すときの癖だ。長い付き合いだ。流石にこのくらい見抜けるぞ。
「嘘だ。部屋がなんとか言ってたろ」
「聞こえてたならもう一度言わなくていいでしょ」
「やだ。ちゃんと話せ」
桑名はえぇ……と困惑の声を上げると、俺に向き直る。
「豊前が東京へ来たら、一緒に住もうね」
俺はニィッと口角を上げ、拳を突き出した。
「うん。おお、待ってろ。ぜってー大金星挙げてやんよ」
「その為にも、夏休みに僕のところに来たら勉強合宿だよ。夏期講習以外にも、僕が教えるから勉強するよ」
あまりの夢の無さにあからさまに嫌な顔を浮かべちまう。そうしたら桑名が口を尖らせた。こりゃ逃げらんねーな……。
「桑名サン、毎日頑張ったご褒美はもらえるんでしょうか」
「何が欲しいの?」
「うーん……桑名、かな」
熱を帯びた瞳で見つめれば、桑名は呆れたように溜め息を吐いた。
「そんなのご褒美にならないでしょ」
「なんで」
「豊前と一緒にいるのに、僕が我慢できるわけないやん」
頬を赤らめ、拗ねたように言う桑名の顔はなかなかレアだ。俺は嬉しくて桑名を覗き込む。
「マジ?」
「マジです。だから、そういうことができる時間を作るためにも、日中は勉強に集中して頑張ってよ」
「おう! すっげえ頑張る!」
「約束だよ」
ふたり顔を見合わせて笑い合う。そしてそうっと唇を重ね合わせた。少しずつ深くなっていくキスと共に俺はゆっくり押し倒されていく。久しぶりの桑名の体温は、会えない時間の寂しさを蒸発させるほど熱かった。
翌朝、早朝だというのに眩しい朝日を浴びながら駅までの道を手を繋いで歩く。桑名のデカくて太い指に俺の細っこい指を絡ませて、点滅信号を幾つもこえた。その間でもすれ違う人は僅かだ。俺らが手を繋いで歩ける時間もあるんだなぁ……なんて新しい発見に心が踊った。
なんでこんな時間に駅まで来たかといえば、勿論桑名の見送りだ。始発で帰らなくちゃ授業に間に合わないらしい。
「桑名らしくねえな」
駅構内のベンチで隣同士で座る桑名に話しかけた。
「何が」
「こんな考え無しで行動するなんてさ」
桑名は持っていた缶のカフェラテを流し込む。そして一呼吸おいて口を開いた。
「そのくらい会いたくておかしくなりそうだったんだよ」
「マジか」
桑名の本音に、嬉しくてつい頬が緩む。すると桑名は俺の方へと向き直った。
「豊前には僕がいないとダメだって思っていたけど、本当は僕に豊前がいないとダメなんだって思い知った」
桑名の手が頬に当てられ、そのまま唇が重なる。
軽い口付けの後、桑名は泣きそうな顔で微笑んだ。
「信じて待ってるから。夏休みも、来年も、豊前と一緒にいられるって。出来ることならその先のずうっと長い時間も」
予想だにしない言葉。驚きすぎたあまり、うまく飲み込めなくて思わず笑いが込み上げてしまった。
「はは……プロポーズだ……」
「うん。受けてくれる?」
前髪の奥で見つめる瞳は真剣さと不安を孕んでいた。俺も体ごと桑名へと向き直り、視線を絡ませる。
「勿論だ」
どちらともなく顔を近づけ、そうっと唇を重ねる。朝日を浴びながらの丁寧なキスは、まるで将来を約束するための誓いのキスだった。
『合格!』
そんな言葉と一緒にピースサインをした自撮りを送ったのは、この日から8ヶ月後のことになる。
――これが俺たちの歩んだ長い長い恋愛の序章だ。
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