桐子
2024-07-06 19:47:03
3331文字
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地獄の底で待っている⑧(父水♀)



1週間ほどねこ娘の厚意に甘えていたが、さすがにいつまでもここにいるわけにはいかない。体の傷も癒えてきたので、そろそろ自分の家へ帰りたい。そう告げると、鬼太郎は心配そうな目で水木を見た。
「そうですか……。でも、まだ無理しない方がいいですよ」
「大丈夫だよ」
安心させるために笑ってみせたが、鬼太郎は渋い顔のままだ。だが、何を言っても水木の決めたことを覆すことはできないと思ったのか、鬼太郎はため息をついた。
「わかりました。そこまで送っていきます」
水木はねこ娘が買ってきてくれたシャツと黒いズボンを身につけた。もともと着ていた服は、鬼太郎がゲゲ郎を止めようと取っ組み合いになった時に破れてしまったらしく、ボロ布のようになっていたので、処分してしまったのだという。服どころか、あの家そのものが半壊してしまい、今は大工仕事が得意な妖怪仲間たちが直してくれている最中らしい。自分のせいで仲のよい親子が争うことになってしまったことに胸を痛めながら、水木は鬼太郎とともに外に出た。寝たきりだったせいで体はまだ本調子ではないが、外の空気を吸ってだいぶ気分がよくなってきた。ゲゲゲの森は濃い妖力に満ち、草も木も生き生きとしている。水木の住む人間の世界よりもずっと澄んだ空気が心地よい。
「水木さん、こっちです」
鬼太郎は水木の少し前を歩いて道案内をしてくれた。しばらく歩くと、見慣れた神社の裏手に出た。人の世界と妖怪の世界の境目にあたる場所だ。
蝉時雨が降り注ぐ神社の境内では、陽炎がゆらめいている。夏の日差しが肌を焼いた。
「水木さん」
蝉の声にかき消されてしまいそうな小さな声で、鬼太郎が呼んだ。彼は大きな目を不安げに揺らしながら、水木を見上げている。
「父さんのこと、許してくれとは言いません。でも、父さんも……水木さんが死んだことがつらくて、悲しくて、寂しくて……
そう言いながら、鬼太郎はうつむいた。ゲゲ郎は鬼太郎にとってこの世でただ一人の肉親なのだ。父親のしたことは決して許されないことだと知りながら、それでも見捨てられないのだろう。優しい子だ、と水木は嬉しくなった。そしてこの優しさは本来、ゲゲ郎から受け継がれたものだった。あの優しい男が狂うほどに執着したのが他ならぬ自分だというのが、未だに信じられなかった。
「分かってるよ」
……すみません」
「謝らないでくれ。お前のせいじゃない」
水木は昔と同じように、鬼太郎の頭をくしゃっと撫でた。おずおずとこちらを見上げる鬼太郎の顔は、ゲゲ郎によく似ていた。
「世話になったな。ねこ娘さんによろしく伝えておいてくれ」
「何かあった時のために、烏をそばに置いておきます。用事があればこの子に言ってください」
鬼太郎は木の枝に止まった烏を一羽指差した。
「ありがとう。じゃあな」
「はい」
鬼太郎は笑顔を見せて答えたが、その瞳にはやはり不安の色が浮かんでいる。
「水木さん、どうか気をつけて」
「ああ」
水木は軽く手を振った。鬼太郎は何度も振り返りながらも、やがて見えなくなった。





太陽が照りつけるアスファルトの上を少し歩いただけで汗が噴き出した。鞄もスマホも服と共に駄目になってしまったので、とりあえず家へ向かって歩き続けているとようやくマンションが見えてきた。大家さんに話して鍵を開けてもらえるものかと思案していると、エントランスに見慣れた人影がたたずんでいる。
……水木さん!」
婚約者は、水木を見つけた瞬間、泣きそうな顔をして抱きついてきた。
「よかった、無事で……!!」
彼は震えていた。こんなに心配をかけて、彼に何と詫びればいいのか分からなかった。
「悪かった、心配かけて」
まだ傷も治っていないのだろう。片腕はまだ三角巾で吊られている。彼は水木の顔をのぞきこみ、無事を確かめると、今度はやや怒った口調で叱りつけた。
「本当に心配したんですよ!2週間も連絡が取れなくて……会社を飛び出した時も変だったし。何があったんですか?」
水木は言葉に詰まった。
とても言えない。前世で出会った幽霊族の男に犯されて、その傷を癒やすために妖怪たちの住む森で療養していたなどと、いくら彼でも信じてくれないだろう。どうしようかと迷っていると、彼は水木の様子に異変を感じたのか、ふいに真顔になった。
「もしかして、何か事件に巻き込まれたんですか?」
「いや、そういうわけじゃ……
どう誤魔化すか考えていると、彼は小さくため息をついた。
「いいです。水木さんが言いたくないのなら。……でも、本当に気が気じゃなかった。母も、水木さんのご両親も、みんな心配したんですからね」
娘が音信不通になり、両親はさぞ心配したことだろう。
年老いた水木の両親、特に母親はこの結婚を楽しみにしてくれていた。幼い頃から男のように振る舞う娘を見て、結婚も孫の顔を見ることも諦めていた様子だから、喜びもひとしおなのだ。
皆が彼との結婚を祝福してくれている。彼といっしょになれば、穏やかで幸せな日々が待っている。

彼と子どもと、3人で――――まるで前世のように。

水木は、はっと息を飲んだ。今、自分が思い浮かべた幸せな日々というのは、水木と鬼太郎とゲゲ郎の3人で暮らしていたかつてのことだ。
……水木さん?」
まじまじと婚約者の顔を見つめる。ひょろりと背が高く色白で、髪は色素が薄くやや長い。気弱で頼りないところもあるが、優しい男――――そうだ、彼はゲゲ郎に似ているのだ。だからこそ、水木は彼と一緒になりたいと思った。彼と共に、またあの頃のように幸せに暮らしたいと思ったから。それはなんて、罪深いことなのだろうか。
喉の奥からぐっとこみ上げてくるものがあって、口を手で押さえると、彼は驚いたように目を丸くする。
「大丈夫ですか?」
水木は首を横に振った。ああ、だめだ。とうとう堪えきれなくなって、水木は笑い出した。
「っはは、なんだ……そういうことか……く、ふ、はははは……
婚約者は急に笑い出した水木を見て戸惑いの表情を浮かべた。いや、戸惑いというよりは怯えている。ひとしきり笑うと、水木は腕を突っぱねて婚約者の胸を押し返した。
「すまん、俺はお前とは結婚できない」
「なっ」
彼はひどく傷つき、困惑した顔をした。だが、すぐに怒りの表情に変わる。
「どうしてですか!?」
「どうしてもだ」
「理由を教えてください。納得できるような説明ができないのであれば、僕だって引き下がれません」
それもそうだろう。2週間も行方不明になった挙げ句、急に現れて結婚できないでは、彼も納得できないだろう。
「好きな男がいたんだ。ずっと前から好きだった。お前はそいつに似てるんだ……だから、結婚してもいいかと思った」
「え……
婚約者は絶句した。
「そんな……僕は……あなたを、愛してるのに」
「俺は愛してない。悪いな、お前ならもっといい人が見つかるよ」
水木は淡々と告げ、踵を返そうとした。しかし、腕を掴まれて引き止められる。
「待ってください!」
男は、必死な形相をして水木を抱きしめてきた。
「僕はあなたじゃなきゃ駄目なんです!」
顎を掴まれ、顔を近づけられた。キスされるのだなと冷静に思った水木は、唇が重なる寸前で囁くように言った。
「この2週間、俺が何をしてきたのか本当のことを教えてやるよ」
ぴたりと男の動きが止まる。水木は淡々と言った。
「男に抱かれてたんだ。キスして、身体中触られて、舐め回されて、何度も何度もイかされた。もう嫌だって泣いても許してもらえなくて、中出しまでされたよ」
話しているうちに、男の顔がみるみる歪んでいった。彼は水木を解放し、その場にくずおれてしまった。ここまで言えば、さすがに諦めてくれるだろう。

「もう俺に関わるな。二度と会うこともないと思うけど、もし万が一どこかで見かけても、話しかけたりしないでくれ」

彼はこんな自分を好きになってくれた。その彼を、こうして傷つけてしまったことは本当に申し訳なく思う。きっと自分は地獄に落ちるだろう。
「じゃあな」
水木は振り返らずにその場を去った。