千代里
2024-07-04 13:05:20
11096文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その24


「明日ごろには街を出ようと思うんだが、どうだろうか。例のミラベル司祭を追いかけるにしても、占星台に向かうにしても、ここにこれ以上滞在している理由はないからね」
ドラゴン族の接近から、五日ほど過ぎたころ。いつものように六人が宿の食堂で揃って昼ごはんを食べている時、ヤルマルは皆にそう提案した。
街の不穏当な空気が気になる上に、まだドラゴン族が近くを闊歩しているかもしれないからという理由もあって、ノエたちは当初予定していた出立を先延ばししていた。
街に現れた魔物たちへの対応に奔走される父の存在を、ノエが完全に無視することはできまい。そのような感情的な部分を斟酌していたので、皆も無理に出発しようとは言わなかった。
しかし、五日も過ぎれば、徐々に街も平素の空気を取り戻していた。たとえ仮初の平穏であったとしても、時が経つうちに仮初は現実を上書きしていくだろう。
魔物が出没した前例はなかったとしても、この手の襲来はイシュガルドに住まう人々にとってよくある話だ。塞ぎ込んでいた孤児たちも、近頃はすっかりいつものように外遊びに興じている。人々の疑念と不和の声はまだ残っているが、これも時間がいずれ解決してくれるはずだ。
ならば、もうノエたちがここに留まっている理由はない。
「ヤルマルさんの言うとおりですね。では、明日の朝にはこの街を出発しましょう」
「それで、次はどこに行くつもりなんだ?」
オランローの問いかけに、ノエはこの数日の間に打ち出していた方針を口にする。
「ひとまずは、グレンさんやコーディさんが言っていた司祭を探しに、西にあるというニヴェール領の街に行こうと思います。幸い、通行証はありますから」
そう言って、ノエは複雑な感情を押し殺した微笑と共に、自分の左手の親指にはまっている指輪を皆に見せた。

***

「何だか、知らず知らずのうちに、すっかりこの街に居着いてる気分になってしまっていましたね」
「僕もオデットと同じだよ。本当は、父さんに会ったらすぐにでも出発するつもりだったんだけどな」
明日の出発に向けて、改めて装備の修理道具などを買い求めるために、ノエは街の商業区に足を向けていた。
オデットに語ったように、ノエは父との面会が済めば、情報収集を終えた段階ですぐに旅立つつもりでいた。だが、プリシラとの対談や竜の来襲もあって、すっかり出立が後回しになってしまっていた。その間に、短いながらも濃い時間を過ごした街にどことなく愛着も湧いていた。
「この街は、皇都よりも過ごしやすいとわたしは思います。気温もそうですが、街の人たちとも話しやすいですし、何だか気持ちが落ち着くんです」
「皇都は、貴族の方々向けの区画で過ごしていたからね。僕も気詰まりに感じることはあったよ」
一方、この街は富裕層が暮らす特別な区画などはない。その代わり、人々が思い思いの形で日々を生きている。ドラゴン族の気配を吹き飛ばすように、今日も商業区では客の呼び込みが飛び交っていた。
その中の一つに引き込まれるようにして、ノエは寒さに負けず軒先に店を出している人の元に向かう。
「ヤルマルさんたちは、ご飯を買ってきてくれるって話でしたよね。兄さんは何を買う予定なんですか?」
「武具の手入れに使う道具だよ。でも、この店はクリスタルも扱っているみたいだね。照明用のクリスタルも、ついでに買っておこうかな……
ノエが口元に手を当て、思案する。その様子をオデットは静かに見守っていたが、あることに気がついてノエの上着の裾を引いた。
「オデット?」
「兄さん。あちらに、なんだか人だかりができています」
道の端から広がってくる、常の雑踏とは異なるざわめき。息を潜めようとしているのに潜めきれず、お互いに顔を見合わせて何やら言葉を交わし合ってしまうかのような、言葉にし難い気配が、緩やかに周りを包んでいく。
とはいえ、忌避や嫌悪の感情は伝わってこない。たとえるなら、それはーー。
「おや、領主様が来ていらっしゃるみたいだね。そういえば、隣の区には顔を出しておられるという話だったから、そろそろこの辺りにも来てくださるのではないかと思っていたとこだろだったか」
「領主様が……?」
店先にいたエレゼン族の男性の説明によって、このざわめきの原因は判明した。
彼の言葉に、ノエは思わず人のざわめきの方に視線を向ける。距離があるうえに、多くの人が詰めかけているせいで、肝心の領主の姿は見えない。
領主が乗っていると思しき小型のチョコボ車は遠目にも見えるものの、それも集まってきた人々の壁がほとんど隠してしまっていた。
「普段から、あんなにも人が集まるものなのですか」
「あんたたち、旅人かい? この街じゃ、領主様は人気があるからねえ。顔を出せばそれなりに人は集まるものだが、今回は状況が状況だ。復興のために手配はしてくれてるって知っていても、直に声を聞きたいって人もいるんじゃないか」
俺も見に行こうと、店先にいた男はいそいそと人だかりに向かっていく。
魔物によって壊された家々は、領主が石工や木材を扱う商人と交渉を行い、少しずつ復興が進んでいるとアランから聞いていた。
人々の不安は依然として残っているが、幸いにも街の人同士で衝突するという最悪の状況は回避できている。かといって、人々が嘗てと変わらない生活をしているか、と言えばそう簡単にはいかない。人だかりから漂う落ち着きのない空気こそが、この街の現状を示していた。
「兄さん、どうしますか」
オデットの質問に、ノエは思わず掌を拳の形にして握りしめてしまっていた。
外でベルナールと出会っても、父と息子の関係で話すことができるわけではない。そもそも、そのような話をしたいとも思っていない。
では、このまま何も知らない顔をして、やり過ごすのか。それも、何か違うと思う。
父が今まさに、民衆の不安を一身に浴びてそこに立っているのに。自分のすることは、父から目をそらすことなのか。
……少しだけ、様子を見てこようと思う」
「はい。では、わたしは兄さんのそばにいますね。わたし、兄さんのお父様を近くで見るの、初めてです」
「ああ、そうか。オデットは、父さんに会ったことがないんだったね」
ノエが気負わないようにと思ってか、オデットは気楽な調子でノエの手をとった。
自分よりも幼いはずの少女の方が、よりしっかりと地に足をつけて立っている。記憶を持たずに狼狽えるばかりだった頃を思えば、随分と頼もしいが、その分自分もしっかりしなければとノエは唇を引き結んだ。
はぐれないようにオデットの手を引き、ノエは父を囲む人垣のもっとも外周部分にあたる場所に辿り着いた。
予想していたように、群衆の向こうにはラペイレットの家紋を掲げた車両が停められていた。車両のすぐそばには壊れた家屋があり、数名の騎士の姿もみえる。差し詰め、魔物が出没した場所の現場検証と慰問を兼ねて、といったところか。
「ベルナール様は、今どちらに?」
「しっ。ほら、あの家だよ。この前、竜の手下の魔物に襲われて壁が崩れたって話したろ」
「ああ、あの夫婦の家ね。気の毒に。この前、空き家を買い取って中を整えたばかりだって話じゃないか」
人だかりに近づくと、意識してなくてもたくさんの声が耳に入り込んでくる。そのどれもが、ノエの父ーーベルナールに関連するものだった。
「ベルナール様が来られてるなら、せっかくならあの件について話しておかないか」
「いや、流石に直に話すのは不敬だろ」
「でも、私たちだって不安なのよ」
「そりゃそうだけどさあ……ああ、出てこられたようだよ」
今までざわざわと響いていた囁きが、不意にぴたりと止まる。
護衛の騎士たちは、人混みがベルナールに押し寄せないように、チョコボ車の周囲に並び、人々を牽制していた。
もっとも、そんなことをしなくても、人々はある一定の距離を保って、輪の中心ーーベルナールがいると思しき場所を見ていた。
「ベルナール様、先日はこの区画の修繕費について、相談に乗っていただきありがとうございます。ギルド一同、迅速な手配に大変感謝しております」
静寂の中、はっきりと響いたのは、この区画の管理者と思しき男の声だった。代表者らしい、整った身なりをした壮年のヒューラン族は、外出用のコートを羽織ったベルナールに恭しく頭を下げている。
「それで、先ほどの件なのですが……魔物がどこから来たか、何か分かったことなどありますでしょうか」
「そちらについては、先日に送った通達の通りだ。現状、何らかの手法で持ち込まれた可能性が高いと見ている。今後、より一層検問を厳しく行うと同時に、皇都の騎士団にもーー」
「ベルナール様、どうか聞いて欲しいことがあります!」
落ち着き払った領主の返答に被せるようにして、人混みから一人の男がベルナールに向かって駆け出す。だが、すぐさま、護衛の騎士が槍を構え、これ以上近づくなと二人の間に壁となって立ちはだかった。
男の方も、無理に近寄ろうとはせずに、ベルナールを見据えたまま、
「先だっての魔物の騒動は、異端者が関わっているんでしょう!? 近頃、ドラゴン族に村を焼かれたからと、領主様のお慈悲により、多くの人がこの街に移住してきました! その時に、異端者が紛れ込んでいたに違いありません!」
ベルナールは男へと向き直り、静かに見つめ続けている。
それが続きを促しているのだと分かったからか、男はさらに声を張り上げる。
「ですから! 外から来た連中を街の外に追い出してもらえないでしょうか! 領主様、どうかご再考を!」
「ちょっと、外に出て一体どこに行けばいいと言うのよ!」
「壁の向こうで野宿しろと言うのか!? そんなの、すぐに凍え死んでしまう!」
「だったら、あんたが魔物を引き込んだんじゃないって証拠を出してくれよ!」
男の言葉を皮切りに、領主に見捨てられるわけにはいかない難民たちと、不安の種を抱え続けていた街の人々の声が一息に爆発した。もはやベルナールの声など聞こえないのではないかと思うほどに、辺りは混然とした空気に包まれている。
オデットが不安げにノエの上着の裾を引く。ノエは、人々に潰されないように警戒しつつも、人々の向こうに見える父の顔を見つめ続けていた。
ベルナールの護衛の騎士たちは、先ほどよりもしっかりと武器を構え、民衆が暴徒とならないか警戒していた。騎士の一人は、ベルナールに素早く駆け寄り、何事か囁いている。今のうちにチョコボ車に移り、ここから立ち去るべきだと進言しているのだろう。
しかし、ベルナールは片手でやんわりと騎士を制すると一歩前に出た。
……父さん?)
ーーカン、と。
領主である男が片手に持つ杖の石突が、石畳を打つ。
ただそれだけの音だったというのに、人々の声は潮騒のようにスゥッと落ち着いていった。
……これが、父さんの領主としての顔)
思わず、実の息子であるノエですら、固唾を飲んで父の様子を伺ってしまった。
大きな音を出さなくとも、大声で怒鳴らなくとも、ただそこにいるという存在感だけで人を惹きつけ、言葉に耳を傾けさせる。それこそが、領主としてベルナールが積み上げてきた風格が為せる技だった。
「まずは、忌憚のない意見を聞かせてくれたこと、感謝する」
その声は、やはり平素と変わらない落ち着いたものだった。だというのに、ごく自然に人々の深い部分に声が染み渡っていく。
「そして、これまで不安を感じながらも、家を失った人々のために隣家を貸し、良き隣人として共に過ごしてくれていたことにも、この街を治める者として重ねて礼を言わせてほしい」
今や、群衆の耳は全てベルナールの声に傾けられていた。人の上に立つものだからこそ持ちえる声が、身振りが、視線が、今この場所にいる者の注意を全て自分へと向けさせていた。
「皆の知っての通り、先日の襲撃の際に、街に魔物が出没する事例が報告されている。その原因については、現在も調査を続けている。犯人が見つかり次第、私も厳しい裁定を下すつもりだ」
「そんなの、調べる必要なんてありません! 外から来た連中の仕業に決まっています!」
「勝手に決めつけないでよ! 領主様は、まだ証拠は見つかってないって言っているじゃない!」
最初に声を張り上げた男が、再び己の意見を主張する。それに被せるように、こちらはおそらく外から来た者と思しき女性が声を張り上げる。
「確かに、ここ数ヶ月のドラゴン族の集中的な襲撃により、家を無くした者たちが続出した。彼らに新たな家を提供するために、私はこの街に街の外にいた者を招き入れた。元からこの街にいた者が、彼らが異端者の一味ではないかと疑いたくなるのも道理だ」
ざわ、と空気が揺れた。街の者からは安堵が、難民と思しき者からは悲嘆の声が同時に湧き上がる。
「ーーしかし」
一方向に流れ込みそうだった空気が、そこで一度静まった。
「一度は受け入れた難民たちを再び外に追い出したとして、それで本当に安心を得られるのかと問われれば、私は否と言うしかあるまい。なぜなら、彼らが敵である確固とした証拠もない以上、目に見えない『疑い』という病は残り続けるからだ」
人だかりのせいで、ベルナールの姿は、ノエの目にははっきりと見えない。なのに、ノエは今、自分の目の前にベルナールが立っているかのように錯覚を覚えていた。
ベルナールが目の前にいて、自分という個に声をかけてくれている。そう思うのは、ベルナールが本当に、今ここにいる全てのものに向けて言葉を伝えたいと思っているからだ。
「もし、仮に私が皆のように疑いから周囲の人間を排除せねばと思う者だったのならば、私はこうして外を歩くことすらできなかっただろう。難民がいなくなっても、この街には元々異端者がいるのかもしれない。派遣された騎士はどうか。私の屋敷で勤めている使用人たちは? 私の愛しい娘たちですら、異端者の爪を隠しているかもしれない」
人々も、ベルナールが何を言いたいか徐々にわかってきたのだろう。ざわめきは、もはや先だっての様子が嘘だったかのように、すっかり消えていた。
「疑いを完全に消滅させる方法は簡単だ。ありとあらゆる疑わしい者を、自分から遠ざければいい。しかし、そのようなことをすれば、この街からは人は消え失せる。それは、もはや異端者に対する処罰を考えるといった段階を通り越してしまう」
疑わしいと思うのなら、全てを遠ざければいい。しかし、それは安心という鎧を得るために全てを切り捨てる、諸刃の剣でもあるとベルナールは語る。
「一人を疑い、街から追い出すことを許せば、それはいずれ全てのものを街から追い出す理由となってしまう。故に、私は私が受け入れた者を追い払うと、言うつもりはない」
最初に声をあげたものも、ベルナールの伝えたいことを理解したのか、この発言に言葉を挟もうとはしなかった。
だが、漂う不安な空気の全てを拭えたわけではない。ベルナールの言葉はあくまで方針の表明に過ぎない。根本的な解決に至ってないことは、この場にいる全員が理解していた。
「だが、私とて皆が不安に思う気持ちを無視したいわけではない。皆がこうして、不安を抱えながらも手を取り合い、いつも通りの生活を続けてくれている勇気に、私も報いなければならない」
不満を抱えたまま燻っていた日々を、ベルナールは勇気と称した。
たとえ、それが単純に行動に出るきっかけがなかっただけだったとしても、勇気と称えられて悪い気持ちになる者はいない。先ほどまで声を張り上げていた男も、居心地悪そうにしているものの、さらに強硬に主張を繰り返そうとはしていなかった。
「現在、街の巡回に出る騎士をふあすためにも、他領に派兵している騎士の帰還要請を送っているところだ。彼らが帰還するまで、街の見回りには我が屋敷の私兵にも手伝ってもらう。そして、もし怪しい動きをしている者が見つかったのなら、速やかに我々に報告してほしい。その人物については、私が責任を持って調査を進め、異端者であるならば、然るべき対応をとることを約束する」
もし本当に異端者であると確信できたときは、ベルナールは迷わずにその者を異端審問官に引き渡すだろう。たとえ、その人物がどれほど長くこの街にいた者であろうと、彼は躊躇しないに違いない。
ベルナールは更に、二、三の労いの言葉を民衆に送ると、宣言通り護衛の兵士を数名そのばに残してチョコボ車へと消えていった。
人々はチョコボ車が完全に見えなくなった頃、ゆっくりと平時の様子を取り戻し、各々の店や本来の目的である買い物へと戻っていった。その場に人が残らないように、残された兵士たちがそれとなく人々に持ち場に戻るように促していた。
「本当に大丈夫なのかねえ」
「でも、巡回の兵士を増やして下さるんだろう。たしか、居住区でも同じような話になって、あっちでも人手を割くように指示なさったそうだぞ」
「そうか……。まあ、そこまでしてくださるのなら、なあ」
漏れ聞こえた会話を聞く限り、彼らが完全に納得していないのは明白だ。
だが、彼ら自身、ベルナールの言うように完全な安寧のためには、何もかもを街から追い出すしかないことをわかっているようだ。不満げではあるものの、己の意見を押し通そうという気配はない。
……これで、皆さんの不安は解決するのでしょうか」
「どうだろうな。現状の根本的な解決には至っていないことは、誰もがわかっているだろうけれど、領主様が示した覚悟を目の当たりにした以上、さすがにこれ以上主張を重ねることもできなかったんだと思う」
人ごみに紛れて先ほどの店に戻る道すがら、オデットの呟きにノエは自分の見解を口にする。
「領主様の覚悟というのは、たとえ難民の皆さんに異端者が混ざっていても、自分の懐に留めておくという覚悟ですか。難民でない多くの人のために、一人の異端者を抱えるという危険を内側に抱える……ということですよね」
「それもあるだろうけれど、一番は自分の私兵を街のために使うって判断したことだ」
ノエは、人々の整理と巡回にあたっている騎士たちを見やる。彼らの装備には、揃ってラペイレット家の紋が刻まれていた。
「街の門を守っている騎士や、領地を守っている騎士と、彼らの立場は違う。彼らは、ラペイレットという家そのものを守り、その血族を守るために雇われている兵士なんだと思う」
実際、ノエが貴族として暮らしていた頃の家にも、騎士が何名かいた常に控えていた。本来なら、屋敷の警護を行うための兵士を、ベルナールは街の治安維持に使うと宣言したのだ」
「どんな貴族だって、自分の身を守るための剣や盾が欲しい。貴族という地位だけでは、自分を守る武器になってくれないからね。その剣と盾を自分ではなく、街のために使うって領主様は決めたんだ」
本来ならベルナールの身を守る盾であり、外敵を退けるはずの剣でもある彼らを、ベルナールは街の安全のために使うと宣言した。
周辺の領地に派兵して人手不足になっている現状が解決するまで、自身の安全すらも度外視する。その決断は、民衆の心に強く響くだろう。
(もちろん、この選択の結果、領主が凶刃に倒れるようなことがあったら本末転倒だ。でも、街の人たちが自発的に難民を追い出そうとして争いが起きるまで静観しているよりは良いだろう、と父さんは判断したのか)
為政者として、自分の命も民の命も守らなければならない。だが、今のベルナールには手駒が足りない。彼にとっては、もどかしい思いからの決断だっただろう。
……このまま、何事も起こらないといいんですが」
「そうだね。僕たちは、明日にはこの街を出てしまうけれど、心の底からそう思うよ」
私兵を街の巡回に回すならば、今のベルナールの警備は手薄になっている。もし、領主に対して悪しき感情を抱いている者がいるのなら、この上ない狙い目だ。
その事実から敢えて目を逸らすように、ノエは緩くかぶりを振る。この街にまだ残っていたいとどこかで願う自分の感情が、一体どこから生まれるのかを意識しないためにも。

***

予定していた買い物を無事に終えたノエとオデットは、その足でぶらりと商業区を見て回っていた。
もしかしたら、自分もこの街を故郷とする一人になっていたかもしれない。そんな風に思うと、懐かしさとも、寂しさとも言い難い不思議な感慨が沸き立ち、行く先も決めず、ノエは気の向くままに足を動かしていた。
時に、露店に売られている珍しい砂糖菓子に手を伸ばしてみたり。あるいは、ヤルマルから教えてもらった武具屋で、グリダニアでは見かけない材料で作られた武具を眺めてみたり。
そのようなことをしているうちに、周囲はすっかり夕日の赤に染まっていた。
今日は雲間から太陽が出ており、街一帯を濃い朱色の日差しが覆っている。夕焼けに染まった街は、積もっていた雪も相俟って、幻想的な光景を作り出していた。
「兄さん。そろそろ帰る時間ですよ」
「そうだね。じゃあ、最後にあそこに行ってもいいかな」
ノエが指さしたのは、この街に来たときに立ち寄った食堂だった。威勢のいい女主人が、あれやこれやと街の内情を話してくれたときの様子を、ノエは昨日のことのように覚えている。
店の中に入ると、夕飯時ということもあり、労働者と思しき人々で店は賑わっていた。何名かは既に酒がすっかり入ったのか、大きな声で他愛のない雑談に興じている。その一方で、カウンターの隅で静かに食事をしている者もいた。
そんな中、カウンターに立って客と言葉を交わしていた女主人は、すぐさまノエたちに気がつき、豪快に手招きをしてみせた。
「いらっしゃい。今日は何か食べていくのかい?」
「いえ、明日旅立つ予定なので、その挨拶に伺いました。ついでに……そうですね。保存食を買い足せればと思ったのですが、まだ在庫はありますか」
流石に、ただ挨拶に来ただけでは悪いと思い、ノエは食糧の買い足しを希望する。
「ああ、まだ在庫は残ってるよ。そういえば、この前もそろそろ旅立つ頃合いだと言っていたものねえ。そうかい、もう行っちまうのかい」
残念そうに肩をすくめつつも、女主人の手はテキパキと動き、カウンターの奥から保存食の干し肉やら、乾燥させた果物などを取り出していた。
「この前のドラゴン族の襲撃といい、何かと物騒な話が多いからね。気をつけていくんだよ」
「はい。ありがとうございます。そちらこそ、その……お気をつけて。先日の魔物のこともありますから」
「ああ、そうだ。その魔物だけど、あんたの仲間が追い払ってくれたんだろう? 見慣れない旅人がドラゴン族の眷属どもをばっさばっさと薙ぎ払ったって、ここでも話題になっていたんだよ。なあ、そうだろう、あんた達!」
女主人が大声で呼びかけると、すでに出来上がっている酔客の一団が、顔を真っ赤にして「おう!」と答えた。
「俺たちよりもうんと小さいのに、自分の体みたいな大きさの斧を振り回してた女がいてなあ! 血がどばーって飛び散ったっていうのに、眉ひとつ動かさなかったんだ! あれにはたまげたな!」
「そういうお前は、鼻水垂らして腰抜かしてただけだろ?」
「うるせえな! あんなでけえ魔物見たの、生まれて初めてだったんだから仕方ないだろ!」
彼らが話しているのは、サルヒがアルケオーニスを討ち取ったときのことのようだ。
彼らは、自分が目にした討伐劇にすっかり夢中になっている。気分がよくなったのか、出鱈目な節回しで、サルヒたちがアルケオーニスを討ち倒す様子を歌にして語り始めた。
「ヤルマルさんが聞いたら、面白がって自分からもっと詳しく話してくれそうですよね」
「でも、オランローとサルヒさんが聞いたら、恥ずかしがって部屋から出てこなくなってしまいそうだな」
彼らの様子を想像して、二人は揃って顔を見合わせ、くすくすと笑いを忍ばせる。
どちらにせよ、自分たちが話題になってなくてよかったと、ノエは内心で胸を撫で下ろしていた。だが、
「おうおう、俺が見たのはそっちの兄ちゃんみたいな、エレゼン族の剣士だったぞ! 空を飛んでる魔物に向けて、雷をばーんって落としてだなあ!」
ノエの苦笑が、ぴしりと固まる。まさか本人がすぐそばにいるとも知らず、木製のジョッキを振り翳して酔客の男は続ける。
「皇都の騎士様にも負けない剣さばきで、こう、ばっさばっさと魔物どもを蹴散らしてだなあ!」
「おいおい、お前、皇都の騎士様を見たことがあるのかよ」
「ねえけどよ。でも、そんな風に見えたんだよ!」
剣を振る物真似をしようとして、男はジョッキをぶんぶんと振る。中に入っていた飲み残しが宙を一瞬舞い、友人と思しき者たちがすぐさま男を取り押さえていた。
……兄さん」
「ごめん。今は何も言わないでいて」
ノエは自分の耳まで真っ赤にしながら、顔に片手を当てて緩くかぶりを振る。女主人も状況を察したのだろう、にやにやと笑っていたが、幸い話題の人物がここにいるとは伝えずにいてくれた。
「最近は、どうにも嫌な話題ばかりだったからね。あんたたちの活躍は、久々の明るいニュースなんだ。どうか大目に見てやっちゃくんないかい?」
「話さないでほしい、などと言うつもりはありませんよ。ただ……ものすごく恥ずかしいというだけで」
「はっはっは、若いのにあんたは欲がないねえ! どうせなら、自ら名乗り出てしまえばいいのにさ!」
女主人にバシバシと肩を叩かれ、ノエの体が傾ぐ。けらけらと笑う彼女とは裏腹に、ノエはそのまま床を突き抜けて地面に埋もれていたい気持ちに駆られていた。
さっさと保存食を買い、なるべく目立たないようにこの場を後にしよう。ノエがそう決断しかけた時だった。

ーーカンカンカンカン、と。
鐘の音がした。

それは、ちょうどあの日の焼き直しのような、人々に警戒を示す音だった。
日常の終わりを告げる警告に、酔漢たちの歓声はゆっくりと静まり返り、代わりに音高く鳴らされた警鐘の音が和やかな空気を一掃していく。
「また、竜が来たのか……?」
今回も近づいてきた竜に警戒して、早めに鳴らしただけなのか。それとも、またぞろ魔物が街の中に出没したのだろうか。
食堂の賑やかな笑い声が、不安のさざなみに へと変わる。ノエもオデットも顔を見合わせ、警戒のために表情を強張らせた、その時だった。
ガタン、と椅子を動かす音が響く。
本来ならば、なんてことのない日常の雑音の一つ。耳にしても、さして目立たずに押し流されて消えるだけの音が、今日はやけにしっかりと残っていた。
思わず、ノエは音の発生源を見る。
視線の先にいたのは、カウンターで黙々と食事をしていたヒューラン族の男。労働者風の薄汚れた衣服の、どこにでもいそうなありきたりな風貌の彼と、ノエの視線が一瞬合う。
警鐘の音があまりに大きくて、本来なら男が何を言おうとしているのかわかるはずもないのに。
ノエは、確かにその声を聞いた。

ーー時間だ。

刹那。
警鐘すらも上回る轟音が、ノエの鼓膜を叩いた。
それは、つい先ほどまで人だったものーー竜に変じた男の雄叫びだった。