mishiadd
2024-07-02 23:44:07
6492文字
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宮本伊織に人生をメチャメチャにされたいコレクション:255グラム

カルデア時空。レイシフトした先の雨の日に『傷』が痛む伊織殿とセイバー。

255グラム:成人男性の平均的な心臓の重さ







特に特筆すべきこともない微小特異点だった。放っておいても勝手に消滅するのでは、とさえ思われたが、場所と時代が(さすがに慶安とはいかないまでも)江戸であるということで、適性もあり余暇も兼ねて『慶安四年の特異点』組がマスターと共に赴くことと相成った。
余暇――と聞いて正雪は辞退し、丑御前もレイシフト当日に管制室へ姿を現わさなかったため、結局『元・セイバー陣営』とマスターのみの編成となった。

レイシフトした先はまさしく江戸で、浅草に赴けば助之進すらいるのでは、と思われる程によく馴染んだ光景だったが、残念ながらいつもの通りに助之進の姿はなかった。もっとも、通りに連なる店構えが記憶とは違っていたため、わかっていたことではあったが――この場所は「あの頃」ではないのだ、という事実を突きつけられる。知っているような知らないような、不思議な感覚。
――と、タケルなどは思ったが、伊織に同意を求めたところ、彼がサーヴァントとしての自我を得た瞬間からずっと似たような感覚が続いているらしかったので、ことこの微小特異点においては、特に普段の感覚と大差ない。と、言われた。――ふうん、とまたタケルが寂しげな顔をしたが、「もしもこの感覚が恒常的に続いているのだとしたら、つらいのはイオリの方ではないのか」と思い至り、ぐっと堪えた。実際のところ伊織がどう思っているのかなど、タケルには到底知り得ないのだが。

余暇――ということで、少しずつ違和感はあるもののもっとも馴染んだ浅草の町で、さすがに幽霊長屋は――取り壊されたのかまだ存在していないのか――そこにはなかったため、宿をとった。一部屋に三人、というわけにもいかず、マスターに一部屋、タケルと伊織で一部屋、という組み合わせで、隣接した部屋に泊まることとなった。
マスターが同室ではないことで、マスターの身を案じた伊織が難色を示した。しかし、当のマスター本人がどうどう、と彼を宥めた。

「微小特異点だし、なにも危険はないよ。マシュとの通信も問題なく繋がってるし。それに、部屋だって隣だからね。何かあったら大声出すから、そしたら駆けつけてよ」

ろくにそうするつもりもない様子で嘯くマスターに押し負けて納得させられ、伊織が頷く。「少しでも異変を感じたら叫ぶように」と何度も言い含めてから、セイバーを伴って割り当てられた部屋に戻った。それを見届けたのち、マスターも自分の部屋へと戻る。――これは、『余暇』なのだ。自分が邪魔をするわけにはいかない、と、軽く背伸びをしながら笑った。



――その、せっかくの余暇だった筈なのだが。

「雨、だねえ」

自室で朝餉を終えたマスターが、伊織とタケルの部屋に顔を出した。大きくとられた窓の外では、しとしとと雨が降り続けている。曇って彩度の落ちた町並みに、湿って色の濃くなった地面。――これはこれで風情がある、などと、窓際に座って外の風景を眺めていたタケルは思った。

マスターが言った。

「お宿に笠を借りてちょっとそのあたりを見てみようかと思っているのだけれど」
「散歩か? 雨の中の散歩も悪くはない。私が護衛につこう」

タケルが提案すると、マスターが首を横に振った。

「いいよ、ちょっと表通りをうろうろしてみたいだけだし。心配してくれるんだったら、その窓から見ていて」
「そうか? ――まあよい。あまり長居をせず、すぐに戻ってくるのだぞ」
「うん、ありがとう」

そう言い残してマスターが部屋の外に出ていく。――ふと、タケルは思い至る。
常ならば、タケルなどよりも真っ先に「護衛につこう」と言い出す筈の伊織が、今朝はまだ一言も発していない。

「イオリ?」

見遣ると、朝餉の際に避けた筈の敷布団が中途半端に敷かれている。――そこに、伊織がタケルに背を向けて横たわっていた。

「イオリ!?」

慌てて駆け寄る。

中途半端に開かれてわだかまっている敷布団に身を預け、身に着けた浴衣の上から一張羅の青緑の着物を掛けて蹲っている。伏せた横顔に汗でしっとりと濡れた癖毛がかかっていて表情が読み取れない。

「イオリ。――イオリ? どこか痛むのか? 大丈夫か、イオリ」
――あ、セイバー」

ようやく声をかけられていることに気付いたようで、伊織が顔をあげる。普段から血色のよいとは言えない顔色が更に蒼褪めていた。血の気の引いた薄い唇が震えている。
その顔色に、今度はタケルの顔からさあっと血の気が引いた。

「イオリ!」
「だ――大丈夫だ。大したことはない。少し休めば落ち着くよ」
「とてもそうは見えぬ! ―― 一体どうしたというのだ、霊基異常か? この特異点の影響か?」
「いや、違う。――違うんだ、セイバー」

おぼつかない手つきで体を支えながら、伊織が体を起こす。おもむろに浴衣の合わせ目に手をかけた。「え、なに」と慌てるタケルの様子も意に介さぬまま、するりと浴衣が伊織の肩を滑って落ちる。



――露わになった日に焼けていない白い胸元に、大きな生傷が、ひとつ。



ヒュッ、とタケルの喉が鳴った。
困ったような、どこかいたたまれないような顔をした伊織が、自分の胸元を見下ろす。その拍子に、剥き出しのうなじにおくれ毛がはらりとかかった。

――いつもは、ここにあるのはただの古い傷なのだが。
雨の日に古傷が痛む、というのは聞いたことがあるが、雨の日に傷が戻ってくる、というのは俺自身聞いたことがない。
これも、サーヴァントが為せる業か」
……傷が、あるのか? ――常に?」

問うたタケルの声が掠れる。「ああ、」と伊織がこともなげに返す。

「気付いたときにはここにあった。いつ頃ついた傷なのだろうな。
俺に記憶がないのだから、きっと『盈月の儀』とやらの最中だったのだろうが。――きっと、この傷を受けたときもおまえに庇ってもらったりなどしたのだろう。
ほとほと、俺は未熟者だな」

そう笑った次の瞬間に伊織が顔を顰める。反射的に傷口に手をあてて押さえようとする。
その大きな斬り傷の出血はかろうじて止まっているようではあったが、痛々しい傷口に触れようとした伊織自身の指先が躊躇う。やがて着物から懐紙を引っ張り出し、それで傷口を押さえた。じわ、と懐紙に血が広がる。
ふ、と小さく息を吐き、伊織がタケルを見る。安心させようとするような、兄のような顔で微笑んでみせた。

――大丈夫だ。雨の日は、こうなるだけだ」
「雨の、日」

まるで昨日ついた傷のよう。――まるで昨日のことのように――

しとしとと、窓の外で雨が降り続けている。――きっと、これがこの特異点の異変だ。永遠に続く、この雨。
――タケルセイバーに、なにかを突きつけようとする、この雨。なにもかもを洗い流し、目の前にただ過去しんじつのみを供する、この雨。

懐紙を当てたまま、伊織が浴衣を着直す。「大丈夫、」とだけもう一度囁くように言い、静かに体を横たえた。タケルに向かって念押しをするように微笑み、それからこれ以上顔色を窺わせまいとして背を向ける。伊織自身は気付けていないのか、浴衣の背中にじわりと赤い血が広がるのがタケルから見えた。

――も」
「セイバー?」
「戻ろう、イオリ。――カルデアに、戻ろう」
――でも――特異点が――

伊織の返答が弱々しく間延びする。いぁ、と言葉にならない呻き声を漏らし、敷布団の上で伊織が背中を丸める。

「微小特異点だ。放っておいても勝手に自滅する場所だ」
「セイバー……?」
「リツカに――戻るように伝えよう。すぐに部屋に戻るように伝えて――そうだ、窓から声をかければいい。リツカ――

窓へと向かいかけたタケルの腕を、伊織の手が掴む。痛みのせいか、氷のように冷え切っていた。
狼狽したタケルが振り返る。

「イオリ!?」
「ほ、本当に大丈夫なんだ。初めてのことではない。――これは、『余暇』なのだろう。きっとマスターにとっても貴重な余暇の筈だ。だから」
「ッ……イオリッ!」

半ば叫ぶようにしてタケルが伊織を叱咤する。――いまだに自分を勘定に入れられないのか、この男は。サーヴァントになってまで。
タケルに伊織の手を振りほどくことなどできやしない。それをわかっているのかいないのか、常よりも握力の減じた手でタケルの腕を縋るようになぞる。例によって、その懇願は彼自身のためではない。

「セイバー。マスターには黙っていてくれ。頼む。――ふたりだけの、秘密にしておいてくれ」
「ッ――きみの、その、傷は――
……?」

焦点のはっきりしない目で、伊織が不思議そうにタケルを見上げる。――最悪だ。なにもかもが最悪だった。俯いたタケルが涙を堪えて奥歯を噛みしめる。よりにもよって、『ふたりだけの秘密』、だと



――ああ無論だとも、ふたりだけの、今となってはタケルだけが大切に抱え込んだ、その秘密



感情を押し殺した低い声で、タケルが問うた。

「本当に、大丈夫なのだな?」
――ああ、大丈夫。いつも、少し休めばよくなるんだ」

そう喘ぐように告げ、ついに力尽きたのか、伊織が重い瞼を閉じる。

――まさか、サーヴァントが失血死する、などとということはないだろう。恐らく、この雨自体には攻撃性も毒性もない。だから、「雨の日にこうなる」のは伊織の霊基自体が抱えた問題だ。その上でここまで成り立ってきているのだから、伊織の自己申告通り、大丈夫なことはきっと大丈夫なのだ。

伊織の霊基は、何かがおかしいと、何かが欠けていると常々タケルは思っていた。――その不安定な、幽鬼のような成り立ちに、伊織自身がこうして苦しむのか。まるでそれが、彼の日常の一部であるかのように。彼の存在の一部であるかのように。

すう、と軽い寝息を立て始めた伊織の横に座り込み、膝を抱える。窓の外を見上げながら、伊織の頭に右手を伸ばす。しっとりと湿った前髪を払いのけ、汗ばんだ額にそっと触れながら、少しでも彼を苛む痛みが遠ざかるのを祈るしかなかった。







――『サーヴァントである』、ということは、これ程までの残酷さを当人に強いることがあるのだ。



手負いの獣の断末魔のような咆哮に、タケルは目を覚ました。
伊織の隣で膝を抱えたまま、知らぬ間にうとうとと眠り込んでしまっていたようだった。慌てて上半身を起こす。「――イオリ?」と傍らを見遣る。

「イオリ!?」

虚脱し、仰向けになった伊織の四肢が激しく痙攣している。まるで体の制御が利かないようだった。
声にならない叫び声は体の奥底から不随意的に漏れでているようで、その声自体が聞く者の不安と恐怖を煽る。――何が、一体何が起こっている?

「イオリ! イオリ! 一体どうしたのだ!?」

呼びかけに伊織が反応し、かろうじて目が動く。タケルの顔を捉え、震える唇をはくはくと動かした。やがて、掠れる声が途切れ途切れに告げた。

「い、痛――痛、みが」
「痛み?」
「心の、臓、が――

――心の臓。

蛇毒を受けてすらあれ程気丈に振る舞っていた伊織が。
もはやそれは、本人の意志や我慢の範疇をとうに超えているのだ。――体の制御を失わざるを得ない程の、圧倒的、支配的な痛み。

泣きそうになりながら、タケルが伊織の浴衣の合わせ目に両手を伸ばす。乱暴に引っ張って胸元を剥き出しにさせた。先程見た生傷がそこにある。なにかしてやれることはないかとよくよく傷を覗き込み――タケルの思考が完全に停止した。



なかったのだ。その傷の内側は、まったくの空洞だった。



痛む筈の、痛むべき心の蔵など、伊織の腔の内側の、そのどこにも存在などしていなかった

恐らくは、その霊基の成り立ち――彼が英霊と成ったときに、死因として穿たれたそこは、永遠に失われてしまったのだ。彼の胸腔から摘出されてしまった。
体から臓器がひとつ、欠けている。それ自体はきっと珍しいことではない。ただ――その臓器が失われているという事例は、きっとサーヴァント以外ではあり得ない。

このサーヴァントは――心の蔵が欠けたまま、幽鬼のように現世うつしよを彷徨い続けている――

なぜそれが失われているのか、誰がそれを摘出したのか、タケルは知っている。どくん、と彼自身の心臓が大きく脈打つ。

アアアアアアア、と不随意に漏れ出る獣じみた叫び声にタケルの意識が引き戻される。今はそれどころではないのだという事実に、頬を張られたような衝撃を受ける。――ないものが痛む。であれば、手の施しようがない。だってそこには何もないのだから

「イオリ、イオリ。――イオリ、しっかりしろ。きみの――きみの心の蔵はそこにはない。だから、痛む筈などないのだ」

理屈を説こうとするも、叫び声を上げ続ける伊織自身の耳に届くのかすらさだかでない。そもそも、今の彼に言の葉を解する余裕があるとも思えない。
小刻みに痙攣し続ける伊織の手を握る。とうの昔に令呪の失われた左手。それを両手で握りこみ、「イオリ、イオリ」と名を呼びかけ続ける。――そこにはもう、それはないのだ。きみはもう、死人しびと――だからもう、二度と苦しまなくていい筈だったのに。ずっと、安らかに眠っていられる筈だったのに。



――幻肢痛ファントム・ペイン



どこまでも、どこまでも、過去から追い縋ってくる。決して忘れさせてなどくれない、なかったことになどしてくれない、その亡霊。

――イオリ」

中途半端に――盈月に、聖杯に与えられた知識を、反芻する。――『幻肢痛』の対症療法。それは、当人に既にそこにはなにもないのだということを知らしめること

ああきっと、――これこそが、私に与えられたごうなのだろうと、そう思いながら――タケルがその手に界剣を顕す。伊織の隣でゆうらりと立ち上がり、おもむろに、両手に構える。
天井を仰ぎ、磔になったように四肢を硬直させながら身を投げ出している伊織の胸に――その切っ先を、深く深く、ゆっくりと突き立てた







伊織が目を覚ましたとき、胸の痛みが大分ひいていた。まだ傷口の痛みはあるが、気を失う前までに襲われていた常軌を逸した痛みはすっかり消え失せており、これであれば――とその場で身を起こす。傷口はあとで包帯などで覆うとして、これであれば少なくともマスターには状況を悟られることはないのではないか、と一安心する。
傍らを見遣ると、タケルがその場に座り込んでこちらを見ていた。――ひどく憔悴しきった顔で、伊織の顔を見て、安堵したような、今にも泣き出してしまいそうな、複雑な顔をする。

「セイバー。また、おまえに助けられてしまったのか。かたじけない」
「イオリ。……覚えて、いないのだな」

タケルの声が掠れている。気絶する前まで必死に自分に呼びかけてくれていたことはうっすら覚えているため、きっとそのせいだろうと伊織は思う。

「情けないことだが、あまりの痛みで途中で気を失ってしまったようだ。おまえが介抱してくれたのだろう? ――まったく、サーヴァントが聞いて呆れるな。おまえには迷惑をかけた」
「そうか。――また、覚えていないのだな」
……セイバー?」
「よい」

タケルが膝を抱える。揃えた両膝の上に突っ伏した。そのため、伊織からはタケルの顔が見えない。その姿勢のまま、存外はっきりした口調でタケルが繰り返した。

「よいのだ」

伊織が不思議そうな顔でタケルの頭頂部を見下ろす。令呪を失った左手で、軽くタケルの頭を掻き混ぜるように撫でた。「かたじけない」と優しい声で伊織が繰り返す。



その手の温かさを感じながら――このために自分はすべてを引き受けるのだと、誓った。